十字軍騎士団

十字軍騎士団 (講談社学術文庫)

十字軍騎士団 (講談社学術文庫)

11世紀末、聖地エルサレムイスラム勢力から奪回せんと第1回十字軍遠征が敢行された。その中核として結成された、戦士と修道士の役割を同時に遂行する聖俗一致の〈キリストの戦士〉修道騎士団! 秘密結社的な神秘性を持ち二百年後に悲劇的結末を迎えたテンプル騎士団、強大な海軍力で地中海上に現代まで存続した聖ヨハネ騎士団等、その謎に充ちた興亡を十字軍研究の権威が興味深く描いた好著。

(『十字軍騎士団』(橋口倫介):講談社学術文庫講談社BOOK倶楽部 より)

 十字軍時代のテンプル騎士団聖ヨハネ騎士団の話を中心に、修道騎士団の歴史を紡ぐ。
 12〜13世紀に創設された騎士修道会の中で大きいのはテンプル騎士団聖ヨハネ騎士団ホスピタル騎士団)、ドイツ騎士団チュートン騎士団)で、それらの修道騎士団が俗に三大騎士団と称される。
 テンプル騎士団は後に異端の嫌疑を招き、解体され、最終的に聖ヨハネ騎士団に吸収されることになる。そして聖ヨハネ騎士団は、1309年よりロードス騎士団、1503年よりマルタ騎士団と名称を変えながら、現在も勲章の形で残っている。
 この本では十字軍時代の修道騎士団の活動といった歴史的な話(騎士団史)と彼らの変質、そしてテンプル騎士団聖ヨハネ騎士団の両者を比較して何が運命を分けたかについてが書かれる。
 11世紀末から開始された十字軍遠征。それまで同一身分という意識のもとで、漠然とした大集団であった個人の騎士が、『十二世紀中葉以後、特定の社会的性格や任務を限定したより結束の強い集団に加盟し、いわゆる騎士団とよばれる結社を創設する』(P17)。
 テンプル騎士団は純軍事的修道会として創設され、聖ヨハネ騎士団チュートン騎士団は巡礼用病院・救護施設から騎士修道会になった。
 騎士団には大別して宗教的騎士団(騎士修道会)と世俗的騎士団の2種がある(中間的存在もグラデーションとしてあるが)。騎士団の始まりは十字軍によって誕生した宗教的騎士団からで、世俗騎士団は模範を宗教的気団に仰いでおり、その多くは14、5世紀に成立した。また理想も宗教騎士団に比べ低次なもので、規模的にも小さい。
 『騎士団とは何かという概括的定義を下すとすれば、それは十二世紀の神秘思想家聖ベルナルドゥスがテンプル騎士団に与えた「新しき戦士団への賛辞」にのべられているように、/……肉体の力によって、肉体的な意味での敵と戦うのみならず、精神の力によって、悪しき魂をも敵として、二重の戦いをする戦士の生み出した全く新しい制度……。(『ラテン教父著作集』)/ということになる。もちろん、この霊肉二重の性格はほとんど宗教的騎士団に限られ、世俗的騎士団においては霊性は消滅して、せいぜい騎士のモラルとエチケットの域を出ないものと(中略)なるとはいえ、人間の霊肉の調和点において理想的人格を形成し得るという思想を前提としているように思われる。』(P25)こうした聖俗合一の理念あったものの、騎士団の軍事優先の気風が信仰の形骸化をまねき、騎士団の聖俗分裂傾向が12世紀末から早くも見られはじめる。
 そして早期に宗教的騎士団としての独自性をなくし、単に聖職者の地位を持つ戦士となったテンプル騎士団チュートン騎士団など、遅かれ早かれ廃絶の道をたどった。
 騎士団は十字軍遠征が実地されなくなった時代において、存在理由を失った。そのことがテンプル騎士団が破滅した大きな理由にある。
 聖地巡礼を守るために発生した宗教騎士団はやがて十字軍の常備軍的存在、主要戦力にまでなる。
