平清盛と後白河院


 kindleで読了。
 平清盛が一門の家督を相続しても父忠盛の正室池禅尼とその子頼盛や、後の清盛の嫡男重盛など独自行動とる非主流派の有力者が存在していた。重盛は、高倉天皇の母の姉時子の子である宗盛の嫡男が破格の官位を与えられるなど、嫡流の座が怪しくなる。そうなったことで重盛が院近臣藤原成親と接近して、後白河の信任を得る。『この結果、後白河は時として彼の独裁を掣肘する平清盛に頼らずとも、院政の維持が可能となったのである。』(N1587)
 清盛は気を使って色々と重盛を引き立てて一門分裂を避けようとしていた。それでも高倉と宗盛らの主流派に対して、後白河院に近い非主流派があった。非主流派も清盛には従順なので、清盛が生きているうちは平気だが、清盛の死後は分裂の危機があった。
 ちなみに頼盛はどちらでもなく八条院に近い立場であった。
 そんな一門の内幕、意外で面白かった。平氏といえば平家物語の「この一門にあらざらむ人は皆人非人なり」や壇ノ浦での一門全滅の印象から、平氏一門は一枚岩だという印象が強いから一門内部でのそうした亀裂、対立について詳しく書かれているのを読むのは新鮮さもあって、面白かった。
 著者が書くこの時代の細かい政局、政争模様はやっぱり面白い。

「第一章 初の接点保元の乱
 保元の乱で清盛が最初は動員されなかった理由としては、彼の継母で父忠盛の正室池禅尼は、崇徳の皇子である重仁親王の乳母であったことがあげられる。なぜなら『乳母とその夫は。仕える貴人に対し、保護者として忠誠を誓う存在であった。』(N177)
 近衛天皇の夭折で開かれた後継者を決める議定。鳥羽院崇徳院の皇子重仁親王、崇徳の弟雅仁親王の子守仁王のいずれかの即位を考えていたが、重仁親王が本命と思われていた。しかし『崇徳院政を嫌った美福門院の意向で重仁が否定され、雅仁の乳母夫として権力の座を目指した信西の策謀で雅仁の即位が実現したと考えられている。』(N362)
 そして保元の乱が起きる。保元の乱の時に、平清盛の父・平忠盛正室である池禅尼の子平頼盛は母からの命で清盛側について参戦する。そのことで伊勢平氏は源氏と違って大きな分裂を避けられたが、『清盛に対立しようとする頼盛や、さまざまな政治的関係を有した一門が併存することになり、清盛の立場を制約することにもなった。』(N501)

 「第二章 清盛の勝利 平治の乱
 ○藤原信頼
 『伊勢平氏と姻戚関係を結び、平泉藤原氏河内源氏を従えた信頼は、まさに武門の中心というべき存在であった。平治の乱の直前、関白忠通は長男基実と信頼の娘を結婚させている。信頼滅亡後、基実が清盛の娘と結婚したことからも明らかなように、この婚姻には、保元の乱において滅亡した源為義一族に代わって、信頼の武力を摂関家領の官吏に用いようとする目的があったのである。のちに清盛は摂関系の武的後見人として、政治中枢への介入を実現した。信頼も、摂関家を貢献し自由に操ることで、大きな権威と権力を有したことは疑いない。』(N596)実力者であり、院の親衛隊長のような立場である院御厩別当にも就任していた。そして『当時の人事には政治の中心であった信西が深く関与していたから、信頼の能力は信西も評価していたことになる。』(N606)
 当時『広汎に反信西派が出現した背景には、新興の信西一門の躍進に対する伝統的院近臣家の反発があった。』(N621)彼とその息子たちが伝統的院近臣家の特権を奪取していったことへの反発。そして信西が息子の藤原成範と清盛の娘を婚約した。そうして平氏信西が結ぶと信頼の立場が低下し、反信西派による政権奪取の目もなくなる。
 信頼の武力を頼った関白忠通が彼の妹を嫡男の室とした。『ここで信頼は、武力を背景に後見として摂関家を操縦できる立場を得たのである。信頼が、権威が脆弱で、しかも信西とも強く結合する後白河院政を継続するよりも、関白を通して政務に介入しやすい二条親政を望むようになったのも当然といえる。これを機に、信頼は後白河院政派から親政派に転じることを決意したと考えられる。』(N682)後白河自身は信西一族よりも信頼を頼っていたのだが、それを裏切って二条親政派に鞍替え。

