赤旗海賊版

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44/11/12 (Sun) 祖父の証言 11/21 更新分

(ここまで、2014年9月26日までの更新分)


Q、看護婦募集に応募して来てみたら騙されてパンパン屋にされたという少女に対し、


どのように言ったのか、もっと具体的に?


A、『俺たちゃ命がけの仕事に引っ張り出されて、


いつ死ぬか分からないような仕事をさせられているんだ、


おめえらは男と遊んで金もらえるんだから良い商売じゃねえか、


日本に逆らったら殺されるんだぞ、慰安婦やりなさい、


おめえらは日本の兵隊のために役に立っているんだから、


不満を言うなんて間違ってるぞ』などと言った。


Q、それは、当時の兵隊はみなそのように思っていたのか。


慰安婦を強制することを悪いことだと思っている兵隊は居なかったのか。


A、居なかったと思うよ。みんな笑って慰安所に行っていた。


しかし自分は一方でその少女のことをかわいそうに思ったのも事実ではある。


朝鮮人は、「日本の兵隊はひどい」と言って、当時から日本を恨んでいた。


(※↑こんなことをされたらどこの国の人でも日本を恨むと思う)


Q、金はどのくらい慰安婦にあげたのか


A、当時は一ヶ月分の給料は約2百円だった。現在のお金で言うと2〜3万くらいじゃないか?


それを全部、慰安婦にあげたりした。


Q、全部あげた?他に給料の使い道はなかったのか


A、なかった。食事は配給だったし、服や装備品も配給、寝る所は兵士宿舎、


酒(チャンチーという、こうりゃんで作った酒)もタバコ(ほまれという銘柄)も配給だった。


チチハルには飲み屋もあって、行ったりはしたが・・・


でも基本的に、月二百円で足りた。全額慰安婦にあげたりした。


Q、それでは、朝鮮人慰安婦は結果的に大金持ちになったのではないか


A、そうかもしれないな。しかし、タダで遊んでも良かったんだ。


Q、慰安所に行く時はどのようにして行ったのか?


A、慰安所に初めて行ったのは、自分がチチハルに着いてからすぐのこと。


中隊長や小隊長など、上の人が兵隊を集め、みんなでまとまって行った。


行ったのは毎週日曜の、野戦が休みの時など。月2〜3回行った。


慰安所に着くと、隊長が、「お前はこの部屋に行け、お前はここだ」などと割り振りを決めた。


Q、それでは、兵隊一人一人が勝手に行けて、自由に女を選べるとか、


そういうシステムではなかった?


A、そうではなかった。上の人に引率されて行ったんだ。女も自由に選べたわけではない。


Q、チチハルで、日曜日以外は何をやっていたのか


A、「匪賊」の討伐。つまり治安維持。


匪賊を討伐して治安が良くなったので、中国人を殺すなという通達が出た。


しかし実際に殺しても罪に問われなかった。


匪賊が居て危険なため、全体的に個人行動はできなかった。


Q、じいちゃんは、朝鮮人を殺したことはなかった?


A、朝鮮人は殺さなかった。


Q、中国人(匪賊)、ロシア人、シベリアの原住民、パラオの原住民、アメリカ兵、


このうちじいちゃんが殺したのは?


A、中国人の匪賊は殺した。あとは殺していない。


チチハルでの野戦で、周りが草むら、田んぼのようなところで、


匪賊らしき集団が12人くらい、向こうの家に逃げていこうとするところを、


後ろから自分含め3人くらいで撃って殺した。


一人当たり10発くらいは撃ったんじゃないか。使ったのは小銃。


10mくらいの距離だったと思う。警告なしで、いきなり不意打ちで撃った。


団体行動をしているということは悪いことをしているんだと判断した。


死体の確認はしなかった。


それでも上から怒られたり罪に問われたりすることはなかった。


さらに中国人の家に上がりこんで食べ物(米・こうりゃん・とうもろこしなど)


を没収したりした。中国人は怖がって食べ物を差し出した。


押入れの中などもかき回して探したりした。


中国人は「食べ物はやるから助けてくれ」という態度だった。


中国人の家では、なぜか婆さんしかいなかった。


男は老若問わずおらず、女も若い女は居なかった。


ドカタや慰安婦として連れて行かれるのを恐れてどこかに隠れていたのではないだろうか?


