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「くにのあゆみ」に対して歴史家は一斉に起った. すなわち井上清(民報,三田新聞,潮流) 林基(日本評論,歴史評論) 石母田正(時事通信,歴史評論) 奈良本辰也(自由文化) 藤間生大(第一新聞) が堂々の筆陣をはつたばかりでなく,進歩的学術団体,文化団体もその組織を動員して広く人民大衆によびかけた. 自由懇話会は[1946年]11月21日,伊豆公夫,金澤甚衛,田中惣五郎,安部眞琴,高橋眞一の五氏を中心とする公開研究会を開催,教員学生等傍聴者の質疑に答えてその模様はAKより[ラヂオ]放送され(自由懇話会編『「くにのあゆみ」を検討する』人民新聞社),京都の日本史研究会もまた『歴史教育批判』と題してその検討を公表し(夕刊京都12月6日,7日),歴史学研究会はその豊富なスタッフを動員し専攻別に分担して小学校,中等学校の両教科書に詳細鋭利なる検討を行い(歴史学研究126号)民主主義科学者協会主催の歴史教育講座においても大部分の講師によつてこれが批判の対象とされ,朝日評論また羽仁五郎,藤間生大,井上清の三歴史家に執筆者岡田章雄,大久保利謙二氏,教員側から小池喜孝氏を招いて「くにのあゆみ」批判の総決算の観を呈した(3月,4月号)


批判の矢は先ずその官僚的編纂方法に向けられた. 執筆者としては幾多の歴史家の名前が,すなわち「くにのあゆみ」に家永三郎,豊田武,岡田章雄,大久保利謙, 「日本の歴史」に関晃,森末義彰,伊東多三郎,小西四郎の諸氏が挙げられたに拘らず, 執筆者自身の言によつてもあきらかな如く,その仕事は全て下働きの草稿書きに過ぎず,根本的な編纂の主体は官僚にあり,官僚の責任者の名は隠されて責任者の所在を明かにしない非民主的態度は内容そのものを決定したとみられた. 文部省はこの編纂に当つて多数の児童心理学の専門家を加えたと自負しているが,英雄史観を排すると称して「一切の人物を灰色に塗り潰」して児童心理を踏みにじり(奈良本)真の人民の英雄を描くことを忘れては児童には福澤諭吉も翻訳の下請けか学校業者としかうつらぬであろう.


新教科書は何よりも先ず「民主主義の正しさを教え正義と人道と博愛とを魂の中まで彫りつけて効果あらしめるもの」(奈良本)でなくてはならなかつたにもかかわらず「くにのあゆみ」には全く日本民主化の意欲が見られぬのみかむしろ阻害している点は看のがし得ない. それは量的にも質的にも著しい近代史軽視となつて現れ(林)明治維新後の「新しい社会」が突如として美しく描かれ,何が為に日本が侵略戦争に入り,今日の不幸を招いたかがあいまいにされ(高雄)戦争の責任は専ら軍部のみに負わせ,大平洋戦争に入るに当つても「宣戦の詔勅」についてはことさらに触れず,ポツダム宣言の「政府の最高の形式は人民の自由な意思によつて決められる」という日本民主化の基本の線が示されずむしろ隠蔽されている(林,石母田,井上等) 村川堅太郎は「書きにくいところであり色々見解の相異もあるからこれでよい」とされるのであるが,日本が民主化されねばならぬという点だけは何人にも見解の相違は許されはせぬであろう


豊田から特徴の第一にあげられた「真理探求の努力」も何等首尾一貫するところなく,神話の取扱いにおいても津田博士の説を尊重するといいながら「神武天皇」の建国を単に名をすげかえるだけの操作で書き込むという非科学ぶりを発揮し(林) しかも考古学的記載が多くなつてはいても単に神話の埋め草にすぎず(林家辰三郎)特徴としてあげられた「世界史」的な見方はそこに明かにされていない. さらに「庶民生活の実体」も見せかけの文化史に止つて人民の進歩の姿が示されず,要するにこの教科書は「くにのあゆみ」ではあつてもけつして人民のあゆみではないとされた(羽仁)


かくてこの教科書の只一つ注目すべき特徴としては「全体として人民と支配者,人民と天皇,人民と皇室との関係があいまいにされているか,でたらめに押しつけられているかしているとともに,人民の間から起つた革命的民主主義的運動が肝腎なものは黙殺し,ある程度触れる場合も意義が逆に編成されている」(中野重治,朝日評論3月)依然たる皇室中心主義であり,これには用語上にも史実の選択の上にも最も細心の注意が払われて全編「あこがれ史観」に満ち(新村猛)「床の間の歴史」(田中)として反動歴史の刻印を打たれたのである


さらにその構成についても,一詩人はその形式的不整の美学的不快感にたえず叫んだ「此の混沌の中からは,我々が耳を澄ませて一貫性を掴まえようとする時,丁度分離の悪いラヂオ受信機が,第一放送と第二放送とを一時に聞かせるやうに,全く関係のない二つの主題が入り交つて聞えてくる. 人民の歴史と,天皇の歴史と」


かくてこの教科書からは,日本民主化はおろか何等の歴史の精神も,方向も,希望も,なぐさめも生徒児童に与えぬことは「若し日本の国家としての歴史が,実際に,此の教科書に叙述されたものにすべて尽きるならば,日本は先祖の誇りもなければ子孫の希望も持たない驢馬(ドンキー=馬鹿者の意)に似たものであろう」とのテイルマンの忠言が想起される(改造2月). かくては「現在のものが最上のものではないという断定は学問の未来に希望を持つことなのであり決して悲しむべきことではない」(柳田國男歴史教育の使命くにのあゆみに寄す」毎日新聞)などと傍観することはゆるされぬであろう


「くにのあゆみ」が批判の嵐を浴びたのに対して中等学校用「日本の歴史」については藤間生大(中等教育12月号) 菅野二郎(歴史評論6月)あるのみで合評としても歴史学研究会のそれが知られるのみであるが,それは「くにのあゆみ」がより一般性があるほか,発表がやや先になつたことにもよろうが,また本質的な点で両者が何ら変りがないことに帰するであろう. すなわち大和朝廷の征服戦についても「この重大な点-それがなくしては日本国家の歴史は始めることが出来ない-についての認識が国民学校と中学校とくらべて大差がないというのでは,まことに歴史科学のなにものたるかを知らないやり方である. たとえいろいろ教材が添加されて『日本の歴史』が厚くなつたとしても,それはほとんど大した意味をもたない」(藤間)とされたところにその理由が求められよう


ここに学界の声を要約して民主主義科学者協会は次の如き声明を発した


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新国定『くにのあゆみ』の刊行は今後の歴史教育の内容と方向を決定する重要な意義をもつものである. しかるにその内容は古い専制主義の思想を一掃することなく,あやまつた皇室中心主義を維持するために歴史上の事実を歪曲し,日本民族の歴史を正しくつたえていない. また朝鮮民族との関係の記述に見るごとく,古い民族的偏見をあくまで維持しようとしているのみならず,大平洋戦争を中心とする記述は支配階級の政治的意図をもつて書かれ,歴史上の事実にも反するものである. このような歴史教科書を国定教科書として強制的に普及することは新しい民主的歴史教育の趣旨に反すると見なさざるをえない. 文部省はただちに本書を根本的に修正するか,さもなければ国定教科書として普及することを中止すべきである


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