儚き詩は君に寄り添う

2006-06-09 今夜降る奇跡の下で

杉浦紅葉

スギウラモミジ

たった今、順から教えてもらった名前を口の中で繰り返す。彼女の横顔が、ひらめきのように脳裏に浮かんだ。幻影だったあの人が、これで名前を得たわけだ。

「なにニヤニヤしてんだよ。秋良」

いたずな笑みを作りながら、順は僕の顔をのぞき込むようにして言った。別に、と平静を装いながら答えたものの、その時の僕の顔はやつの言葉どおり、間違いなくだらしないくらい崩れていたに違いない。しかし今回ばかりは、それも仕方のない話だ、と思う。

なにせ、この数カ月間ずっと遠目から見ていて想うだけの相手の名前を知ることが出来たのだから。

彼女のことを最初に知ったのは八月の中旬。

その日はしゃれにならないくらいの猛暑で、例年と比べてかなりの数字を記録した日でもあった。大学は夏休みに入っていて、当然サークルの仲間たちは朝からみんなで連れ立って海へ遊びに行っていた。そう。補習で大学へ通わなければならなかった僕を残して。うだる、どころの話ではなく、むしろ焼けるとか蒸発するとかの表現の方がしっくりくるようなふざけた暑さだった。だだっ広い教場には僕を含めても十数名ほどの人数しかなく、しかもそのほとんどが寝ていたり雑誌を広げているやつらばかりで、まじめにノートをとっている生徒は見る限りではほんの小人数だ。開かれた白紙のノートに手をついてシャーペンを回す。普段の講義に出席しないで遊びほうけていた自分に、いまさらながら腹が立った。こんなことになるなら、もう少し出席するか、せめて他の要領のいいやつらみたいに代返でも頼めばよかったのだ。

なんだか、なにもかもいやになってきた、そう思った時だった。手元に置いてあった携帯が、教場内の沈黙をやぶるように突然鳴りだした。泡を食った僕は、相手が誰かも確認しないまま取り落としそうになったそれを慌てて耳にあてる。

「もしもし」

背中に教授のきつい視線を感じながら、僕は背中を丸めてこそこそと廊下へ移動した。

「よお秋良。講義はどう?」

人を小ばかにするような、あっけらかんとした口調。思った通り、電話は順からだった。

「最悪だよ」

窓際に寄りかかりながら、僕は力無く言った。教場よりはマシかと思ったが、期待外れだった。開けっ放しになった大きな窓から風がよそよそと入ってくるものの、熱風ばかりでちっとも涼しくない。

「最悪?講義が?。ひょっとして俺の電話じゃないよな」

「両方」

「なんだよそれ。傷つくなあ」

たいして傷ついてもいない口調で、やつは言った。海から電話をかけてきているのだろう。順の気配に重なって、雑音みたいな騒がしさがかすかに聞こえてくる。こっちでは地獄の暑さも、向こうではきっとこの炎天下さえ心地よく感じるんだろうな。そう思ったとたん、なんだか無性に腹が立った。自分のだらし無さが招いた結果が今回の補習だということを分かっていたから、余計にそう感じたのかもしれない。気が付いた時には、なおも何か話そうとしている順を無視して、僕は電話を切ってしまっていた。

一階の食堂で缶ジュースを買い、気分転換にキャンパスをぶらぶら歩くことにした。校舎の中とは違い、ここは人影も多い。僕と同じように補修に出ている者もいれば、サークルなんかで出て来ている者もいる。きんきんに冷えたポカリのタブをあけ、芝生を横切りながら、一気に流し込む。喉元から胃の中へすとんとおさまるまでの道程が、冷たさでよく分かった。

僕が彼女を見たのは、とりあえず近くのベンチに座ろうとして周囲を見渡した、その時だった。大きなポプラの下にあるベンチで視線がぴたりと止まった。いや。正確には、そこに腰掛けていた彼女に目がいったのだった。 肩のところでぱっちりと切り揃えられた栗色の髪の毛が、風にかすかに揺れていた。年下か、しかし上にも見える。どこの学部だろう。

見たことがない。そもそもここの学生なんだろうか。ここからではよく分からなかった。その人は何をしているわけでもなく、ベンチに座ったままぼうっとしていた。たいてい下を向いていたけれど、時折顔を上げる度に、僕は慌てて違う方を向き、少し待ってはまた盗み見るようにしながら彼女を見つめた。 どうしてだろう、と不思議に思った。こんなことは初めてだ。

どうしても、彼女から目が離せなかった。磁石につく砂鉄みたいに引き寄せられた。しかししばらくすると、彼女は腰を上げ、そのままキャンパスから消えてしまった。僕は彼女の背中が小さくなり、やがて見えなくなるまでその場から動けずにいた。それからだ。度々、彼女をキャンパスで見かけるようになったのは。その人はいつも同じベンチに座り、そして決まってしばらくぼうとした時間を過ごしては消えた。そうしたことがしばらく続き、そしてつい先日のことになる。