 宗教騎士団『西欧のいかなる帝王にも臣従せず、エルサレム王にさえ下属せず、独自の主権を享有する団体として認められたが、その最高統率者たる総長の権威は西欧諸君主と同格であり、強行にのみ直属してキリスト教会それ自体にささげる忠誠心を表明した。このような存在形式は中世社会においては伝統的かつ改革派に属する修道会のみ見られるもので、騎士団はまさにこの西欧修道制の一変形として歴史的に形成された』(P34)。
 教皇の認可を得て創立された団体となったテンプル騎士団聖ヨハネ騎士団は、短期間に膨大な領地・城西・利権の寄進を受ける。
 当時、領主・農民とわず富裕な領地を巡る私闘が慢性化して、その土地を維持困難になっていた。そのため、修道会や司教領主に寄進・預託し反対給付として金品やある範囲の用益権をもらって実質的な権利を守っていた。
 そうした時代的背景があり『生産性の高い土地が安全に経営されるために、特殊な自衛力と権威ある信頼性を兼ね備える管理者の出現が待望されていた』(P36)。そのため、それにピタリと当てはまる騎士団に寄進が相次ぎ、最初は貧しい小団体として発足したが、あっという間に西欧の一王国から数王国に比肩する富と権力を要するようにした。
 テンプル騎士団創立からしばらく後から金融系の業務を行うようになり、そのため異端嫌疑を受けることになる。
 第一回十字軍、エルサレム占領1099年。12世紀前半、占領地の防衛のための戦力が不足していたことも騎士修道会の出現を促した。
 フランス・シャンパーニュ伯領出身の騎士ユーグ・ド・バイヤンとその親友ジョワロフ・ド・サンメールは信仰心から無償の奉仕で、巡礼者が巡礼路で追いはぎにあって金品を奪われたり殺されたりすることパトロールをして防いでいた。そんな彼らのパトロールの恩恵を被った巡礼者たちの口伝に、彼らの評判が西欧中に広まった。
 シャンパーニュ伯前領主ユーグ・ド・シャンパーニュエルサレム王やエルサレム大主教、シトー修道会の聖ベルナルドゥスなどにその詳細を送って、彼らへの援助を要請した。そうして彼らの行為とその任務の崇高さを知ったエルサレム王から必要最小限の財産や土地、そして精神的援助を与えられた。そのとき与えられたのがソロモン神殿(テンプル)跡で、それがテンプル騎士団という名称の由来となった。そして1118年にエルサレム大主教から活動の承認を得る。
 そして教皇から承認されると西欧各地でテンプル騎士団への援助者が多くでる。
 1128年テンプル騎士団、正式認可を受ける。1120年に認可を受けた聖ヨハネ騎士団から8年遅れているが、純軍事・純宗教的騎士団としてはテンプル騎士団が嚆矢。彼らのような集団が生まれた背景には、聖俗の理想を兼ね備える新時代の理想的人間の創出という社会の根源的な要請もあった。また、初期の会員は宗教的修練・戦士的修練をして、その理想を体現していた。
 聖ヨハネ騎士団、元々病院であったものから発生した騎士団で初代の時にも第一回十字軍で活躍(軍事的なものではないようだが)があったようだが、「厳しい戦闘精神と高度の政治的感覚」があった2代総長レーモンのもとで急激な発展を遂げ、エルサレム王国で彼の地位はテンプル騎士団総長と並ぶ最高権威となった。
 純軍事的存在と病院から創設と両者の創設敬意は違えども、その根源的発想は同じものがある。それは「貧者の下僕はすなわちキリストの兵士なり」という思想である。
 テンプル騎士団聖ヨハネ騎士団の双方に総長であっても陣頭指揮に立つ伝統があった。そのためテンプル騎士団の歴代総長22人のうち戦死7、戦病・傷死6と戦闘で死亡した人間が過半数を超えている。
 テンプル騎士団、最初の10年2人ではじめた巡礼保護の事業は、教会から公認された直後に300人に増え、またそれをまかなうだけの収入の領地も寄進された。
