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Critical Life (期限付き)

2008-02-20 「他者危害原則」問題

いくつか予備的なことを述べてから、問題を六つ提起する。

自由主義の基本原則は、〈自由が大事〉である。ところが、この原則と並んで、あるいは、この原則に対する但し書として、〈他者に危害を加えるな〉〈他者に危害を加えない限りで〉が付加される。両者の関係は思われているほど簡単ではない。「他者危害原則」ないし「危害原則」という言い方を誰が始めたのかは知らないが、語の並びだけを見るなら、「他者に危害を加える(べき)原則」と読めてしまう。そうであるのに、「他者危害禁止原則」と言い直されないまま流通している。この辺りに、自由主義の秘密を探ってみることができる。

○「どれでも」と「何でも」の語法の違いを考えてみる。「どれでもいいが、これは駄目だ」は変な言い方である。これに対して、「何でもいいが、これは駄目だ」は変な言い方にはならない。この違いの由来は、「どれでも」は、確定したリスト一覧を差し出してすべてOKと言っているのに対し、「何でも」は、確定したリストの無いまま不確定な漠とした全体を想定してOKと言っているところに求めることができる。(しかし細かく検討すると簡単ではない。「何でもいい」の後に「が」ではなく「けど」を続ける場合、「どれでも」「何でも」の後に「いい」ではなく「選択していい」や「行なっていい」を続ける場合など、語法も用法も変わってくる。そうした一連の違いを、「どれでも」「何でも」の二語の違いに畳み込むのは土台無理である。言いかえるなら、自然言語・日常言語の文の力能を、単語を基本要素とする形式論理文法の力能に還元するのは無理である)。したがって、自由主義の自由原則は、〈どれでも自由にやっていい〉ではなく、〈何でも自由にやっていい〉と定式化される。〈自由に他者に危害を加えては駄目だ〉が必ず付加されることになっているからである。自由主義とは、〈何でもOK〉〈何でもアリ〉と吹き上げておいて、〈ただしこれは駄目〉と必ず付け足す言説の一例である。

○大学の先生はよく言う。「○○学では何でも研究できます」「この学科は自由に何でも好きなことをできます」「レポートの内容は自由です」「自由作文を出して下さい」。企業のやり手もよく言う。「ウチの会社は自由に発想を出し合います」「当座の利益を度外視して自由な開発研究を進めてます」「何でも思いのままにモノ作りに励んでます。その方が収益につながるのです」。集まりを仕切る人もよく言う。「何でも悩みを出し合いましょう」「どんな小さなことでもいいから何でも仰って下さい」「どんな声にも耳を傾けましょう」。しかし、誰もが知るように、決して何でも許されているわけではない。必ず暗黙の但し書が貼り付いている。その暗黙の空気を読めない者は、何らかの仕方で必ずや無視され排除される。

○自由原則と他者危害原則の関係は、ラカンのpastout (not-all, not-whole)のロジックで分析できそうである(Cf. Le Seminaire Liver XX: Encore)(ある研究発表を聞いて思い当たった)。ポイントになるのは、普遍的なものを構成する機能を果たすと目される例外的なものをめぐるロジックである。ただし、シュミット-アガンベンの例外状態のロジックより、言葉の厳密な意味においてポジティヴなロジックである。ジジェク流に解題しておく。普遍的なものと例外的なものの関係の分析は一筋縄ではいかない。例えば、「すべて」の人間の「普遍的」権利(不可侵の権利、譲渡不可能な権利)と、その享受から排除される狂人・胎児・子供・野蛮人・犯罪者・先住民・瀕死者・脳死者といった例外的なものとの関係を考えてみよう。「すべて」と「普遍的」がそれとして立ち上がるためには、例外的なものの構成とそれによる普遍的なものの反転的構成が必要不可欠であろうが、そこを分析するのは簡単ではない(シュミット-アガンベンの水準)。ところで、普遍的なものが立ち上がるや、例外的なものは個別的に「普遍的」権利を認可されていく。子供の「権利」、先住民の「権利」等々。ここでも依然として、(別種の)例外性は払拭されないが、普遍的なものによる例外的なものの構成が際立ってくる。この過程が完遂されると、「すべて」の人間が、各人の例外的な固有性を有する者として、その意味で同じものとして、普遍的なものを享受することになる。この自由主義の理念的完成態においては、かけがえのない者たちが、同じものとして相並んでしまう。他ならぬこの私(たち)が、同じく他ならぬこの私として相並んでしまう。この理念的完成態は思われているほど望ましいものではない。むしろ、どこか陰湿である。例えば、それはこんな事態に似ている。すなわち、誘惑者は、各女性を例外的なものとして愛して誘惑する。何か知らないが何処かに例外的なかけがえの無さを隠し持った女として愛して誘惑する。ところが(そして)、誘惑者は、次の女性に乗り換えてゆく。次の女性もまた、例外的な女であるのだから、そうならざるをえない。そうして、誘惑者は、次々と女性を愛して誘惑することになり、すべての女性は等しく平等に愛と誘惑の対象となる。こんな事態に似ているのである。なお、ここの議論は、理念的完成態から出発して再構成することもできる。

