ソバヤソバーヤ

2011-12-30

『ニヒリズム』- 西谷啓治

今年も残すところあと二日、あとたった二回しか忘年会ができないと考えると若干寂しさを感じますが、来たる楽しい新年会を思うと吹き飛んでしまいます。

こんにちは。

例の『近代の超克』を読んでいたら「西谷啓治(にしたにけいじ)」という名が小生の目に飛び込みました。いくらボンクラな僕の目でも、それもその筈で、彼は当に座談会「近代の超克」に参加していたのです。アララ。チョっと思うところもあったので、すぐにAmazonで彼の『ニヒリズム』という著作(現在絶版)を購入したところ、またしても、アッという間に読了してしまいました。ちなみに、『近代の超克』(冨山房百科文庫)は机の上に大切に積んであります。

西谷啓治西田幾多郎御大の直弟子であり、「京都学派四天王」の一人とされています。戦後には「公職追放」までくらっております。苦労人です。

本作ニヒリズムは昭和24年に出版され、主に3人の思想家(ニーチェ・スティルナー・ハイデガー)について検討した上で「ニヒリズムを通してのニヒリズムの超克」という課題に取り組んでます。このテーマは西谷にとって生涯を通じて格闘されたようです。

ニヒリズム』目次

西谷ヘーゲルイデアリスムスに対立する形で生まれたリアリズムが「一種の論理的と同時に心理的必然性」を付帯してニヒリズムに移行した過程を一息で書き上げており、本作は優れて思想史的様相を帯びてます。リアリズム思想家としてショーペンハウエル・キュルケゴール・フォイエルバッハマルクスが挙げられていて、第二章ではそれぞれの分析が施されてます。

さて、西谷ニヒリズム「近代ヨーロッパにおける根源的且つ全面的な危機の自覚」であるとした上で

ニヒリズムが本當の意味で現はれるのは、一切の有限なる存在の世界、「現象」の世界が根本的に空無なもとして自覺され、否定的に越えられるのみならず、そのやうに否定的に越えられたところに考へられる永遠なる存在の世界、「本質」の世界もまた否定されるといふことに於てである。



と述べています。つまり、19世紀の後半以来、西洋人は数千年来自らの歴史を支えて来た思想や思想、倫理や宗教の根底そのものに破綻を感じはじめ、またそれと同時に、自らの「存在」そのものが疑問符となってしまったと強調します。

「なんのこっちゃい」

と思われる方も多いことと思います。

しかし、西谷明治維新以来の日本が、無意識にも、そういった「確かさ」を失った西洋の文物を無類の速さで摂取してしまったことを指摘します。つまり、ニヒリズムを西洋の「人ごと」として退けることが出来ないというところに危険があるということです。さらに、西谷は我々日本人は自らの精神的空虚を意識していないという事態のうちに、「いはば自乗された危機」が潜むと指摘します。半ばポンコツの近代西洋文明を導入したものの、戦後「天皇」という精神的支柱を失ってしまった日本人は一体何を「真理」として、基準に生きていけばよいでしょうか。アラン=ブルームが指摘するまでもなく、今や「真理の相対性は理論的根拠ではなく道徳的要請」なのです。様々な人間がそれぞれの立場で生きてます。でも、だからといって、本当に「みんな違ってみんな良い」のか。さァ大変だ。

レオ=シュトラウス曰く、ニヒリズムとは「現在の世界やその世界がもつ諸々の可能性を無化したいという欲望」から「文明そのものの諸原則を拒否」することを指します。したがって、ニヒリストたるには「文明の諸原則」を知らねばなりません。では、近代文明に存する彼方の地平はどこにあるのか。

てなことを考えているフリをしつつも‥。実際、今、頭がいたいです。気持ち悪い‥。まじで酒の飲みすぎ。年末です。

次に書くのは、来年になりそうです。
2012年も宜しくお願いします。

では。

(ホントつらい)

笑。

ニヒリズム (1966年)

ニヒリズム (1966年)

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