近世大名家臣団の社会構造

内容(「BOOK」データベースより)

全国を行脚し集めた厖大な史料を社会経済史的に分析し、儀礼、禄高、婚姻、養子縁組、相続などの実態から江戸時代の藩に仕える武士の実像に迫る。武士は侍、徒士足軽以下の三層から構成され、あらゆる面で明確な身分内格差があったことが鮮やかに浮かび上がる画期的論考。


 近世の武士人口の多くを占める大名家家臣、その武士身分は概ね「侍・徒士足軽以下」の3区分にわけられる。それらの3つは大きく違い、特に徒士足軽との間には身分的隔離の太い線が引かれている。
 そしてその三区分された武士人口の人数の比率は概ね、「侍」(上士)4分の1、「徒士」(下士)4分の1、「足軽以下」2分の1となっていた。
 近世武士は官僚か領主かという議論、両者の側面のどちらの側面を強調するかの違い。そしてその議論では、主君に対して従属的か自律的かという議論にすりかわってしまい、主君に対して従属的ならば官僚的、主君に対して自律的ならば領主的という安易な議論に陥りやすかったが、直接的には従属と官僚、自律と領主は関係ない。
 足軽などの末端家臣は資料が少なく余り研究盛んでなく、下級士族ではなく、町や村から供給される側面を持つ「武家奉公人」(支配階層の「武士身分」ではなく)として把握する研究は近年になってようやく本格化したもの。
 「侍」「士分」の範囲は各大名家ごとに、また時期によって異なっているが、士分徒士は含まれず、狭い意味での侍は給人あるいは給人+中小姓をさす言葉であり、広い意味の侍ではそれに徒士を含まれることもあった。『しかし、どの藩でも足軽は明らかに侍とは呼ばれてはいなかった。』(P49)そして徒士は侍に準じる存在だが、厳密には「侍」「士分」とは区別されていた。
 『熊本藩でも平戸藩でも共通して、中小姓以上の士分同士は上下関係が緩やかで横並びのところがあり、家老も平士も同座するのが基本であった。』(P52)侍(士分)は比較的互いに対等という、侍対等の原則が見受けられる。なので家老も御目見以上の侍=士分=中小姓以上の人間に書状を出すときには、誰々様と書いていた。
 支配階層としての「武士身分」とそれ以外を分ける太い線、徒士足軽との間に存在。足軽、刀は帯びているが礼式では領民並の位置づけになっていた。例えば、武士同士は○○殿と殿付けで呼ぶことが出来たが、足軽は町人百姓同様に士分(+徒士を含むところも)を様付けで呼ばなければならなかったし、足軽には下駄履きや絹の衣服などが禁止されている藩も多かったし、武士身分の象徴ともいえる袴もはけなかったし、侍中に出会うと足軽(私的には下駄を履くことは大丈夫みたい)や町人は雨であっても下駄を脱ぎ、また雨であるなら傘もたたんで辞儀をせねばならなかった。
 藩法の土下座礼、百姓一般に出されたものでなく、足軽などの下層家臣や又者、藩御用の町民などに対してのみ命じたもの。
 足軽世襲権も弱く、一時的限定的に大名家臣の末端に連なる身分として家中位置づけられていた。
 士分対等の原則、徒士劣位の原則(士分に対し)、足軽領民なみの原則(家中の内部では)の3つの原則の存在を指摘。
 侍・徒士の経済的実力、権威の低下を、彼らと『足軽以下を「格と礼の秩序」において峻別し、かろうじて身分制の秩序を保っていたと言ってよい。』(P93)
 徒士以上は世襲だが、足軽は株があるけど基本的には一代限りで、それも終身足軽として働くのでなく、何年かで辞めることがほとんど。
 武家の結婚、実家と婚家の石高差は2倍以内にほとんどが収まり(岡山藩では90.5%、そして長州藩支藩支藩清末藩では84%なので、8割〜9割)、そして2倍以上の格差があった夫婦は数年で離婚するというケースが多かったみたい。
 少録の武士の場合は、百姓との通婚ある。そしてその場合百姓からの嫁入りのほうが、武家から百姓への嫁入りよりもずっと多く、1対6.5の差がある。そして武士と結婚した百姓の娘は城下の近辺出身で、城下で奉公人・下女として働き、その後武士の妻となるケースが多くを占める。
 大名家の家臣たちは基本藩内婚だが、他藩の武士との通婚もあった。ただ小藩の場合、家格がつりあう家が藩内に少ないため、藩外婚の割合が高かった。しかし藩外婚をする場合でも、近隣の藩の武士との通婚が多い。