 テンプル騎士団、イベリア(スペイン・ポルトガル)でのレコンキスタに参戦し活躍。王侯とも親交を深め多くの領地を得る。
 テンプル、聖ヨハネの遼騎士団が純軍事集団として、戦力を発揮するのは第二回十字軍時代(1146〜1149)のこと。そして『第二回十字軍以後の遠征軍は西欧で召集された封権軍を主体とし続けながらも、修道騎士の多大な助力をまってはじめて有効な戦力となり得たのであり、聖地における作戦と占領地維持のための軍事力はそのほとんどを騎士団に負うことになった。』(P118)
 十字軍諸侯は財政窮乏もあって、騎士団にその城砦を売却することが増えたため、騎士団は『世俗諸侯の誰一人としていじできないような大規模な城をいくつも持ちえた』(P126)。
 戦闘経験を多く重ねた結果、イスラーム側の戦術を学び、新規に到着した十字軍士が知らない巧妙な野戦戦術を用いていて、『騎士団の戦術は十字軍の共同作戦にはなはだ有効な指導的役割を果たした』(P134)。
 第一回十字軍は「諸侯十字軍」で各国の諸侯単位で集まっていたが、第二回十字軍は「帝王十字軍」で、王(国)同士、王と教皇の関係が友好的に変化したこと、諸侯・騎士が海外活動に利益より犠牲多いことでしり込みしたため、国単位での遠征に。
 エルサレム王国、エジプトのカイロという膨大な富を生む都市に目がくらんで失敗。それも条約破りをして、そうしたことしたりしたから十字軍が恐れていたシリア・エジプト統一政権ができ、かのサラディンを相手取ることになる。
 第二回と第三回十字軍の間が、騎士団の活動の主要な舞台であったが、それはサラディンの攻勢していたころにあたる。このとき聖都エルサレムを失い、領地維持・失地回復のための軍を維持する人員・物資・資金を西欧内所領に求めることになった。そのことが騎士団の十字軍活動が二次的なものとし、所領経営・金融商業活動などが顕著となる。
 テンプル騎士団の所領は1244年に約9000箇所、1307年に約10500箇所。聖ヨハネ騎士団は約19000箇所とされる膨大な領地を保有していた。その西欧君主・諸侯から寄進されたものであったが、土地・城砦をもらっても封建的主従関係を伴わなかった。『したがって、これらの各種無数の所領はすべて完全に騎士団の収益を生む財源となり、その合計額は厖大なものであり、いかなる西欧君主よりも強大な経済的基盤を彼らに保証した。』(P190)また、その莫大な収益を貨幣の形で蓄積して、そうした貨幣収入を商業資本や金融資本に投資し、利殖の道を講じた。そうした『両騎士団の経済活動における三特色(巨富の獲得、貨幣形式での富の蓄積、富の商業・金融資本への転化)は同時代の他のいかなる人間集団にも、その規模と情熱において卓越したものを見出し得ず、所領経営における特異性を持たなかったにもかかわらず、かれらをしてユニークな存在たらしめた』(P197)。やっていることは当時の時代の変化に即したもので、大きく変わっているところはないが、その規模が彼らを独自の存在とさせた。
 金を別の場所に送る際に国王だったり、金融業者(多くはユダヤ人だった)に対して多少とも不信感を抱く民間人は、十字軍への援助金を集め、これを聖地に送るために組織されて各地に点在するテンプル騎士団支部を利用した。そうした機能は、聖地に赴く巡礼者だけでなく十二世紀中葉以後の十字軍も利用した。他にも保管料を払っての金品の保管(普通預託)、両替、貸付などなど様々な業務を行った。
 『騎士団金融業における独自の技術として「複式簿記」の仕様がはじめられ、これが期限となって近世・近代以降の簿記の発達をうながした』(P201)。
