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deku_decさんの読書メーター

2018-05-05 図説 金枝篇 下

図説 金枝篇 下

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 上巻を読んでから、下巻を読むまでかなり間を空けてしまった。各部の最初に、その部で書かれることの概略が書かれているのがいいね。

 ○神々の結婚と死と再生の神話とそれを模倣した儀式

 『人々は、季節の変化、特に植物が毎年生育し枯れ死することを、神の生涯に起こる挿話的な出来事としてとらえ、その悲しい死と喜ばしい復活を、悲劇と歓喜で表す聖劇の形の儀式にして祝っていた。しかし、その祝祭は、聖劇の形をとっていたとしても、本質には呪術であった。つまり、その呪祭の意図は、冬の訪れで危険に晒されたかにみえる植物が春に再生し、動物が繁殖するのを、共感呪術によって確かなものにすることにあったのだ。』(P53)

 『ヘブライの王たちの歴史をみると、歴代の王が神の、それもこの国の神であるアドニスの役割を演じてきた痕跡あるいは名残と解釈できるいくつかの特徴がみられる。』(P29)

 古代地中海沿岸地域の人々が崇拝した神アドニスは植物とくに穀物の神だった。そして『西アジアギリシアの各地で行われていたアドニス祭では、毎年、主に女たちがアドニスの死を激しく嘆き悲しんだ。死装束のアドニスを、埋葬地に向かうときのように担ぎ、海または泉に運んで投げ込んだ。さらに翌日、アドニスの復活を祝う地方もあった。』(P38-9)

 そのように『女たちが毎年、嘆き悲しんだアドニスの死は、自然の生命をふたたび活気づけるために王を死に至らせるという慣習の反映であることもあきらかになったのではないだろうか。』(P38)アドニスと森の王は、『自然再生産力を保持するために死ななければならなかったという点』(P16)が共通する。

 ○災厄転化の儀式

 多くの国で見られる『災厄をおおやけの儀式によって追い払う慣習をざっとみてきたが、全般に共通する点がいくつかみられる。』(P142)

 その共通する点の中の一つの『神格をもつ人間か動物を身代わりにする点がとりわけ注目に値する。(中略)人々の罪と悲しみをその身に引き受けて運び去るために、なぜ死にゆく神が選ばれなければならないのか。それは、神を身代わりに用いる慣習がかつてはまったく別個の独立した二つの慣習の合わさったものだからである。これまで見てきたように、一方には、神の命が老いて弱っていくのを救うために人間神や動物神を殺す慣習があった。また他方では、やはりすでに見てきたように、毎年一度、災厄と罪の総祓いをする慣習もあった。』(P145)本来は二つの慣習は別で、『死にゆく神が殺されたのは、本来は罪を取り除くためではなく、老いて衰えていく神の命を救うためであった。ところが、とにかく殺される運命にある死にゆく神なのだからと、自分たちの苦しみや罪を背負ってもらうのに、この機会を逃す手はないと人々が考えたとしても無理はない。』(P145)そして災厄の排除と豊穣祈願の2つの意味を持つ儀式となる。

 ○身分の低いものが王や主人に扮する祭りと、短期間の仮の王のいけにえ

 ローマのサトゥルナリア祭では、祭りの間は奴隷が主人を罵ることが許され、そして『主人と奴隷の地位が逆転して、主人が食卓で奴隷の給仕までする。』(P169)

 聖ダシウスの殉教物語に残っている伝説によると、ローマ兵は下モエシアのドゥロストルムで毎年サトゥルナリア祭の三十日前にくじで仲間から一人を選びサトゥルヌス王の扮装をさせた。王の役の男は三十日の期間中好きなことすることができたが、祭りの日がくると『男は自ら扮する神の祭壇に立ち、わが喉をかき切って果てた』(P170)。バビロニアのサカイア祭では祭りの期間中だけ一人の罪人が専制君主を演じ、本物の王の愛妾たちを自由にし酒色にふけったが、最後には縛り首もしくは磔にされた。