 ○平治の乱
 『信頼は、親政派の藤原経宗・同惟方らと連携して政変を敢行した。たしかに反信西・二条親政の実現等で、政治方針は一致したものの、新政権における主導権をめぐって、鋭い対立も存した。すなわち、関白就任の野望を持つ経宗、天皇の腹心として政務主導を目指す惟方らが、信頼の主導権を容認できるはずもなかった。』(N716)
 そうした状況下で『まず動いたのは内大臣藤原公教であった。先述のように、彼は後白河を擁立する王者議場の出席者で、信西の息子俊憲を婿に迎えていた信西派の公卿である。当然、信頼に怒り心頭となっていたが、彼は冷静に情勢を分析し、二条親政派の経宗・惟方らと信頼の疎隔を見抜き、彼らと平清盛を結合させた。そして、二条天皇六波羅脱出を実現させることになる。』(N740)そうして清盛は二条天皇を擁することで決定的な優位に立つ。

 ○頼朝の助命
 『この助命は単なる池禅尼の仏心や清盛の油断の結末ではない。助命の裏には、頼朝が側近として仕えていた後白河院や、院同母姉上西門院の働きかけがあったと考えられる。彼らは待賢門院に仕えていた院近臣家の出身で、忠盛の後家として家長代行の立場にある池禅尼を通して、清盛に圧力を加えたのである。
 頼朝と後白河は対立的に理解されることが多いが、実際には義経問題を除けば、両者は協調関係を保っている。頼朝は後白河の恩義を忘れることはなかったのである。』(N751)

 ○平治の乱の最後の勝者となった清盛
 兵乱終息後の経宗・惟方の圧力に対して、平治の乱で頼れる腹心信西・信頼・義朝を失った後白河は平清盛に彼らを罰するように頼む。経宗・惟方は『信頼・義朝討伐の立役者ではあったが、同時に信頼と並ぶ反信西派の中心であり、信西を死に追いやった事件の首謀者だった』(N821)ということもあり、清盛はその頼みを実行する。
 『かくして、平治の乱以前に大きな勢力を有した信西一門、院政派・親政派の中心は全て壊滅した。そして清盛は、後白河によってもたらされた経宗・惟方逮捕の機会を利用して、最後の勝者となったのである。単なる武士の第一人者から、国家的軍事警察権を独占し、国政にも大きな影響をもつ、廷臣の第一人者へと、大きく脱皮を遂げるのである。』(N834)平治の乱で清盛と親政派を結合させた内大臣藤原公教は乱の翌年に死亡している。
 改めて考えてみると政権の中枢や、その対立派閥の有力者がそんなにごっそりといなくなるってすごいな。そういう意味で清盛が躍進できたのは運もあったのだな。もちろんそれが後の一門の破滅につながるのだから、必ずしも幸運とはいえないのだけど。

 「第三章 協調への道 後白河院政の成立」
 ○二条天皇
 後白河院二条天皇、互いに有力な近臣を失ったことによる共同政権。しかし後白河が滋子との間に新たに皇子をもうけたことと、滋子の兄時忠(平家物語で「この一門にあらざらむ人は皆人非人なり」と言った人)の失言もあり後白河院政は停止。二条親政となる。
 二条親政には『清盛も二条天皇の乳母夫であり、正当な帝王二条を支持する立場にあった』(N956)ため賛成。しかし二条が後継者なく死亡する場合に備えて、後白河院に対しても経済面で奉仕はしていた。

 ○清盛と後白河院の蜜月、そして
 清盛は娘婿となった摂関家の摂政基実を通じて政治を動かしていたが、彼が若くして死亡する。摂関家領を新たな摂政基房に渡さず、基実の嫡男基通が成人するまで、正室の盛子(平家)が管理する。清盛はその押領で大きな利を得たが、それを院宣を出して公認したのが後白河院。これは『摂政基房を無力化して、摂関家による六条天皇の支援を阻止したことに他ならない。清盛との連携、摂政の政治的地位の低落によって、後白河院政の実現が確実なものとなるのである。』
 さらに後白河は清盛を大臣する。この一件で清盛は経済的な力も政治的な地位も大きく伸ばした。
 『平氏と後白河との連携が、平氏一門による高位高官の独占を招き、さらには後白河側近に対する抑圧という事態をも惹起しようとしていた。そのことが、藤原成親をはじめとする後白河側近の不満を生ずることにもなる。そして、何よりも平清盛の制約を受け、院としての独裁が実現できないこと、そして高橋昌明氏の指摘するように、院の最大の権限である皇位決定権が清盛に制約されたことが、後白河自身の憤懣にもつながるのである。こうした動きが、やがて後白河と清盛との協調を破砕することになる。』(N1310,1323)

