死刑執行人サンソン


内容(「BOOK」データベースより)

敬虔なカトリック教徒であり、国王を崇敬し、王妃を敬愛していたシャルル‐アンリ・サンソン。彼は、代々にわたってパリの死刑執行人を務めたサンソン家四代目の当主であった。そして、サンソンが歴史に名を残すことになったのは、他ならぬその国王と王妃を処刑したことによってだった。本書は、差別と闘いながらも、処刑において人道的配慮を心がけ、死刑の是非を自問しつつ、フランス革命という世界史的激動の時代を生きた男の数奇な生涯を描くものであり、当時の処刑の実際からギロチンの発明まで、驚くべきエピソードの連続は、まさにフランス革命の裏面史といえる。


 サンソン家は6代にわたってパリの死刑執行人の首座を務めた家系で、本書の主役となるフランス王を殺した男シャルル−アンリ・サンソンは4代目。
 小説フランス革命で王の処刑まで読み終えたら読もうと思っていたので、ちょっと前から気になっていたけどやっと読めた。
 海外のそうした事情については良く知らないのだが、フランスでも処刑人に対して不浄だと思ったり、嫌悪したりということはあったのね。商店が処刑人の家に物を売ることを拒んだり。
 別の職業につこうとして、別の土地で商売を始めても何かの拍子に処刑人の一族ということがばれると客がつかなくなるなどの事情があって他の職につくことは難しかった。また、処刑人自身も息子が別の職業についたら父親のことを恥じることになるだろうから、別の職につかせたがらなかったという事情もある。
 サンソン家の初代のエピソードが当人の手記を引用しながら、書かれている。軍の中尉だったが大事故で怪我をしたときに看病してくれた人、その家の美しい娘に(処刑人の娘と知らず)一目ぼれ。その後彼女と密かに交際、それを知った彼女の父が彼女を折檻しているのを見て、自分が交際している者だと名乗りをあげて、結婚の許しを請う。誰も知る人のいない海外へ行って3人で暮らそうと提案するも、そうしたとしていずれ私を軽蔑するようになると後に義父となる人はその提案を拒絶し、結婚の条件として自分の後を継ぎ処刑人とならなければならないという。『問題は、われわれ二人について回る憎悪と恥辱を分かち持とうというほどに、お前の愛が強いかどうかだ』(P19)。そうして結婚して処刑人に。物語みたいな劇的な話だ。
 サンソン家は処刑人であると同時に医者でもあり、薬品などの販売も行っていた。解剖学的な知識を豊富に持っていたからというのもあるけど、呪術的効果を期待されていた側面もある。そうした医者としての収入と本業による国からの収入でかなり裕福で、広大な屋敷に住んで貴族並の生活レベルだった。
 死刑を冷静に執行することもだが、死刑囚と直接接触を持つことも差別される網一つの要因だった。そうした社会の冷たい視線があるからこそ、『死刑執行人は、自分の普段の生活が人から絶対に後ろ指を指されることがないよう、道徳的に非難の余地がない生活を送るように身を律し』(P25)ていた。
 大革命の1年前に王のお膝元のヴェルサイユで、不幸にも過失で父親を殺してしまった(夜、暗い中で父親が自分に投げ飛ばしたものを投げ返したら)車裂きの刑で死刑が決まっていた若者、住民がその同情すべき事情と元々親子で政治的見解の差異(保守と革新)もあったこともあって、住民が死刑執行直前に彼を実力で解放した。王のお膝元でのそんな事件があったのか。もしかしたら小説フランス革命にも書いてあって、すっかり忘れているだけかもしれないけどね(笑)。
 しかし、この事件も拷問を廃止したり、死刑判決を出さなくなっていた王ルイ16世の統治の賜物といえる。また、そうした拷問廃止や死刑判決の現象もあって、元々ルイ16世を深く敬愛していたシャルル−アンリ・サンソンだったが、その思いを強くし、さらなる期待を抱いた。しかし革命という大きな社会の変化が起きたことによって、運命も変転し、その敬愛していた王を殺す巡りあわせになる。
 マリー−アントワネットへの世間の批判、ルイ16世に公式寵妃(愛人)がいなかったため、風除けとなるものがなかったため強い批判にさらされた側面もある。本来なら派手で華やかな公式寵妃が防波堤となる。
 シャルル−アンリ、若い頃は色男で伊達男だった。そのため、偽名を使ってアヴァンチュールを重ねていた時期あり、その中の相手には後にルイ15世の晩年に公式寵妃となったデュ・バリー夫人がいる。
 ルイ15世の時代まで(それとも革命まで?)は、死刑囚に死刑当日に共犯者を吐かせる拷問をするのが常だった。
 革命後に人道的配慮で、死刑は全て斬首刑と一旦決定した。しかし一刀で斬首するのは死刑囚が暴れなくとも難しいことなので、サンソンはあわてて死刑執行人を代表して意見書を提出して、人道的配慮が目的だけど実際は死刑囚が執行台でのたうち回る光景が生じることになるため、別の手段をと述べた。そこで確実に斬首できる器械を作ろうということになり、ギロチンが作られた。
 ただ、そのギロチンを作動させるのにも経験と覚悟が必要(捜査する手順やタイミング)で、また「3章」に載せられている素人が執行したら、あまりの精神的な負荷のために倒れてそのまま死んでしまったというエピソードにあるように執行側にかなりの精神的な負荷がかかる。
 そのようにギロチンは人道的見地から登場したものだったが、時間的にあまりに簡単・迅速に短時間で処刑できることもあり、以前の執行法では斬刑はせいぜい一日数人が限度で、絞首刑もそんなに大勢を処刑できなかったが、一時間に50人を処刑することが可能になった。
 つまり皮肉なことに人道的処刑法があったことで革命期に多数の人間が死刑の処されたといえる。また、そのギロチンの乱用には国王を処刑してしまったことで箍(処刑することへの抵抗感)が外れたという要因もあったことだろう。
 ヴァルミーの戦い、『ぼろの軍隊がヨーロッパ最高の軍隊に士気の高さで勝った戦い』(P165)。こうした歴史の本などでこうした記述を目にする機会が重なると、第二次大戦の日本軍の影響に夜そうしたものへのネガティブな感情と偏見が解れてきて、少しずつ士気というのは重要というのが事実だということを受け入ることができるようになってきた。
 王への死刑執行はサンソンに強い精神的打撃を加え、その夜居候をしていたシェノーの仲介で、隠れていた非宣誓派の僧侶のもとに赴き、亡き国王へのミサをあげてもらった。彼は、そうしたことがばれたら自分が死刑になる危険があったがそうした。そしてその後、隠れ住んでいる司祭と、二人の老修道女のもとに物資を援助していた。もちろん、それが援助を受けるより飢え死にの方がましと思われないために、名を隠してだが(ミサもそうだった)。そして毎年王の命日に、密かに仔細のもとにやってきてミサをあげてもらうということがナポレオン時代になりカトリック信仰が復活するまで10年続いた。
 処刑後、サンソンは毎晩のように国王処刑の夢を見てうなされ、その後毎晩一日たりとも欠かさずに国王の魂の安息のために祈りをささげ続けていた。