 長州藩支藩支藩である清末藩、同性養子の5.5%を含めなくても、34%前後と3分の1程度が養子当主。この清末藩は小さな判で多くは十数石という、少録の武士にもかかわらず、養子のほとんどが藩内あるいは毛利系諸藩の武家から養子に来た。そのため、少なくとも清末藩では(少録の武士が多いのだが)百姓などから武士になることは困難だった。そしてこの養子の割合は時代による変化、近世中後期に急増したという形跡はない。
 清末藩は異姓養子35%なので、それを考えると、男子血脈が繋がる家は4世代で5分の1となる。そして3世代目までで68%が養子をとっているため、養子制度がなければ3代で約7割の藩士家が絶家する可能性があった。なので武士の家が存続するためには異姓養子が不可欠だった。近世武家、概ね実子7割、養子3割という継承割合が一般的といわれる。
 しかし養子で世襲身分が緩和されていたかというと、それは逆で同格の相手――結婚と同じく、禄高が2倍以内の武士の家――から養子をとることがほとんど(88%)。そして少なくとも清末藩の場合、百姓を養子にとった例は記憶にある限り皆無で、あっても坊主か医者だった。そのため新たになくなった家の分を下層の家から支配層に参入する機会が減少しているから、むしろ養子制度は階層の固定化に寄与していた。そのように徒士以上の階層では、養子制度は同一階層内での当主の再生産の道具となっていた。
 家格的にも同格の家から養子にとることが6割、それ以外もせいぜい上下1段分の家格の家からの養子が多く、それ以上はなれた取り組みは上層藩士の次男三男が下の家の養子に行くというケース。また、中士(小さい藩だから中士なのだろうか?)と下士の間にも壁があり、その壁を超えて養子に行った例は極めて少ない。
 明治初年の清末藩では次男以下も病気などの理由がない限り、いずれかの家の養子に入って当主になれる状況にあって、26歳以上で家内に残っている部屋住みの人間は一人きりしかいなかった。というのは、とても意外だった。イメージと違って面白いし、飼い殺しなんてほとんどなかったかもと思える、なんだかとても喜ばしい情報だ。
 侍層と徒士層に大きな経済格差あり、徒士層は必ずしも安定的に階層人口を維持できたわけでなく、侍・足軽・領民から人材補給がなければ人員の維持・増加が難しかった可能性がある。まあ、たとえそうだとしても足軽から徒士に上がるのは狭き門だったから、たぶんそれほど深刻なものでなかったとは思うけど。
 徒士層は、17世紀には一代抱えだったが、後に諸藩共通の傾向として徒士世襲化がなされた。
 一代抱えだった時代は身長制限などが設けられて、屈強な者が選ばれて徒士になっていた。18世紀前半には採用基準が従来の身長・体格を第一とした方針から、志・武芸・達筆のある人間を優先して召抱えるようになった。そして18世紀後半には徒士に強い相続保証を付与する法令が諸藩でだされた。そのようにして徒士武家の一角を構成するようになって、一代限りの足軽とは階層的性格が大きく異なっていった。そのため明治の士族は、世襲徒士以上で、卒とされた足軽とは分けられた。
 足軽、弓・鉄砲などを使う専門職の譜代足軽もいたけど、基本的には一代限り。ただ、譜代足軽でも相続優先順位は長幼の序にそった相続順でなく、能力や相応しい体格を優先した相続者を選ぶことが求められた。そして譜代でも録は固定されていたわけではなく、相続の際に録を減らされて、次第に上がっていくという方法をとっていた。まあ、つまり現代的に言えば新入社員だから新入社員の給料額からスタートということか。
 足軽、召抱えるにあたって体格が重要視された。また、足軽の奉公は家でなく個人に属するものだったから、親や兄弟など複数人同時出仕も行われていた。
 近世後期の19世紀には一代抱えにも一定年月奉公すれば跡株という後任推薦状が与えられ法的には世襲相続権は強まったものの実子相続は少数派で、多くはそれを他人に売買・譲渡した。そのように非世襲的性格は変わっていないが、藩による個人能力による選抜する方式から、足軽が株を売買・譲渡して後任を決めて(その時、実際の血縁関係的には違くても「従弟」「甥」としている)事後的に藩に承認される方式に、足軽が供給される方式が変化した。
