冤罪と裁判

冤罪と裁判 (講談社現代新書)

冤罪と裁判 (講談社現代新書)

内容(「BOOK」データベースより)
日本の刑事裁判は有罪率99.9パーセント。なぜ冤罪は起きるのか?裁判員制度でどう変わったのか?冤罪弁護士が語る真実。


 まず冒頭の「冤罪事件は、弁護士業務にとって「毒」なのだ」という文章でいきなりビックリしてしまう。無罪を勝ち取るのは非常に難しいため、労力が多く、得るものが少ないものだし、あくまで仕事だから正義感を期待するほうが阿呆なんだろうがやはり、そういった幻想はなるべくなら抱いていたいし、抱けるような社会であって欲しいと思うよ。
 外との接触を図れないようにして、また警察という閉鎖的状況下において精神的に圧迫をかけることによって、虚偽の自白を引き出す。そして無罪の人間が虚偽の自白を語るまでに、多くは数日しかかからない!また虚偽の自白を引き出した後も、細かなディティールについて正解が出るまで幾度も答えさせる、さらに代用監獄の同房者に被疑者の言動を報告させるなど、そんな「子供たちは森に消えた」で批判されていたような手法が現在でも日本警察がやっていることに愕然とする。「子供たちは森に消えた」を読んだときには、そんな大昔で無いのにソ連・ロシアではなんでこんな、真犯人見つけるのに役にたたず、冤罪者をだすことでむしろ真犯人を逃がすような真似をやっているのかと呆れていたが、日本の警察が松川事件でそのようなことをやっていると知ったときは、昔のことだし政治的な案件だから現在の冤罪事件と関連付けて考えていなかったが、現在も警察はそれと同様なことをしていることには恐怖を感じるし、そんなことを知らずにソ連・ロシアで行われていた(そして現代日本でも行われている)出来事を他人事だと考えていた自分には、ほとほと呆れる。
 そして本書で扱われているいくつもの無罪の事件において、無罪の人の「自白」を引き出すために、警察が行っている、怒鳴ったり脅迫したりする粗暴で醜悪な手法には嫌悪感を覚える。また、そうした例をいくつも見ているとあまりの憤りで頭がグラグラと沸いてくるし、今まで自分が警察に根拠の無い信頼を持ち、夢を見ていたことを実感させられる。しかしこういった実情を考えると、事情聴取などの可視化が必須かつ急務なことだと切実に思うようになった。しかも一部可視化は警察によって都合の良いところだけ映像にすることが考えられ、実際にアメリカでもそうした例があるようだから、全部可視化でなければ意味がないようだ。
 何週間も前の過去の出来事の詳細な証言を思い出させることで、しばしば記憶にない、実際とは異なることを「思い出して」しまう。そのため、証人が確信を持って誤った証言をすることもままある。
 しかし殺人容疑を受けた裁判において、DNA鑑定における取り違えやすり替えが行われていたケースがあるということはゾッとする。
 本来は「被告人が犯人であることを前提とすれば矛盾無く説明できる事実関係」に加えて更に、「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明できない(あるいは、少なくとも説明が極めて困難である)事実関係」の存在が立証されることが必要であるのに、どうも本書を読んでいると警察は前者だけで判断しているように見えるし、はじめに前者で説明できると思ったなら、のちに説明できなくなってもその態度を不合理なほど固持しているように見える。そして、検察や裁判官は、ほとんど流れ作業のように警察の判断を無批判に受け入れて事件を処理しているように感じる。実際、実例として裁判官のこじつけによる妄想で有罪の「可能性」があるとして、有罪とするような判決が下った事件があるようだからなあ。そんな悪魔の証明を裁判官がやっているというのだから、呆れるし恐怖する。
 本書で得た知識を持って、有罪率が99.9%超という数字を見るとそれは冤罪者がどれほど多くいるかをあらわし、日本の司法に対する絶望と冤罪への恐怖を煽る数字だと感じるようになった。こんなんでは、国際社会から日本の裁判は中世レベルだと批判を受けても(実際受けているが)ごもっともというほかないね。