Hatena::ブログ(Diary)

Critical Life (期限付き)

2015-08-27 武藤貴也は議員として残るべきである。辞めてはいけない。

(当面、以上)

2015-08-11 現時の閑話休題

国政選挙について

一部にだが、新政党の結成を構想・期待する向きがある。ごくごく一部には、前衛党の結成を構想・夢想する向きがある。ところが、とくに前者(社会派、リベラル左派民主主義派)は、組織・人員については既成政党議員の組み替えしか考えておらず、大義綱領についても既成争点についての一定の政策の列挙しか考えていない。そこには最小限の夢すらない。

仮に既成政党ガラガラポンするにしても、そのためには、既成政党を少しばかり越え出る大義が必要である。外部注入が必要である。超越的シニフィアン、空白の玉座、空虚なシニフィアンが必須である。累進課税デフレ脱却公務員拡大や大学保護や反極右などといったものが、そのポジションを占めるはずがない(残念なことに、と言い添えてもよい)。ちなみに、現在の主流派は、日本・ジャパン・グローバル・国際・経済成長などといったものをそのポジションに据えて、(ラクラウ的な意味での)ポピュリズム的な勝利を続けている。これに対し、平和・反戦・戦後・敗戦後(?)・反(脱)原発復興などは、一定の運動を統合するシニフィアンにはなりえても、特定の政党に票を掻き集めるシニフィアンにはなりえない。福祉医療・教育がそうはなりえないのと同じことである。要するに、選挙となればどの政党でもそれらを言い募り、大差のない似たことしか言わなくなるからである(ここに社会派の苛立ちがある)。この事態を断ち切るには、既存のものに対して、上から/外からの新たな介入が不可欠である。その点で、一部には君主(制)の旗を掲げようとする向きもあるが、君主自身が他を道連れにして身を廃する構えをとるのでなければ、成功するはずもなかろう。要するに、手詰まりなのである。そして、それは喜ばしい報せである。ゼロベースでやり直すしかないからだ。

もちろん私にプランはない。そこで、仕方がないが(前衛党綱領を夢みたいのだがその根性に欠けるので)、社会派あたりに事寄せて、真夏の世の(小さな)夢を記してみたい。

政党名:平等党(水平社、レヴェラーズにちなんで、水平党でもよい)。公正党、公平党とも思うが、音声的に既成政党に近いのでナシ。正義党は、反動と区別がつかないのでナシだろう。

●基本政策(行動綱領):若いうちからギリギリ、タラタラ生きていても、ソコソコ生きていけて、60歳まで凌いだなら十分な年金を無条件に保証すること。

ベーシックインカムは相当な体制変革を要するので、基本政策とはしない。

・発想はこうである。先ず、障害者が獲得しているもの、そして障害者要求して実現させるであろうものを<平等>に、低所得者層にも無条件に保証していく。言いかえるなら、<平等>を障害者の得ていくものに合わせて実現していく。次に、それを60歳以上の国民・市民に無条件に保証していく。これだけをシングルイシューとする。つまり、具体的には、相当数の人間について、公租公課負担を完全に免除する(電気ガス代を含め)。

・なお、マイノリティとしないのは、現状では諸制度の名宛人になっていないからである。

議員衆議院だけを目指す。候補者は、40歳以下。障害者を優先。次いで、学位取得者を優先。

●組織:議員集団と(非議員)書記局による合議制。上記シングルイシューに関係する事項についてのみ決定し、他のすべてについて党議拘束をかけない。そもそも党内で議論もしない。完全に議員個人の判断に任せる。なお、政党は上から作るものであるので時間的には書記局の結成から始めることになる。

■書いてみて、面白くもなんともないと自分でも思うが、ともかく、その主旨は、一つには、基本的には、<低き>に合わせて<平等>を実現したいし、そうするしかないし、そうすべきではないかということである(お望みなら、パーフィトのアイロニーをマジに受けとめて、と言ってもよい)。そして、もう一つは、(議会制)民主主義を機能させるには、議会政党(の既存のあり方)は解体すべきであるということである。ともかく、既成政党ガラガラポンなどに誰も期待はしていないのである。なお、この二つが実現するなら、別の手立てを大いに歓迎する。そして、その任にあたるべき、あたることのできる人間は、一定数は出てきているのではないか。そのような人々こそが、もっと真面目に(政治的センスを発揮して)物を書いてほしいと願う次第である。

