ダニエル・H・フット「日米比較刑事司法の講義を振り返って」

  • ダニエル・H・フット「日米比較刑事司法の講義を振り返って」『ジュリスト』1999年1月1・15日合併号1148号https://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=direct&local_base=GU_KS&doc_number=011814879
  • 著者は米ワシントン大学法学部教授(当時)で、日本法や刑事司法などが専門。この論文では、同大学で自身が担当した日米比較法講義の概要を紹介しながら、両国における刑事司法制度の違いを説明している。日本刑事司法に関する、自身の論文(Daniel H. Foote,“The Benevolent Paternalism of Japanese Criminal Justice", 1992)への言及もある。
  • とくに興味深かったのは、日米弁護人が依頼人に求める語りの相違への注目である。著者は、刑事弁護マニュアルなどを例に、“アメリカの弁護士は真実の追求を重視していないが、日本の弁護士は真実の追求を使命としているのではないか”と問いかけている。

 私の見るところでは、日本の弁護士の多くは、真実の追求を自分の主たる使命としているし、検察官も裁判官も真実の追求のために尽くしていると弁護士も信じているように思われる。弁護士は、被告人が無罪だと思えば、証拠の問題などで一生懸命に闘う。しかし、被告人が有罪だと確信すれば、弁護士の多くは、その被告人が裁判で有罪になるのは当然かつ妥当だと考え、そういう事件では、無罪を勝ち取ることではなく、むしろ被告人にもっとも有利な処分を勝ち取ることに努力するのではなかろうか。
 日本の刑事弁護のためのマニュアルに、次のようなアドバイスが書かれている。被疑者あるいは被告人と最初に会うときには、時間をかけていろいろな質問をしなければならない。なぜなら、弁護人としては、何が本当に起こったのかを正確に知る必要があるのだが、被告人はなかなか話したがらないので、かなり厳しく、徹底的に問いたださなければならない、というのである。 (p.168)

 これは、私には、特に印象的であった。それは、20年前にハーバードロースクールで受けた刑事訴訟法の授業を思い出させてくれた。先生は、その当時からすでに刑事弁護士として有名になっていたAlan Derschowitz教授で、トピックは被疑者や被告人との最初の面会であった。
 Derschowitzは、依頼人が何も言わない〔何か言う?〕前に、かならず依頼人に次のようにいう、というのである。『真実を語るな。一番聞きたくないのは、真実なんだよ。真実を知ってしまうと、弁護の妨げになるかもしれない。自分が知りたいのは、真実ではなくて、むしろ君が陪審に信じてほしいと思う物語だ。15分ほど休憩をとるから、そのあいだに、君が信じてほしいと思う物語をじっくり考えなさい。私が戻ったら、その話を聞かせてくれ』このセリフは今でもはっきり覚えているが、この点に関しては、Dershowitzは、アメリカの弁護士として決して例外的な存在だとは思えない。 (p.168)

  • つまり、アメリカの弁護士は依頼人に"信じてほしいと思う物語を語れ""真実を語るな"と求める一方、日本の弁護士(や裁判官や検察官)は被告人に"真実を語れ"と要求する傾向がある。そこに日米刑事司法の大きな違いの一つがあるのではないか、というのである。
  • もっとも、この指摘はあくまで1990年代のもの。日本の弁護士が現在も一般に真実主義をとっていると言えるかどうかは疑問の余地がある。刑事司法改革や自白の問題を論じた座談会で、刑事訴訟法などが専門の後藤昭(青山学院大学教授)は「いま多くの弁護士たちが考えている当事者主義的な弁護のあり方は、被疑者を証拠方法としてとらえない考え方です」と述べている(指宿信ほか編『刑事司法への問い』 シリーズ刑事司法を考える第0巻,岩波書店,2017年, p.201 http://amzn.to/2rXfV7G)。フットが観察した当時と現在とでは、弁護人の姿勢が大きく変わっている可能性も十分ある。
  • それでも、この弁護人の姿勢に対する着目は重要だと思う。というのは、刑事司法においては、こうして生み出される被告人の語りが、後の司法過程を左右する重要な証拠となっていくように思えるからである。もしも、弁護人の依頼人に対する姿勢が1990年代と2010年代とで変化しているとすれば、それに伴い刑事司法過程も変わっているのか、変わっていないのか、変わっていないとしたらなぜなのか、が問わなければならないだろう。
  • 著者の結論はこうである。

 現在のアメリカでは、黒沢明の『羅生門』に描かれているような、真実は神様以外だれも知りえないというような考え方に基づき、当事者主義の手続はゲーム以外の何者でもないとする見方が広まっているといえる。そして、当事者主義の名のもとに、勝訴するためには、ほとんど何でもやってよいといった風潮が強くなっている。これに対し、日本の弁護士にとっての当事者主義という概念は、アメリカ人弁護士のそれとは根本的に違う意味を持っているように思える。*日本の弁護士は、神様だけでなく、人間も真実を発見できると信じているのではなかろうか。 (p.167f)