垂直の記憶

垂直の記憶 (ヤマケイ文庫)

垂直の記憶 (ヤマケイ文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

2002年秋、山野井泰史は、ヒマラヤの難峰ギャチュン・カンに単独登頂後、下降中嵐につかまり、妻・妙子とともに決死の脱出を試みる。高所でのビバーク、雪崩の襲来、視力の減退、そして食料も登攀具も尽きたなかで、彼らは奇跡的に生還した。初めて自らのクライミングの半生を振り返り、激しい登攀への思いと未来への夢を綴った再起への物語。


 kindleで読了。
 ノンフィクション。ギャチュン・カンで手足の指という大きな代償を払い生還した登山冒険家の手記。
 各章では世界的に難しい高い山に挑戦した時のことが書かれている。一章ごとに一つの登山について書かれている。そして各章の間の【コラム】では家族のことや登山家とはみたいなことが書かれる。山について詳しくないことやさらりと書かれていることもあって、ここで書かれている挑戦がどんなに困難なのかいまいちわからない。そういうこともあって沢木耕太郎「凍」というノンフィクションを読みたいという気持ちがわいてきた。
 「第一章 八〇〇〇メートルの教訓 ブロードピーク」初めての8000メートル峰への挑戦だったが、それまでソロ・クライミングを中心にしていたということもあって、隊での人間関係が面倒に感じて十分に山を味わえなかった。それもあって以後ソロや少人数での中心に登山をしている。
 「第二章 ソロ・クライミングの蘇生 メラ・ピーク西壁とアマ・ダブラム西壁」富士山で強力のバイトをしていたところ怪我をする。それで当初の登山計画はとりやめたが、怪我あけにメラ・ピーク西壁とアマ・ダブラム西壁に単独で挑戦する。メラ・ピークは予定したルートにクラック(岩壁の割れ目)がなかったため登頂できずに終わる。登攀をあきらめて戻っているときのベースキャンプで待つ(後に著者の妻となる)妙子さんとの間で交わされる『「後一時間で安全地帯に入れる。雪も降ってきて、ルートもわからなくなるが、多分、大丈夫だ」/「じゃあ私、途中まで迎えに行くから」/「ダメだよ。途中に冷たい川があるんだ。指を失ったばかりじゃないか」/「大丈夫。迎えに行くよ」』(N600あたり)という会話は、相手に対する強い思いやりが感じられていいな。
 その挑戦の後体調が悪くなっていたが、諦めきれずにアマ・ダブラムにもトライすることになる。そしてそちらは見事登頂成功。
 「第三章 ソロの新境地 チョ・オユー南西壁」計画を立てた時の期待と不安。自分の身一つで極限に挑むこの情熱は、純粋なチャレンジ精神の発露か、宿業か。
 登頂した帰りに『安全地帯で横になっていると「これで本当に死ぬことはないだろう」という喜びと安らぎを感じた。(中略)「僕は登った。そのうえ生きて帰れる。」/ こんな言葉を何度も胸の中でつぶやいた。それと同時に、過去に経験したことのないくらい自分自身を強く、また頼もしく思えた。』(N1005あたり)成功で得るそうした感覚もこういう挑戦を続ける大きなモチベーションになるだろうな。
 「第四章 ビッグウォール レディフィンガー南壁」大きな垂直の壁を登る。壁の途中でハンモックやポータレッジで吊るされながら寝泊まりするというのは大変そうだし、地面ないところで眠るというのは想像するだけで怖い。レディフィンガー、女性の指と呼ばれるほど細く鋭い、登頂が難しい壁への挑戦。妻の妙子さんと中垣大作さんと一緒に挑戦して、パートナーと登る楽しさを知る。
 「第五章 死の恐怖 マカルー西壁とマナスル北西壁」雪崩に呑まれて身体が埋まってしまい、身体が埋まっていなかった妻の妙子さんに助けてもらったというエピソード、両者の視点で書かれていることや、二人の絆が描かれているのがいい。
 『不死身だったら登らない。どう頑張っても自然には勝てないから登るのだ。』(N1650あたり)死の恐怖が登山の魅力の一つ。その不可能性を経験や集中力、人間の肉体的・精神的・知的な力を総動員して可能にすることがいいのだということか。
 「第六章 夢の実現 K2南南東リブ」無事K2に登頂。
 「第七章 生還 ギャチュン・カン北壁」夫妻そろって東証で手足の多くの指を失った登山の記録。この章では妻・妙子さんの手記が挿入されることが多い。
 眼球が凍ったのか視界が霞が買ったようになって見えなくなってくるというのは聞くだけでも恐ろしい体験。『「もう目が見えないんだ」/「私もさっきから見えにくくなっているの」』(N2289)という会話を端から聞くだけでも絶望感があるのだけど、それを絶望せずにできることをしっかりとやって生還するのだから本当にすごい。