Q、アメリカ人も殺していない?


A、殺していない。パラオで自分らが居たところはアメリカ軍は素通り、


映画に出てくるようなジャングルの中でのゲリラ戦のようなことはなかったんだ。


アメリカ軍の艦砲射撃などで死んだ人は居たよ。


ただ、隣のペリリュー島は飛行場があったためにアメリカ軍に狙われ、


ひどい玉砕を食ったんだ。


Q、チチハルの慰安所とはどのようなところであったか。


ネット上から見つけてきた画像だが、http://i.imgur.com/kuaOWat.jpg このような感じか。


A、そう、このような感じだった。粗末な小屋だった。


ただし、天井はもっと低く、お前の背丈(※私は身長176cm)くらいだったんじゃないか。


敷いてあったのは布団やゴザやベッドではなく、固い毛布のようなものだったと思う。


そして掛け布団が一枚あった。


中はかなり狭く、一部屋あたり2〜3畳ほどであったと記憶している。


Q、朝鮮人集めや慰安所の経営に、「業者」は携わっていなかったのか。


本当に業者を見たことはないか。


A、うん、やはり業者というのは見たことがない。軍が直接やっていたんだと思うよ。


Q、中国人の慰安婦というのは、居なかったのか?


A、中国人慰安婦とは遊んだ記憶がない。


Q、70年も前のことをよく思い出せるね?


A、一緒に居た戦友がいれば、「あの時はこうしたよなあ」などとお喋りして


もっと思い出せると思うが、みんな死んでしまったので、なかなか思い出せないよ。


Q、韓国は今、日本は従軍慰安婦問題について誠実に対応しなければならない、


などと言ってきているが、日本はそうすべきだと思うか。


謝罪や賠償をすべきだと思うか。


A、当時には当時のやむをえない事情があったわけで、


確かに今考えれば悪いことをしたとは思うが(罪悪感はある)、


当時の朝鮮は日本の属国として日本の世話になっていたわけで、


いまさらそれを謝罪や賠償する必要はないと思う。


当時は、敵国の兵隊を殺せば「良い事をした」と褒められた。


他にも、日本の首相はアジア各国に謝罪してきているが、それは必要ないと思う。


当時を生きた人達に聞けば、みんなそう言うんじゃないか?


(※↑祖父がこう言い切ったのは自分も意外でした。


しかし考えてみれば、当時を生きた人達からすれば、これが自然なのかもしれません。


しかし自分は祖父の考えには反対です。


慰安婦強制は当時としても国際法違反の犯罪ですし、


同じことを日本が他国からやられたらやはり許せないと思うのが当然だと思うから)


Q、パラオには本当に慰安所はなかったか?


A、なかった。クロンボ(祖父の使う差別語。原住民の意)の女なんて


どこにいるか分からなかったな


Q、パラオではどのような生活をしていたか?


A、普通に島の中で暮らしていた。


やしの木の「シントウ」(やしの実がなる部分)を生で食べたら


原住民に怒られた。他にもやしの実、バナナ、他の果物などを食べていた。


敗戦後の「収容所生活」というのも、収容所という建物があったわけではない。


島の中で普通に暮らしていただけだ。


Q、パラオでの戦闘では何の仕事をしていたか?パラオにも馬を連れて行ったのか


A、馬は連れて行っていない。基本的に壕の中に隠れて、速射砲を撃つことくらい。


自分がいたところはアメリカ軍は素通りで、直接に激しい戦闘は無かったんだ。


(※このサイトの最初のほうで、私はパラオでの戦闘がいかにもすさまじく


激烈なものであったかのように誇張して書きすぎたようです。


アメリカ軍の艦砲射撃や機銃掃射などで、59連隊の兵隊が大勢死んだのは事実なのですが、


祖父から詳しく話を聞いてみると、どうも祖父の居たところは


基本的にアメリカ軍は素通りで(アンガル島・パラオ本島ともに)、


直接に激しい戦闘は無かったようなのです)


