警保局長松本学の「文芸院」構想は潰え去り

警保局長松本学の目論んでいた「文芸院」が「文芸懇話会」と骨抜きにされた第一回会合(日本橋偕楽園,1934/03/29)の経過を広津和郎『続/年月のあしおと』講談社,1967/6/15 は描いている


(広津和郎『続/年月のあしおと』p.56)[*1]


15 間髪を入れない徳田秋聲の一言


偕楽園に集まったのは,どういう顔触れであったか,はっきり覚えていないが,いわゆる純文学畑からは,藤村,秋声(白鳥はいたかどうかはっきりしない)の二長老をはじめ,上司小劒,近松秋江,佐藤春夫,宇野浩二. 菊池寛山本有三は来ていたかどうか覚えていない. そして大衆作家といわれる中からは,吉川英治,白井喬二,中村武羅夫,加藤武雄,その他の人が出席したように思うが,これも正確とはいえない


松本警保局長は,恰幅の好い,髪を少し短めにした精力的な感じのする,にこにこと人をそらさない,男らしい顔付きをした人物で,いわゆる新官僚に属するのかどうかは知らないが,肩肘を張ったようなところが少しもないのが,まず好感を覚えた. 彼は次のような意味の挨拶をした


「今夜皆さんにお集まりを願いましたのは,ほんの私の個人的な気持ちからですが,由来日本の文学というものに対して,日本の政府は冷淡に過ぎたと思うのであります. 政府はもっと文学を大切にしなければならないと思うのであります. 美術の方は,前から美術院が出来,文部省が展覧会を開いたりしてまして,いろいろやつて居りましたが,文学に対しましても,政府は当然文芸院を作り,それを大切にしなければならないのが当然であると思うのであります. それでそれを促進するために,私はこれから始終皆さんと会合しまして,お話を伺うような会を作りたいと思いまして,今夜こうしてお集まりを願つた次第であります. それでこの会合を後に政府が文芸院を作るまでの準備として.私設文芸院と名づけたいと思うのでありますが,皆さんの御意見は如何でしょうか」


松本局長がそこまでいうと,その真向かいに座っていた徳田秋声さんが


「日本の文学は庶民の間から生まれ,今まで政府の保護など受けずに育つて来ましたので,今更政府から保護されるなんていわれても,われわれには一寸信用できませんね. それに今の多事多端で忙がしい政府として,文学など保護する暇があろうとは思われませんよ. われわれとしては,このままほって置いて貰いたいと思いますね」


と喉のかすれたような渋い声でいきなりいった


これは私のいいたいことを,徳田さんが代弁してくれたような気がしたので,私は微笑しながら,徳田さんの顔を見まもった. 徳田さんは思い切ったことをずばりといった後は,けろりとして淡々たる表情をしている. 恐らく相手の言葉の中に何か魂胆があるらしいのを直感的に感ずると同時に,それに対する反■が即座に口を衝いて出たものであろう. 徳田さんにはそういう直感的な鋭さがある. そしてこの席から出たら,そんなことをいったことなどけろりと忘れて,のんびりステッキを振り振り帰って行くのではないか. 私は徳田さんの表情を見ながら,そんなことを思ったものであった


併し後で解ったが,この徳田さんの間髪を入れない一語が,松本警保局長の機先を制して,その方向を変えさせたのであった


そのことは後で触れるが,この会合に「文芸院」という名をつけることにも徳田さんは反対した. これは徳田さんばかりでなく,純文学派といわれる連中は皆反対した


「文芸院なんて,そんなものに祭り上げられるとなったら,僕だって考えなければならない」


と徳田さんはいった


そこで私設文芸院は撤回されて,文芸懇話会というあたらずさわらずの名がつけられることになり,毎月一回会合が持たれることになった. 会合といっても,それは松本局長から招待されるわけで,その場所が毎月違い,東京のいろいろな料理屋が,次々とその会合の場所としてわれわれに紹介されて行った


いろいろな料理屋につれて行かれることは,別に悪いことではなかったが,何のために警保局長が,毎月そんな風にして作家達に馳走するのか,てんで見当がつかなかった


併しやがてそれの解る時が来た. それは3,4回目の会合の時であり,文部省の関谷局長という人が,来賓として出席していた時であったが,私は


「こうして毎月毎月われわれは会費も出さず招待を受けていますが,一体こういう費用は何処から出るのですか」


と松本氏に訊いた. 前から一度に訊いて見たいと思っていたことであった


「いや,そういう台所のことは,どうか御心配なさらずに私にまかせて置いて下さい」


と松本局長は笑って私の質問をはぐらかそうとしたが,そばにいた関谷局長が横から


「松本君,僕もそれを疑問と思っていたところだ. 毎月こういう会をやり,聞けば文学賞とやらも出すようになるというが,そんな大風呂敷を拡げて,君,一体大丈夫なのかね」


といった


松本局長は一寸黙ったが,やがて


「それならいおう」


と真顔になって関谷局長の方へ向き直った


「実はね,前に教育統制,宗教統制をやった. そこで次に文芸統制をしようというので,斎藤総理に話すと,総理も賛成されたので,それで乗り出したわけだ…」


これが正直なところだったのであろう. 関谷局長にまで突っ込まれたので,思わず白状してしまったのであろう


「どうもそんなことではないかと,われわれも最初から思っていましたよ. どうです,文学の統制は無理でしたろう」


と私が笑いながらいうと


「ええ,今はよく解りました. もう文学の統制はしようとは思いません」


と松本局長は苦笑しながら答えた


恐らく最初の会合で松本局長の挨拶に対して間髪を入れずに放った徳田さんの一言がその文芸統制の意図を断念させたのであろうと私は観察しているそれでやむを得ず毎月料理屋を変えてわれわれを招待しているが松本局長としてはこれはただの惰性で最早意味のないことになっているのではないか



*1:広津和郎全集第12卷』(「年月のあしおと」と「続・年月のあしおと」の合本)ではp.330