 テンプル騎士団は異端の嫌疑をかけられたが、彼らを確かに「有罪」だったとする人たちは、有罪の根拠としてテンプル騎士団が公然と大規模に貸付をし、キリスト教で禁じられていた利息を実質的に取得していた(他の名目で実質利息を取ること)ことを理由としている。しかし同じく莫大な資金を持っていた聖ヨハネ騎士団などもそうした資産活用をしていなかったことも考えにくく、それであるならば彼らが裁かれていないことは説明できない。
 聖ヨハネ騎士団の病院付医師制度、医局制、男女別病棟などは、アラブの病院制度の影響だとされる。
 騎士団に超国家的性格あるといえど、ドイツ人騎士がほとんど居らず、両騎士団は十字軍としてやってきたドイツ軍への協力が薄かった。そうしたことあって、ドイツの方で両騎士団を模して、ドイツ騎士団(チュートン騎士修道会)という独自の組織を設立。ただし、ドイツ騎士団も起源は病院。
 アッサシン派の居住地が聖ヨハネ騎士団領にあったこともあり、両者早くから提携したいた節があり、1213年アンティオキア侯ポエモン四世の子レーモンの暗殺を先導したのは聖ヨハネ騎士団という伝もあるなど、なかなかドロドロとした動きあるのだな。清廉な存在として出発した騎士団ではあるけれど。
 ドイツ皇帝フリードリヒ二世は交渉でエルサレムを取り戻す。それは当初の十字軍の目標であった聖墓の解法と巡礼の保護が目標だとすればその成就と終焉を意味したが、この頃には騎士団は完全に経済的利害のほうにこだわりを持っていて、聖地よりもカイロを欲して、武力でカイロ占領を試まないフリードリヒ二世に『期待外れの憎悪をむけた』(P231)。
 13世紀半ば、王侯と修道騎士団の間に不和が生まれていて、1256年には聖地の首都アッコンで「聖サバスの戦」と呼ばれる内乱が起こった。そして1291年にはエルサレム王国終焉す。
 その後、聖ヨハネ騎士団は地中海に留まり、イスラム勢力と対抗する態勢をとる。1307年にはロードス島ビザンツ帝国から奪い、そこを拠点としてトルコに対して活発な攻撃を加えるようになる。このときから聖ヨハネ騎士は、ロードス騎士という別名を得る。
 ドイツ騎士団は既に1226年からポーランド方面の布教・開拓にあたり、この時期にはバルト海沿いに領土を拡大しつつあり、聖地陥落以後はこの事業へと展開し、東地中海から退去。
 テンプル騎士団は、キプロスに本部を設け島内経営に主力を注ぐも、金融・商業活動を倍加し、そうした商業・金融が主たる業務と変わった。そして十字軍のための費用は不要となっていたので、それは無目的な富の蓄積をまねくことになった。
 フランスが対イングランド戦時に聖職者にも課税したことをきっかけにはじまったフランス王と教皇の対立。
 そうした聖俗対立があった初代アヴィニョン教皇(ローマ入りの機会を失い、この後数代に渡って「アヴィニョン虜囚」がなされた)となる教皇クレメンス五世時代にテンプル騎士団、廃絶される。
 テンプル騎士団の廃絶は、1307年9月14日フランス王フィリップ4世の命令で突如警吏がテンプル騎士団全員の逮捕と全財産を差押えたことからはじまり、騎士団幹部が火刑に処せられ、最終的に聖ヨハネ騎士団に吸収されたことで終わる。そして『テンプル騎士団のこの破滅は、その当時以来きわめて精力的な抗議の声があがったということに関して、今日まで人が想像していた以上に、非常に重大かつ政治的影響のはなはだ大きい事件』(P260)だった。
 テンプル騎士団は異端という「告発」を受けて、廃絶までいったのは、当時(その勢力によって)尊敬は受けていたものの、既に2世紀前のような敬愛されている存在でなかったからという理由がある。
 テンプル騎士団その前から聖ヨハネ騎士団との合併案拒否し続けており、フランス側は逮捕以前からテンプル騎士団の罪を究明を求めていたが、その弾劾内容はあいまい。
