私のように黒い夜

私のように黒い夜

私のように黒い夜

内容(「BOOK」データベースより)

1959年アメリカ合衆国、命を脅かすほどの黒人差別が暗黙のうちに認められていた時代。闇に閉ざされた実態を明らかにするため、全身を黒く変色させ、米国南部へ潜入した白人ジャーナリストがいた。戦争による盲目、そして光を突然とり戻すという数奇を体験した白人グリフィンがそこで得た真実は?当時、世界に衝撃を与えた“南部の旅”日記に、その後の余波、著者の経歴を含むあとがき等が大幅加筆。今尚、アメリカのあり方を深く問い続ける名著、平井イサク名訳(全面改訳)により、待望の復刻。


 長らく読みたいと思っていた本だが、ようやく読むことができた。
 1959年に白人の著者が黒人に扮して人種差別が激しかったアメリカ南部で一ヶ月と少し旅した記録。日記形式でその体験が書かれる。
 著者は短い期間ながら黒人として過ごすことで、アメリカのもう一つの世界、抑圧された不自由な世界を体験する。そのことで、この社会に黒人に対するどれほどの偏見や差別があるか、白人の無意識にある偏見の存在を当事者として身をもって体験することになる。
 差別の酷い時代に黒人に扮して南部で過ごした記録なんて、めちゃくちゃ興味深いし、面白くないわけがない。
 著者は白斑病の治療薬を飲んで、紫外線に全身を曝すことで肌を黒くして、一人の黒人として南部で過ごす。
 冒頭や巻末に掲載されている写真を見たら想像以上に違和感がなくて、白人でも薬を使えばこんなに黒くなるのかちょっと驚き。まあ、そうした写真を撮ったのは旅の最後のほうで肌の地の色はだいぶ戻ってきていて、肌に塗っていた時期の写真みたいだけど。
 黒人に扮してドラッグ・ストアに入ると、それまで毎日のように行き陽気に接して言葉を交わしていた店員も無愛想になった。そのような白人の見る街と黒人の見る街とでのギャップが、肌の色の違いだけで街の印象がまるで違うものになる。そうしたことがかかれるのは最初のここだけではなく、その後取材の後期でも、白人として家に帰るために薬を止めて顔料を塗る程度に留めて、そうした体験をする。そうした挿話は印象深い。
 『「これからは、前もって計算を立ててかからなくちゃならないんだ」と、スターリングはいった。「白人だった頃みたいに振舞うわけにはいかないんだよ。ふらっと手当たり次第に店へ入っていって、飲み物を頼んだり、便所をかしてもらうわけには行かないんだ。』(P45)「黒人」になりたての著者は靴磨きのスターリングにレクチャーしてもらう。飲み物が飲める場所、トイレに入れる場所、そんなことさえも白人のときよりも格段に制限される。そうした拒絶は人間としての尊厳を傷つける。
 黒人としての最初の日々を過ごしたニューオリンズは、それでも南部でもっともましな所。そこから当時差別が激しかったミシシッピ州へと入る。
 ミシシッピ州へ行くためのバスで同乗していた男に『とにかく、白人の女には、目を向けてもいけないんだ。下を向くか、反対の方を向くようにするんだよ(中略)映画館の前を通って、外に女のポスターが出てたら、それも見ちゃいけないんだ』(P97)という忠告を受ける。
 『すべての男が、黒人の性生活について病的な好奇心を示し、すべての男が、その心の底に、黒人は人なみはずれた大きな性器と千変万化の経験をもった、疲れを知らないセックス・マシーンであるという、反で押したようなイメージを抱いていた。(中略)そして、人間として許されないところまで、話を落としていくのだ。/ 私がこういうことを書くのは、一見紳士風の男やまじめそうな若者が相手が白人ならばそれがどんな社会の落伍者であっても示す遠慮と言うものを、相手が黒人ならば示す必要がないと考えているのを見せ付けられると、胸が痛むからだ。』(P138)『この男は黒人を別種の人間と見ていた。もちろん否定しただろうが、私のことを、その前では人間の尊厳を維持する必要のない、動物に近いものとしてみていたのである。』(P144)本人は自覚していないだろう強い偏見や黒人に礼節は必要ないと考える差別的態度に傷つく。そして問題の根深さを感じることになる。
 『黒人人口の少ない地区には、黒人用のカフェがなく、黒人人口の多い地区でさえ、時には、一杯の水を求めて町を横切らなければならないことがあるのだ。』(P159)そのような不自由さ。そして南部で、黒人がそこそこの職業を見つけることが不可能事であることが何度か語られる。
 若き日に訪れた町モービルに黒人としてきたことで、黒人の目に映るそこの白人は、白人の姿の頃に見た『優雅な南部人、懸命な南部人、優しい南部人』ではなく、彼が白人の姿ならば『優雅な南部人、懸命な南部人、優しい南部人』はたやすく見つけられるだろうが、黒人の姿で見たこの町の白人は『使役を使う動物だけを除いて、仲間のすべてを追い出そうとしている、荒々しい気性の持ち主』(P161)である。人種が違うから異なった見方や反応を示すのではなく、抑圧されているからそういう見方になることを知る。
 このルポルタージュを書くための取材の終盤、家へ戻る前の色が薄くなってきた段階、クリームを塗るか塗らないかで白人社会と黒人社会を行き来することになる。危ないなと思いつつも、同じ町を二つの視点で見れるので面白くもある。
 黒人は身の危険だったり、職を失う恐れがあるから、白人に話しかけられたならば彼らが聞きたがることを話すのが処世術となっていた。そのため南部の白人はこの地の黒人を外部の人間よりよく知っているように振舞うが、実際は全然わかっていなかった。
 取材を終えた後、そのことでテレビ番組に呼ばれるなど色々と反響が大きかった。例えば同じ町の人間から極めて冷淡な態度を取られるようになった。それに脅しもあったりして、両親と彼の家族は町から出ることとなる。
 1959年の取材を終えた後、その反響については「余波――1960年」と、さらにその後のことが『エピローグ 『ブラック・ライク・ミー』公刊後に起こったこと――一九七六年』として書かれていたり、グリフィン研究者ロバート・ボナッティのあとがきでグリフィンという人物について書かれているのはいいね。こうしてグリフィンがその後どういう活動をしていたかなどが詳細にわかると読み終えた後、そうしたことが気になって微妙にもやもやしたりすることがなくすっきりと読み終えられる。