Q、敗戦はどのようにして知ったか


A、米軍機か日本軍機か忘れたが、とにかく飛行機からビラが撒かれて知った。


それを米軍のデマだとか疑ったりはしなかった。


やがて上から「内地に帰る」という命令が来た。


Q、敗戦後なぜすぐに日本に帰らなかった?なぜ収容所生活を?


A、日本に帰る定期便の船がなくなってしまったんだ。


Q、当時から兵隊の間では慰安婦を指す言葉として


「パンパン」という言葉は使われていたのか。


その朝鮮人の女の子は自ら「パンパンにされた」と言ったのか。


自分らのイメージでは「パンパン」とは敗戦後、占領軍相手に春を売った女性のことを


指す様に思えるが?


A、当時の兵隊はみな「パンパン」という言葉を使っていた。


その朝鮮人の女の子も、


「看護婦募集に応募して来てみたら騙されてパンパンにされた」と


自分でそう言った。


Q、駐屯していた、大きな川の近くとはどこか。思い出すことはできないか。


A、思い出した、嫩江(のんこう)だ。非常に大きくていい川だった。


(※このサイトhttp://d.hatena.ne.jp/dempax/20141103


を参考にさせて頂きました;祖父は最初は思い出せなかったのですが


紙にその名前を書いたらああそうだ、「のんこう」だ、と思い出せました。


もっとも、近くとは言っても、


駐屯地から嫩江までは数百mの距離はあったとのことです)


※昔の写真を「フォトギャラリー」に、チチハルでの慰安所に関する他の人の証言を


「証言集」にまとめました。


(ここまで、2014年11月21日更新分)

44/11/02 (Thu) おじいちゃんの戦争 Q&A

《その他,Q&A》⇒2014/11/21 更新分


Q、日本とソ連は終戦間際まで不可侵協定を結んで戦ってないのに何故捕虜になったのか?また、なぜ解放されたのか?


A、自分のいた歩兵59連隊はまず1940年にチチハルに行って、

「匪賊」の討伐をした。それから名前は忘れたが大きな川のほとりに行って駐屯していた(慰安婦で女遊びをしていたのはこの時期のこと)。そこにソ連軍が攻め込んできて、捕まってシベリアに連れて行かれた。59連隊の中でだいたい500〜600人程度捕まったのではないか。それは日ソ中立条約(1941年4月締結)の前の話で、シベリアには3〜4年居た。解放された理由は忘れてしまって思い出せない。


Q、当時、日本軍が朝鮮人を強制連行していることは日本国民は知っていたのか?


A、それは知らなかったと思う、秘密にやっていた


Q、慰安婦問題は、なぜ戦後45年間も問題にならなかったのか?


A、当時の朝鮮人は奴隷的な扱いをされるのをやむを得ないというか仕方がないこと、という感覚が染み込んでいたのではないか、だからそもそも慰安婦制度を問題視しなかったのではないか


Q、軍が強制連行や詐欺による誘拐などをやった証拠は一切ないらしいけどどういうこと?


A、それは分からない。証拠が残らないようにやったか、隠滅したんじゃないのか。師団・中隊・連隊等それぞれに、部隊の行動などを指示する事務専門の部署があって、大東亜戦争に負けた後、そこが日本に都合の悪い証拠書類をまとめて燃やして隠滅した、という噂は聞いたことがある


(※これは自分も疑問に思い、歴史学者の林博史 教授にも聞いてみました;


林教授の回答:「北朝鮮の拉致問題にしても、拉致を指示した文書や拉致現場の映像がどこにあるか。軍隊といえど官僚組織であり、合法性に問題のある行為をする時には証拠を残さないようにやるのが普通。事実を実証する手続きにしたがって行われた研究によるかぎり、それを否定するようなものはない。


詳しくはここを参照してほしいhttp://fightforjustice.info/ とのことでした)


(追記;これに関しては私も不勉強でした。

今では証言以外の証拠文書類もたくさん発見され、詳細に研究されているのです。このあたりを参考にしてください↓


http://fightforjustice.info/?page_id=2650

http://fightforjustice.info/?page_id=2385


Q、今、韓国は10万〜20万人の女性が強制連行されたと言っているがその数値は本当か?