昼食をすませた僕が、順と一緒にキャンパスを歩いていた時のこと。例の場所で、彼女を見つけた。ベージュの長袖のカーディガンとすとんとしたスカートといういでたちで、その人はベンチに座っていた。

僕の視線の先に気が付いてかどうかははっきりとしないが、あれ、と順はぽつりと言ったのだった。あれ、杉浦じゃないか、と。

彼女の名前は杉浦紅葉。僕らの二つ上。つまり二十四歳で、順とはしばらく前までバイト先が一緒だったという。

「まあ、すぐに俺のほうがやめちゃったけどな。いい人だったよ。美人だし人気もあった」

学校帰り、途中のコンビニで買ったタバコをくわえながら順は言った。やつがしゃべる度に小さな火がゆらゆら動く。

「でも何でかな。うちのOBでもないのに毎度来てるなんて」

言いながら僕を横目に、やつはにやりと唇のはしをもちあげた。

「案外、彼氏待ってたりしてな」

ちっとも案外じゃない。どっちかと言えば、それはかなり可能性の高い理由だ。もしくは誰か好きな奴がいて、そいつを見に来ていたということだって考えられる。そんなことをほんのちょっとでも思っただけで、胸の奥がつぶれるほど痛んだ。言葉に出来ないような焦燥感に、めまいさえ感じた。これほどまで彼女のことを想っていた自分に、少し驚きさえ感じたくらいだ。

僕が杉浦紅葉に告白したのは、それから一週間ほど経ってからのことだ。考えに考え抜いて出した答え、というよりは、しだいに肥大していく彼女への気持ちが自分でも押さえ切れなくなってとった、衝動的な行動に近い。とにかく僕は、まるで挑戦状でもたたき込むような勢いで彼女に告白した。冬日のようなうっすらとした笑顔。

それが彼女からの返事だった。

「兄貴。俺、彼女が出来たんだ。二週間くらい前になるかな」

薄暗い部屋。闇を揺らすロウソクの明かりに向き合いながら、僕は兄の仏壇に手を合わせた。

「杉浦紅葉っていうんだ。年上なんだけどさ。ああ、そう。兄貴と同い年だな、彼女」 二年か。兄が逝って、もうそんなに経ったのだ。胸のうちには、あの頃のまま歳をとらないでいる兄の姿があった。当時付き合っていた恋人との結婚を親父に反対され家を飛び出した兄。あの日、兄がそこで家にとどまってもう少しだけでも親父への説得を試みていれば、きっと交通事故なんかに巻き込まれなかったに違いない。兄貴の、馬鹿野郎。あれから、親父がどれだけ小さくなってしまったか分かっているのかよ。親父は、結婚を駄目だとあたまっから否定した訳じゃなく、まだ早いと思って反対したんだ。

・・・それなのに。

突然、携帯が鳴った。

静寂の中にいたせいか、着信音がやけに響いた。慌ててジーンズのポケットから取り出し、耳にあてる。

「もしもし」

「あ。もしもし」

くせのあるちょっと低い声。それが誰であるかはすぐに分かった。紅葉だ。

「どうした?」

仏壇から移動し、階段をかけ上がる。

「んー。別に。なんか声ききたくて」

身がよじれそうな歓喜を押さえながら、至って平静を装いながら僕は笑った。

「秋良、今なにしてた?」

「ん?家でくつろいでたよ」

一瞬、向こうに沈黙が生まれた。自分の部屋に入った僕は、ベッドへ腰掛けて時計へ目をやる。

紅葉、時間ある?」

え、と彼女は驚いたように言った。本当は彼女が言いたかった言葉を、僕が代わりに言ってやる。

「昼飯、一緒にどう?」

考えてみれば、紅葉はいつもそうだ。どこへ行きたいとか何を食べたいだとか何をしたいかとか、とにかく彼女はそういう自分の意志を言葉にしたりしない。デートの約束も、家へ帰るのもなにもかも僕しだい。それを遠慮と呼ぶにはあまりにあんまりだ、と僕は思う。なんだか、ひょっとして自分は片思いなんじゃないかと本気で不安になる時さえある。 でも、そのことについて僕は彼女を一度だって責めたことがない。多分、怖かったのだ。聞くことが、ではなくて、確かめることが。もしも彼女は僕のことなんて好きでもなんでもなくて、ただ勢いに押されて付き合っているだけで、そして自分に向けられた気持ちがたんなる同情でしかないとしたら、それこそ僕は次の瞬間から生きていられなくなるに違いない。だから僕は、確かめることも知ることも望んではいなかったのだ。

彼女が、紅葉がそばにいてくれる。その事実だけでよかったのに。だけどやっぱり、謎にはきちんと理由が用意されていて。僕は考えられる限り、最悪な形でそれを知ってしまったのだった。