 テンプル騎士団総長は多くの財貨を持って富と権威を誇示するパレードを持ってパリのタンブル入り。その財貨は王権の拡大を狙うフランス王にとって垂涎のものとなる。
 突然の逮捕に、テンプル騎士団の多くは抵抗せずにつかまった。その理由は、おそらく犯罪意識全くなかったからということのようだ。実際、彼らの富を得るために、こじつけた側面強いみたいだし。
 非難をかわすため、他国の王にも同様の措置を求める。それに対し、英国は一度は拒否する声明を出すも数ヵ月後に、逮捕と財産没収を行う。イベリア諸国、イタリア諸邦、ドイツ諸領邦(ケルン、ユトレヒト大司教領を除く)は協力拒否。
 王権側はパリ大学に諮問して(君主が異端者を捕らえ処罰できるか、テンプル騎士団の入会秘儀は信じえるか、没収した財産をどうするべきかなどを)有利な回答を引き出そうとするも、教会の立場に立つ公平な回答を示す。
 そして教皇側はテンプル騎士団の人々の解放を求めているという不利な状況で、教皇側に圧力をかけるため三部会を開き、世論を誘導形成し、そこで支持を勝ち取って、その支持を大義名分として教皇を圧迫。
 そして教皇も折れざるを得なくなってほとんど王権側の作為のまま進行し、事件3年目となる1310年に60名以上が死刑に処された。しかし教皇は粘り強く事件に取り組み、個々の騎士の判決とは別に、修道会としては無罪という結論を調査委員会に答申させて、その翌年には諸国王をオブザーバーにしドイツ帝国領ヴィエンヌ(フランス領を避けた)で開催された会議で、教皇行政処分の形式で、テンプル騎士団を解散させその財産を聖ヨハネ騎士団に移管させることを公布。
 フランス王はその会議の最中に再び三部会を招集し、有罪と財産没収を強く求め、『フィリップ四世はヴィエンヌ公会議場に乗りこみ、「脅嚇的」雰囲気のもとで最後の交渉を教皇に強いたが、結局ボニファティウス訴追もテンプル騎士団有罪決議も、その財産獲得もすべて不成功に終わ』(P280)った。
 それでもフランス王は最後までしぶとく彼らの財貨を得ようとして、結局パリの「タンブル」と、聖ヨハネ騎士団に強要して取得財産中から20万リーヴルを献納させた。
 そしてその後抑留を解かれなかった総長など高級会員数名は、1314年に枢機卿会議で終身禁固を言い渡されたが、王側顧問官の干渉で死刑となり、彼らが「テンプル騎士団訴訟事件」の全責任を負わされて焼き殺され、終わる。
 フランス王とその官僚団が志向する絶対主義の道程上の強力な邪魔者だったテンプル騎士団を排除するため、そしてその財貨や領地を獲得して王権を拡充するために、この事件が起こされた。
 そして王権がこの訴訟を強気に推し進められた理由として、テンプル騎士団がその存在を主張する理由(聖地防衛)を失っていたことがある。それに対し、聖ヨハネ騎士団は、ロードス島を拠点(したのはテンプル騎士団逮捕後だけど)に東地中海でのトルコ水軍の西方進出を抑止し、慈善的病院で人々を助けているなど存在理由があったから、フランス王の追及を免れた。
 騎士団が台頭してきた世俗君主権とどう向き合ったか。チュートンは早くから権力に追随する道を選び、テンプル・聖ヨハネは王権側に与せず中立を守り、その任務の性格が慈善的であった聖ヨハネは存在理由を認められて、フランス王もそこまで手を伸ばそうとせず後々まで残る。存在理由を失ったテンプル騎士団はフランス王によって解体のはこびとなった。
 聖ヨハネ騎士団、1522年についてオスマン・トルコの艦隊にロードス島を取られる。その後の1530年にはドイツ皇帝からマルタ島を与えられ、ナポレオンに降伏するまでその島の経営と地中海の海上警備に当たった。同じ頃チュートン騎士団は対ナポレオン戦で敗れたことで所領の大部分を失い没落に瀕す。