日本神判史

日本神判史 (中公新書)

日本神判史 (中公新書)

内容(「BOOK」データベースより)

神仏に罪の有無や正邪を問う裁判―神判は、前近代の世界各地で広く見られ、日本では中世、湯起請や鉄火起請が犯罪の犯人捜しに、村落間の境界争いにと多用された。熱湯の中に手を入れ、あるいは焼けた鉄片を握り、火傷の有無で判決が下される過酷な裁判を、なぜ人々は支持したのか。為政者、被疑者、共同体各々の思惑をはかれば、神の名を借りた合理的精神すら見え隠れする―豊富な事例から当時の人々の心性を読み解く。


 著者は専門的な内容だけど非常に理解しやすい文章を書く、稀有な歴史の専門家で、この本も扱われる内容に引かれたというよりも作者買いだな。知らないことをわかりやすく伝えてくれることを期待して読んで、その期待通りのわかりやすい平易な文章で書いてある。この著者の本のように読みやすい文章でストレスなく読めて新しい知識を得ることができるというのは嬉しいし楽しい。
 戦国末期から江戸時代初期の一時期だけ(16世紀後半から17世紀前半までび数十年だけに集中的に)行われた鉄火裁判、争っている両当事者(村など)の代表者が灼熱の鉄片を握り(直接でなく薄く紙のように削った木越しで受けることも)、神棚まで運び、より火傷が軽症なほうを勝者とする。鉄火裁判では、最初から火傷をすることが前提であるとは知らなかった。てっきり火傷したらアウトと思って、もっと多くの割合で有罪にされてしまうものかと思っていたが違うのか。
 湯起請が語り継がれている例は著者が知る限り一例もないが、鉄火起請は江戸時代から現代まで共同体が国内で大きな変動が起こるような戦乱もなく存続しているということもあって、「創業神話」としてそうした鉄火裁判が行われた多くの場所で(勝者、敗者双方で)言い伝えられ、英雄譚として現代まで「生きている歴史」として生々しく記憶され、伝承されている。そして勝訴したことで、それによって田を村から贈られた者が、神社に米を(現在では酒を)供えるという風習が現在まで続いているなど、現在でも鉄火裁判ゆかりの行事が残っている場所もいくつかあるようだ。
 鉄火裁判は古代から行われてきたものでなく、戦国時代の後半から新たに登場したもので、それ以前は湯記請という熱湯に入れられた石を取り火傷するかどうかで有罪かを判定する熱湯裁判が行われていた。しかしその湯記請も室町時代から発生されたもので、古代の熱湯裁判である盟神探湯とは何百年も時間が空いているので連続性がない。
 古代の熱湯裁判である盟神探湯は、隋書倭国伝にあることから7世紀ごろまではあったようだが、720年成立の日本書紀ではそうした裁判のエピソードが3つあるが、最初の2つは真実を明らかにしたものだとして称揚されているが、最後の事例では悪政の代表例として非難されていることから、日本書紀が成立した8世紀前半にはその有用性が疑問視されていることがわかり、そして日本書紀の記述を最後に室町時代(15世紀初頭)の湯記請が行われたという史料の出現まで熱湯裁判が行われたという記録は無くなる。
 鎌倉時代の神判は参籠起請という、起請文を書いて当事者双方を神社の社殿に7日間(それで両者室が出なければさらに追加で7日)参籠(お籠もり)させて、その間に当事者やその家族に異変が現れないか監視して、何か異変(定められているいくつかの失のどれか)があるかどうかを判決のよりどころとするもので、室町の湯起請をすることも起請文を書くとも言うため、盟神探湯でなくこちらとの連続性がある。どれが異変(失)か異変でないかは鎌倉幕府が文章化したものが残っており、それによると鼻血がでたら失とされ、起請文を書いたあと病になっても失だが、それが持病だったら質ではないとされ、身体から血が出たら質とされるが、痔・生理・楊枝を用いるときに口から少し出血した場合は失とされないなどの細かいルールがあるようだ。ちなみに起請文は2通書き、一通は仏前に籠め置き、もう一通は、一揆のときのように、焼いて灰にして水に溶かして飲んだようだ。
 それからそうした参籠起請は室町時代に至るまで続き、ほとんどの神判が湯起請で行われるようになってからも参籠起請は並行して行われていたということのようだ。
 外国史の事例や人類学の報告によると、神判が実地される機会が最も多いのが、男女間のトラブルだというが、それは想像していなかった事実なので、ちょっと驚く。