安保という課題について

時期が時期だけに、60年安保や70年安保について断片的な回想が書かれているが、ネット上に出て来るそれらは私には大いに疑わしいものである。歴史の捏造が積み重ねられているとさえ感じている。これは、それらの時期を同時代的に生きていた年寄りにありがちな感想にすぎないと思いつつも、また、そのようにして歴史化の暴力は遂行されてきたのであり、今度は自分に降りかかる番が回って来ただけのことであると思いつつも、やはり、それは無いだろ、と思うことが多い。一つだけ、とくに70年当時から気になっていたことを覚えとして記しておくが、安保の問題は帝国主義論争・国家主権論争にも関係していて、旧左翼諸党でも新左翼諸党派でも、その闘争の位置付け方、重みの付け方は、ひと色ではなかったはずである。ことに安保闘争全共闘主導であったとする見方などは、全共闘中心史観(しかも分析抜きの記号化された「全共闘」)の最たるもので、ほとんど噴飯物であると思う。実は、このあたりの<機微>は、現在の安保法制に対する或る人々の醒めた(冷めた)態度にも通じているところがあり、その評価は厄介なのであるが(つまり、私は必ずしもそれがわるいとは考えていないし、その通りでもあると考えている、ということだ)、少なくとも現在の知識人の多くがその<機微>をまったく感知すらしていないのは困ったことである。なお、私は、運動そのそものは単純素朴で、いい加減で、あれこれ弾を撃てばよいと思っているので、それとは別の話である。ともかく、この程度で通じる人が、僅かでもいてくれればよいと思っている。

■「国民」について

私も10代の頃から、運動における「国民」の使用に居心地の悪いものを感じていた。それが本当に身に染みたのは、ある「国民署名」を集めていて、ある方から<趣旨には賛同するが自分は「国民」ではないので>と断られたときであった。「国民」でない人も署名をしてくれることはよくわかってもいたが、やはり直接に対面で言われると響くものがあった。運動はそのような経験で溢れている。そのようにして、立場を異にする人間と(ときに、暴力的に)出会わせてくれるのである(だから、私は、ネットによる署名はあまり好きではない。対他関係を回避する活動スタイルもあまり好きではない)。

「アメリカ人(米国人)」の場合、「アフリカ系」アメリカ人、「日系」アメリカ人などといった言い方が成立するのは、一応、その際の「アメリカ人」が、共通に市民権を有する者という語義を持っているからである。ところが、「日本人」の場合、「ブラジル系」日本人、「ペルー系」日本人という言い方は成立しても、「韓国系」日本人、「朝鮮系」日本人という言い方は成立していない。このことをもってしても、「日本人」が何ものかを共通にする市民・国民として使用できないことがわかる。日本国において、少なくともこの点では、「近代的」「国民」、「市民」と互換できるような「国民」は成立していないのである。ところで、話が捩れるのは、自衛隊は国民を守るものであって、それが住民を守る保証がないということである。安保問題・軍事問題は、基本的に「国家」「国民」(内部)の問題なのである(この点が前の事項にも関わっている)。以前、自民党防衛族の誰かが、自衛隊は戦争になったら左翼の国民など守ってやらない、と発言したことがあり、実は、国民を無条件に守るかどうかも大いに危ぶまれるのであるが、ともかく、安保問題・軍事問題は、国民ならざる者にとっては外から降りかかる災難の位置を占めている。

ところが、こう書いても、別の角度から別の論点が浮上してきて、事態は厄介である。だから、最低限言えることは、「国民」使用についても、ネット炎上も活用しながら、謙虚に学んでいくべきであるということである。ネットは所詮ネットなのだから、(下劣な)喧嘩上等、ということだ。