 『もともと、王としての任期は一年限りだったようで、任期が終わると殺されることになっていた。しかし、やがて王は力ずくあるいは策略によって、その統治期間を延ばそうとはかり、ときには代理に王をたてて、短期間だけ名目上の王座をゆずったあと、その代理の者を自分の身代わりに殺させたのである。最初は神格をもつ王の代理を務めるのは、やはり神格をもつその息子だったと思われるが、後にこの掟は守られなくなり、さらに時代が過ぎると、慈悲の心が生まれ、犠牲にするのは罪人にすべきということになった。(中略)神格の堕落はとどまるところを知らず、犯罪者でさえ縛り首や火あぶりにされる神の化身としてはもったいないと考えられるようになり、しまいにはいささかグロテスクな人形をつくり、それを哀れな代理に仕立てて、神として縛り首や火あぶり、その他の形で破壊するしかなくなる。』(P197)

 ○森の王の後任者が金枝を折る意味

 なぜネミの祭司(森の王)は、後任者が前任者を殺す前に聖樹(オーク)の金枝を手折らなければならなかったのか。

 『ヤドリギにはオークの生命が宿っているとみなされていたので、そのヤドリギが無事でいるかぎり、オークを殺すのはもちろん、傷つけることすらできなかったのだ。』(P269)霊魂を体の外の安全な場所にしまうという考えは多くの民族に見られるものであり、冬にオークの葉が落ちた後もヤドリギが青々としていることからそのような考え方が生まれたのだろう。そしてヤドリギが金枝と呼ばれた理由は『たぶん、切りとったヤドリギの枝を数カ月おいておくと、見事な金色がかった黄色になるからだろう。その鮮やかな黄金色は葉だけではなく茎にまで及び、枝全体がまぎれもなく「金枝」にみえるようになるのだ。』(P291-2)

 オークの樹木の化身であった森の王の後任者が金枝を手折らなければならなかったのは『オークの樹霊である「森の王」の命または死はヤドリギに宿っていたのであり、そのヤドリギが無事であるかぎり、「森の王」も、バルデルの場合と同じように、死なずにすむのである。だからこそ、「森の王」を殺すには、やはりバルデルの場合と同じように、その枝を投げつけなければならなかったのだろう。』(P289)

2016-10-08 図説 金枝篇 上

図説 金枝篇 上

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内容(「BOOK」データベースより)

イタリアのネミ村の祭司は、なぜ「聖なる樹」の枝を手にした者と戦い、殺される宿命にあったのか。この謎を解くべく、イギリスのフレーザーは四十年を費やして全十三巻の大著『金枝篇』を著した。世界各地の信仰と習俗を蒐集した民族学必読書であり、難解さでも知られるこの書を、二人の人類学者が読みやすく編集した「図説・簡約版」の日本語訳。

 13巻と長大な本の中で、数多の例証に埋もれて見えにくくなっている「殺される神」という主題がわかりやすいように1巻(邦訳は上下巻)編集したもの。省略した例は多いが、文章に手を加えているわけではないようだ。

 ただ、各部のはじめに1ページで、どういうことが書かれているかの概略が書かれていて、それが非常にありがたい。

 ローマ近郊のネミの村にあった「森の王」と呼ばれる神殿の祭司にまつわる一見奇妙・異様とも見える慣習。それについて世界のさまざまな例証をあげながら、その慣習にはどういう意味を表しているのかだったり、それが普遍的で呪術的なものであるかが書かれている。

 冒頭のメアリー・ダグラスの序文によると『ネミの祭司も、ヤドリギの枝さえも、フレーザーに『金枝篇』を書かせたそもそもの動機あるいは第一の目的ではなく、巧みな語り部が操る手品の小箱なのだと思う。この本の冒頭と最後を飾るディアナの祭司と北欧神話の神バルデル(バルドル)は、ヘンリー・ジェームズのいう「操り糸」なのだ。この神話の構造がすっかり明らかにされる前に、読者がその構造を感じとれるように、物語をしっかりつなぎ合わせるための必要な意図なのである。』(P20)

 ○ネミの祭司の継承の慣習。

 『ローマ近くにネミという村があった。その村には、古代ローマの時代より森と動物の女神、豊穣の女神ディアナと、ディアナの夫ウィリビウスを祀った神殿があった。この神殿では、男は誰でもその祭司になり、「森の王」の称号をえられるというしきたりがあった。ただし、祭司になるには、男はまず神殿の森の聖なる樹から一本の枝――「禁止」――を手折り、それでときの祭司を殺さなければならなかった。こうしてこの神殿の祭司職が継承されてきたのである。祭司になるのに、なぜ時の祭司を殺さなければならないのか? なぜまず聖なる樹の枝を手折らなければならないのか?この二つの疑問にたいする答えをもとめるのが本書『金枝篇』の目的である。