 室町時代も湯起請と平行して参籠起請も行われていたのだが、参籠起請ではほとんどの事例で被疑者が無罪に終わっており、そうしたことからある意味参籠起請は被疑者の汚名を晴らす優しいシステムでもあった。しかし湯起請は対照的に火傷する確率が高く、そして参籠起請では拘束7日(あるいは14日)なのに対して、湯起請は3日拘束で済むという誰でもいいから送球に犯人を上げなければ安心できないというくらい願望と、速決さから湯起請が用いられるようになる。ただ、湯起請をして火傷するのは半分程度と想像するよりも火傷しないようだけど。
 神判には紛争解決型と犯人探し型の2種類が存在する。そして紛争解決型では当事者から相手への威嚇のためハッタリとして戦略的に湯起請(鉄火起請も)による解決を持ちかけるケースがしばしばあるようだ。他にも犯人探しの事例でも自分への疑いが強まっているときや裁判で負けそうになった時に、起死回生の一策として湯起請を持ち出したりしているようだ。
 そして当時でも証文、証人を重視する立場からすれば、とおり得ない主張をする側がそれを打破する目的で提案するものとみなされていた。
 しかし裁判で劣勢な方が湯起請を求めた理由が無理のある自身の主張を強引に押し通そうとしたためであることは少なく、そうした主張をした多くの人は主張が「文章」や「物証」で裏付けられないから、湯起請で自分たちの主張が正しいということを証明されることを期待した。
 鎌倉幕府などの公権力は既に証拠・証人・物証を重視していたが、室町時代には社会全体の識字能力の向上もありそうした考えがより広い社会階層で受け入れられてきた。するとそれまでは口頭の証言や古老の記憶もかなり重要視されていたので、証言や固陋の記憶で自身の権利を保持してきた集団は、そうした証拠・証人・物証を重視するようになったという価値観の転換により一転して弱者となってしまった。そうした人々にとっては湯起請は自分たちの主張が認められるために残された最後の選択肢であった。
 湯起請による解決が下火になった頃から、より過激な鉄火起請による解決の事例が増加し、そして江戸時代になってしばらくするとその鉄火起請も下火となる。
 地域の共同体の中で自主的に行われる犯人探し型の湯起請は、事件の真相を明らかに指針犯人を捕縛することよりも、誰でもいいから犯人と定めることで『共同体社会の狭い人間関係のなかで互いが疑心暗鬼になり社会秩序が崩壊してしまうことを食い止めるため、、誰もが納得するかたちで白黒をつけることで、共同体内の不安を解消することを目的』(P62)としていたと考えることができ、そうすると神判は中世人の信仰心という通俗的な説明だけでは収まらない存在となる。そうした単純に神秘的で前時代的なものと切り捨てられがちな通俗的な説明よりも、そうした合理的理由が裏には(意識的にか無意識的にわからないが)存在したようとする視点で神判を見るほうがしっくりくる。中世人が愚かという結論にならないからね。
 ルイス・フロイスもある村で行われた神判を見て、彼らがそのようなことをしたのは『その地には住民が少なく、そこに泥棒がいたのでは安んじて生活できないからであった』とその目的を推測している。それにヨーロッパ中世史でも神判には共同体社会の疑心暗鬼を払拭して秩序維持を図るという大きな目的があったという事実が指摘されているようだ。
 一度証拠がなくても共同体の誰もが彼が犯人だと思っていた場合、そうした状況で共同生活を営むのは難しいので『そうしたとき、「合法的」なかたちで彼を共同体から排除する最良の方法として、湯起請はその存在活を発揮していた』(P81)ようだ。それに漠然とある人物が犯人と思っている場合や逆に誰が犯人か分からない状況で、湯起請をして誰も火傷をしなかった場合は、共同体内部のどこにも犯人はいなかったと神仏が証明してくれたという結論になり、そうした結論が出たらそれはそれで心の平穏を取り戻せるので構わないと思っていたようだ。
 当時売買観念が未成熟で、売買や賃貸はモノが「本来の持ち主」のもとから移動している異常な状態だと考えられていた。そのため何かきっかけがあればモノが本来の持ち主に戻すのが当然と考えていた。そうした考えが徳政一揆を支えていた中世の人々の心性だったようだ。