レインボーがかけられた大学について

私は、その立場を問わず大学人が(もちろん、私自身を含め)、ネットだけでなく多くのところで、揶揄され忌避されdisられていることには相応の理由があると思っている。いま大学にしても大学人にしても、その外に対して、反知性主義・無能・蒙昧といったラベルを貼って反論しようとしているが、しかし、その前に、それと同時に、大学人の自己反省・自己批判が先決であると思う。ともかく、大学は異様な場所なのである。退職年齢が近づいている者の眼からすると、現状の大学は無条件に守るべきものではないことが、ますます明らかである。一点だけ触れてみる。

大企業GAPは、その企業理念として多様性(diversity)の尊重を掲げている。その大意を訳出してみる。

<私たちギャップ社は、多様性包摂を大切にしている。私たちは多様性を讃える(celebrate)。多様性は、私たちの責務のコアをなしている。多様性は、私たちの文化にとってもビジネスの成功にとっても本質的に重要なのである。だからこそ、私たちは、スタイル、アイデア、民族の多様性をしかと抱きとめている(embrace)。〔……〕ギャップ社は、機会を平等にしている雇用者である。人種、皮膚色、年齢、性別、ジェンダーアイデンティティ性的指向性宗教、婚姻上の地位、妊娠、出自祖先、国民、身体障害、精神障害軍事上の身分など、法でそれを根拠とすることを禁止されていることとは関係なく、そうしたことを一切無視して、採用の決定は行われている。すべての被雇用者は、職場での差別やハラスメントを阻止するのを支援する責任がある。>

このように、GAP社は、まことによい場所である。同じように、大学も、まことによい場所である。そのことを私は皮肉抜きに認める。

ところで、このGAP社の理念偽善であるとする批判が、当然にも出されてきた。すなわち、GAP社は、先進諸国内の職場内では賞賛に値するガバナンスを行っているものの、その出先では、sweatshopsや児童労働に依存しそこから搾取し、しかもそのことをまったく放置しており、偽善的であるとする批判である。しかし、ここでは立ち入らないが、この類の批判はあまりに単純であるだけでなく、GAP理念に対する批判としてもやや的外れである。というより、理念偽善とするだけの批判は弱い。

GAP社は、雇用条件においても仕事においても多様性を尊重している。実際、多様な人々がそこで働いている。グローバルなのである。では、そのことでGAP社は何を達成しているのか。多様性に対してblindになる一方で、まさに(企業の発展に貢献すると目されるところの)能力だけを評価することを達成している。徹底した純粋な能力主義を達成している。ネオ・リベラリズムを純粋に実現させている。あるいは、個人の能力だけで人間を評価してくれる場所を実現し、しかも、そこにレインボーがかかった正しくも美しい場所を実現しているのである。そして、大学も、寸分も違うことなく、そのような場所になっている。そこは、内部の人間にとっては実に居心地のよい場所である。外では野蛮な空気が蔓延しているけど、ここには、啓蒙された清く正しく美しい人々だけが集っているのだから(私は、皮肉で言っているのではない。真面目に、それが事実であると言っている)。

さて、このようなGAP社や大学を、野蛮な外から見たなら、どう映ずるかを考えてみるとよい。それはゲイティッド・コミュニティそのものであるのだが、野蛮な外部の人間なら、どう評するかを考えてみるとよい。

私個人は、その外部に身を置くことになっても、<ああ、あそこに閉じ籠って、内輪で楽しくやっているのだな>と放任し達観する者でありたいとは思っているが、そして、退職者に求められているそのような役割を素直に演じたいと思っている者であるが、一度として内部を享受したことのない人間にとってはどうであろうか。例えば、その退職理由がハラスメントであるような(そのようにならざるをえないような)職場を渡り歩く人々にとってはどうであろうか。

現在にあって、大企業や大学はまったく同じ政治経済的で社会的な装置である(だから、大学でビラを撒くことはアップル社でビラを撒くことと同程度に馬鹿げている。あるいは、同程度に意味がある)。いまや、その境界線上にいる多くの人間は、丘の上にあるコミュニティに対する積年の愛が憎しみに転じかねないところにあるが、その憎しみが事態を変えることはないだろう。いや、憎しみ程度では事態は微動だにしないだろう。ともかく、私は、大企業と大学こそが救われていないと感ずる者ではある。


