原理原則の話をします(2)

ちなみに「原理原則の話をします(1)」はこちら。まあ読まなくても大丈夫だけど。
運動とかナンダとかを一切頭に置かず、あくまで一個人の感覚として言うなら、政治は嫌いだ。
ジャイアンに取り入るスネ夫。格づけ。権利だなんだかんだの小理屈。そんなもんで世を渡ってる面々。そういうのがオレの「政治」という言葉のイメージだ。そんなつまらんことに一生懸命な奴とは友達にはなりたくない。三十年若ければ「ようするにジャイアンをボコればええのね?」で済ませているし、そこで迷わずジャイアンをボコりに行けることこそが自分の「自由」だった。
取っ組み合いのケンカなんかしてる奴は頭が足りない?言わせとけ言わせとけ。周囲に色目使って味方を増やして、自身が安全なところに収まると途端に態度がデカくなるそういう輩。そして味方が増えたところで一気に始まる徹底的な揚げ足取りの嵐がたとえ指一本触れない「非暴力」だろうと、そんなもん暴力以上に陰湿で気色悪いわ。
重ねて断って置くが、昨今のTLを見て思ったことではない。リアル中学生だった頃の自分が周囲に実際に言っていたことだ。
なので、要するに基本的にはオレは「政治」なんてものは大嫌いなのだ。当時の発想そのままで今の自分が生きていれば速攻で安倍を殴りに行っていただろう。それでは何も解決しないーとか、民主主義というのはー、とか、そんな理屈叩かれても屁とも思わないだろうし、後悔もしなかったと思う。
根回しや説得など、そういうしみったれた努力の大切さが分かるようになった今も、「そんなん暴力以上に陰湿で気色悪いわ」という感覚は消えていない。しかしそういうことを女性に言うと大抵叱られる。彼女たちには切り札としてのガチンコ勝負がない分、「このクラスの仲間と仲間でいられないと私の人生終わる」みたいな強迫観念的な協調への強制を生きて来ている。特に地方の女子高はヒドいそうだ。「めんどくせーからってそれやらないからアンタはいろんな人と仲良くなるチャンスを失って来たんだよ」と彼女らに言われると、その妙な説得力に「わたしがまちがってましたー」とならざるを得ない。ホント女性ってのは大変やね。
それでも、彼女らがじゃあ「仲間」でいつづけるためにやってきたあれこれは「暴力」ではなかったのか?という疑問は残るし、大体俺を叱ってくれるような女性は「まあ確かに暴力だったよね」と同意してくれる。オレみたいなめんどくさいヤツと話を合わせてやってる、という風はない。
J-POPが最も普及に貢献した言葉のひとつである「傷つける」を便利に使うと、人間ってのは傷つけ合いながら生きてるんだよ。暴力をふるい、ふるわれながら生きてるんだよ。
自分がその中でやりたいことやるなら、スネ夫にだろうがなんだろうがなって、ジャイアンみたいな太い腕からでない、あの尖った口からの暴力を気色悪い屁理屈をおりまぜて正当化しながらふるって行くしかないんだろうなあ。
そういう連中が気持ち悪くてしょうがない自分は、TL上でマッチョイズム否定論という暴力を振り撒いている彼ら彼女らを心底気持ち悪く思うが、彼ら彼女らも生きるためにがんばってんだ。てめえの言えた義理か、と口をつぐむのがやっとだ。
けどこれだけは言ってもバチはあたるまいと思う↓が今日書きたいこと。
おめーらのそれは、殴り合いの暴力以上にタチの悪い、気色悪い、暴力だぞ。それくらいは自覚せいや