 「第四章 重盛と成親」
 ○平重盛、立場の動揺と成親との接近
 清盛の嫡男平重盛は優秀な武人で平氏軍政の中心。高倉天皇即位して、その母である平滋子(建春門院)の姉である時子の子宗盛らの力が増す。『もちろん、重盛の室藤原経子が高倉の乳母として、即位後の八十島祭使に選ばれているし、入内に際し徳子を重盛の養女とするなど、清盛は重盛と高倉や徳子とを結合させ、平氏の分裂といった事態の抑制につとめていた。しかし、後白河は、時子所生の宗盛や、その一族を優遇し、重盛の立場を動揺させることになる。』(N1345,1364)父清盛は彼を引き立てて、一門分裂を避けようとするも、後白河の宗盛流の優遇で立場が動揺する。
 『窮地を脱すべく、重盛が講じた手段は藤原成親との連携の強化であった。』(N1461)

 ○藤原成親
 藤原『成親は莫大な財力で院に経済奉仕を行うとともに、平重盛と連携して武力を結集し、下北面や地方武士をも統率して院を武力で支える存在でもあった。(中略)こうした成親との提携もあって、重盛は次第に窮状を脱し、後白河の信任を回復することになる。』(N1534,1547)

 ○後白河の信任を得た重盛
 重盛は1174年7月右近衛大将に就任。清盛は重盛を優遇して一門の分裂を抑止する意図があり、また武士としても高く評価していた。
 『平氏でも最精鋭ともいうべき、重代相伝の家人平貞能伊藤忠清らを統率する重盛の武力は、一門内でも抜きんでた存在であり、後白河院政を支える最大の武力基盤となっていた。こうした活躍を通して、重盛は院や清盛の信任を得たものと考えられる。(中略)後白河・清盛の協調を背景に、重盛は両者の深い信任を得たのであり、まさに得意の絶頂に立った。こうした重盛を支えたのが成親との提携であり、軍事の中心たる重盛の存在を人々に強く印象付けた、武士としての活躍だったのである。
 先述のように、後白河は清宗に破格の官位を与え、平氏嫡流を宗盛流に移行させることを天下に明示した。後白河と清盛、そして平氏の時子流が結合し、宗盛以下の子供たちを中心とする新たな王権が形成されるはずであった。しかし、武門の中心重盛と、後白河院最大の寵臣成親との提携は、そうした流れを押しとどめたことになる。こうして高倉即位、徳子入内という後白河と清盛との連携が頂点に達したまさにその時、政界には深刻な亀裂が生じたのである。
 すなわち、政界には平清盛や時子の子息たちのように、高倉・建春門院の権威に依拠とする者と、藤原成親平重盛をはじめとする、後白河の権威に直接結合するものとが並立するに至った。このうち、後者こそが、清盛らと異なり、後白河を支え、彼の思う通りに動く腹心ともいうべき存在だったのである。後白河は、平治の乱やその後の政争で失った腹心を再び獲得したことになる。この結果、後白河は時として彼の独裁を掣肘する平清盛に頼らずとも、院政の維持が可能となったのである。』(N1571,1574,1587)嫡流から外されかけた平重盛藤原成親に接近したことで、後白河が清盛に頼りきらずに政治活動できる余地を与えた。

 ○平氏の次世代にあった分裂の危険性
 そして『平氏一門の内部においても、主流となった清盛・時子系統に対抗するかのように、重盛を中心に後白河に近い勢力が結束する兆しがみられた。その一例として、重盛・教盛、経盛が、知行国支配について相互に依存していたことを指摘できる。』(N1591)そうはいっても非主流派も清盛には従順で清盛が生きているうちは平気だが、その後に分裂の危険があった。