【付記:2015年8月26日

文系のネット大学人を見るにつけ、相も変わらず、文系大学人はお人好しであると思う。定期的に繰り返される文科省改革発作、それに対する対応のことである。

文系大学人は、理系が国民経済の維持と発展に有用であり、学問的にも有意義であると思い込んでいる。そう思い込まされているのである。狭義の理工系についてだけではない。医療系についても情報系についても福祉系についてもアート系についても、総じて国家資格取得関連学部学科についても、そう思い込んでいるし、そう思い込まされている。阿呆である。

なにも私は、ここで、理系幻想批判や科学技術批判専門職批判といった高級な話をしようとしているのではない。いまだに文系大学人はその程度の教養すら身につけていないことを指摘しようとしているのではない。もっと、くすんだ、冴えないレベルのことである。

具体的に書くと何処を念頭に置いているのかが周囲の方々にわかってしまうので控えておくが、現在の理工系・専門職系等々のレベルはあまりに低い。文系大学人の視野が狭いものだから、ネットに上がるバカ学生のネタは文系が中心になりがちであるが、それを遥かに上回る規模で、理工系・専門職系にバカは蔓延している。銅鉄実験にすら及ばない実験で溢れ返っている。修士論文抜きでの修士号授与の動きは、英語はもちろんのこと日本語すら書けない修士ばかりになっているからである。コピペ盗作の率にしても、むしろそれに相当することが公認化され制度化されているほどに退廃している(一体、誰が、コピぺ学生に石を投げられるというのか?)。

大学人は平等を旨とするので、すなわち、学部・学科は平等であるものとして扱うのを建て前としているので、こう言っておくが、文系が駄目なのと同程度に理系は駄目であり、文系が無能で腐敗しているのと同程度に理系も無能で腐敗しているのである。文系に改革・減員が必要であるならそれと同程度に理系にも改革・減員が必要なのである。文系のネット大学人は、まずそのことに気づいて述べるべきである(自虐は、この問題では無駄である。むしろ反動的である)。

その一方で、文系のネット大学人を見るにつけ、あらためて気づかされるのは、文系についての「自己」反省は述べてみせるものの、そこに必ず<自分だけは違う、自分だけは偉い>との自慢が張り付けられていることである。本当に見苦しい。ここでは真面目に述べておくが、<他は酷いが自分だけは別>と語って、そのように問題を個人化して済ませられるようなことではないのだ。問われているのは、組織のことであり、個人のことではないのである(個人の能力・業績を個別に見ているかのような行政が進められているが、それはまさに、自分だけは別、と言いたがる大学人を作り出すためである。つまり煙幕であり分断化である)。潰されるときは、潰されるべきときは、その組織にどんなに有能な個人が大勢在籍していようが、そんなことはお構いなしなのである。そのディシプリンの意義をどんなに高唱しようが、そんなことはお構いなしなのである。繰り返すが、それは理系についてもまったく同じことである。(裏から言うと、歴史的に振り返るなら、そのおかげで甘い汁を吸ってきた学科・ディシプリンがあるわけだが、それはいまや歴史の一部であり、いまとなっては恨み辛みを述べても詮ないことである)。

ところで、STAP問題でネットで発言していた理系大学人を見ても明らかだが、その大多数は<自分だけは別>と自信に満ちており、おのれをまったく疑っていない。それだけではなく、そのディシプリンの現状についてほとんど自己反省を示していない(名前をあげるのは控えるが、尊敬すべき例外はいた)。昔から、理系・専門職系の大学人は総じてそんなものである。その程度である。繰り返すが、大学人は平等を旨とするので、文系もその程度のものである。自分のディシプリンを明示した方がよいであろうから、念を押すが、哲学系もその程度のものである。

減員・組織替え・配置転換などの改革については、それなりの期間、教育学部に籍を置いた者としてゼロ免課程だけでなく各種の文系・文理総合系新造学部の処置についても、専門職学部大学院の惨状を身近に知ってきた者として大学制度の新たな分割・分離についても、多くの博士学位取得者を送り出す者として改革掛け声を善用しての大学ポストの運用などについて、<大人な><ガバナンス・マインドに溢れた>考えを持っていないではないが、ここでは、それに到るために要する手前の態度について記した次第である。

