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17/10/10 (Tue) 弓削欣也「大東亜戦争期の日本陸軍における犯罪及び非行に関する考察

弓削欣也「大東亜戦争期の日本陸軍における犯罪及び非行に関する一考察」

防衛省防衛研究所年報『戦史研究年報』NO.10(2007/5)p.42 http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/200703.html

【要約】

本論文は、大東亜戦争期の日本陸軍における軍人、軍属の犯罪及び非行、中でも対上官犯(抗命・暴行脅迫・侮辱の罪)、奔敵(逃亡)等の軍の指揮・統率に関わる犯罪及び非行に焦点をあて、戦地あるいは戦時下の断片的な史料の中から、その実態を明らかにするとともに、これら軍人、軍属による犯罪等の発生の要因及び軍の実施した対策について考察したものである。

はじめに

日本陸軍における犯罪及び非行に関する史料は断片的であり、その実態については、未だに明らかにされていない部分が多い。特に戦地あるいは戦時下における史料は極めて限定されている。また大東亜戦争終結以降、今日までの日本陸軍における犯罪及び非行に関する調査、研究は、対住民犯又は捕虜虐待などのいわゆる戦争犯罪に焦点を当てたものが多く、さらに軍内部における犯罪及び非行に関する調査、研究等も含め、これら軍による犯罪及び非行の要因を天皇制イデオロギーに基づく徹底的抑圧とこれに対する反抗といった所謂「天皇の軍隊」としての日本陸軍の特殊性に求める傾向のものが少なくない1。本稿においてはこのような状況を踏まえ、大東亜戦争期(主として昭和 16(1941)年以降)の日本陸軍における犯罪及び非行、中でも軍の指揮・統率に関わる犯罪及び非行に焦点を当て、その実態と要因及び軍の対策について考察する


なお具体的な考察の範囲としては、日本陸軍の軍人、軍属の犯罪(陸軍刑法犯)及び非行(非違)とし、特に軍の指揮・統率に直接関わる犯罪として対上官犯(抗命・暴行脅迫・侮辱の罪)、奔敵(逃亡)2等に焦点を当てた。また地域については中国大陸(満州含む)・内地(朝鮮・台湾含む)に焦点を当てることとした

1 大東亜戦争期の日本陸軍における犯罪等の実態


1 たとえば藤原彰『天皇制と軍隊』(青木書店、1978年)、熊沢京次郎『天皇の軍隊』(現代評論社、1974年)など


2 陸軍刑法における「逃亡ノ罪」は、敵前、戦時・軍中・戒厳地境、その他の 3つに区分され、敵前が最も重い罪とされ死刑を含む刑罰が規定されていた。「奔敵」とは「逃亡ノ罪」のうち、敵側に奔ることをいう


(1)犯罪等の発生状況

ア 昭和 12年から同 16年まで


昭和 15(1940)年 11月、支那事変(日中戦争)間に発生した犯罪非違について大本営陸軍部研究班がまとめた「支那事變ニ於ケル犯罪非違ヨリ觀タル軍紀風紀ノ實相竝ニ之ガ振肅對策」3によれば、同事変が勃発した昭和 12(1937)年 7 月から同 14(1939)年 6月までの約 2年間の内地、満州及び戦地における犯罪及び非違人員の総計は、犯罪が 5,221名、非違が 32,964 名であった。このうち戦地における犯罪数を日清、日露両戦役と比較すると、出征兵力及び期間4は異なるものの、支那事変における犯罪発生数は両戦役と比べて著しく大であり、かつ高率であるとされ、また召集兵が現役兵の 3倍半弱の多数を示す状況にあった。さらに犯罪の性質及び特色を見ても、軍紀上最も忌むべき行為である対上官犯が、日露戦争時の約 7倍半に達するとともに、逃亡犯も日露戦争時よりも遙かに多いと分析されていた


イ 昭和 16年から同 17年まで


陸軍における犯罪等の状況は、対英米戦が勃発した昭和 16(1941)年以降においても同様の状況にあった。昭和 16年度の陸軍の犯罪者数は 3,148名、非行は 7,699名であり、これを前年度の犯罪者数 2,996名と比較すると約 1.05倍で、兵力(昭和 15年:約 135万、昭和 16年:約 210万5)の増加分を考慮すれば減少の傾向にあった。しかし戦争が本格化した昭和 17(1942)年度の犯罪者数は 4,516名、非行は 11,636名で、犯罪者数において昭和 16年度の約 1.4倍に、また非行は約 1.5倍となり、兵力(昭和 17年:約 240万6)の増加分を考慮しても犯罪、非行ともに増加する傾向にあった7。犯罪内容のうち対上官犯(抗命、上官暴行、殺傷、侮辱)についてみると、昭和 16年の対上官犯は 341名で昭和15年(202名)の約 1.7倍となった。また昭和 17年 1月から同年 7月末までの半年間における対上官犯は 126件、152名に達していた。その内訳を罪名別に見ると、抗命(含党与)20 名、上官暴行脅迫(含党与、用兵器)71 名、上官殺傷(含党与、用兵器)45 名、


3 大本営陸軍部研究班「支那亊変の経験に基づく無形戰力軍紀風紀関係資料(案)」(防衛研究所図書館所蔵)


4 日清戦争の 2年間の兵力の平均は約 12.7万、日露戦争の 2年間の兵力の平均は約 95万、支那事変の昭和 12年から昭和 14年の兵力の平均は約 111万である。(原剛、安岡昭男『日本陸海軍辞典コンパクト版(下)』(新人物往来社、2003年)246頁)


5 原、安岡『日本陸海軍辞典コンパクト版(下)』246頁


6 同上。


7 「軍紀風紀上等要注意事例集(昭和 18年 1月 28日陸密第 255號別冊第 7號)」(防衛研究所図書館所蔵)。(以下「事例集別冊第 7號」とする)


上官侮辱 16名と、上官暴行脅迫及び上官殺傷等の悪質犯が全体の 76%を占める結果となっていた。中でも中隊長以上に対する対直属上官犯については、准尉(応召)による大将(軍司令官)に対する犯行をはじめ多数発生しており、対上官犯に関しては今後とも楽観を許さない状況にあったのである。また奔敵逃亡についても、支那事変以来、昭和 17年 7月までの満州及び支那における奔敵の合計は 99名で、昭和 14(1939)年の 35名を最多として、同 17(1942)年には 14名と逐次漸減の傾向を示していた。しかし支那事変開始以来の外地における敵前並びに軍中逃亡、離隊者の合計は 3,006名に達し、逐年増加の傾向にあるなど厳しい現状にあった


