「聖域」の建設

藤井日逹師訃報記事
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【第8回アジア政党国際会議での発言/日本共産党幹部会委員長 志位 和夫】


http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-09-21/2014092101_04_1.html


核兵器禁止条約の交渉開始決議案の採択を心から歓迎する 日本の「反対」は恥ずべき態度/日本共産党幹部会委員長 志位和夫 [2016.10.29]】


http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-10-29/2016102901_02_1.html?_tptb=089


【2016年10月29日(土)
核兵器禁止条約 国連で交渉へ/決議賛成123、日本は反対/第一委 米国など核保有国に同調】


http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-10-29/2016102901_01_1.html?_tptb=089



「聖域」の建設

高祖日蓮大聖人第七百年御遠忌[ごおんき]記念法要法話


1981年4月27日


千葉県清澄山道場


藤井日達



南無妙法蓮華経


核軍備競争論者の間に近日「聖域」という言葉が叫ばれる


「聖域」とは、神聖なる区域という熟語の省略であるのか、そもそも「神聖」などの文字は、唯物論には無用である。いわんや殺人破壊の専門人夫[にんぷ]の軍隊の口には「神聖」などの言葉があっては、その職業は成り立たない。「聖域」などの文字は唯心論者、特に宗教道徳の社会においては、その社会の中心生命となるもので「神聖」の二文字を離れた宗教もなければ、倫理もない


核兵器は疑いもなく、人類を全滅せしむる大罪悪器であるし、この大罪悪の兵器を開発し、蓄積し、使用することに競争せるソ連アメリカは、双方共に核兵器の危難を免がるる方法を発見して、これを「聖域」と名づけた。是[かく]の如き 「聖域」は、まことに世界万国全人類の誰もが求めてやまざるところである。「聖域」の発見は、ソ米両国の指導者が会談し、合意したというただそれだけであった


そこで核兵器を持たぬ、他の弱小諸国もまた「聖域」を発見せんがために、会談し、合意を求めねばならぬ


ソ連と米国とは、各自の国土を「聖域」として、安穏ならしむることに満足し、歓喜するであろう。しかし、他の核兵器を持たぬ弱小諸国を滅亡せしめ、荒廃せしむる悲惨の状態に対しても、また満足し、歓喜するであろうか


もしソ米両国が、全世界の国土を「聖域」となすことに満足し、歓喜し、希望するならば、それは容易なことで、ただちに出来ることである。すなわち各自が開発し、蓄積せる諸々の核兵器を絶対に使用しないと決心するだけで、それで充分である。そうすれば世界人類は、一切皆、安穏の想いに住して、歓喜することが出来るであろう。全世界の「聖域」には、米ソは満足し、歓喜することは、なぜ出来ないか


宗教は総じて「聖域」を求め、「聖域」に往かん[ゆかん]ことを求むる。「聖域」を、あるいは「浄土」と称し、あるいは「天国」という。しかるに、この地上には、五逆・十悪熾に[さかんに]して「浄土」も「天国」も、どこにも見出だされないのが実状である。それでもなお、失望することなく「浄土」、「天国」を求めて、止まざるが故に、結局、死後に、これを期待するにいたった


しかるに日蓮大上人の『立正安国』を標示したる宗旨は、件の「聖域」を死後に求めず、現世に求めた


衆生の心汚るれば土も汚れ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ、穢土と云ふも、土に二つの隔[へだて]無し。只我等が心の善悪に由ると見へえたり


『一生成仏鈔』

日蓮大聖人のいわゆる「聖域」すなわち「浄土」「天国」とは、我らが住むこの国土、山谷、曠野、園林[おんりん]、堂閣、すべて皆「聖域」である


衆生 刧■尽きて、大火に焼かるると見る時も、我が此の土は安穏なり

と『法華経』に説かれである。この経文をそのまま信ずるが故である


この経文を信ずる時、我々は飽くまで、失望、落胆することなく、いかなる核兵器の脅威の中にも、必定して、救い護らるるるという、金剛の如き信念を確立して、殺傷・破壊の戦争手段を採用することなく、ソ米両国の人々の心を転換して、平和に向かわしむるために、奮闘するであろう。世界平和の問題は所詮、精神問題である


「宗教運動は、まだ平和の創造や、戦争準備に対する反対という点で、充分の影響力を持つに至っていない。このような無関心で、悲しく、余りにも期待も出来そうでないのが、一般の現状である。人々や大衆運動、組織、政党、そして最後に政府のこうした不幸の消極性は、どのようにすれば変わり、現実的で、理性的な関心が持たれるようになるだろうか」という、宗教者に対する批判の声があがった


元来、宗教というものが精神問題、自己内心の憂悲、苦悩の解決に偏向して、それ故に、自然と外界の現象に疎遠になる


日蓮大聖人の『立正安国論』が、宗教者に信用されなかったのは、往年、鎌倉幕府のみならず、今日の我々にとってもそうである。そこに、現在、宗教運動の不振があり、非現実性がある。「一心法界」「万法唯心」と説く大乗仏法によれば、外界の現象の一切が、すなわち心法である。外界の現象以外に、心法などを求むべきではない


今日、もし核兵器の危難を阻止すること能わずして、ひそかに一身の安堵を計るが如きは、夢のまた夢である。すべからく宗教者は目覚めねばならぬ


近代文明は科学文明といわれる。全世界の科学の研究・開発に従事する約半数の者、40万の科学者、および技術者が、先進国の軍事研究に雇われている。また直接的内至間接的に、軍事目的の仕事に従事している人間の総数は、実に5000万人とみなされている。これらの人々の豊富な生活、名誉ある生活を保たんがために、核兵器は逐次、開発されてゆく。その開発された核兵器が人類のために、いかなる災禍をもたらすかについては、まったく無関心であり、無責任である。宗教者の無能よりは、科学者の無反省がはるかに悪い


立正安国論』は「娑婆即寂光」と説く。「娑婆」とは穢悪[あいあく]充満し、三災七難競い起こるところである。「寂光」とは、清浄、微妙にして、安穏、快楽のところである。現実世界の穢悪をさして、ただちに清浄というのではない。いかなる穢悪をも転ずれば、すなわち清浄となる。必ず転ずることが出来るということが、それが「娑婆即」の「即」である。宗教の活動は「娑婆即」という「即」の字の実験である

清澄山は「聖域」である

日蓮大聖人が、12歳にして入山遊ばされた、これが、第一の「聖域」の建設。続いて16歳にして、道善房について出家遊ばされた。これが、第二の「聖域」の建設。「仏法をならはん者は、父母、師匠、国恩を忘るべしや。この大恩を報ぜんには、必ず仏法を習いきわめ、智者とならでは叶ふべしや」とて、清澄寺の本尊 虚空菩薩の前に、大誓願を立てられた。これが第三の「聖域」の建設


建長5(1253)年4月28日、清澄山の旭が森と称する一角に立って、初めて「南無妙法連華経」と高声に唱え出された


如来滅後余年が間、一人も唱えず、日蓮一人、初めて南無妙法連華経、南無妙法連華経と、声も惜しまず唱ふるなり」と、いわゆる「日本の仏法」の開宗宣言である。これが、第四の「聖域」の建設