【付記:2015年8月26日

現在の学生運動をめぐって、60年安保や70年安保の先例を引き合いに出して物を言う向きがあり、それをウザい介入と嫌悪する向きもあるが、まったく忘れられていることを一つだけ記しておく(ウザいと思ってもらって結構である。これは一定年齢以上に向けて書かれているからだ)。

現在の学生運動に比定するものを過去に探すとしたら、東大闘争時のクラス連合がある。ただし、強調しなければならないが、当時の民主化行動委員会に相当するものが存在しない状況での、クラス連合である。ネットに記されていないと思うので一つだけ書いておく。精確な年月日は忘れたが、民主化行動委員会共産党系)と全共闘系(新左翼諸党派)がそれぞれ全国動員をかけて直接にゲバる構えを見せたときがあった(ちなみに私の地元である北海道からも何人か東大に向かった)。そのとき、これも精確な年月日は忘れたが、両者が対峙する間に割り入って、銀杏並木に座り込んで衝突を阻止したのがクラス連合である。(両者が衝突したなら死者が出かねないと思われていたし、双方にそれ相応の覚悟はあった。ちなみに私の年長の知人は、それを阻止するためのその座り込みに参加しており、そのことを誇っていた。そして、その誇りは正当である)。もちろん、ごく一部の人が知っているように、当時のクラス連合の中核部分の一部は、その時期にズレはあるにしても共産党系に移っていくわけだが、そんなことは現状では基本的には考え難いことである(この機会に記しておくと、安田講堂に入った活動家の中にも共産党系に移った者はいた。ごく短期間であったが、後に社会党が多少なりとも引き受ける機能を共産党が引き受けていた時期があったのである。その動向は直に潰されることになる)。

この歴史小咄の教訓はこうである。当時、無党派と呼ばれた一般学生にも、その主張と行動の場所があったということである(それをアゴーン、デモクラシーと言うのである)。当時の一般学生は、その無党派性や中立性を立場として打ち出すために、真摯に体を張ったということである。当時の政治状況、少なくとも大学の状況はそのようなものであったということである。(なお、後に、無党派ノンセクトは黒ヘルの代名詞となるが、それはまた別の歴史小咄である)。そして、この歴史小咄から引き出しておきたいことは、こうである。現在の一般学生上がりの大学人が、政党や党派に対して、また、まったく的外れであるにもかかわらず、政党や党派の影の下にあるものと見なして、現在の学生の運動に対して、その無党派的なおのれの立場を打ち出そうとするときのその知性と態度がいかに下劣なものであるかということである(名指したいくらいだが、控える)。私の知る一般学生は、どの党派のシンパであれ、シンパには入らない中立であれ、無関心・無関与を貫く場合であれ、私の知る限りの一般学生は遥かに立派であった(名前であげてもよいが、迷惑をかけるので控える)。もちろん、各人が真摯におのれの立ち位置を考えざるをえなくなる、そのような状況であったからこそであるわけでだが、それにしても、現在のネット大学人の一部は、一般学生以下であると思わざるをえない。

(なお、その後のクラス連合の大学現状擁護・秩序回復の役割を批判する向きがあるのは承知している。当時の流れでは、民主化行動委員会もクラス連合も一体と見なして敵視することにも理があるのも認める。なにしろ、相互が身体的で生理的な記憶も持っているのだから、簡単に和解できるはずがない。さらに、当時と違って現在が、いかに政党・党派の存在が無化されているとはいえ、クラス連合に相当する運動が孕んでいる限界と役割に批判をいだき、一定の態度をとることも十分に理解できる。しかし、ここで私が怒りを向けているのは、そのような人々とはまったく別の連中である。その連中は、批判や皮肉の出し方だけを彼方此方からパクっては、おのれの保身を図っているだけなのである。別の言い方をしておく。現在の情勢下では、運動は否応なしに無党派(それは無思想・無理論でもある。肯定的な意味で、行動する人は視野が狭くなる、という意味において、である)として始まらざるをえず、そこを素直に受けとめるしかないではないか。情勢がどう推移しようが、じきに、少なくとも、無思想・無理論で行けるはずがなくなる。それに並行して、そのときに向けて、「われわれ」もやり直しておくべきなのである。)

