Hatena::ブログ(Diary)

Let’s リゾーム☆★☆的な日々

2011-02-16

ジョージ・オーウェル『動物農場』のれびゅ〜。

| 22:48

農場主に「反乱」を起こし、「動物農場」という「自由」な世界を手に入れた動物達。すると今度は、彼らを主導した豚達による独裁時代が幕を開けて……。

『1984』で有名なオーウェルの、いわゆる「共産主義」批判モノ。

注目すべきは、その童話的(表題でも「おとぎばなし」と書かれているのだけど)だが冷淡な語り口にある。

この語り手は、「嘘」も「本当」も、すべて現れるままに読み上げて、一切なにも断罪しない。豚達の小賢しさについても、動物達の愚鈍さについても、まったく言及しない。その、如何にもわざとらしい「盲目っぷり」が、我々読者に不穏な感じを覚えさせるのだ。

それは、動物達が、豚達の「嘘」に対して、どこか変だなあ、と思っている、その感じとリンクする。

どこか変だなあ、と思い、また、その理由を知りながらも、我々は、この「語り」に干渉できない。動物達もまた、その頭の悪さのせいで、まず何が「変」なのか思考する前に、それぞれ豚に言いくるめられてしまう。

この不穏な感じこそが、いわゆる「ディストピア」の、本質的なイメージなのかもしれない。

是非とも、歯軋りしながら読んで欲しい一冊。

動物農場―おとぎばなし (岩波文庫)

動物農場―おとぎばなし (岩波文庫)

2011-02-12

縛られぬもの

| 11:48

今年、間違いなくクるであろうユニットの一つ、Purity Ring。

音楽マニアな方々の間では、先月から話題沸騰となっている模様ですが、僕は、つい先日知りました。

どうやら、Gobble Gobbleというバンドのメンバーによる、サイドプロジェクトらしい。

ジャンルはエレクトロ。そのノイジーなマインド(音の配置のしかたがアクロバティック。こういうのもグラニュラーシンセシス的思想、と呼べるのかなぁ?)に、全く内容の異なるものながら、なんとなく、プッシー・ガロアあたりを連想しました。

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Pussy Galore/Dick Johnson

ところで、ユニット名は、「自分の処女・童貞を結婚まで守る」という決意の象徴として、アメリカの若者たちが身につける、指輪の名称だとか。

ってことは、このミュージック・ビデオの、チョット衝撃的なビジュアルもまた純潔性の裏返し……う〜ん?(笑)

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Purity Ring/Ungirthed

2010-12-25

一年経って、思うこと

| 13:11

僕は「死んだ人間」にあまり興味がない、と思う。

フジファブリックのヴォーカル、志村正彦が死んで一年が経つ。

最初の一ヶ月くらいの間は、ファンとして、確かに落ち込んでいた。

訃報に接した時には、泣いたような気もする。

だけど、いまでは、別に何とも思っていない。

もちろん、友人との間で、ふと彼の話題が出たときなど、少しは重たい気持ちになる。

だけど、その「重み」は、例えばニュースで、行ったこともない場所の、会ったこともない人の訃報に触れた時に感じるような、茫とした「重み」だ。

茫とした「重み」には、「不安」がない。

例えば、彼(というかフジファブリック)についての思い出や、これから先、二度と彼の生声が聴けないやりきれなさ……そういった、心を乱すような「不安」が想起される、そんな「重み」を、もはや志村正彦という存在は訴えかけてこない。

僕には、どこか想像力が欠けているのかもしれないと思っていた。

不思議なのは、そのことについて、全く切なく感じないことだった。

「そういうもんだ」

と、いつも思っていた。

今日、それでもフジファブリックの音源を全部持ち出してきて、思い出をたぐりながら聴いてみた。志村が死んでからこっち、あれだけ集中してフジファブリックと(そして、その思い出と)向き合ったことはなかったように思う。それは、別に避けていた、とかじゃなくて、なんとなく、面倒くさかっただけのことなのだけど。

不思議なことに、それは感傷ではなく楽しさを、まるで「今ここ」のことであるような興奮を「覚えさせる」体験だった。思い出は思い出でなく、新しい記憶として僕を嬉しい気持ちにさせた。


フジファブリックの曲に「記念写真」という曲がある。

そのサビの部分で、志村は、あの間延びした声で、こう歌う。

〈記念の写真 撮って 僕らは さよなら

 忘れられたなら その時は また会える〉

聴いていて、泣いたりはしなかったけど、

「そういうもんか」

ようやく解った気がした。


僕は「死んだ人間」に本当に興味がない。

「死んだ人間」は茫としていて、僕に何も届けてはくれない。

その代わりに、僕は「また会える」とぼんやり信じてきたのだ。

だから平気だと、「また会える」限り、ひとは「死なない」のだと、常に僕のなかで更新され続けるのだと、ぼんやり。


多分、また明日からしばらくの間、フジファブリックの音源に触れない日々が続くと思う。

聴いてみたいバンドやアーティストは毎日のように現れる。

僕は、結構、音楽が好きなのです。

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フジファブリック/記念写真(LIVE ver.)