●問題1【自由原則と他者危害原則の関係を、pastoutのロジックの「弁証法的」展開のどこかに位置付けてみよ。】

○次に、欲望・欲求を導入する必要がある。例えば、先住民に「権利」を賦与する際の隠された欲望、誘惑者が個々の女性を例外的なものでありながら普遍的なものの一例と見なす際の隠された欲望のことを考慮に入れる必要がある。そして、そこに張り付いている危害の欲求のことを考慮に入れる必要がある。

○「何でも自由」と宣言することは、例外的なものを抑圧し弾圧する欲望から発している可能性がある。あるいは、「何でも自由」と宣言することは、そもそも他者侵害の欲望から発しているか、他者侵害の欲望を隠し持っている可能性がある。あるいは、「何でも自由」と宣言することは、pastoutのロジックを実効化するプロセスにおいて、危害の欲望を開発ないし捏造しながら、当の危害の欲望を啓蒙・訓育・馴化することを目的化しており、そこで権力の快楽をかすめ取る欲望に駆動されている可能性がある。

●問題2【自由原則と他者危害原則の関係のどこにおいて、いかなる欲望のロジックを検出するのが適当であるか。】

●問題3【自由原則と他者危害原則をペアにせざるをえないことを欲望のロジックで分析した上で、そこに隠されている陰湿性ないし猥褻性を批判的に分析せよ。】

○以上の事態に気付いていたのが、ホッブズスピノザニーチェである。彼らに共通の構想は、自由を力と等置することによって、自由=力に内在的な限界をもって、戦争状態とも平和状態ともつかぬ社会状態を実現すること、ないしは、現実の社会状態がそのようであることを肯定的に捉えることであった。もちろん、その構想は様々な屈折や挫折を強いられもしたが、それはいわゆる積極的自由論に回収されることのない展望を開いていた。なお、古代以来の徳の倫理にも同様の構想と展望を見て取ることができる。

●問題4【自由原則と他者危害原則を、自由主義とは区別される、古代以来の自由論の滔々たる潮流の観点から批判せよ。】

○ここまで来て、サドの特異な位置が見えてくる(これも、ある研究発表を聞いて思い当たった)。

●問題5【先ずは、いわばカント/サド論以来の慣例に従って、サド自由主義のネガとして捉えてみよ。次いで、サドにおける理性原則とリベルタンの実践との関係においてもpastoutのロジックを検出してから、それを自由原則・他者危害原則と自由主義者の実践との関係のネガとして捉えてみよ。その上で、サドがネガに還元できないとして、その還元できないところをもって、自由主義を批判的に検討せよ。】

●問題6【「自由主義」を「文化相対主義」「倫理相対主義」「多文化主義」に置き換え、それに応じて予備的な議論に適当な変更を加えて、問題を作成し直してから検討せよ。】


補(2月21日):「古代以来の徳の倫理」の意義を理解するには、石川忠司孔子哲学』に勝るものはない。研究者は、徳virtusは力も意味したとお題目のように唱えてきたが(例えば、ポーコックとその周辺にしても、私には二流としか思えない)、その意義と射程を一つも考えてこなかった。近年、東アジアでは儒教言説・研究が復活しているが、石川の本こそが中国語朝鮮語に翻訳されるべきである。