ウ 昭和 18年

昭和 18(1943)年度の軍内犯罪数は 4,544名、非行は 10,089名(昭和 18年の兵力は約 290万で、昭和 17(1942)年の約 1.2 倍)であり、兵力の増加を考慮すれば若干減少の傾向をみせた。しかし過去 5 年間の状況と比較すれば幹部の犯罪が急増するとともに、奔敵逃亡及び対上官犯の急増等、顕著に質的悪化の状況を現示しており、軍においても最も注意厳戒を要するとされていた。これらの犯罪のうち幹部によるものは犯罪総数の 15%強(684名)を占め、これは昭和 17年度と比較して 135名(将校 82、下士官 53)の増加であり、昭和 14(1939)年度の 2倍強で、その内容も逃亡 42名、上官暴行 31名、辱職28名など悪質軍紀犯が増加していた。特に「・年將校ニシテ酒色ニ溺レテ軍中逃亡ヲ敢行シタル者」、「上級將校ニシテ一時ノ憤激ヨリ對上官犯ヲ敢行シタル者」、「高級將校ノ汚職行爲」があったことは問題視されていた


軍内犯罪を役種別(指数は千人比)にみると、現役1,629名(1.18)、応召者1,307名(1.07)、軍属 1,608名(4.89)で軍属の犯行が多く、非行に関しても、現役 3,730名(2.71)、応召3,171名(2.59)、軍属 3,188名(9.81)で軍属の指数が高かった。軍属の犯罪数は昭和 16(1941)年度に 781名(非行 1,827名)であったものが、昭和 17年度には 1,613名(非行 2,290名)と一年間で倍増しており、軍においても取り締まりについては格別の努力を要するとしていた


階級別では、総数で兵(4,391 名、2.07)及び軍属が多数を占め、且つ指数においても軍属が圧倒的ではあるが、兵よりも将校(691 名、4.54)及び下士官(1,819 名、5.46)の方が高率を示す傾向にあった9。犯罪内容のうち昭和 18(1943)年度の対上官犯は 428名で、党与対上官犯 2件 73名、上官殺 10名であり、とりわけ対直属上官犯は前年度の約


8「軍紀風紀等ニ關スル 報第 6號(昭和 17年 12月 19日)」(防衛研究所図書館所蔵)。


9 「事例集別冊第 7號」

弓削 日本陸軍における犯罪及び非行


3倍強の 62名に達するなど激増していた10。また昭和 18年度の奔敵逃亡の総数は 1,066名で、これは犯罪総数の 23.4%(第 2位)に当たり、階級別では、将校 16名(0.10)、下士官 29名(0.09)、兵 619名(0.03)、軍属 402名(0.01)となり、その大部分は兵、軍属によるものであったが、比率からいえば将校が最も高かった11


エ 昭和 19年

昭和 19(1944)年はさらに厳しい状況であった。同年 1月から 7月の幹部の犯罪数はすでに 490名に達し、前年一年間の犯罪数 684名と比較しても著しく増加していた。犯罪内容のうち対上官犯は 347名と前年度一年間のその総数に近く、また、奔敵逃亡についても奔敵 40 名、逃亡 1,085 名は既に前年度一年間の総数を超過しており、将兵の志気の低下を如実に表現しているものと考えられた12


第 1 復員省が戦後作成した「支那事変大東亜戦争間動員概史(草案)」13(以下、「動員概史」という)に記載されている「自昭和十二年至昭和十九年十二月軍法會議處刑人員各地年別表」によると、昭和 19年 1月から 11月までの処刑(死刑、懲役刑、禁錮刑)人員の総計は 5,586名で、前年の処刑人員、4,981名と比較すると兵力の増加分(昭和 19年の兵力は約 410万14で、昭和 18年の約 1.4倍)を考慮すれば、やや減少に転じたと言えるが、詳細は不明である。このように昭和 18年から 19年前半にかけての犯罪等の発生状況は、戦況の悪化に伴い質的悪化の傾向を益々強めて行ったのであった


なお、昭和 20(1945)年については今回、検証することができなかった


(2)犯罪等の具体例


ア 対上官犯(暴行脅迫・侮辱・抗命ノ罪)既述の通り、昭和 17(1942)年は上半期の分析から悪質な対上官犯の増加が憂慮されていたが、実際に 2件の悪質対上官犯事件が発生した


1件は同年 10月、中支(中国中部)、湖北省應山県廣水鎭馬際 の輜重兵第 3連隊第 1中隊で発生した下士官、兵による中隊長代理及び中隊将校に対する、党与、暴行、傷害事件15(以下、廣水鎭事件という)であり、


10 『偕行 記事』特號 846號(昭和 20年 3月號)118頁

11 「事例集別冊第 7號」


12 『偕行 記事』特號 846號(昭和 20年 3月號)116、118頁


13 第1復員省総務課「支那事変大東亜戦争間動員概史(草案)3/3」(防衛研究所図書館所蔵)。(以

下「動員概史」とする)


14 原、安岡『日本陸海軍辞典コンパクト版(下)』246頁


15 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 北支の治安戦<2>』(朝雲新聞社、1971年)329頁。『偕行 記事』特號 826號(昭和 18年 7月號)94-96頁


もう 1件は同年 12月 27日、北支(中国北部)、山東省舘陶県に駐屯する第 59師団第 53旅団隷下の独立歩兵 42 大隊第 5 中隊で発生した、兵による中隊幹部に対する用兵器、党与上官暴行、抗命、軍用物損壊毀棄事件16(以下、舘陶事件という)である


廣水鎭事件は、中隊長代理(第1小隊長)による過激な軍紀粛正に平素から反感を持っていた下士官 7 名、兵 32 名が共謀し、首謀者の曹長が週番士官として上番中に棍棒等をもって中隊長代理及び中隊将校に対して集団暴行を加えたというもので、首謀者の曹長は死刑に処せられるとともに、中隊長代理も職権乱用の罪で懲役 1年 6ヶ月に処せられた事件であった


また舘陶事件は、新編成部隊への転属要員を命ぜられた兵 6名が転属を不服として営内外において飲酒するとともに、週番下士官及び中隊付准尉に暴行、中隊長に暴言を吐くなどの行為を行ったうえ、中隊幹部を追って衛兵所を襲い銃を乱射、手榴弾を投擲して隊内を徘徊し、さらに隊外に出て乱暴狼藉を働いた事件であった。本事件については軍紀上、未曾有の事件として大問題となり、事件後、首謀者の 2名の兵が死刑に処せられるとともに中隊長は責任を取って自決し、大隊長、旅団長が重謹慎の処分を受けた。さらに大隊長、旅団長はもとより、師団長、第 12 軍司令官、北支那方面軍司令官に至るまで進退伺いを

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17/10/09 (Mon) 弓削欣也「大東亜戦争期の日本陸軍における犯罪及び非行に関する一考

提出する事態に発展し、軍司令官以下の 4名は、翌年、予備役編入となった。折しも舘陶事件が発生した日から 4日後の 12月 31日は、御前会議においてガダルカナル撤退が決定された時期でもあった