2010-10-15

ご報告です。

| 21:26

突然ですが、宣伝です><

「.review」の論考をきっかけに呼んで頂いたネット座談会の模様が『メルマガクリルタイ』(下記アド)というメールマガジン上にて一昨日発行分から三回に渡って掲載されていく予定です。

http://www.mag2.com/m/0001000147.html

ちなみにテーマは「ロッキング・オン」。

ロキノンの音楽メディアとしての色々に迫り、そのまま、現在の日本のロック・シーンのメディア/リスナーが抱える問題点みたいなものにも触れてい(き)ます。僕は基本的に知ったかぶりする役です←

よければ、ご登録のうえ、お読みください!

shoji_arisawashoji_arisawa 2011/11/20 12:11 おめでとうございます。嬉しいですー。

2010-10-13

くるり『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』噺

| 21:27

文芸評論家上野昂志は小説家筒井康隆について次のように論じている。

「たとえば、大藪春彦の場合、一貫したモチーフがある。それを、わたしは仮に「戦争」と呼んでおいたけれど、(略)とにかく、物語はそれを軸にして形成されている。(略)

大衆小説は、大衆が生活現実のなかで抱く貧しい夢や妄想を、その根のところで共通するといったところがあるが、個々の作家のモチーフも、もともとそこに胚胎したものだといえるだろう。(略)その点で、ある「深さ」に支えられているといえるだろう。

ところが筒井康隆の場合は違うのだ。(略)筒井康隆以前のほとんどの大衆小説が、生活現実のなかで孕まれ、そのなかで消えていくか、犯罪として突出するかといった不定形な夢に支えられ、そこから発しているのに対して(略)彼の小説は、むしろ徹底して表面的なのだ。」

くるりという存在は、上野の語る意味で、とても「表面的」なバンドだと思われてきた。バンドとしての「モチーフ」を持たず(持たないように見え)様々な実験的なことに挑戦し、7thアルバム『ワルツを踊れ』において彼らは「コンセプチュアルであること」を突き詰めるに至ったのだ。

続く8thアルバム『魂のゆくえ』で一度リフレッシュした(それは眩しいほどに「無色」だった)後、さて、彼らはどこへ向かったのか。

新作アルバム『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』を聴いた時、僕は「ああ、これがくるりの音だ」と思った。

一般的な評価に従うならば、今作はあくまでもコンセプチュアルな「日本の音」であり「日常的な物語」を伝えるアルバムである、といえる。だが、思い出してみれば、彼らはもともと、はっぴぃえんどの血を引く「日本的」かつ「日常的な物語」を体現するバンドだったはずだ。

つまり、ここにきて、彼らは「原点回帰」を果たした。それは、上野の言うところの「深さ」を獲得(改めて表明?)し、自ら「くるりであること」を規定してみせたことと同意ではないだろうか。そして、その規定内容は、個人的な思い込みかもしれないが、僕たちのなかに漫然と在ったはずの、しかし殆ど忘れられていた「くるりらしさ」と対応するものなのではないか。

むしろ、そういった「らしさ」が無ければ、彼らのようなコンセプチュアルでマニアックなバンドが、ここまで手放しに広く支持されることは難しいはずだ。

ところで、『言葉にならない〜〜』が上記したような「原点回帰モノ」に留まる作品かというと、そうではない。

西欧の空気をまとったメロディとロックンロールの勢いとのコントラストがクセになる「犬とベイビー」や、『アンテナ』期のサイケさを感じさせる「目玉の親父」など、彼らのキャリアを活かした曲もあれば、「コンバット・ダンス」のような新しいセンス(R&B!!)もしっかり存在する。

「深さ」を得たくるりは、それでも、しっかりと前方を見据えている。

あるいはここからまた、僕たちファンを驚かせるようなコンセプトを打ち出していくのかもしれない。

しかし、『言葉にならない〜〜』以降のくるりにとって、いかなる活動も決して「くるりらしさ」を損なわせることにはならないはずだ。

言葉にならない、笑顔をみせてくれよ(初回限定盤)(DVD付)

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