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2016-09-15 御曹司たちの王朝時代

御曹司たちの王朝時代

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御曹司たちの王朝時代 (角川選書)

御曹司たちの王朝時代 (角川選書)


内容(「BOOK」データベースより)

光源氏の友人たちも、こんな感じに生きていたのだろうか。王朝時代に実在した名門貴族家の御曹司たちが関わった24通の手紙からは、宮中の職務をさぼったいいわけ、関白邸での待ち合わせの約束、遊興への参加の強要、仲間外れへの恐怖など、華麗な王朝イメージとは違った人間くさい暮らしぶりがかいまみられる。優雅な人柄と思われがちな御曹司たちの実像を描き出した試み。


 kindleで読了。

 「雲州消息」という王朝時代に編纂された当時の上流・中流貴族たちの間で交わされた手紙が収録された書簡集から、そこに収録されている多くの手紙が現代語訳(原文と読み下し文もある)にして紹介されている。現代語訳してくれているのは、とてもありがたい。そして 手紙ごとに当時の物事(官職や習慣)などの説明や手紙の解説がされているので読みやすいし、手紙を書いた人の個性も見えて面白い。

 平安時代の名門貴族の御曹司の手紙を見ながら、当時の彼らにはどういう気苦労や楽しみがあったかなどが書かれる。

 非常に優雅で、苦悩とは縁遠くイメージされることのある王朝貴族だが、彼らは貴族であるとともに、官人でもあった。そのため宮仕えであるが故の悲喜こもごもや喜怒哀楽があった。そうした人間らしい悩みや気苦労、そして楽しみなどが書かれている。

 「源氏物語では大臣家の御曹司だったが、この絵中量を持して受領になった明石入道は変わりものと扱われているが、現実世界では右大臣藤原実資の子藤原資頼や権大納言藤原行成が受領として受領(中級貴族)として生きる道を選んだように、名門貴族家出身で公卿(上級貴族)の道でなく、受領の道を選ぶ人も珍しい存在はないとのこと。

 公卿は受領と私的な主従関係を持つことでその経済力を高い水準に保つことができた。受領は公卿に富を提供したのは権力者による保護を期待してのものである。そのため将来性のない公卿であると、受領とそうした関係を結べず、公卿は名ばかりで困窮することもあったようだ。

 歌会で疲労された和歌は参加されていなかった人々にも批評されることになる。そのため拙い歌を披露してその後肩身が狭くなることを防ぐために代作を頼むこともあった。

 そのように王朝貴族はそうしたことや、暗黙の振興のルールによる交友、交遊の煩わしさなどもあって、『ときとして遊興に出かけてさえ、場合によっては、所謂「付き合い」で遊びに出たときの現代人と同様、必ずしも楽しんではいなかったのである。』(N2415あたり)。そのように御曹司には御曹司ならではの生きにくさもあった。

 何事もなくても日参することが奉公といった奉公観があった。そうしたこともあって関白朝廷の事実上の最高権力者である時には、関白邸への出入りをゆるされると、それ以降は毎日関白邸に顔を見せなければならなかった。

 牛車を牽く牛は、その角の大きさによって評価されていた。そして『当時、名門貴族家の御曹司でさえ、牛車用の牽き牛は、一頭しか持っていなかったらしい』(N3585あたり)というのはちょっと意外。

 長谷寺に行くのに、強盗がよくでることで知られる奈良坂を通る必要があった。そのため従者に武者を加えるために、軍事貴族(後の武家棟梁と呼ばれるような家の人)に依頼して武者を貸し出して貰っていた。

 王朝時代の名門貴族であっても、『自己の経営する荘園からの収入によってその出費の大半を賄っていたわけではない。』(N5510あたり)。あくまで彼らの本質は朝廷に仕える官人で、『朝廷から与えられる棒給によって暮らす給与生活者だったのである。そして、そんな彼らにとって、荘園からの収入と言うのは、副収入として扱われる程度のものに過ぎなかった。』(N5510あたり)。

 あとがきの「雲州消息」は書簡例文集としての本だが、そこに収録されている手紙に冒頭の挨拶に言葉はない。当時は手紙の書き出しを、挨拶の言葉からはじめるという文化はなかったという話はちょっと面白い。