 いずれもそう単純に答えの出る疑問ではない。そこで、フレーザーはこのネミの慣習に類似する例を集め、比較検討している。古今東西、似たようなしきたりが存在した事実を示すことで、古代の人々の心の動きを理解し、そのうえでネミの祭司職継承の掟を明らかにできるのではないかと考えていたからである。』(P39-40)

 その『ローマ衰亡のころまでネミで行われていた慣習』(P55)では、『ネミの聖所には一本の樹があり、その枝は一枝たりとも折ってはならないとされていた。ただし、逃亡してきた奴隷だけは、枝を一本折れるなら折ってもよかった。首尾よく枝を折りとった奴隷は、祭祀と一騎打ちする資格が与えられ、その戦いで相手の祭祀を殺せば、代わって「森の王」として治めることになった。』(P57)

 ○神殿に祭られる神、そして神の化身としての森の王。

 ネミの神殿では祀られていたディアナは豊穣の女神で、多くの社会で樹木に豊穣の力が宿るとされていた。そして古代欧州ではオークがその意味で最も重要な樹木とされていた。そのためディアナの聖なる樹はオークとされる。

 またネミの神殿でディアナと共に祀られるウィルビウスは、ネミではオークの神であり天空神ユピテルの化身で、ユピテルが人間の姿をしたのが森の王である。

 『要するに、「森の王」たる人間は、その聖なる森のディアナを神妃としていたわけだ。』(P77)

 ネミの祭司は森の王と呼ばれているが、『共和国アテナイでも、その年の第二執政官は「王」と呼ばれ、その妻は王妃と呼ばれており、いずれも宗教的な技能を果たしていた。ギリシアの民主国家には、アテナイのほかにも肩書きだけの王のいる国家が数多くあった。その王の職務は、現在わかっているところでは、祭司的なもので、もっぱら国家の「共同炉床」を司っていたらしい。』(P79-80)つまり、森の王はそうした意味での王

 ○奇異に見えるネミの慣習は呪術的に考えると、理解ができる

 そして『『金枝篇』全体を通して、フレーザーの関心は、原始的なものの考え方がどのような形で世界を支配・統制しようとしているかという点に注がれている。フレーザーによれば、因果関係――一つの事柄が別の事柄に影響を及ぼすこと――の問題を明らかにする鍵は二種類の関連性にあるという。一つは類似性、すなわち、原因はその結果と類似しているという意味での関連性である。たとえば、相手に害を与えたいと願う者は、乗ろう相手の姿に模した人形に害を加え、それが相手に跳ね返って害を与えることを期待する。もう一つは連続性、すなわち、かつては一緒で、後に別々になった二つの者は引き続き互いに影響をおよぼしあうという意味での関連性である。この場合は、相手の姿に模した人形ではなく、むしろ相手の個人的な持ち物に害を加える。』(P40)

 『「類似の法則」に根ざした呪力を「類感呪術」あるいは「模倣呪術」と呼び、「接触あるいは感染の法則」に根ざした呪力を「感染呪術」と呼んでもよい。』(P84)共感呪術は類感呪術(模範呪術)と感染呪術とに二分される。

 ○呪術の歴史的な役割

 呪術が公的な役目を担うことになると、『民衆の安寧がこれらの呪術儀式によって左右されるとなると、呪術師は大きな影響力をもち、辛抱を得る立場に』なる。そうして少数の人間あるいは一人が権力を手に入れて、君主制・寡頭制になる。『こうした変化は、その原因が何であれ、古代社会をだれが支配していたにせよ、全体としてみればきわめて有益な変化であった。君主制の誕生は人類が未開の状態から抜け出すための必須条件だったと思われるからだ。人類の歴史で、民主的な未開人ほど慣習と伝統でがんじがらめになっている人々はなく、その結果、そのような社会は進歩が遅れ、進歩しにくいものだからである。』(P110)『だから、呪術という公的職能は、もっとも有能な人間が最高権力の座に就く手段の一つだったことで、人類を伝統の枷から解放するのに貢献し、人類はもっと自由な暮らしができるようになったのである。』(P111)