A、そうだな。いろんな部隊が朝鮮人を連れてきていたわけだから、全体としてそういう数も有り得る


Q、朝鮮人は、そういう大規模な強制連行に抗議しなかったのか、それに、中国人がやったように、女を隠すとか逃げるとかすれば良かったじゃないか。


A、逃げられないよ。それに抗議も出来ない。当時の朝鮮は日本の属国だったし、当時の日本軍は『日本に逆らえば殺す』という態度だった、それに朝鮮の各地方ごとに軍隊を駐留させて武力で朝鮮を監視・制圧していた(いわゆる「武断政治」)


だから当時の朝鮮人は日本に逆らったり逃げたり隠したりはできなかった。


Q、シベリアで何をして暮らしていたか?


A、ソ連軍の戦車や兵器を入れておくための壕(横穴)を掘ったりしていた。つまり強制労働。ロシア人の言うことを聞くしかなかった。横穴の収容所の中での暮らしは原始時代のような暮らしだった。


Q、何人くらいの女と遊んだのか


A、10人〜20人くらい。


Q、連行の方法は騙す以外に何があったのか。借金のカタに縛られたり、貧困のために親に売られた女性なども居たと聞いているが?


A、自分のような一兵卒には分からない。もっと上の人でないと。


Q、看護婦募集に応募して騙されたという女以外にどういう朝鮮人の女性が居たか?


A、自分の記憶にはっきり残っているのはその女だけだ。騙されて連れてこられたというケースが一番多かったと思う。当時の朝鮮では日本語教育をやっていたし、話し方や仕草で朝鮮人だと分かった。


Q、女が妊娠したらどうしたのか


A、分からない。ただ、軍から避妊具の支給はあった。


Q、女が病気になったりしたらどうしたのか


A、衛生兵が居て、そういう女はどこかに連れて行かれた。入院させられたのか、死んだのか、その辺は分からない。その辺はおそらく上級の人間が秘密に処理していたと思う。仲間うちで、「こないだ行った時あの女居なかったなぁ」などと喋り合っていた。


Q、慰安所から逃げ出す女は居なかったのか


A、慰安所の周りを、銃を持った兵隊が取り囲んでいた。逃げられなかったと思う。


Q、チチハルは大きな都市だったらしいが、慰安所はチチハルの一箇所に固まっていたのか、それとも散在していたのか


A、一箇所に固まっていた。町外れの、農家の、草畑みたいなところ、なるべく人目につかないところに建物(小屋)をいくつも建てて、そこに連れてこられた朝鮮人慰安婦が住み込んで慰安所をやっていた。慰安所の設営は連隊が主体になって秘密にやっていたのだと思う。当時の日本国民は知らなかったことだ。チチハルだけで朝鮮人慰安婦は200人は居たと思う。


Q、チチハル以外の満州の諸都市にも慰安所はあったのか


A、自分は日本を離れ、大連から奉天、そしてチチハルに行った。大連や奉天にはあまり駐屯していなかったので分からない。しかし、チチハルにあったくらいだから、ハルビンなど大きな都市にはもっとあったのではないか?


Q、殺された慰安婦の女は、どういう時に殺されたのか。逆らったりした時か。


A、自分らは殺すなどという事はしなかったが、59連隊の中で、満州事変に参加した連中、つまり自分らの前に行っていた連中は、そういうことをしたと聞いている。朝鮮人も支那人も酷い目にあわされたと聞いている。自分は、看護婦募集に応募して来てみたらパンパン屋にされたという少女がかわいそうになり、給料をもらった時、そこから金を渡したりした


Q、大東亜戦争が終わったとき、朝鮮人慰安婦の女はどうなったのか?