2016-05-30 庶民たちの平安京

庶民たちの平安京

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庶民たちの平安京 (角川選書)

庶民たちの平安京 (角川選書)


内容(「BOOK」データベースより)

これまで、貴族の視点からのみ論じられてきた平安京。しかし、人口の大半を占めていたのは、貴族たちに仕える庶民たちである。彼らは貴族の供をして宮廷に出入りし、儀式を見物するばかりでなく、炊事、造酒、機織、あるいは鳥や魚の調達等、さまざまな職掌に励んでいた。なかでも牛飼童は副業で運送業をしていたのだ。当時の記録類を駆使して庶民生活を明らかにし、王朝時代の大都市の実像を初めて描き出す。


 kindleで読了。

 平安時代の京での貴族以外の庶民の生活の一端を知ることができたのは興味深く面白かった。平安時代の宮廷以外の部分について少しばかり想像できるようになる。そうやって同じ時代の色々な階層だったり場所での生活の違いについての知識を得ることで、その時代が面白く見えてくるよね。

 当時の平安京は10万から20万の人々が暮らしていた。その人々のほとんどは庶民であり、またその多くが『さまざまな種類の従者として貴族たちに仕えていた男女であり、そのような貴族家によって養われていた老人や子供であったろう。』こうした当時の平安京は『朝廷を運営する貴族たちが集まり住むためだけに造られた、産業とは全く無縁の都市』だったので、多くが貴族の従者やあるいは朝廷の官司(官庁)が雇っている者たちとその家族という指摘は目からうろこ

 歴史物語「大鏡」の既述から、貴族の私邸に仕える庶民の少年従者は元服するときに貴族の邸宅でその儀式が行われて、主家の貴族から成人男性としての名前を貰うものだったのかもしれないという話も面白いな。

 五位までが貴族という印象が強いから『正六位上位階を持つ人々までもが、下級貴族としてではあれ、貴族層の一員と見なされるべき存在になっていった。』というのは失念していた。

 平安京庶民たちは、庶民同士でも敬語を用いていた。身分の高い人の所作を真似るというのはいつの時代でもあるが、この時代でもある。そのため驚くべきことではないかもしれないが、平安時代は宮廷とそれ以外の落差激しいという印象が強いということもあって、この時代の庶民はなんとなく粗野なイメージがあったのでわずかに意外性を感じた。

 貴族の従者は主家の貴族に手厚い庇護、時には超法規的な庇護を期待できた。それと同時にその主家に背いたときには苛烈な罰を受ける。

 また『王朝時代においては、貴族家の従者が何らかの罪を犯した場合、その従者を捕らえて検非違使による裁きを受けさせるべきは、検非違使ではなく、問題の従者を召し使う貴族であった。』

 当時、東大寺の雑色(従者)の四割近くが女性だったというのは、寺だというのに意外。そして東大寺の雑色、職掌(担当の役職)があるのが半分ほどで残りの半分は適宜さまざまな雑用をこなす人々。

 左京四条以北は高級住宅地になっていて、上流貴族たちの大邸宅が立ち並んでいた。そうしたところに庶民たちの小屋があって、暮らしていた人々がいた。それは何故かというと、主家の貴族が自邸の周辺に宿舎群としてそうした小屋を用意して、自家の従者たちを住まわせていたから。土地が高そうな場所に市井の人々が住んでいたりするのは何故だろうと以前から疑問に思っていたが、そういう理由があったのか。

 また朝廷が職人や兵士や下働きの下部として雇っている庶民の宿舎も同じように大内裏近くの高級住宅地に宿舎(小屋)があった。

 『続日本後紀』で838年に陰陽寮で働く人の宿舎をたてるときに朝廷が準備した土地は一戸当たり40平方メートルで、そこから『共有の作業場や通路となる面積と炊事や洗濯や沐浴や排泄に必要な庭の面積』が引かれると床面積20平方メートル(12畳)となる。また『左経記』などの長元元年の火事の記事から二町に五百軒の家が並んでいたことがわかり、そのうち半分は少数の貴族の邸宅だろうから、一町に五百軒あったと考えたら1つの家あたりの床面積10平方メートル(六畳強)ほどしかない。そうした小さな家が王朝貴族から小屋・小家・小宅等と呼ばれた。