本事件の与えた衝撃は大きく、両事件を重視かつ憂慮した陸軍中央部は全軍に通達を発するとともに、翌昭和 18(1943)年 4月 8日には東京で行われた防衛総司令官、軍司令官等会同において、東條陸軍大臣が「・・・軍内外ノ現況ヲ察スルニ軍紀上惡質事犯漸・ノ兆シアルハ洵ニ深憂ニ堪ヘザルトコロニシテ、戰局ノ彌久擴大ニ伴ヒ此等事犯?釀ノ素因ハ今後漸ク其ノ多キヲ加ヘントス。今ニシテ拔本塞源之ガ芟除ヲ圖ルコトナクンバ軍紀弛緩スル所軍秩紊亂シ・ 得テ望ムベカラズ」17として軍の秩序確立だけを内容とする異例の訓示を行うに至ったのである


イ 奔敵(逃亡)


奔敵(逃亡)も昭和 18(1943)年から急増していたが、翌年 8 月に陸軍省が作成した「軍紀風紀上等要注意事例集(別冊第 8號)」18の中に、昭和 18年 6月に北支で発生した


16 北支方面軍司令部「舘陶事件ノ概要ニ就テ」(防衛研究所図書館所蔵)


17 『偕行 記事』特號 824號(昭和 18年 5月號)1頁


18 「軍紀風紀上等要注意事例集(昭和 18年 1月 28日陸密第 255號別冊第 8號)」(防衛研究所図書

館所蔵)


弓削 日本陸軍における犯罪及び非行 47


事例が掲載されている。これは現役兵が軍隊生活を厭忌し 2回にわたり逃走離隊を繰り返し懲罰処分を受けたが、その後も不寝番勤務を怠ったのを発見され、さらに自己担当の自動車部品の不足を再三注意されたことにより奔敵を決意、中隊長の軍服を窃取、着用して自動貨車を操縦し逃走を図ったというもので、単に軍隊生活を忌避したということだけではなく、度重なる失態に進退窮り、遂に奔敵に至ったという事例である。


ウ 将校の犯罪及び非行幹部(将校、下士官)の犯罪等は昭和 18(1943)年から増加の傾向を示していたが、将校の犯罪等の具体的事例を『偕行 記事』の中の「決戰下の軍紀振作に就て」19にみると、現役大尉が南方第一線に赴任途中、公務に名を借り上司に無断で帰国し、公金を私用に使って情婦と温泉地等において遊興を重ねた例や、また、防空中隊長が陣地付近の民家に妻を呼び寄せ下宿し、部隊と下宿間に軍用電話を架設した上、兵舎建築残材と部下兵を使用して炊事場を建築した例、などがある


最初に挙げた現役大尉の事例は、南方第一線に赴任途中に起こったものであるが、将校の赴任に関しては、当時から問題視されていたようで、昭和 18 年 2 月には陸軍次官名で「將校赴任ニ關スル件陸軍一般ヘ通牒(陸密第 485號)」20が出されている。同通牒では「將校ノ赴任ヲ嚴正ナラシムベキ件ニ關シテハ從來?々注意セラレアル處ナルモ左記ノ如キ適當ナラザル事例相當多ク時局下戰力ニ及ボス影響甚大ナルモノアルニ鑑ミ・・・」として、家事整理及び軍装品調達、並びに規定外の休暇帰省の為に赴任が遅れる者、また赴任途中、諸所に立ち寄って見物、滞在等をして速やかに赴任せず、甚だしい者は内地から満州への赴任に 1ヶ月を要した者、さらに交通機関の選定に当を得ず漫然と日時を経過する者、赴任先不明のため遅延する者などの具体例が挙げられている


また、防空中隊長の事例に関しては、前掲「軍紀風紀上等要注意事例集(別冊第 8號)」の中でも紹介されている。これには「・・・長期ニ亙リ公々然トシテ部下ヲ使役シテ住宅ノ建築ニ著手シアリタルカ如キハ全ク意想外トスル所ニシテ純一無雜ナルヘキ軍人ノ常識ヲ以テシテハ窺ヒ知ル能ハサルヘカラス マ マ」と極めて厳しい所見が付けられている


これらの他、「軍紀風紀上等要注意事例集(別冊第 8號)」には、収賄、窃盗、住居侵入、傷害、器物破損、猥褻行為、逃亡等、16件の将校による犯罪・非行等の事例が掲載されているが「警戒警報下ニ於ケル將校ノ非行ニ關スル件」として昭和 19(1944)年 6月から 8月までの 2ヶ月間に内地において発生した警察官、警防団員への暴行等の事例 6件を挙げて、将校以下の自粛自戒及び上級将校による監督指導の徹底も要望している。中でも現役

19 『偕行 記事』特號 846號(昭和 20年 3月號)117頁


20 「將校赴任ニ關スル件陸軍一般ヘ通牒(陸密第 485號)」(防衛研究所図書館所蔵)48


大尉が第一種警戒警報下、飲酒の上、白い私服姿で市中を散策中、防空補助員より防空服装を整える様に注意を受けたが暴言を洩らし、尋問にあたった巡査に暴行した事件及び現役少尉による類似の事件一件は、昭和 19 年 8 月に陸軍次官名で出された「防空警戒下ノ忌ムへキ犯行絶滅ニ關スル件陸軍一般ヘ通牒(陸密第 3436號)」21にも一例として記載されている。同通牒は冒頭で「軍人軍屬ノ自肅自戒ノ徹底ニ關シテハ ニ?次要望セラレタル所ニシテ現戰局下特ニ軍民一體ノ實ヲ発揮スヘキ要緊切ナルモノアル秋別紙ノ如キ犯行頻發ノ傾向アルハ遺憾トスル所ナリ」として全陸軍将兵に本事例を紹介し、事後この種非行の処罰を厳格に実施して再発防止の徹底を図るよう指示している


当時、陸軍は軍民の離間を非常に憂慮しており、前掲の通牒が出る 4ヶ月前の同年 4月には「・・・上級幹部ノ率先垂範ヲ更ニ一層徹底スルト共ニ部下ニ對スル監督指導ヲ強化シ嚴ニ戒メテ反感、疑惑ノ根底ヲ一掃シ以テ國民ノ信頼ニ對ヘ眞ニ戰爭遂行ノ中核タル陸軍ノ眞價ヲ發揮スルニ萬遺憾ナキヲ期セラレ度依命通牒ス」として陸軍次官名で「軍人軍屬等ノ自肅自戒ニ關スル件關係陸軍部隊ヘ通牒(陸密第 1658號)」22を出しており、軍用自動車を利用し農村あるいは店舗の食糧品を強制的に買い集めたもの等、5 件の事例を挙げて自粛自戒を求めている。しかし、この種事案は中々減少せず同年 11 月には再び陸軍次官及び参謀次長の連名をもって「軍ノ自肅自戒ニ關スル件陸軍一般ヘノ通牒(陸密第4708 號)」23を出すに至っている。同通牒では「・・・依然軍ノ威信ヲ失墜シ特ニ現戰局下軍民離間、反軍思想ノ因ヲ釀成スルカ如キ事例尚其ノ跡ヲ絶タス速カニ累次注意セラレタル趣旨徹底ノ爲具體的對策ヲ講セラレ度依命通牒ス」として、軍民離間及び反軍思想の要因となる 7件の事例を挙げ具体的対策の実施を命じている


