2008-04-02 最後に三題
【乞食の自由】
○(「乞食」とその類語においては、使用にも言及にも引用にも差別性がつきまとう。必ずやそうなる(そこを心理的にセコく和らげるためもあって、私は「乞食」を「こつじき」と内的に発話している)。厳しく言えば、「ハンディキャップ」や「ハンドアウト」に対しても差別語の嫌疑をかけることができる。それは避け難い。ところで、この事情をいわば逆手にとる行動として乞食行為を捉える議論がある。例のボードレールの一節はこの議論に如かず、と言っておきたい。)
○米国では1980年代頃から、欧州では東西の障壁崩壊後の1990年代から、乞食(の認知件数)が目立つようになったとされ、各種の新たな法律や条例によって、〈公共空間〉(広場・商店街・公道・観光地)における乞食の規制と排除が進められてきた(日本でも別の形で同様のことが進められてきた)。この動向に対して、米国では、乞食行為を〈言論の自由〉として擁護しようとする議論が提出されてきた。乞食について考えるときに通常持ち出されるであろう用語は、生存権、社会権、排除/包摂、社会問題、貧困問題、社会病理、社会保障、社会政策、中毒問題、移民問題などであるから、当初は私もこの類の議論に違和感を抱いていた。乞食行為を〈言論の自由〉や〈表現の自由〉として肯定しようなどとは余りにアメリカ的に無邪気であるだけでなく、知識人好みの慣用句で言うなら「危険」であると感じてもいた。しかし、そうでもない。むしろ、この間の状況を、自由をめぐる争いとして捉える点で優れている。
○これだけで通じる人には通じると思う。ここでは、比較的まともと思われた文献をあげておく。次のものは短くて優れている。Marni Soupcoff, “Brother, Can You Spare a License?,” Regulation, Summer 2005. 障害者と乞食の歴史に関しては内外で多くの研究はあるが、それを現在に結び付けて論ずるものは少ない。次のものは、公共空間への身体の現前による表現も含めて、言論の自由の観点から論じていて教えられるところが多い。Susan Schweik, “Begging the Question: Disability, Mendicancy, Speech and the Law,” Narrative, Vol. 15, No. 1 (January 2007). 欧州に関しては、私の探索が十分でないせいもあるが、(切れ味のある)論稿は少ないように思われる。一応、次のものをあげておく(ネット上で公開)。これはブリュッセルの乞食に面談調査を行なったものであるが、面談に際して5ユーロを支払ったと(きちんと)書いてある点で好ましかったので。Stefan Adriaenssens and Ann Cle, “Beggars in Brussels or the globalization of extreme poverty,” (2006).
【時間と空間】
哲学の動機・導入として、時間の不思議さがあげられることが多い。しかし、私の場合、時間についてはあまり気にかからなかった。むしろ、空間の不思議さの方が気にかかった。子どもの頃、春が近づいて、ようやく乾いた屋根に寝転がって、青空を眺めやって、初めて「空間」を実感したことがある。また、初めて原子模型を見たとき、その間には何があるのかと思ったものだ。その後、戸坂潤の空間論を読んだのも大きかった(私は、戸坂の社会時評・思想時評は、あの状況下では相当なものだと思っても、その文脈を離れても優れたものだとは思ったことはない)。
時間との関連で言えば、おそらく現在主義者・現前主義者とでも分類されるであろうが、現在・今の〈同時性〉が気にかかった。今ここで、パソコンを操作している。と同時に、隣の部屋では家人が何かをしている。と同時に、向こうの道路を車が通り過ぎていく。ここには、情報の速度、感覚の範囲、想像の広がる「速度」が入り込んでいる。と「同時」に、距離が入り込んでいる。そして、と同時に、遠くでは、誰かが生まれ誰かが死んでいく。その知らせは遅れて届くにしても(「後で」というより「遅れて」である。このひと事だけで、〈逆向き因果〉論は物足りないことが明らかである)、きっと何かが遠くで同時に起こっている。しかも、こんな同時性が、ギクシャクと音を立てるでもなく、変わってゆく。あるいは、移ってゆく。それとともに(?)、この私も移ってゆく。ところが、「持続」も「生ける現在」も「厚みのある現在」も、この不可思議さを言い表わしてはいない(と思ってきた)。
だから、時間論を読んでも感心したことはない。部分的に感心することはあったが、それは議論運びに感心させられただけであって、そこで時間の不思議さや同時性の不可思議さをめぐる洞察が披露されていたからではなかった。しかも、昨今の時間論は、生の時をまったく視野に入れてこなかった。その分だけ、浅はかなのである。「人生は時間の中で過ぎてゆくものではない。そうではなくて、人生は時間そのものである」。「現存在」には、「時間の中で」の存在可能性があるにしても、その「最高の存在可能性は時間そのものである」(ハイデガー)。そして、私は、その生の時が、深い所で、物の時と一致するはずだと昔から思ってきた。
ヘルマン・コーエン(Hermann Cohen)なら読んでおかないと不味いにしても、フランツ・ローゼンツヴァイク(Franz Rosenzweig)なら、よほどの物好きでなければパスしておいてもいいだろうと哲学業界では見なされていた(と思う)。恥ずかしながら、最近になって知ったのだが、1886年生まれのローゼンツヴァイクは、1929年に死去しているが、死因はALSであった。
戦中から戦後にかけて、当然予想されることだが、ローゼンツヴァイクがALSで死去したことは、その後のナチス・ドイツ下でのユダヤ人の死と重ね合わされて見られることになった。しかし、ローゼンツヴァイク自身は、タイプライターに改良を加えて、亡くなるその日まで、書き続けていたようである。Hilary Putnamがその英訳に序文を寄せているDas Buechlein vom gesunden und kranken Menschenverstandを含め、ローゼンツヴァイクは、(哲学的)病気・麻痺とその(哲学的)治療に、つまりウィトゲンシュタインのテーマに、一貫して生の哲学の立場から取り組んでいた。有名な話だが、Der Stern der Erloesungの最後、(掟の)門の向こうは、LEBENで終わるのである。Cf. Peter Eli Gordon, Rosenzweig and Heidegger: Between Judaism and German Philosophy (2003).
他に適切な言葉が浮かばないが、ローゼンツヴァイクの〈弔い合戦〉が進められているのだと思う。
●記:これで「Critical Life(期限付き)」を終えます。この間、ご意見・ご批判・ご教示を下さった方々に感謝いたします。いつか、別の場所、別の形で、とは思っております。