A、自分はシベリアからパラオに行ったのでその辺は分からないんだ。全体として、朝鮮人を慰安婦にするというのは、大日本帝国政府が決定し、そこから各師団に連絡が行き、さらに朝鮮に連絡が行って、看護婦募集などという名目で朝鮮人女性を騙して召集し、慰安婦にした、そういう流れだったのだと思う。自分が行くより昔は、日本人の慰安婦ももっと居たのだけれど、満州事変や日中戦争の勃発などで内地に帰ってしまった。その代わりに朝鮮人を集めてきたんだ。また、チチハルには日本から来た開拓団も生活していて、彼らは土地を開墾し、農業をやっていた。でも大東亜戦争が始まると日本人はみな日本内地に帰ってしまった。でも朝鮮人は帰さなかった。当時、朝鮮人は、男はドカタで強制労働、女は慰安婦。本当に奴隷扱いだった。


慰安婦問題に関する祖父の証言は間違いなく真実である。祖父が孫である自分にウソの証言をする理由がないし、次のようなものとも内容が一致している。


1、複数の被害者の証言の一致 


2、複数の加害者(日本軍人)の証言の一致

http://d.hatena.ne.jp/dj19/20121213/p1

(日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態)


3、日本政府見解の一致(河野談話etc)


4、韓国政府見解の一致


5、アメリカ政府見解の一致


6、教科書の記述の一致


7、大方の歴史学者の見解の一致


8、海外の複数の学者の見解の一致


9、国連のいくつもの人権機関の見解 


10、軍の関与を裏付ける様々な資料の存在 http://fightforjustice.info/?page_id=608 


慰安婦問題をウソだ捏造だという人は、これら全てがウソ、間違い、でっち上げだと言うつもりだろうか?いくらなんでもそれはあり得ない!慰安婦の強制性と軍の関与は真実である。


作り話だと思われないよう、祖父の軍歴・部隊名などを書いておく。


大正9年3月1日生 陸軍軍曹(陸軍上級下士官)


氏は戦時下成人徴兵検査甲種合格 現役にて宇都宮第59連隊に入営する


一期検閲後満州派遣軍に編入されチチハルへ

ソ満国境警備任務につく 大東亜戦争末期に南方派遣軍に編入されパラオ郡島アンガウル島へ進攻 更にパラオ本島に進攻


連合軍と死闘中に九死に一生を得て終戦を迎えた アメリカ軍により武装解除され収容所生活約一年余り根性で耐え忍び浦賀港に復員を果した立派な陸軍下士官であった


(平成22年10月、90歳のお祝いに国から贈られた記念顕彰より)


参考サイト 


★アンガウルの戦い 歩兵第59連隊

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84


★朝鮮人「慰安婦」の証言

http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101204.html

(↑チチハルという地名が出てくる)


★山川出版社 日本史B用語集「朝鮮人強制連行」

http://i.imgur.com/Zo3eOwq.jpg http://i.imgur.com/jtdK2M0.jpg 

http://i.imgur.com/E5jnjud.jpg(記念顕彰の額縁)(中央が祖父、右は祖母(故人))

http://i.imgur.com/WWBIIIS.jpg(その説明文)


★日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任

http://fightforjustice.info/

(↑まさに「正義のために戦う」・・・私は林教授のこのサイトの趣旨に全面的に賛同します)

※この証言内容を歴史学者の林博史 教授に送ったところ、貴重な証言である、ぜひおじいさんの証言を文字にして後世に残していって欲しい、慰安婦の強制性や軍の関与は歴史学界では当然の事実として認められていることで、否定する人たちのほとんどは、文学や思想などフィクションの世界の人たちでしょう、