結語はこうである。

“In order to receive a clear and definite impression of the demonstration, the observer must perform certain actions.” (Pudovkin)

【追記:2015年8月27日】

現在の学生運動は、昔日のスト実委(ストライキ実行委員会)にあたると思いついた。この比較の方が、前項のごとき七面倒な話をしなくて済む。いまでは知る人も少ないだろうが、スト実委は、大学や高校でストライキに入るとき、その維持と運動のために有志を募って結成されるものであり、大学や高校ごとに色合いの違いはあったにせよ、おおむね活動的な一般学生が主役となっていた。組織論としては当時では全共闘的な側面を有していたので、政党・党派によっては批判的・警戒的になる向きもあったが、アレントのいう評議会に最も近い萌芽はスト実委であったと思う。(私は高校一年のとき初めてスト実委を経験したが、その時その場の諸先輩のことを懐かしく思い出す。スト実委については明るい思い出しかない。)

2015-08-06 「武器」使用/「弾薬」提供/「武器等」防護

自衛隊法改正」と称して付加を提案されているのが、第95条の2項である。それによるなら、「自衛官」(主語は「自衛官」である)は、「自衛隊」と「連携」して「我が国の防衛に資する活動」に「現に従事しているもの」(殊更に平仮名で「もの」と表記される)の「武器等」を「職務上警護するに当たり」、「人又は武器等」(「人」が加わる)を「防護」するため〔……〕、「武器」を「使用」することができる。

この第95条2項は、集団的自衛権の焦点になっている項目である。承知のように、政府及び関係者の見解は揺れている。それが集団的自衛権の一部なのか、集団的自衛権行使なのか、個別的自衛権適用なのか、また、そもそも、ここに言う「外国の軍隊」とは何であるのか、どうしていつの間にかオーストラリア軍が想定されているのか、また、そもそも、国連憲章国際法との関係でその「外国の軍隊」がどう位置づくのか、そして、集団的自衛権集団的安全保障をめぐる国際的論争とどう関係するのか、政府及び関係者の見解は分かれているし揺れている(品位が下がるのであまり書きたくはないが、代々木と白ヘルの差異なるものやナチと現政権の差異なるもので揶揄して済ませられる状況ではない)。

にもかかわらず、第95条2項は、「自衛官」による「武器」の「合理的」な「使用」の場合の一つとして、一例としてのみ規定しているのである。「自衛官」が、集団的自衛権個別的自衛権の総合を執り行うというのだ。そして、決定的に重要なはずのその「自衛官」の任務たるや、「職務」と表記され、しかもなんと「武器等」の「警護」と規定されるというのだ。「外国の軍隊」の「武器等」の「警護」が、集団的自衛権個別的自衛権を総合するはずの職務として「自衛官」に宛がわれているのだ。しかも、嗤うべきことに、このような「連携」をもって「外国の軍隊」と対等になると称する向きが政府関係者に多いのである(当然生ずる連想なのであえて書いておくが、日本国自衛隊自衛官に〈太刀持ち〉を職務として宛がっておいて、自衛隊は〈横綱〉の外国軍隊等と対等であるというのである。率直に言って、もっと下品な喩えは幾らでも思いつくが、それも当然であると言われるべきである)。

この第92条2項については、他にも多くの論点がある。現時点で、議論は「防衛に資する活動に現に従事」に焦点があてられているが、ここでの「武器等」は「アセット」とも称されており(!)、「活動」中で「従事」中の「武器等」に限られるわけではない。

■これまでの長い経緯を調べ直さないまま、あくまで当初の印象だけを述べさせてもらうが、法案作成者は、自衛官の武器使用のフレームの中に「武器等の防護」なるものを押し込むことによって自衛隊を表に出さずに諸論点・諸矛盾を回避できると当て込んだのではないか。しかし、そのような遣り口こそが、自衛隊の存在と自衛官の尊厳を傷つけるものではないのか。