 王朝時代は庶民層も姓を持っていた。それが地方在住の者でもそうだったが、牛飼童は姓を持っていなかった(公式の場で本来の姓名を用いることができなかった)。

 本書冒頭の内裏での行事中に闖入してきた悪戯な庶民たちの少なからぬ部分は、京在住の庶民の多くが貴族の従者や朝廷の雇われ人であったことからもわかるように、従者として上級貴族などに仕えた人々。

2011-05-18 殴り合う貴族たち

殴り合う貴族たち

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殴り合う貴族たち (角川ソフィア文庫)

殴り合う貴族たち (角川ソフィア文庫)


内容(「BOOK」データベースより)

素行の悪い光源氏たち!?光源氏のモデルの一人となった藤原道長は、官人採用試験の不正を強要、従者に命じて祗園御霊会を台なしにし、寺院建立のために平安京を壊した。これは道長だけの話ではない。優雅なはずの王朝貴族たちは、頻繁に暴行事件を起こす危ない人々でもあったのだ。「賢人右府」と呼ばれ、紫式部も尊敬した小野宮実資の日記を通して、『源氏物語』には描かれなかった王朝貴族たちの素顔を浮き彫りにした。

自力救済世界の中では貴族すらも暴力を振るうことをためらわない、というような話かと思ったけど単に気分とか酒によってという話も多いなあ。敦明親王については、『暴力沙汰を起こすにはそれなりの必然性があった』(P259)とあるけど。

藤原実資の『小右記』が元ネタとのこと。

光源氏という貴公子がいかに理想化された存在であったかがよくわかる。光源氏王朝時代の貴公子の理想像であることについて、これまでのところ、その優れた容姿や豊かな才能などが取りざたされるのが普通であった。だが、実のところは、理不尽な暴力事件を起こさないというただそれだけでも、光源氏は十分に理想的な貴公子と見なすことができるのである。』(P16)ハードル低いなあ。

『当時の権大納言は、今の日本で言うと、国土交通省あるいは経済産業長の大臣や衆議院議長くらいには重要な立場』(P22)『公卿というのは、現代日本の閣僚のような存在』(P28)役職で言われてもなんとなく偉いくらいしかわかんなかったから、今のどのくらいの地位という話があるのは嬉しい。

王朝貴族たちの間では、大臣の居宅の門前を通過することは、それだけで無礼な行為であるとみなされたのである。』(P152)しかし、(牛車や馬に乗ったまま)家の前を通るとそれだけで従者が石を投げてくるって。

『私刑であることは言うまでもない、公式の司法手続きを経ずに科される刑罰が私刑であるが、現代日本では私刑は法律で硬く禁じられている。』「私刑」がはびこるっていうことは、法律がちゃんと機能していないからはびこっているんじゃない。現代日本では、とあるけど当時の法律ではこうした行為は承認されていたのかね?それともそうした法律が規定されてなかったか。

『『吾妻鏡』という歴史書は、政子を頼朝の「妻」賭して扱い、亀を頼朝の「妾」賭して扱う、しかし、鎌倉時代の末期に政子の一族が主導する鎌倉幕府によって編纂された官選の歴史書が『吾妻鏡』である。その『吾妻鏡』が政子と亀を同列に扱おうとしないのは当然のことであろう。

 また、「妻」「妾」の二つの言葉について言えば、源頼朝もその一員であった平安時代の貴族社会においては、この二つの言葉の間に決定的な意味の違いは存在していなかった。むしろ、王朝の貴族男性などは、自身と婚姻関係にある一人の女性を、「妻」とも「妾」とも呼んだのである。やはり、頼朝をめぐる政子と亀の関係は、古妻と新妻との関係として理解していいだろう。』(P265-266)亀も頼朝の妻だったんじゃないかというのや「妻」「妾」に当時はさほど意味の差異はなかったと言うのは知らなかった。

『婚姻届などというものが存在しなかった当時、庶民層の場合はもちろん、貴族層の場合でさえ、その男女が夫婦であるか否かは、本人達がどう思っているかにかかっていたのだ』(P272)