 「第五章 権大納言惨殺 鹿ヶ谷事件」
 ○鹿ヶ谷事件と重盛の失意
 流刑とした明雲奪還に対する報復による延暦寺攻撃。後白河の命が出る。そのときに清盛を害す計画(鹿ヶ谷事件)があり、清盛はそれに対する苛烈な対抗措置をとる。藤原成親ら院近臣を処罰。後白河院がその計画に関与していたから公的処罰ではなく私刑となったみたい。事件後に政治の中心は高倉天皇に移る。
 鹿ヶ谷事件で成親らが処分されたことで平重盛は政治的に大きな打撃を受けた。そして『政変直後の六月五日、彼は武門の最高峰を意味する左大将を辞任した。これが成親との連携の責任を痛感した結果であることは明白である。』(N2048)
 彼は事件後気力や体力も衰え、翌年の死に繋がる病気もあって、安徳の東宮傅に押されるもそれを辞退する。『後白河と清盛の対立は安徳生誕をきっかけに激化してゆくことになる。そしてまさに板挟みとなった重盛は、無力を痛感するなか「トク死ナバヤ」という絶望的な心境に立ち至ったのである(「愚管抄」巻第五「高倉」)。』(N2089)

 ○東国の乱、東国武士と平氏
 清盛は頼朝挙兵の前年に東国下向して、直に接することで東国豪族に対する統制強化を狙った。しかし治承三年の政変で下向計画は消滅。東国を棚上げして福原遷都のために西国武士との結合を強めることを優先した。
 『東国で大規模な反乱が勃発した最大の原因は、治承三年の政変の結果、平氏後白河院や院近臣から東国の知行国を奪取し、平氏家人に依存して国内支配をおこなおうとしたため、院や院近臣と結んで活動してきた従来の在庁官人との軋轢を生じたことにあった。』(N2143)

 「第六章 後白河院政停止」
 ○後白河院政停止
 後白河が重盛死亡後に彼が長年知行した越前国を後白河の知行国にしたことり、平盛子没後に摂関家領荘園を取り上げようとした。前者では後白河は越前は院近臣の知行国でそれを平重盛に与えていたという風に考えていた。後者では清盛は高倉天皇の後院領とすることで、実質的な支配を継続しようとしていた。それらのことで清盛は激怒し、後白河院政停止となる。
 治承三年政変で清盛は高倉院、安徳天皇、摂政藤原基通という体制で、新たな王権の成立させようとした。しかし高倉も19歳で関白基通もそれまで散位だった。そして平清盛の嫡男宗盛も室の死亡後に公職を辞している状態で、政をしっかりと行うための人材がいなかった。

 ○以仁王挙兵
 以仁王は檄文で八条院の養子ということでなく、一院第二皇子と後白河の皇子ということを強調した。彼は『かつて、以仁王は後白河から見限られ親王宣旨も下されないなど不当な扱いを受けてきた。八条院とともに後白河院政を阻止すべき立場にあったといえる。その彼が、後白河に対する清盛の攻撃を厳しく非難したのである。清盛の攻撃を受けて院政を停止されたために、後白河は八条院以仁王からも帝王としての正当性を認められたことになる。』(N2346)平清盛に攻撃されたことが逆に後白河の正統性を高めた。

 「終章 闘いの決着」
 ○平宗盛
 清盛の死後に平氏の新たなる棟梁となった宗盛は三十五歳。彼は伯母建春門院の庇護を受けて、彼の嫡男は後白河から破格の官位を与えられた、そして異母兄に対抗して平氏嫡流を期待されるようになった人物で、武人肌の異母兄重盛と違って文官の素養があった。
 しかし宗盛は『後白河を排除し、徹底的に院政を否定しようとした父清盛の態度を、宗盛は快く思っていなかった。むしろ、それが政治混乱の原因とみなしていたのではないか。』(N2705)そのため宗盛は父が治承三年政変で作ろうとした平氏政権が消滅し、父が否定した後白河院政が復活する。
 そうして政権返上をして『和平提案を「しかるべし」(もっともだ)としておきながら、宗盛は父の遺言を理由に後白河の命(勅命)を拒否して追討を継続したことになる。』(N2769)
 後白河にとって安徳天皇は孫だが、後白河を幽閉して清盛が即位させた天皇で対立する王権。宗盛はそのことや、追討に固執して後白河の命を無視することで後白河の権威を傷つけられたことからくる後白河の平氏への敵意が読めていなかった。だから都落ち時に後白河は平氏から逃れた。