『遠山茂樹著作集 第8巻 日本近代史学史』p.50-p.55 歴史教育の再開と『くにのあゆみ』批判

I. 戦後の歴史学と歴史意識



序説 戦前と戦後の歴史学歴史教育


1. 歴史学歴史教育の再出発


(1)敗戦直後の天皇制批判


(2)津田史学の問題


(3)丸山真男大塚久雄の理論の特色


(4)マルクス主義理論の動向


[以上見出しのみ,本節は低次元な政治的偏向の例を抜粋]


[p.45]…山田理論批判派の主張は「小ブルジョア的書斎にありながら,自らを公然と「正統派」と僣称するにさえいたった」のが,今や日本共産党の農業綱領・農民政策の「正統性」によって,その理論の破産と反動性が現実によって立証されたといった,イデオロギー的な批判が強かった. そうした形の批判が,学問上の成果をほとんど残さず一時の流行のように過ぎ去ったのは当然であった


山田理論批判は大塚史学批判と結びあっていた, 大塚史学批判は47年から48年にかけて毎月いづれかの雑誌にのらぬことはないという賑かさであった


[p.46]…48年11月には,豊田・井上・伊豆・浅田・服部・中村を執筆者とする『大塚史学批判』と題する一書が出た…


これらの論点はいづれも,内容の豊富な重要問題であったが,それにもかかわらず,これらの批判は,そうした内容よりも,むしろイデオロギー的批判として一般に受け取られたことは山田理論の場合と同じであった. 大塚史学はかくかくの点でマルクス主義ではない,そして自我の解放,主体性の確立を強調する近代主義の一つ,小ブルジョア歴史学であると…[同時に,大塚史学の積極面の指摘,解明が服部之総江口朴郎によって行われる]…


大塚史学批判が一般に政治的色彩において受け取られたのは,そう感じさせる政治情況,イデオロギー情況があったからである. 『前衛』1948年8月号は「近代主義批判」を特集した. これは日本共産党第6回大会[1947/12]での蔵原の報告「文化問題に関して」にもとづくものであった…


[p.48]…こうして近代主義批判が政治の問題として提起されるに至ったのは,占領軍の改革指令をもって封建性・軍国主義からの解放とうけとることに抵抗を感ぜずにはおられぬ時期に移っていたからである. 47年の2.1ゼネスト計画にたいするマッカーサーの中止命令は,占領軍が労働運動の保護者ではないという,後日から考えれば当たり前の,しかし当時は衝撃的な事件であった…


(5)歴史教育の再開と『くにのあゆみ』批判


[p.50]1946年1月11日修身・国史・地理の授業が停止されたが,10月暫定教科書として国民学校初等科用の『くにのあゆみ』,ついで中学校用『日本の歴史』ができ,これを使って授業が再開された. これらの新しい教科書の編纂方針について,文部省は,(1)科学的・客観的立場(2)王公貴族の歴史だけでなく人民の歴史を(3)広い世界史的立場から(4)戦争や政変の歴史よりも,産業経済文化の歴史を,という四点をあげている. 『くにのあゆみ』の誕生は,教育民主化の象徴としてジャーナリズムが大々的に宣伝したが,同時にその批判も新聞・雑誌・ラヂオでさかんであった. それは主として,民主主義科学者協会歴史学研究会に属する歴史家からであった. 具体的な批判点は多いが,要するに依然として皇室中心主義であり,天皇を国民のあこがれの的と見る「あこがれ史観」であり,人民の役割,人民と支配者,人民と皇室との関係があいまいにされており,また民主化への熱意が足りず,侵略戦争の歴史的必然,その戦争責任がぼかされている等々であった


なかでも井上清が「『くにのあゆみ』を読むものが誰でも感ずるあいまいな何だかぼんやりしている感じ,熱情のなさ,それらはみな,皇室中心主義を戦争中の教科書のように正面から出さないでしかもこっそりそれを主張しようとしているところからきている」と指摘したのは,注目される.


先祖の誇りもなければ子孫の希望もあたえないという外人記者ティルトマンの評が新聞紙上で伝えられたことに刺激されたこともあるかもしれぬが,児童に歴史を作るものとしての情熱をわきおこさせぬものといった批判が一様に出されていたことは,後述するように,社会科批判の形で,アメリカの教育政策への批判がいち早く歴史教育の側からあげられたことと通ずることであった


『くにのあゆみ』執筆者の一人家永三郎は,執筆者の意図について「かれらが文部省に同調して,意識的に戦前的歴史観の温存につとめたかのようにいうのは当たっていない. 非政治的な実証主義の立場から教科書を書けば,ああいうものにしかならないのは不可避であったと見るのが妥当である」と回顧した(39 「戦後の歴史教育」岩波講座『日本歴史』別巻1, 320頁)


46年10月国史授業再開にあたっての文部省通達「新国史教科書について」は,形だけ民主主義の口調を借り実体を誤魔化す文部官僚の意識を反映すると同時に,いわゆる「実証主義」者の非政治性,無思想性,無理論性が容易に文部省に利用される情況を推察することが出来る. この通達には「科学的・客観的態度が全体を一貫している」ことの例証に「神話・伝説を省いて」貝塚・古墳からの証拠により「大昔の生活」が「実証的に記されている」とのべた. 言葉をかえれば「科学的・客観的」の名によって,神話・伝説への歴史的批判を行うことを回避しているのである. いわば神話は,無傷のまま温存されていた


次に「王公貴族の歴史だけでなく人民の歴史を」という説明に「武士のおこり」が農村民衆の安全を保障する役目から来ていたこと(中略),明治の新政が国民生活の利便と向上を目指していたことなど,歴史が人民と結びついて成り立っていることを,つねに注意している」と,支配者が人民に恩恵を与えることが,「人民の歴史」であるかのようにいい「世界史的立場から」を説明し,たとえば天平芸術の源流がアラビア・ペルシャにあると記述し,キリスト教につき,少年使節のローマ訪問をとりあげたことをあげている如く,たんなる文化交流や国際交流を中心とする,みんな仲よくしましょうという世界史であった. こうしたごまかしを指摘批判したのが,主としてマルクス主義歴史家であり,大部分の「実証」史家がこれを批判する発言を示さなかったところに,禍根の根源があった



47年4月,これまでの修身,地理,歴史の教科の中身を融合した社会科が発足した [以下,省略]