 ○近代ヨーロッパにも残る、ネミにも通じるような植物崇拝的な行事。

 近代ヨーロッパでも春に、木を切って持ち帰りその木の枝を各戸で飾ったり、あるいは「五月の樹」を立ててその下で陽気に騒ぐ(プロヴァンス地方)、花や季節の果物で飾った小さな糸杉を持った少女が各戸を訪れ葡萄酒をふるまってもらう(ギリシアのコルフ島)、「緑のゲオルグ」に扮した若者あるいは木像を川などに投げ入れて雨を願う、または木の葉をまとった人物が結婚相手を探してその格好のまま待ち、それで出会い結婚すると「五月の花婿」と呼ばれるなどというようなかつての植物崇拝の名残を感じる行事がある。

 『ネミの聖なる森で、人々は人間である「森の王」と神である「森の女王」ディアナの結婚を、「五月の王と王妃」の結婚のように毎年祝っていたのではないかということだ。』(P168)仮説。

 ○神の化身たる聖なる王

 『彼らは王として生まれて統治していたのではなく、神の代理あるいは化身として神格をもって納めていたと考えられる。また、そうした神格を備えていたからこそ、女神と結ばれたのであり、さらには、神としての役目を果たすのにふさわしい者であることを、折にふれ証明してみせなければならなかったのだろう。そこで、彼らは肉体をかけて過酷な戦いに挑み、しばしば命を落とすはめになり、戦いの勝利者に王冠を譲り渡すことになったに違いない。』(P169)

 神の化身たる森の王と豊穣の神ディアナとの結婚には、類感呪術によって植物の育成を促す目的があった。

 『のちにはその栄光をはぎとられ、零落したとはいえ、ネミの「森の王」が代々続く聖なる王を代表する存在であったと考えても、あながちはなはだしく無謀とはいえないだろう。ネミの「森の王」は、かつて人々がさまざまな祝福を与えてくれると信じて、崇拝されるだけでなく恭順すら示してきた代々の聖なる王の継承者だったといってもよい。』(P180)

 『「森の王」という称号が明らかに示しているように、彼が仕えるのは森そのものの神である。彼を襲うことができるのは、森の特定の樹の枝を手折った者だけだということから、彼の生命はその聖なる樹と切っても切れない関係にあったと言える。このように、ネミの祭司はアーリア民族の崇めるオークの神に仕えていただけでなく、その神の化身でもあった。そして、オークの神として、エゲリアとかディアナと呼ばれるオークの神とめあわせられた。』(P182-3)

 ○神の化身が何故殺されるか。

 神の化身は強力な呪力を持つ。そしてその呪力で恵みをもたらす。

 しかし人間神が老いると崇拝者は対処する必要がある。『なぜなら、自然の運航が個の人間神の命に委ねられているとすれば、その力がしだいに衰え、ついには力つきて死んでしまったら、どんな悲劇的な結末が待ちうけているかしれないのである。このような危険を回避する道は一つしかない。人間神の力に衰え賭けた兆候が見えたら、たちどころに殺してしまわなければならない。そして、その霊魂が迫りくる衰えによってひどく損なわれないうちに、元気な継承者に移してしまわなければならない。』(P238-9)

 ネミの森の王以外にも、『カンボジアの神秘的な「火の王」と「水の王」は、自然死を遂げるのを許されない。そこで、これらの王が重病になり、回復はおぼつかないとなると、長老たちが刺殺してしまう。コンゴ族には、チトメと呼ぶ大祭司が自然史を遂げると、この世は滅亡し、その力と功徳で支えられてきた大地はたちどころに崩壊してしまうと信じる人たちがいた。そこでチトメが病いに倒れ、回復の身いこみはないとみるや、その継承者となる定めの男が、縄か棍棒をもって、そのチトメの家に行き、絞殺するか撲殺した。』(P239-40)

 そして『シルック族の王は、衰えが始まった兆候が現れると、相応な儀式で殺されることになっていた。そればかりでなく、まだ健康も力も盛りにあるときですら、いつなんどき競争相手に襲われるやもしれず、そのときは死をかけて戦い、王座を守らなければならない。』(P243)

 『いずれの場合も、代々の聖なる王の命が人間や家畜や植物の豊穣を左右するとしんじられており、その王が一騎打ちにしろほかの形にしろ殺されるのは、その聖なる霊を病気や老齢によって弱ったり衰えたりした王から活力あふれる継承者に移すためであり、それは、王が弱れば人間や家畜や作物も弱るのだと崇拝者たちが考えたからである。』(P245)