 譜代足軽は収入少ないため、内職に励まなければならないし、子供多いと生活厳しいため、足軽組に空席が出来るまで子弟を家中の武家に奉公させていた。百姓町人が看抱制度(この場合は、養子と違い名字は引き継がれない)で、借金を引き継ぐ代わりにその地位を得ることがあった。譜代足軽といっても、看抱・養子が家筋を継ぐ率が2/3近くに及んだ(秋元家[6万石]の足軽層)。
 10万石の津山藩足軽中間と藩直属でない武家奉公を合わせて2400人の武家奉公人が雇用されていて年貢総収入の2割を武家奉公に支払う財政構造になっていた。そのため43%の年貢取られていたものに、武家奉公人により年貢に取られたうちの2割を領主経済から町方・村方に還流された。また、その武家奉公人は城下付近の村々から主に供給されていて、中間以下はともかく、足軽については町人ではなくそうした村々から召抱えるような制限を設けていた。
 そうした足軽たちは城下に程近い村で耕作を営みながら歩いて城下町に通って、足軽・中元奉公や武家屋敷に出入りして給金を得ていた。
 そうした近隣の村で奉公に出るとき、富農は奉公しないか、名字帯刀特権を得る目的で「出入り刀指奉公」という時折武家屋敷に出入りして奉公して日常は村にいて名字帯刀の特権だけ得れる形の奉公そしていた。他方、中農は足軽奉公をしていて、中間奉公は無高に近い零細農民の雇用の受け皿になっていた。
 当主・跡取りを「武家奉公」に出すことが多い。しかし1町以上ある家は奉公に全く出さないか、出しても少なく、数反しか田畑を持たず、小作もしなければ生活も成り立たない家が盛んに武家奉公に出して給米を稼いでいる。つまり、過剰労働力を抱えた城下近郊の農民が武家奉公の主たる供給源だった。城下内部で足軽・中間人口が再生産されるわけではなく、そうした近郊農家の人口の吸い込みでなりたっていた。農業経営との関係で人手が過剰になれば足軽・中間株を入手して、武家奉公に出して、労働力が必要になれば他人に跡株を譲って武家奉公をやめて戻ってくるというサイクルがあったようだ。そのように中間・足軽の兵卒は城下町近郊の農業経営の存在前提に成り立っていた。
 基本足軽・中間、町人百姓を組み込みながら編成。兵農分離とはいっても大名の家臣団の階級の一番下の足軽以下の層は城下近郊農民で主に編成されており、家中の下半分は兵・農が密着していた。
 つまり徒士以上とは異なり、基本的には足軽に生まれるというものではなく、足軽には「なる」ものだった。
 徒士の生活は厳しかった、平たく言えば貧乏だったが、足軽は微禄でも生活の基盤は村にあり、足軽としての収入は本業の農業の収入にプラスアルファとしての収入だったから、むしろ足軽のほうが暮らし向きに余裕があった。完全に専業にさせるには、都市に屋敷を提供し、徒士と同じ水準の俸禄(2〜3倍にする)が必要なので、そこまでして兵農分離させるメリットなかった。正確に言えば士(徒士以上)農分離と呼べる。ただし、足軽は城下近郊の村から召抱えられたので、城下から離れた村をみれば、文字通り兵農分離がなされていたといえる。
 足軽通い奉公であったと考えられ、鉄砲足軽足軽預屋敷に常駐する本人以外の家族は農村で田畑を名請けしていたみたいだ。
 17世紀中ごろには、武家、知行24石ごとに一人の召使(若党、中間、下女など)を召抱えていた。
 武家の収入が『近世前期と一八世紀中頃威光を比べると、表向きの知行高は同じでも、藩士の実収入は半分以下に減っている藩は決して珍しくはない』(P421)。そうしたことや18世紀後半から全国的に中間・草履取の給金が上昇したため、武家が抱える召使の数がかつての半分以下となり、軍役制が形骸化していった。
 侍・徒士足軽の三分類の中で一番官僚制的なのは、かつては個人の奉公能力に基づいて編成され、職務の権限配分、専門化などがあった徒士であるが、それも近世中後期には世襲色強まるため、マックス・ウェーバーの概念で言えば「世襲官僚制」にあたるもの。
 17世紀、徒士以下の家臣たちは従来考えられきた以上に身分流動的だった。一方で、18世紀に入ると徒士以上の武士身分は全体として硬直し、世襲化。そのため時代が下るにつれて、武士の生活厳しくなり身分を売り渡すに至ったというのは誤りで、むしろ近世前期のほうが身分の流動性高く、中後期のほうが武士の身分としての閉鎖性強くなった。
 武士の身分格差、経済の貧富もあるけど、メインは儀礼上の格差。明治維新はそうした武士身分内の対立の構造と深く関わった形での展開をみせた。