軍はサイパンが失陥した昭和 19 年 7 月以降、内地の戦備強化に着手し、沿岸防御強化のため「本土沿岸築城実施要綱(大陸指第 2080 號)19.7.20」に基づき逐次、陣地構築等を実施しており24、陣地構築等のため各地に宿営して作業を行っていた25。このため軍人と民間人との接触の機会も増加していた。また食糧に関しても国内食料事情は急迫しており、軍は昭和 18年中期の主食において一割、副食物において二割の現地自活を企図し、昭和 19 年には各軍に現地自活要員を増加した。しかし示された所要量を自給することは容易ではなく、これを確保するために軍の一部には本来の作戦準備、特に部隊の錬成を抛


21 「防空警戒下ノ忌ムへキ犯行絶滅ニ關スル件陸軍一般ヘ通牒(陸密第 3436號)」(防衛研究所図書

館所蔵)


22 「軍人軍屬等ノ自肅自戒ニ關スル件關係陸軍部隊ヘ通牒(陸密第 1658號)」(防衛研究所図書館所

蔵)


23 「軍ノ自肅自戒ニ關スル件陸軍一般ヘノ通牒(陸密第 4708號)」(防衛研究所図書館所蔵)


24 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土決戦準備<1>』(朝雲新聞社、1971年)116-117頁


25 同上、521-522頁


弓削 日本陸軍における犯罪及び非行 49 擲して、これに専念するという現象を呈するものまで現れたのである26。以上、犯罪等の実態について見てきたが、次にこれら犯罪等にはどのような要因があったのか明らかにして行きたい


2 犯罪等の要因分析


(1)間接的要因(環境的要因)の分析


ア 大量動員による軍の質の低下憲兵司令部が昭和 16 年 4 月『偕行 記事』に掲載した「幹部の指導監督不充分と犯罪發生の關係」の中にも「殊に最近最も注意を要することは、軍屬の犯罪が激・した點であって、今次事變以來軍屬の採用が頓に・加し、素質も若干低下せる・・・」とある27、また昭和 20年 3月『偕行 記事』に掲載された「決戰下の軍紀振作に就て」の中にも、「兵備の飛躍的擴充に伴ひまして、將校以下の素質が急激に低下致して居りますことは必然的の結果でありまして、皆樣も十分御承知のことゝ存じます。」とあり28、当時から犯罪等の増加の背景として大量動員による軍の素質の低下が問題視されていた。陸軍の兵力は昭和12(1937)年には 95万人にすぎなかったが、同 20(1945)年には実にその 6倍の約 550万人に拡大した29。また現役の占める割合も序々に低下し、昭和 16(1941)年以前は約60%であったものが、同 19(1944)年末には約 40%に、同 20年には約 15%以下となっていたのである30。

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17/10/08 (Sun) 笙野頼子 嫌われても書きたいこと書く もつと危ない安倍政権を嫌えよ

笙野頼子



嫌われても書きたいこと書く もつと危ない安倍政権を嫌えよ



作家の笙野頼子さんが 長編小説『さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神』を出しました 増税・戦争法・改憲と 戦争出来る国つくりに熱心な安倍政権への危機感のみなぎる小説です はつきりものをいう作家の考えは…(金子徹記者)



表紙を飾るのは 今年5月に18歳4か月で亡くなった猫のギドウです 毒入り餌が撒かれるような場所で保護しました


「ロックでダンディな元ぼす猫です 危険なごみ捨場で子育てしてました 私を信用して拾われてくれた 最期まで大切に出来て甲状腺の病も克服して元気だったけれどペットロスがきつくて」

猫神の独白で

物語は猫神の独白で始まります 舞台は難病作家が猫と暮らす千葉の「S倉市」安倍政権が強行する沖縄での新基地建設やTPP(環太平洋連携協定)への怒りと愛猫との生活が渾然一体でつづられます


「『さあ、文学で戦争を止めよう』というのは世界中の戦争を止めてみせるよということではないんです マスコミが書かない危機を それぞれが得意なもので告発しようということ 歌手は歌・カメラマンは写真で止める 私には文学しかないから『さあ、文学で戦争を止めよう』」


小説の部品となるのは政治・料理・病気と多彩です


「ともかく目の前の事全部書くのが私の文学」


なのです


「細かいことが大切 変だと思ったことを変だという そういう当事者意識が文学だと思う 私小説系だから相手に問い返す 首相や権力者など戦争をしたがる当人やその支持者がまず戦争にいくべきだ『戦争すると言ったやつから死んでみろ』と書くしかない 書きたいことを書けば干されたり嫌われたりするということには慣れています でも 私のことなんか嫌ってもしょうがない それより戦争政権を嫌えよって思うんですけど」

最近は共産党

ストレート表現が持ち味のひとつです 自身も猫も病を抱え困難に直面し続けた日々 その目で国会を見ると 怒り心頭


ああああああ もうすっごーい頭に来るっ 少額年金者の飯を取るな戦争政府め 難病者のおかずを掠めるな 売国内閣め


「私は20代は保守寄りで共産党も嫌いでした でも今は世界も激変した 信用しています こんな時だからみんなが協力して何とか安倍政権を止めないとひどいことになります 日米FTA(自由貿易協定)を止め戦争を止めなくては ご飯とお薬・猫と憲法を守らなければ 今も共産党とは対極かもしれないが ここ10年は共産党に投票しています」


10年前に現在を予見していたような原発国家の独裁政治の物語「だいにっほん」シリーズの書き手でもあります 最近は故ギドウが三毛猫に生まれ変わる夢を見て…


「長生きだと20年生きるんですね でも私は81歳までは飼えないだろうから… 猫との出会いは運命です いろんな体験をさせてくれた 猫を飼うようになつてから文学賞が続きました 猫たちと共に喜び・泣き・怒ってきた だからこそペットロスはつらい 同じ体験をした人たちと一緒にロスを克服出来るよう 何か書こうと思っています」

出典

『しんぶん 赤旗 日曜版』2017/10/8(29面 読書のページ)