との回答を頂きました。


そこで私はこのサイトに証言内容をまとめた次第です。


※さらに、林博史 先生のサイトに紹介していただくことが出来ました。

http://www.geocities.jp/hhhirofumi/index.html(14年10月6日更新分)

44/11/01 (Wed) 【MIRROR】祖父の証言 戦争と慰安婦

testimony of grandfather http://testimony-of-grandfather.webnode.jp/


祖父の証言〜戦争と慰安婦


〜最初に〜


私の祖父は現在94歳で、旧日本陸軍軍曹、戦争で満州やパラオ諸島に派遣されていました。自分は昔から祖父から戦争の時の体験談を聞くのが好きで、このたび朝鮮人従軍慰安婦に関する重要な証言を得ることが出来ました


そこで自分のサイトを作り、この体験談を後世に伝えようと思い立った次第です


また、自宅の蔵に当時の資料、写真なども眠っているかもしれませんので見つかり次第、UPする予定でおります


皆様の参考になれば幸いであり、またメールでのご意見・ご感想等、お待ちしております


〜証言〜


俺のじいちゃん、今94歳で、1940年の時に20歳で徴兵されて戦争行った


最初は満州のソ連との国境付近で警備に当ってて、何度か中国兵やソ連兵と武力衝突して戦ったって言ってた。で捕虜にされてシベリアに行った


そこは零下40度の世界で、原住民は横穴を掘ってそこに住んでいたと言っていた


収容所も建物ではなく小高い丘のような所の中腹に掘った横穴で、中は10度くらいで暖かかったと


で太平洋戦争末期、何らかの理由で解放されて、日本に帰れる予定だったのだが、急に太平洋のパラオ諸島(アンガウル島・パラオ本島)に行かされることになった。そこではアメリカ軍の艦砲射撃やら飛行機による爆撃・機銃掃射などで、あるいはマラリアや栄養失調などで、仲間が大勢死んだと言ってた


パラオ本島ではアメリカ軍は直接人間を上陸させてこず、白兵戦のようなことはほとんどなかったと言っていた。腹が減って畑の作物を無断で食べたら原住民に怒られて、後で金を払い許してもらった、パラオは当時日本の委任統治領だったせいか、原住民は日本人には非常に親切で優しかったと言っていた


そして終戦、収容所生活を経て、1947年に生きて帰ってこれた。生き延びたのは本当に運が良かったと言っていた。で俺は、従軍慰安婦問題について色々と聞いてみた。それは本当にあったことなのか、業者がやっていたのではないのか、ただの売春婦ではないのか、証拠が残っていないのはなぜなのか、等々


するとじいちゃんはこのように証言してくれた


『慰安婦強制連行と軍の関与はすべて本当のこと。そして業者ではなく軍が直接やっていた。少なくとも満州で自分が居たところ(チチハル)には業者など居なかった。自分の所属していた宇都宮第59連隊の中に、朝鮮人を連れてくる専門部隊があって、人数は数百人はいたと思う


強制的に、朝鮮人の男はドカタなどの強制労働に、女は慰安婦にさせていた。専門部隊のメンバーは、当時の自分(当時は伍長)よりずっと上の階級の人で、直接話などをしたこともなく、具体的にどこから朝鮮人を連れてきていたのか、などは残念ながら分からない


自分の仕事は、ソ連の戦車を撃つための大砲があって、その大砲を馬が引いていたのだが、その馬の鉄沓(蹄鉄)持ちだった、だから朝鮮人連行部隊とは直接関わりはなかった。朝鮮人は男はドカタとして、女は慰安婦として、第14師団からこき使われていた』


『朝鮮人慰安婦は、チチハルだけで200人程度はいたのではないか。チチハルの慰安所は、建物(小屋)がいくつも並んでいて、そこに朝鮮人の女が住み込んでおり、日本兵はその小屋の中に入って性の相手をさせた


自分も慰安所を利用したことが幾度もある。それは上からの命令でやっていた。やりたくない者はいいがやりたければタダでやってよかった。自分は金を少しは持っていたので幾らかは女にあげたりもした


