働く日。生きるとは。

結局のところある人がよく考えない場合、単純な理屈のみで動く場合、その人の思考はその人の感情に大きく左右される。
感情とはとても原始的で、その波は、思考とは呼べないかもしれないが、非明示的なだけで、意識できないだけで、感情は感情の論理で動いている。
そして、その感情は、つまり感情の存在や、無意識下で動く感情のプログラムは、生物あるいは動物の生存確率を上げるためにあり、もし、その生存確率を著しく下げるようなプログラムが採用された種は、とっくの昔に滅びただろうから、いまは生存確率を上げる感情プログラムしか残っていないのではないか。
結局のところ、人間の社会がある程度高度化しても、感情で動いておけばあまり間違う事のないように思える。
というのも、社会も幾多の感情を礎に成り立っているのだから、感情で動くことをそう否定しそうにもない。

ある人がよく考える場合も、この感情の波が思考を揺さぶるので、結構感情に左右される。
この場合、無意識下の感情プログラムが出した結論を、意識化の長い文章で導き出す程度のことなのかもしれない。

ある人がよくよく考えた場合にのみ、思考は感情から自由になるかもしれない。
しかし世の中の議論のうちほとんどを占め、かつ現実的に意味の有りそうな議論というのは、正誤の判別などできないものが多いのだ。現実世界と完全に独立した体系である数学などとは違うのだ。

問題は、感情の社会から逸脱した存在である。その存在は感情の社会を