写真「作家 笙野頼子 1956年三重県生まれ「極楽」で群像新人賞『なにもしてない』で野間文芸新人賞『二百回忌』で三島由紀夫賞『タイムスリップコンビナート』で芥川賞『幽界森娘異聞』で泉鏡花文学賞『未闘病記』で野間文芸賞」


書影…笙野頼子『さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神』講談社





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17/10/05 (Thu)

17.宿泊や炊出や萬事の世話(金谷村役場)

災禍中の事とて美事美談は所々に起り得る事は人類生存上當然過ぎる程當然な事であるが當金谷村は房総の分岐點でこの地に屹立せる鋸山は東都人士に石材の豊富を以て知られている 其の山腹を一貫した隧道は車窓の人としても6分餘も費やす大隧道である 汽車は不通ではあつたが辛うじて歩行の出来得た事は房州方面の避難者の■道として不幸中の幸と今更の様に話題に擧げられている 在京の安房郡出身者は疲れた足を引きずり乍ら本村に辿り着くと元気百倍とでも言ふか既に我家に歸つた心地安堵の色が湧いた 本村では此の避難民のために小學校を開放宿泊所に充て男女青年團軍人分會の炊出しと共に■々とした心と長途の旅の疲れを慰めるに充分であつたことと思ふ 避難者宿泊は毎晩人を下つた事は無かつた

18.京濱への救援(小湊町役場)

「東京横濱等の震災地に住居する本村出身者及出稼者 奉公人等の生死をたしかむる爲捜査隊出發するにより同地に關係者ある者は直に其の住所氏名を申出づる事」通知せしに捜査人180名を算するに至れり 震動未だ止まざるを以て村長助役は野外にて之が處理を爲したり折から何時海■襲來するやも知れず船を出すは危瞼なりと云ふ者ありたるも村長は決行することとなり總噸數12噸の發動船若宮丸,田中丸を借受け■に決死的乗組員を募集し26名を決定し米15俵其の他副食物,飲料水を積込4日午後3時小湊を出帆せしめたり


船は5日午前10時東京靈岸島に到着 1班を4名とし5班を組織し乗組員は辯當を腰にして「房州小湊」と大書きせる旗を先頭に「小湊救護團」と書きたる輪袈裟をかけ丸の内上野品川其の他の避難所を訪問し

19.當時の驚愕(丘山村役場)

20.雇はれたが縁で命の親(天神山村役場)



▽ 21.篤行美事活躍一覧(八東村青年團外 19項




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17/10/04 (Wed)

11.寝食を忘れて(大山村役場)

9月1日午後8時頃千葉縣農會技手伊藤正平北條税務署屬久我武雄の兩氏來着 稀有の大震災にて北條,館山,那古,船形等は全滅し倒潰せざるものは房州銀行(今 千葉合同銀行北條支店)及税務署の二棟のみにして死傷者の數知れず斯る惨状は少時も放擲[*1]し置くを許さずと雖も急に應援を求むるも郡吏員は八方に奔走し或者は親を失ひ一人として使者たるべき者なく脚夫を雇ひ度も皆被害者にして應ずる者なく大山村吉尾村は山間部にして被害の程度も少なく求援に便なるも之れを告ぐる使者なく 時の郡長大橋高四郎は苦心せられつつあり 税務署は幸倒潰等の被害なきにより税務署長に交渉し兩氏の出向を乞ふ所ありたり 兩氏は人々色を失ひ戰慄恐怖の際克く旨を了し快諾闇夜只1個の古提灯を携へ龜裂凸凹の惡路や陥落の橋梁を乗越え來り郡長の意を述べ直に應援出動せられ度旨聞く事々に被害の慘禍は驚愕せざるものなし尚 病院,醫師,藥劑師宅も倒潰し負傷者の應急手當に要すべき材料なくて右衛生材料携帯片時も早く出動方心配せられたく又出動者には當然食事を給與なすべくも罹災民全部食料に窮し目下之が救助の方法を講究中なれば食料は携帯せられ度 尚又掘井戸水道は崩落全く汲むに水なく飲料水も携帯を乞ふ有様なれども水はまづ如何なる方法によるも差つかひなきことなるべく 食料の用意にて足るべき由 依て時の在郷軍人大山分會長塚越均一,青年團長宮崎徳造の兩人は東奔西走團員會員中自轉車所有者を以て先發隊となし,之に衛生材料,脱脂綿,ガーゼ,アルコール,エーテル石炭酸,葡萄酒等を取纏め各人に分担携帯せしめ大山救護隊なる紙旗を箙[*2]となし漸く11時頃急行を命じたるに 夜中の惡路を厭はず2日午前1時18分に着し救護隊第一着一番乗なりき 順次徒歩のものもあり午前11時には154名参着せられたるに北條,館山,船形の3ヶ所に配置せられ 大いに活動なし青年團 軍人分會共に感謝状を賜りたり 分會長塚越均一氏は北條町に於て總指揮官となり青年團長宮崎徳造氏は共に聯絡をとり 出動者食料辨當の炊出に從事し 自宅前に四ヶ所の炊事場を設け附近の人々の援助を乞ひ握飯を作り残暑なれども腐敗を恐れ朝晝夕の三食を傳令の通知による人員數により不足を生ぜざる様に傳送したり


相川伴吉氏は振動中何人も屋内に入るを恐るる際に拘はらず救護米の精米に從事し時々激動の爲發動機の故障を生ずる事ありしも義侠的罹災地民の救助の一端たりとして晝夜兼行精米に精神的に努力せられたる功績顯著なりとて郡長より表彰状を送られたり


中山長吉は同じく救護米の運搬に從事し夜中道路龜裂橋梁陥落の箇所あるにも拘はらず餘震頻々たるも危険を冒し運送を一身に引受け被害地民に便利を與へたり


役場所在地なる埋田組の人々は毎日交代に當番をなし避難民に牛乳及握飯を造り接待所を置き接待せり


暴行團の襲來ありなどの流言蜚語は時々刻々に盛んに傳はり竹槍木刀日本刀猟銃等各自夫々の得物を所有して警戒所間の聯絡をとり警戒所毎に石油空罐に繩を張り觸れれば音響を發する措置をなし如何にも物々しき有様にて人心恟々たりき


消防組は警戒巡察に當る者の外一部は消防機具置場に配置し萬一に備へ遺漏なきを期したり

12.救護に狂奔(上三原小學校)

大正12年9月1日の大震災の直後安房聯合青年團長より應援頼むの召令に團員拾名は直に準備にかかり餘震頻々としておびへ恐るる妻子眷族を殘して握飯を背負ひ團長川上乾氏に引率されて激震地安房郡北條町へ向つた