ある時建物に入ると、朝鮮人の女の子が出てきて、泣いていた。話を聞くと、戦地看護婦募集というのに応募してきてみたらパンパン屋にされた、との事。お前何歳だ、と聞くと17歳と答えた。自分は彼女に対し、『と言っても日本に逆らったら殺されるんだからしょうがないじゃないか、慰安婦やりなさい』などと教え諭した


女性はみな10代〜20代くらいで、強制的に慰安婦やらされていたものだから皆泣いていた。一番若い女で、大体15〜16歳くらいから連れてこられていた』


『また野戦での慰安所は、登山のキャンプに使うような小型のテントだった。そこには全員朝鮮人を連れて行っており、日本人も中国人もロシア人もいなかった』


慰安婦強制は悪いことだと思わなかったのか?と自分は聞いた


『思わなかった。当時は、武力で相手国を倒して領土と資源を奪うこと、それが大日本帝国のため、お国のため、という考えだった。みんなそうだった。そのために相手国の人間を殺すことは悪いことだと思わなかった。殺人を悪いと思わなかったくらいだから、無理やりもしくは騙して連れてきた女とセックスすることなど悪いとは思わなかった


むしろこの女は日本の兵隊のために役に立っているのだから良いことだと思った。』


(この会話の冒頭、祖父は「悪くねえんだよ!」と一瞬、気色ばんだように答えた。そしてしばらくして「いや、悪いことだわな」と訂正した。当時の考えが頭に残っていて、自分の行為を非難されたように感じたのだと思う)


『それに朝鮮は当時、日本の「属国」だったから、日本人は朝鮮人を一段下に見ていた、というより完全に奴隷扱いだった、だからそういうことをしたんだ。銃を持っている軍人が沢山いたわけだから、慰安婦は逃げ出すことなど出来なかった、見つかれば銃殺されるか連れ戻されるか、実際殺された女も居た


とにかく当時の日本の軍人は、「日本の言うことを聞かないと殺す」という考え方、態度だった


だから、日本は今拉致問題うんぬん言っているが、もともとは日本が朝鮮にそういうことを、いやもっとひどいことをしたんだ


だから慰安婦の強制性と旧日本軍の関与を認めた河野談話は正しい、カイロ宣言にある「奴隷状態ナル朝鮮ノ人々」という表現もその通りだ』


その他、次のような証言をしてくれた


□中国人は、日本軍が近づくと若い女をみんなどこかに隠した(見つかると連れて行かれてしまうから)、だから後に残ってるのは婆さんばかりだった


□自分が駐屯していたのはチチハルの郊外。名前は忘れたがかなり大きな川があって、その近くに駐屯していた。チチハルはかなり大きい町で、現在の宇都宮くらいはあったんじゃないか、祖父の駐屯していたところからチチハルの街中までは数キロだった


□チチハルの街中には日本人女性も自分で慰安所を経営してる人がいて、自分はそういう所にも遊びに行った


□慰安所があったのはチチハルでの話で、シベリアやパラオには無かった


□朝鮮人慰安婦=性奴隷という表現はその通りだ。そういう扱いだった


□チチハル郊外には、中国人の「匪賊」と呼ばれる人たちが居て、彼らは普段は農業をやっているが時には武装して日本兵を攻撃したり中国人を襲って略奪などをやっていた


□奉天あたりまでは戦争の痕跡はなかったが、チチハルでは郊外に満州事変の時の戦闘の痕跡が残っていた


□チチハルの住民は当然中国人で、当時は日本が満州を統治していたが、自分が行った時は反日・抗日運動などは無かった(※現在でもチチハルと宇都宮市は友好都市関係にある。wiki参照)


□地元の知人がシベリアからパラオに行くとき、自分とは別の船に乗ったが、その人の船は台湾沖でアメリカ軍の魚雷攻撃を受けて沈没した、当然その人も死んだ。自分はかなり遠回りな航路の船に乗ったので助かった、これも運が良かった


《その他、Q&A》


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