『朝日新聞』1968/09/22(日曜日) 1-12【天声人語】

広津和郎氏は明治の文士広津柳浪の子である.柳浪は硯友社の異才といわれ,尾崎紅葉が弟子を多数持ったのと対照的に,そういうことを嫌ったという▼和郎氏の戦前の作品で広く読まれたのは『女給』である.「わたしゃ夜咲く酒場の花よ…」のメロディを覚えている人も多いだろう.柔和な目をして,来る人を拒まず,会う人を楽しくさせる人柄だったが,戦後,うちこんだのは松川事件の真実探究だった▼10年以上も松川事件と取り組んで,裁判批判をつづけた. 文士に裁判のことがわかるはずがないという批評や,裁判を侮辱するものだといった非難が広津氏に向けられたこともあるが,広津氏の努力はこうした中傷を堂々と乗り越えた.この人の探究は,裁判に協力して,裁判の威信失墜を大きく防いだといえよう▼「ぼくとしては裁判所の権威にたてつく気は全然ないんだな.大体,裁判所による以外に被告たちを無罪にする道はないでしょう.次の裁判でわかってもらいたいから批判するんだ.裁判所を信頼していなければ,誰がこんなことをするもんですか」去る9月12日の読売新聞のインタビューで広津氏はこう語っている.ヒューマニストの広津氏には,無実の人が死刑になるような理不尽はみすごしに出来なかった▼松川裁判は,裁判の本質についての大きな関心を呼び起こした.各裁判所の判決が5回にわたって出され,最後は「全員無罪」となった.第2審以後,被告たちの無実を証明するために,広津氏は努力したが,その間の記録を『松川事件と裁判』(岩波書店)にまとめている.広津氏にとって,裁判批判もまた文学と同じく,人間の真実を追うためのものだった▼老人性の白内障で視力が減退し,裁判記録を読むのがつらいと言いながら,八海事件にも納得のゆかぬものを感じて,調べ続けていたそうだが,76歳とはいえ,広津氏の死は惜しい.「無私の目」をもったこの人につづく裁判批判者は現れないか