そして聯合團長の指令によつて倒潰家屋の整理木材の運搬家具の片付け避難所の建設等に懸命に努めた 其の後又出動して日數に於て5日迄人員32名に達した 前安房郡三原尋常小學校長水野良太郎氏(當時安房郡南三原尋常小學校長)の居宅倒潰の厄に遭つたと聞き 9月8日團長川上乾氏は一行58名を引率して南三原村沼に應援に向つた 氏は數年間三原小學校長として兒童教育は勿論地方開發の爲努力せられた恩に酬ゆる好機として團員は勿論學區内婦女子迄加はつて甲斐甲斐しく倒潰家屋の整理を手傳つた


住宅倒潰して呆然たる折柄 思ひ掛けぬ舊任地學區民の應援には同氏は只々感激の涙を催された


斯くて日數は8日,11日,27日の3日延人員86名に達した 報恩感謝の念漸く薄らぎつつある今日誠に麗はしき美談である

13.青年團の活動(大澤生)

大正12年9月1日 余は郷里の波岡校に奉職して居た 此の日第二學期の始業式を終へ學期始めの會議も済んで一同晝食の箸を取らふとした一瞬 どどっと床板は揺らいで見る中に 屋根の瓦は落ち戸の倒るる音 硝子の破れる音物凄く生きたる心地も無つた あはただしくも御影を安全な場所に奉遷し校庭の櫻樹の下に避けて校舎を見詰めていた 此の日午後1時頃本村小濱支部長は團員50餘名を引き連れて來り頻りに至る餘震の險を冒して瓦の将に落ちんとするを取除き 室内に入りて雜然たる震後の大掃除を爲して兒童の授業に差支へなき迄に働かれた 尚歸途縣道に出でて二ヶ所の崖崩れの片付をして交通の故障を去り 1日より1週間は縣道傍にて故郷をさして歸る避難の人々の救助に一身一家を忘れ殆ど不眠不休の状態で力を盡くし負傷して歩行困難なる者は車にて隣接の村迄送り 渇せる者には飲料を與へ空腹者には焚出の握飯を與ふる等眞心込めての活動振りを發揮した 夜は又2時間目毎に各班70餘戸の各戸の警備の任に當られたので家人は安心して屋外に眠ることが出来た

14.多数の教へ兒の危難を救ふ(山田つる)

當時私は小糸補習學校に奉職して裁縫科の受持でした 丁度9月1日は始業式だつたので式後いつもの様に生徒全體が大掃除をいたしました 10時頃すっかり終り朝からの風雨もおさまり心地よく御辨當を頂かうとしたとき突然の出來事だつたのです


お箸を忘れた二三の生徒が小使室へ行く可く廊下へ出た其の時「あれ 地震だ 早く外へ」と云ふのを室内で私が聞きつけ地震の時あわててはならない やたらに外へ出ては却て危険だからと思ひ「みんな早く机の下へ」と申しました


廊下に居た子どもも大急ぎで室へ飛込みました 私もまさか潰れるとは考へないので一人椅子に腰を掛て様子を見ていましたが室内にあつた大鏡が落ちたのを見ると その瞬間「これは」と思ひ机の下へ入りました 入ると近くに居た豫科の生徒2名が「先生」と兩脇からかぢりついて來たので二人を抱いたまま小さくなつていると すぐまた揺れると思ふ間もなく潰されました 中の子は「先生先生」と云つて泣く 私も當時まだ年も若かったので共に泣きたいのをぢつと我慢して子ども達をなだめました 10分も經つたかと思ふ頃に頭上でみしみしと音をさせるものに氣付きどなたかと聞きますと或る一人の生徒が窓際から出て私を探して居たのです


「先生 出られます」との言葉に急に元氣つき思はず頭の上の天井板を力一杯押し退けて見ました 幸ひにして板は取れ 隙間から外が見えるので すぐ側の二人の子どもを出しつづいて自分も出ました


他の生徒はどうしたかと見れば大方は出て居りましたが材木の間から着物が見える これは大變と私は名前を呼びました 返事がありどこも痛めては居ないとのこと「動かないでね すぐ出してあげるから」と元氣をつけて私は血眼になつて人を探し求めました


屋根の上から見ていると一人の男の先生(それは石川徹先生です)を見つけ必死の聲を出して呼びました 先生もすぐ駆けつけて下されたので「あの子どもを出して下さい」と申しました すると先生は「ぢや二人でこの材木をさげてみませう」と材木を上げかけましたがとても力及ばず その内駆けつけた近所の方々が 鋸を以て其の生徒二人を出して下さいました


何等負傷も無く出て來た子どもを見たとき私は嬉しくて泣きました それから急いで子どもを調べました結果全部(たしか25,26名)の人たちがみな元氣で居るのを見 危険だからいろいろと注意を與へ家へ歸らせました


ほつとする間もなく私の頭は教室の火鉢へ走り もしや火事でも起しては申譯ないと校長先生に御相談して人夫の手を借りてその箇所を取りこはし出して頂きました 幸ひ火は消えて居りました ほんとうに天佑だつたと思ひます


大切な子どもをお預りして怪我をさせてはと思ふと後から思出しても涙なしには居られませんのです 全くお陰様だと神に祈りました

15.親切が第一(金谷小學校)

金谷村は鋸山を控へて安房郡に接して居りますので大震災の當時在京中の安房郡出身の歸省者は汽車不通の爲徒歩にて本村を通らなければならなくなつた 地震のために鋸山の遂道は崩れ落ちてしまつたので通行の人達は鋸山を越へなければならなかつた それが爲9月3日頃から20日頃迄毎夜70,80名位の泊り人があつて村では小學校を開放して泊めてやつた


此の時 本村の男女青年團員は村内有力家より白米の寄贈を仰ぎ炊出しを爲し握り飯を作り此れ等の人々を途中に待ち受け學校へ案内し給食其の他親切に世話をした 學校では土着の黒川教員が主としてこれ等の人々を世話してやつたが電氣はなし泊り人は大勢だし遠路徒歩にて疲れ切つているので其の世話は容易ではなかつた尾■な話だが中には廊下や土間等へ大小便をやらかした者もあつた まるで人間の住む家とは思はれなかつた 臭氣紛々として豚小屋の様な感じがした黒川教員は學校の方の責任と此れ等の人々の厄介なる世話の爲毎夜寝られなかつた それでも朝になれば小便と共に此れ等の不潔な所を掃除し晩の泊り人を待ち受けたのであつた

16.不幸なる人々の爲に(岩井小學校)

岩井町忍足登■は大震起るや5分を經過しない中に村内の慘状を見て自家に製造しありし菓子價格約百圓餘を直ちに小袋に分ち罹災者に配布し慰安に努めた 當時之を受けた人々は今に至るも忘れ得ぬ喜の一として語り合つている


同井上義昌,能重利器は震災後日尚淺き9月6日 村民の常食品缺乏に■悩むを見てこめ10俵餘を罹災者に配給した 之が爲に罹災者飢を凌ぐことが出来未だに深く感謝されている