■「武器」と「弾薬」の馬鹿げた区分は、法案上は、軍事産業軍事予算のためでもある「弾薬」提供をそれとして合理化するためのものであろう。そして、それだけのものでしかない。その遣り口にしても、自衛隊自衛官を愚弄するものと言うべきではないのか。

●以上のような書き方をしたのは、〈まともな〉自衛隊幹部・自衛隊員にとっては、安保法制案は堪え難いものであるはずだと考えるからである。そして、〈まとまな〉愛国者、〈まともな〉保守主義者、〈まともな〉右翼にとってもそうであるはずだ。そして、私にはよくわからないが、というか昨今のネットを見る限りますますわからなくなっているが、おそらく〈まともな〉リベラルにとっても、である。

【以下、法案

我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律

合衆国軍隊等の部隊の武器等の防護のための武器の使用)

第九十五条の二:自衛官は、アメリカ合衆国軍隊その他の外国の軍隊その他これに類する組織(次項において「合衆国軍隊等」という。)の部隊であつて自衛隊と連携して我が国の防衛に資する活動(共同訓練を含み、現に戦闘行為が行われている現場で行われるものを除く。)に現に従事しているものの武器等を職務上警護するに当たり、人又は武器等を防護するため必要であると認める相当の理由がある場合には、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で武器を使用することができる。ただし、刑法第三十六条又は第三十七条に該当する場合のほか、人に危害を与えてはならない。2 前項の警護は、合衆国軍隊等から要請があつた場合であつて、防衛大臣が必要と認めるときに限り、自衛官が行うものとする。

●補足(2015年8月7日)

そもそもリベラリズムには国家論(主権論・権力論)が無いから(あるいは、それと無縁であるから)、安保法制でも定見が出てこないのだろう(あるいは、ある程度の範囲におさまることもなく、とり散らかるだけになるのだろう)。なにしろ、現在のデモをもって〈抜き身の権力〉〈剥き出しの人民権力〉と言い出す始末なのだから、あとは推して知るべし、である。そう言えば、湾岸戦争でも9・11でも、PKOでも有志連合でも、リベラルには定見はなかった。昔からよく指摘されたことをあげれば、米国リベラル政権こそが戦争を引き起こした。少なくとも戦争を止めることを原則とはしてこなかった。別段、以上のことはわるいことではない。リベラリズムの領分・本領はそこにはないというだけのことであるからだ。とはいえ、そうであるからこそ、昨今の状況では、リベラルと自称・他称される方々の為人(性格・品性・徳性)が、リベラリズムなどとはまったく関係なく、また、本人もほとんど無自覚なまま、抜き身で露見するのである。なかなか楽しい光景である。

2015-07-30 選挙管理内閣

前回の院内闘争についての補足である。

■現在、与党は「正面突破」に出ており、野党は対案を出すわけにはいかぬと対抗している(それはそれでよい)。当たり前のことだが、裏工作は必要不可欠である。というより、裏工作の表面化が必要な事態である。

政局に持ち込むには、選挙管理内閣を目指すべきであろう。その際、自民党公明党の複数議員オルグする必要がある。そのためにも修正案が必須である(別の手があるなら、それはそれでよい)。なぜか。与党野党に対して対案を出せとけしかけている。それは言うまでもなく、野党第一党の分裂を誘っているのである。各野党に分裂の覚悟はあるのかとブラフをかけているのである(衆議院での対案をめぐる院内情勢とは違うのだ)。言いかえるなら、対案(修正案)を出せば、与党も分裂の危険を孕むということだ。しかも、与党の複数議員に対し「裏切り」「分派」を説得するにあたり、おのれの党も割る覚悟なくしてあたるのはどう考えても不誠実である。仁義に悖る。人の道に反する。政治的な徳に欠ける。もちろん所属の党を割るには相当の覚悟が要る。だからこその修正案である。そして、修正案については、全野党党議拘束を外して採決に臨み、全党の有志でもって選挙管理内閣の組閣を目指すことにすればさほどの覚悟は要さないだろう。また、全野党が修正案を出す「泥」をかぶらなければ第一野党も動けまい。

