I.原爆症認定訴訟とその画期的意義

原爆症認定訴訟までの経緯


22年前の1987年,日本共産党の専従活動を引退してから,広島および原爆へのこだわりから被爆者の組織をつくる活動を始めた. 被爆者の家庭を訪問し,被爆者と話をする中で,病気で寝ている人,生活に困っている人が多いことにあらためて気付かされた. 例えば観音原爆被害者の会の会員のうち,この十余年間に約40人が死亡しているが,その死因は主に癌だ. 被爆者の病気は医学事典で簡単な答えが見付かるようなものではなかった. 約7年前に肥田舜太郎医師の話を聞き,内部被爆という説明を受けて,被爆者の病気の原因に関して初めて納得がいった


この話を契機に,原爆症認定訴訟をやらなければいけないという思いを強くして、被爆者援護法の研究会に参加した. その中で集団訴訟について議論をしたのだが,広島に二つある広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)の一方だけが当事者という形では訴訟は出来ないということで,両被団協が一緒になって訴訟に取り組むための努力を行った. その際に力になってくれたのが舟橋喜惠先生(広島大学名誉教授)と彼女が代表を務める原爆被害者相談員の会だった. 集団訴訟を支援する県民会議の事務局長に関しては,二つの被団協の坪井理事長(当時,事務局長)および金子理事長に頼まれ,固辞していた私が結局事務局長を引き受けたのが6年半前の2003年正月頃のことだ. 県民会議はその年の4月に正式に結成され,同年6月6日に原告団を結成,12日に広島地方裁判所に提訴した