「なんとなく=仕方ない」型フリーターの多くが、曖昧に続く雇用不安とアイデンティティ不安を一挙に解決してくれる「何か」が「いつか」自分たちの下へ突然訪れる日をひたすら受動的に夢見ている。その「いつか来るはず」の不確定な未来の夢という曖昧さが、現在の生活の「なんとなく」な曖昧さを担保している。
 僕らはこの感覚に耐え続けられるだろうか?
 正直、無理だろう、と今は思っている。
 そんな雇用不安とアイデンティティ不安を一挙に解決してくれる「何か」は、歴史的に、《ファシズム》と名付けられる。
‥‥
 僕らは、とは言わない。この僕は、その圧倒的な不安解消の魅惑を前にして、絶望的に高まっていく雇用不安定化と流動化と各種保険の庇護の無さの日々を前にして、刻々と募っていく生活の疲弊と無力さの中で、「何か」に吸収されずにいられるんだろうか?

  • たいへんなんだなあ。かわいそうに。という感じ。わたしも無力なのでたいしたことはできないが、まあ、それはそれとして、よくわからないのは、こうした絶望的な調子に対して誰もなにも言わないことのほう。誰かなんか言ってやれよ、困ってるんだから*1

*1:――と、田川節が身についてきたこのごろのわたし♪(←ヘン)

ドラマールのこの本〔『ポリス論』〕における命題というのは、個人にとって余分なものが国家にとっては不可欠であるかもしれず、その逆も成り立つという点です。第二の重要な事柄は、人間の幸福を政治の客体にしている点です。なるほど、西洋諸国で政治哲学が始まって以来、誰しも人々の幸福こそは統治支配の永遠の目標たるべしということを知ってもいたし言いもしていたのはわたしも非常によく承知していますが、しかしその場合、幸福は実際に良い統治支配の所産ないし結果であると理解されていた。ところが今や、幸福は単なる結果にとどまらない。個々の人々の幸福は、国家の存続と発展のための必要条件である。幸福は条件であり、手段であって、単に成果ではないのです。人々の幸福が国力の構成要素である。(p.255)