震災の時 鈴木要蔵の宅に醍醐といふ靜養を要する重い患者がいた 地震で皆避難したが 醍醐は逃げ出す事が出来ず家の中に恐怖と病苦とに■へていた 鈴木は之を知るや周圍の人の止むるをも聞かず又危険をも顧みず勇敢にも家の中に飛び込み醍醐を抱へて家を出やうとするや否や家の■は大音響を放つて崩壞し屋根瓦は勢よく飛び來り遂に鈴木は體を負傷するに至つた 然れども氏は之にひるまず醍醐の病状を氣づかひ負傷せるも物ともせず附近の醫師に連れ行き治療を受けしめた 氏の此の勇敢なる行と犠牲的精神に人々は非常に感動した


大正年月日の激震に際し各區一帯は家屋倒潰して壓死せんとする者數多かつた 此の時餘震なほ人心を脅かし海■再襲するとの流言に人々は避難に夢中であつた かかる間に佐藤良助,鈴木清吉,杉田和吉,田中猪之吉等は自宅の倒潰をも■ず自己の危険をも冒して附近の壓された者多くを救助した 大正年月日帝國在郷軍人會長より其の功績を賞して表彰状を授與された







*1:擲 ちゃく なげうつ

*2:箙 フク えびら 矢を入れて背負う武具

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17/10/03 (Tue)

id:dempax:19240601

IV-3章 篤行美談竝笑話

非常時に處して篤行美事笑話など數限りなく多いであらうが 多くを知るを得なかったのは遺憾であつた 第1節に於ては篤行美事に屬するものを掲げ殊に記事の簡單なるもの輕易なるもの其の他の救援活躍斷片の如きものは此の節の中段以下に無題のまま一括して之を載せることにした 第2節に於ては笑話を記述したのである


元来非常時には 悲劇と共に喜劇が行はれるものである 篤行でも美談でも笑話でも非常事變に際し人間の持つている資質の閃きを具現したるものである それ故に其の内容を吟味して冷靜に之を解剖すると人間の眞の面目がよく窺はれると思ふ この意味に於ては悲喜劇録も亦貴重なる文獻の一である 殊に篤行美事に至つては録して以て後世に傳へ社會教化の資料ともなり得るのであるがしかしよく考えてみると関東大震災と云ふ如き大非常時に於ける行動は 篤行美事に屬するものは非常に多い 觀方に依ては救援の殆ど悉くが篤行美事である 篤行美事と銘を打たないで普通の活動として報告しているものの中にも より以上の篤行美事が多いので本篇に於ては前に述べたやうに記事の内容の主眼點に留意して分類し 必ずしも各地からの報告の表題に捉はれず登載した


(IV-3-1節)

篤行美事其の他

1.数百の生命を救つた漁船(富津小學校)

海邉は恐怖と興奮とに目の色を變へた老若男女で一ぱいであつた 對岸七里横濱の邉り黒烟濛々天に漲る 心痛の色は人々の面上にあふれた 横濱全滅の聲は嵐の様に傳はつて来た 救援隊は號令を要せずして集まる身躰強健海を陸と心得て恁ふした救難に一種の興味さへ持つ若者は期せずして集まつた 其の夜焦熱地獄の底から這ひ出して本牧根岸の海に逃れた 着の身着のままで一本の藁でも掴まふと言ふ生の執着を以て


富津救援漁船が岸に着く,一隻又一隻,完全に岸に着かぬ内から海に這入って救いを求める者が引きも切らず船は忽ち一杯人の山,吃水線を舷とすれすれに救助船は斯くして必死の力漕を續けて死線に漂ふ群を富津へ運んだ 梭[梭 さ 機織りの具「杼 ひ」]の如くに船は行き交ふ,日に夜に


上陸した憐れな人達は都合數百人,食を與へられ著物[まま]を着せられ幾日の休養の後旅費さへ貰つて各自の家路へ急いだ 厚い感謝を捧げながら… 以上は血の氣の多い當町民が數日間の涙ぐましい動誌である 人類愛を高調した美談である されば横濱市長からは感謝状を贈って來た 勇士活の面々は光榮に輝いた

2.精米機が役に立つ(總元村役場)

本村大字石神 中田中(當時29歳)は同所長田精米所の精米機運轉用發動機の破損品の修繕及部品購入を依頼せられ 8月31日本村出發横濱市某鐡工所に至り9月1日部分品を購入し 修繕品を修理中突然彼の大震災に遭遇し 忽ち家屋倒潰し下敷となり 顔面其の他に十數ヶ所の重輕傷を負ひたるも漸くにして抜け出で購入修理せる器具を携へ 直ちに歸路に就きたるも震災に依る火災は随所に起り 至る所避難民雑沓し交通自由ならず 東京市内に入りては全く修羅の巷と化し彼方此方と血路を見出したるも交通機関も亦不通途絶の状態にて顔面より流るる鮮血と身に重傷を負ひたる苦痛をこらへ漸くにして同月3日夕刻歸村し 運轉を中止居る精米機の運轉を開始することを得せしめ當時最も必要に迫られたる精米所も此の同人の苦心に依り非常に便宜を與へたり同人は今も其の當時を物語り負傷の跡歴然たるものあり

3.恩に感じ工場に奮闘(船橋町役場)

船橋町九日市麸製造所 元消防組頭大野善兵衛は12年10月習志野収容所の副官古賀少佐を訪ひ 同所に収容中の避難民中最も哀むべき孤兒の養育方を申込み 當時深川區平井町民五郎長男昌一(當時9歳)を引き取り爾來殆ど我子の如く義務教育の終るまで通學せしめたるを以て 同少年は深く氏の恩を感じ 今は專心同家の爲同工場にて奮闘して居るとは 方今情義頓に廢頽せむとする時 斯く涙ぐましき美行は洵に世の龜鑑と謂ふべきなり

4.鋸を持って活動(舟形町尋常高等小學校長 忍足清)

船形町川名澤口常太郎(明治36年生)は大工の職にあり小學校時代より成績優良にして快活勇敢であつた 大震災に際し惨状を見るや直ちに鋸鉈を携へて勇敢なる活動をなし倒潰せる家屋に壓せられたる舟形町川名高尾善二郎外13名を救助した 其の勇敢なる態度と犠牲的精神には人々感動せざる者はなかつた


この類の感ずべき行動をなせる者は當町には尠くなかつた

5.負傷者が大切(船形町役場)

船形町川名岡本哲郎なる人(慶應3年生[うまれ])は町醫及學校醫の職にあり 震災に際し家屋倒潰加ふるに令嬢は壓死せられたにも拘らず多數の負傷病者の無料治療に從事せられしこと月餘に及ぶ 全く一身一家を犠牲にしての行動は人々皆敬意を表し感謝しない者はなかつた

6.無料治療(船形尋常高等小學校)