現状では、谷垣も二階も野田も石破も動く(動ける)はずがない。しかも首相に稲田の名前出し程度でブラフをかけられており、事が終われば用済みにされて消されるだけである。

次の解散総選挙参議院選のことなどどうでもよい。次の首相が誰になるかもどうでもよい。現政権を追いだす一点で戦術を揃えるべきである。

広い意味での政治(的なるもの)という観点からは別の意見もあろうが(私にはある)、院内政治という観点からは、現在は、語の精確な意味で危機であると思う。旧来のやり方を捨てるのでなければ突破できない。

■修正案の内容は、然るべき人が考えればよい。そのための議員歳費である。

○別件1:先日、南スーダンPKO活動が報道されていた。しかし、南スーダンの「独立」は、先進諸国の卑しい政治介入の結果であり、ここでも「内」戦化を持続させただけで状況を改善していない。野党の多くはPKOには賛成してきたわけだが(だから、法案の束に「切れ目」を入れた上で、「切れ目のない」修正案を作ることも可能だ)、そもそも、これまでのPKOについての自己批判・反省があるのかとは言いたくなる。しかし、その程度のことさえ言い募ることのできない院内状況なのである。

○別件2:「先制攻撃」なる指令語が発せられている。英語はpreemptive attackのつもりだろう。植民地主義におけるpreemption、ブッシュ以来のpreemptive attackの歴史を全肯定してその指令語は発せられている。しかも多数の国民・市民はそれを鵜呑みにしてきた。そして、これも長い歴史を通して国民・市民に刷り込まれてきた、抑止力なるものをめぐる信仰で粉飾されている。現政権が自信を持つのも当然である。短時日で逆転は不可能である。だからこそ、(全野党が揃っておのれの)肉を斬らせて、の戦術が必須である。

○別件3:なお、選挙管理内閣は、ときに唱えられてきたが(その名称で誤って呼ばれる内閣は複数あったが)、日本では、精確には一度も実現していない。

■補足(2015年7月31日)

この二回の記事(「院内と院外・・・」、「選挙管理内閣」)での私の立場は、<沖縄米軍基地の県外移設=本土移設>を主張する高橋哲哉の立場に、この時期において瞬間的にであるが、幾つかの面で幾らか近いことに気づいた(高橋には迷惑かもしれないが覚えとして記しておく)。

Cf. 高橋哲哉「奇妙な「連帯」――問われずにいるものは何か」(『解放社会学研究』28号、2014年)。

なお、高橋はその本土の移転先候補について何も述べていないが、その候補地はすぐに思い浮かぶ。問題は、誰がそれを言うかである。私は、とくに共産党社民党が言うしかないと思っている。そして、そうでなければ政治的な効果を期待できない。

2015-07-21 院内と院外では戦術は異なる

もし私が議員なら、たとえ野党に属していても、「平気で」「積極的に」、首相ブレーンや官僚自衛隊幹部や事務職員にレクチャーを受けに行って、戦術を練るところだが、私は一市民でしかないので思い付きを書いても許されるだろう。誤認や不足があるなら、然るべき人が正してくれればよい。

○廃案に持ち込む可能な道は、衆議院解散だけではないはずである(次の選挙を待つのは馬鹿げている)。日程を考えて、参議院で否決に持ち込んでも衆議院再可決に持ち込ませない道はあるのではないか。

○それが難しいのなら、いわゆる政局に持ち込むしかない。そのために、修正案を出すべきである。野党の各党(共産党社民党も含めて、である)がそれぞれの修正案を出すべきである。その際、自民党公明党の複数議員と刷り合わせる。あるいは、第一野党の修正案をそのようなものにする。

付記1

国会議員数はわずか700人強である。高校一つより少なく、大学学部一つ程度である。つまり、活動的な20人もいれば、全員にオルグをかけられる。

付記2

安保法制賛成論者の書き物を見ていると、およそ統一感はない。ある者は<憲法国連憲章は連続的>と称し、ある者は<集団的自衛権安保条約に書かれている>と称し、ある者は<この安保法制で集団的自衛権への一歩になる>と称している。その不統一から「救う」ためにも野党は動いてやるべきである。