 徳政一揆を求める人も、音声主義から文章主義に変わったことで弱者となり劣勢な状況で湯起請によって自分たちの意見が通るよう願う人達も、社会全体の考えが変わっていったことで今までの常識が当然のことでなくなった時代の中で、旧来の慣行を維持しようとする人たちで、湯起請も徳政一揆も旧来の慣行を守ろうとする彼らによって生み出された反動的な現象であり、よく似ている現象だった。
 神判で得た結論は当時広まり始めた証拠主義の「契約文書」や「凶器」の存在よりも、より強い「証拠」とされた。旧来の慣行を守ろうとしていた、証拠主義の考えになじめない人々にとって湯起請は証拠主義に対する対抗策として価値が見出されたが、湯起請でも証拠主義という大きな流れに逆らえないことが分かったときに登場から100年で廃れた。
 くじ引き将軍義教は、裁判で湯起請(神判)での解決を多用したが、そうした湯起請で解決しようとした事例の多くは彼が為政者となった初期の頃である。彼のように為政者が専制志向だが実際には部下の力も強く専制的に政治をすることがかなわないときに、自分にとって都合の悪い結論が出る反対意見が多数の時に、神慮によって判断させることで、望ましい結論が出る可能性をつないだ。そしてひとたび神慮を持ち出せば、それを正面から否定するのは当時の社会にとって難しかったので(無論為政者の当時の人々も湯起請の濫用を警戒していたし)、為政者にとって自らの政治判断の恣意性・専制性を隠蔽する手段としての意味を持っていた。そのため自らの力量が確立すると神慮を必要しなくなるため、湯起請による解決に頼むこともなくなった。
 湯起請をしても解決できなかった、両方ともなんともなかったり、両方とも失が出たりした場合は、当時は中分という考え方が絶大な力を持っていたため中分をした。あるいは両方失がでたら幕府など上位のものとされることもあった。
 また当時の人たちは湯起請の結果に猛進していたわけでなく、合理的に考えておかしいと思った場合には、その結果に不信感を抱いたりすることもあったようだ。
 それから湯起請は「両方理非相半ば」で、それ以上の判断ができるときに限ってなされるものだという認識が当時にもあったようだ。
 室町人も神慮を全面的に信じていたわけでなく、信じて湯起請を多用するのと同時に、それは外聞をはばかる穏便ならざる手段だと神慮に懐疑的な目も向けていた。
 かつては参籠起請で身体に異変があるかどうかを問うということでも、そこででた「神慮」に納得していた。しかし「神慮」に疑念を抱くようになる(神が遠くなる)と、神慮をたずねるには厳粛な道具立てやもっと過激な方法でないと「神慮」を示してくれないと考えるようになった。そしてその手段が湯起請→鉄火起請と過激になっていったが、とうとう熱湯に手を入れ、鉄を握ったところで神慮を得られないと感じるようになったことでそれらは廃れた。
 たとえば鉄火起請が行われて数世代を経ると火傷をしなかったことについて神慮でなく、合理的な理由をつけるようになっている、そうしたことからも現代と相通じる考え方・精神になっていて、神仏の世界から遠いところに来てしまったということがわかる。
 湯起請では代表者に村の代表や被害者に近い人間が選ばれているが、鉄火起請では戦国時代から村にはいざというときにスケープ・ゴートとなる浪人(武士という意味でなく)がいて何か問題が起きて共同体の中から誰かをさしださなければならないときに彼の子孫をちゃんと村の正員として遇することを約束して、彼に犠牲になってもらうという習慣があったが、鉄火起請で代表に選ばれる人は何か保障をすることを条件に代表者になることを引き受けたそういう人だったりして、誰も保障もなしに代表者となりたがらなかった。そのように鉄火起請では代表者になるに相応しい理由が必要ではなく誰でも良くなっていて、それをみても神聖性が薄れてきていることが分かる。また鉄火起請で誰も代表者になりたがらなかったのは、湯起請では負けたからといって何の処罰もなかったが、鉄火裁判では負けたら幕藩領主によって処刑されてしまう例が多いということも、誰も代表者になりたがらなかった大きな要因だろう。
 「おわりに」では世界各地でどういう神判がなされていたかについてが記されている。ちなみに中国は世界で一番早く神判が姿を消した地域で、紀元前から既にそうなっていたというのは驚くな。
 これらの過激な神判は文章主義(証拠主義)や売買観念が確立されて、新しい価値観による新秩序が成り立つまでの模索期間に登場した、過渡期的現象だった。