船形町中村龜七(明治4年4月13日生)は町醫・學校醫の職にあり震災に際し家屋倒潰せし上火災の爲身を以て逃れ出で 身には數箇所の打撲傷を負ひ普通の人ならば身動きもならぬ有様であるのに君は襦袢一枚を着せしまま鞄一箇を取り出し他は皆焼失せしに多數の負傷者の治療に月餘に及んで無料治療に從事し獻身的活動を持續せられしことは人々皆感謝の意を表しない者はなかつた

7.自家の倒潰を忘れて他の爲に狂奔(富浦村役場)

常には職務の爲に身を犠牲にしなければならぬとか責任觀念を盡さねばならぬとか言ひ得るが一朝自分の家が非常の迫害に遭うとなると大抵の者が他を顧みる勇氣がなく先ず自分の家の事に力を向けるのが普通であるに此處に克く其の職務を盡して衆人を感激させた人がある


本村富岡區に出口市助と言ふ極實直なる人がある 家は夫婦二人きりである 年は其の年66歳普通であれば隠居する年頃であるに擧げられて同區の區長をして居る かの震災に全潰の憂目を見て居る責任感の強い氏は家の事を顧みる餘裕がない 老婆に後を託して自分は直に區内を駆け巡り 被害の状況を調べたり火の用心をさせたり 區民を安全地帯に避難させることに氣を揉んだ 殊に區内に1名の行方不明者があると云ふのを八方手分して捜索したり其の夜は一睡もせず徹宵盡力奔走して過した 翌日は被害の調査やら救助の方法を講究する爲或は救護所に相談し役場當局の意見を尋ね引續きて罹災民の調査やら救助物資の配給やら道路交通の整理やら八方區内罹災の救助に席温まる暇なき有様 而も自分の家は倒潰したまま打捨ててある 手をつける暇がないのである 區内消防夫や青年團員等は相謀り區長の此の好意を深く感謝し「吾等は區長のあの厚意を晏然黙視することは出来ない 何としても區長の家のあの状態を見捨てて置かれない」と議一決した 直に翌日から一同集つて二日に亙つて倒潰家屋の取片付から假建築の造營やらまで全部家人の手を煩はさずにすつかり出来あげてしまつた そして彼等は「此れで吾々幾分安心出来る」と滿足した 市助氏はこの人達の厚意を感謝した


氏の職務に誠實なるは單に該區内のみならず村内一般に之を認めて 其の行爲に敬意を表しない者はなかつた


大正13年1月1日銀杯一組を贈りて當局は氏の功勞を表彰した

8.職務に身を忘れて(石野正)

我が瀧田村は彼の大震災に當り 比較的被害少かりし爲 青年團 消防団員の大部分は被害甚大なりし北條那古船形方面に出動して避難民救助消防やら糧食の配給等に寝食を忘れて盡力すること3日間に及んだ 特に火災の多かりし船形町には村内有志より多大の米穀と牛乳と莚類の寄附を募つて避難民を救済し且村内數ヶ所に避難民休養所を設けて糧食(握り飯,牛乳,湯茶等)及宿を無料にて提供して盡力せし青年團竝消防團員の行爲は感謝すべきものが少なくない


瀧田小學校長石井某(48)外2名の職員は 小學校の倒潰する其の瞬間に於て 頭部肩部其の他數ヶ所に重傷を負うて畏くも御眞影を安全地帯に御移し申した其の時 石井校長は負傷の外に肋骨を2本折つた爲 一時は身動きも出来なかつたとのことである 此れ等教員は自己の職務を良く全うせるものといふべし

9.美事(川名利夫)


北條町長須上野幹太郎氏は震災の時 日が暮れると家人車夫に命じて所有の米を罹災者に分配してくれた 而もその仕方は「今夜此処にお米を少々置いて行きますからお上がり下さい」と置いて暗に隱れて行くので人々は神様ではないかと思つたさうである


そして9月1日から10日までつづけてその量は80餘石に達したといふ


氏は災害當日から患者は一切無料施療でその後も1年あまり誰からも1餞の藥價を徴せずにやつたさうである

10.今のは神様ではないか(代見浦)

某在郷軍人の談に曰く 追想せば今を去る7年前 … 大震災の當時は誰も飲まず喰はず着のみ着のままで一夜を明かしたのであつたが此の惨たる有様に人知れず奇特な働きを獻げられた者がある


吉田哲夫氏(假名)は1日の震災に負傷して身動きも出來なかつた始末であつたが夕陽の西に沈む頃になると家人下男等に命じて所有の米を罹災者に分配してくれた 而も其の仕方が洵に美しかつた


「今晩は此處にお米を少々置いて行きますからお上がり下さい」… と罹災者の門口に米を置いて行くのである … するとそれを貰つた罹災者は蘇生の思ひで「今のは神様ではなかつたらうか」と後を伏し拝み感涙にむせぶのであつた


かうした仕方を9月1日の夜から幾夜となくつづけた


又年若い庄司喜美子氏(假名)は餘震頻々と來る中に進んで傷病者の看護に當り寝食を忘れてその熱情を盡された 加之母と共に町内を戸別的に訪問し救急藥を施與して多くの傷病者を救護したといふ


鳴呼斯の如きは立派な仁義の模範ではありませんか






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17/10/02 (Mon) 希望の党 10項目の「政策協定」

希望の党が衆院選の公認候補に誓約を求める10項目の「政策協定書」の主な内容は以下の通り。


(1)党綱領を支持し、「寛容な改革保守政党」を目指す


(2)現下の厳しい国際情勢に鑑み、現在の安全保障法制については適切に運用する。その上で不断の見直しを行い、現実的な安全保障政策を支持する


(3)税金の有効活用(ワイズスペンディング)を徹底し、国民が納める税の恩恵が全ての国民に行き渡る仕組みを強化する


(4)憲法改正を支持し、憲法改正論議を幅広く進める


(5)国民に負担を求める前に国会議員が身を切る改革を断行する必要があること及びいわゆる景気弾力条項の趣旨を踏まえて、2019年10月の消費税10%への引き上げを凍結


(6)外国人に対する地方参政権の付与に反対


(7)政党支部において企業団体献金を受け取らない


(8)党の公約を順守


(9)公認候補となるにあたり、党に資金提供する


(10)選挙期間が終了するまで選挙協力の協定を交わしている政党への批判は一切行わない

■自民党公約の骨子


●北朝鮮への国際社会の圧力強化を主導


●イージス・アショア導入などミサイル対処能力を向上


●消費税10%時の増収分を子育て世代へ集中投資


●2020年度までに幼稚園・保育園を無償化、32万人の保育の受け皿を整備


●自衛隊の明記など4項目を中心に憲法改正


●基礎的財政収支黒字化の目標は堅持


●新規制基準に適合する原発の再稼働






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