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The Asshole of the Universe

October 18, 2014

ホドラー展

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日本・スイス国交樹立150周年記念 フェルディナント・ホドラー展

国立西洋美術館 2014年10月7日〜2015年1月12日

http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2014hodler.html

「19世紀末から20世紀初頭のスイスを代表」し、「いまなお「国民画家」と呼ばれて」いるというホドラーの日本では久しぶりとなる最大規模の回顧展。「国民画家」という評価には、ただ湖と山々などスイスの象徴的な風景を描き、広く人気があるという以上の含意があり、このレトロスペクティブを見てわかるのは、彼が文字通り「国民」の創造と統合に関わっていて、その意味で国民国家の時代としての19〜20世紀の画家だったことだ。

ホドラーが手がけた多数のモニュメントから、壁画そのものではないが、スイス建国史の一場面「マリニャーノからの退却」と「ムルテンの戦い」、ナポレオン戦争の際のイエーナの学徒出陣、同じくドイツはハノーファーがプロテスタントへと改宗した「全員一致」などの習作が紹介される。これらの大画面は、博物館や市庁舎など公的な場所に置かれ、正史の一部をなした。それは唯一の、正統の、公認された歴史であり、それを描き、語る目的は人々を一つにまとめあげるためだった。ある出来事の一つの解釈が定まるとき、その記憶を共有する人々の間には同胞意識が生まれる。正史の制定とその視覚化としてのモニュメンタルな絵画は、想像の共同体としての国民国家の土台となる共通認識だった。

国民の誕生を描くホドラーの絵は、外敵、蜂起、連帯、自己犠牲などのモチーフを持つ。そうした大きな物語はある範囲の人々を一体化する一方で、それ以外を切り捨てる。想像の共同体とは境界の策定であり、内と外ははっきりと断絶される。内においては一体感があり、会場の壁に書かれていた彼のことばを借りれば、「同じ感情・・・ただひとつの想念・・・モニュメンタルな合奏」からなる調和したリズムがある。しかし、それは非調和的なもの、リズムに反するもの、不協和音を外に追放することと不可分だ。だから共同体内部の画一性は恐ろしいものでもある。というのも、20世紀後半以降にいる我々は、国民はただ統合されただけでなく、異物を徹底的に排除したのであり、人々がただ一つのアイデンティティへと導かれた先に全体主義が待っていることを知っているからだ。

西洋美術館なのでキャプションは充実していて参考になるが、ホドラーの絵のリズミカルな心地よさや、同時代の音楽理論やモダンダンスとの近さに繰り返し言及する一方で、その均質な全体性がはらむ危うさに触れないのは短慮だ(いちおうカタログの解説文にはちょっと書かれている)。とくに「全員一致」で円陣を組んで拳を突き上げる人々(なんとまあ男くさい絵だろう!)の不気味さは、2014年の日本においては回顧というよりはホラーの復活として受け止められるのだから。

彼のリズムへのこだわりがシュタイナーに関連していたことはおもしろい。初期の伝統的な風景画とクールベ的な写実主義にすでに萌芽があった反復的なパターンは、女たちが簡素な服を着て自然のなかで踊る形象的な身体において、集団が同調する運動へと昇華する。自然への回帰、太陽への祈り、身体の解放、恍惚と陶酔といったイメージは20世紀後半以降ニューエイジに受け継がれるが、それはリベラルやコスモポリタニズムを基本としていて、ナショナリズムとは縁遠いように思える。しかし、ホドラーの調和的な身体は、神秘主義と国民国家は人工的に作られた単一性という点で一致していることを示す。彼らが夢想する自然とは唯一の理想の追求であって、多様なものではない。

常設展にはル・コルビュジェの「ランタンのある危うい調和」があった! 昨年のコルビュジェ展のときに、二次元に変形されたランタンが西洋美術館の天窓のようだと書いたけど、寄託されたとはうれしい。

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