国破れて山河あり

遅ればせながらSASPLのサイトを見た。立派だと思ったが「安易な革命」というのが引っ掛かった。

今ある権力構造について「権力を持っている人たち」が責任を果たしていないのが全て悪いから、そんな権力なんて無い方がいいということです

こういうのを「安易な革命」とし、自分らはそれに与しないと彼らは宣言している。彼らはだからこそ立派だと思うわけだが、恐らく自分は心に「安易な革命」を持ち続けることになるだろうし、それに基づいた物言いを続ける気がする。立派じゃない。かっこよくもない。じゃあなぜか。
政治だ経済だで大騒ぎしてる連中に対して自分は「てめーらなんていなくても人は生きて行くんだよ。」という気持ちを捨て去っていないし、彼らの意味不明な特権意識をくじくにはそういう前提を思い出させることが必要だと思うからだ。
「国破れて山河あり」と言う。たとえこの国がどこかの国家に占領されても人は生きる。自分は自分の身の回りの世界が国家に破壊されたら迷わず銃を取るだろうが、国家を破壊されたくらいでそこまではしないだろうという確信がある。
人間いざとなりゃ山にでも籠って、草木を食みながらでも生きて行けるから、意味不明な世論が勃興して自分らの世界そのものを食い物にしようとするなら、さっさとケツをまくって逃げる。その逃げ道だけは心に残して置きたいのだ。国家は生きる民のためにあるし、国家のために命を投げ出す民などというのは存在自体が矛盾だと思っている。自分の仲間や家族を連れ出せるなら、この国家になんの未練もない。
こういうのを彼らは「安直な革命」と言うし、それはきっと正しいのだ。日本国憲法と日本国という国の仕組みは仕組み自体はよくできている。それをきちんと運用することができるようになるなら何も、山に逃げ込んでターザンみたいな生活する必要だってない。が、その仕組みを担う連中がもれなくクズなこのご時世にそれをひっくり返せるか。
政府官僚の連中に「自分らの施策は失敗だった」と思わせるに一番有効なのは実はデモでもなんでもなく「住民の逃散」ではないか、という気持ちがある。ホームレスってのは一種の逃散だ。あれをもっとうまくやれる手立てはないか、というのが目下、自分の興味の対象だったりする。
なにしろデモでたじろぐのは主に政治家。「国家公務員」たちには他人事ですから。
アメリカで「銃を持つ権利」が保証されているのは「いざという時には国民がその銃を取り、国家そのものを転覆させてよい」ということだ、という話をどこかで聞いたことがある。そういう民と政府との現実的な緊張感が、日本国という組織のどこかに必要なのだ。そう思っている。