不思議なものだ。

それまで一度だって目にとまらなかった写真立てが、その時にかぎって視界に入るなんて。兄の本棚に、息をひそめるようにしてそっと置かれていたそれには兄と、彼女が写っていた。髪は今よりもずっと長く、笑顔も今よりずっと眩しい。

しかし紛れも無く、紅葉だった。裏切られた。そう思った。後で考えたら、きっと彼女もそのことに気づいていなかったのだろう。僕が、自分の愛した男の弟だとは。そうじゃなければ、僕が怒り狂った弾丸みたいに彼女を責めまくった時、あんな顔はしなかったはずだ。心底傷つき、生きることさえやめてしまいそうな弱々しいまばたき。紅葉は、泣いていた。

それから一週間後。携帯に彼女からメールが届いた。

『さよなら。あなたを悲しませてしまった私は、もうここにはいられません。さよなら』

時間の流れは本当に一定なんだろうか。つい疑いたくなるくらい紅葉のいない時間はあっと言う間に過ぎていき、気が付けばクリスマスイヴを数日後に控えていた。考えてみれば紅葉と過ごした期間なんてほんの一握りしかない。なのに、喪失の痛みは例えようのないくらいに大きく、深かった。本当は、会いたかった。会いたくてしかたないのに、そう思えば思うほど僕は意固地になって行動には移さなかった。深夜、冷蔵庫から取り出した缶コーヒーを片手に居間のソファーへ腰掛ける。

たいして興味のある番組はなかったが、とりあえずテレビをつけると、何かただごとではない映像が視界に飛び込んできた。緊急のニュースだ。

僕はコーヒーをくびくび流し込みながら、他人事のようにそれを眺めていた。どうやら飛行機の墜落事故らしい。どこかの森を裂くようにして続く凄惨な現場をヘリが飛んでいる。その音にかき消されそうになりながら、女性のアナウンサーの声が叫んでいた。「海外行きか」

どうやらそれは、イタリアミラノへの飛行機だったらしい。アナウンサーの声が、ほとんど半狂乱になりながら搭乗者に日本人もいたことを知らせていた。画面が切り替わり、搭乗していたと思われる日本人の名前がカタカナで並ぶ。瞬間、僕は缶コーヒーを落としてしまった。

「嘘、だろ」

吸い込んだまま、呼吸が止まった。そのまま止まってくれた方がどれだけ幸せだったか分からない。

『スギウラ モミジ

カタカナで連ねられた五人の日本人搭乗者の中に、彼女の名前が表示されていた。嘘だ。そんなの。嘘。同姓同名だ。きっと。自分にそう言い聞かせる一方で、何かが音を立てて崩れて行く気がした。

この数日間、どうやって過ごしてきたのか全く思い出せない。ただ、時々嗚咽に背中を震わせて泣いた痛みは覚えている。こうして生きているということは、きっと食事もとって眠りもしたのだろう。あるいは僕はあのニュースを見てからすでに死んでいて、今、明かりの消えた部屋のすみっこでこうしてひざを抱えて座り込んでいるのが幽霊だったとしても、きっと疑いはしないだろう。それくらい、僕の意識は腐敗していた。もうなにもかもがどうでもよかった。あの惨劇の続報は見ていない。見てもしかたのないことだからだ。僕は愛する人を永遠に失った。どう転んでも、その事実は変わらない。

紅葉

紅葉

紅葉

好きなら、会いに行けばよかったんだ。簡単なことだったのに。それなのに。床に爪を立てて泣き崩れようとした、その時だった。 トントン、と部屋のドアがノックされた。

「・・・」

「秋良」

おふくろだ。

「あんた、いつまで閉じこもっている気?何があったか知らないけど、そろそろ出てきたら?」

「・・・」

「・・・あんたに、手紙きてるわよ」

スッとドアの下から差し込まれる音がした。 「ここにおいて置くからね。明日は大学行きなさいよ」

それだけ言うと、おふくろは階段を下りて行ってしまった。僕はドアに差し込まれた手紙を、涙でぼやけた視界で凝視した。手紙。誰だろう。はなをすすりながら、はうようにして近づき、それを拾う。月明かりの差し込む窓際まで移動し、目を落とす。見たことのある模様。エアメールだ。差出人の名前がないかわりに、メリークリスマスと一行書いてあった。

はっとしてカレンダーへ目をやった。忘れていた。そういえば、今日はイヴだ。力の入らない指先で封を開けると、二通の手紙が入っていた。外の明かりで、ぎっしりと埋め尽くされた文面が浮き彫りにされる。思わず、弾かれるように僕は立ち上がった。窓の外は、この部屋よりいくらか明るく、ゆっくりと天使の羽根ような雪が降り始めている。ここから眺める世界は、しんとした静寂をたたえ、奇跡させ予感させるほど完璧な空気を持って広がっていた。



親愛なる秋良

この手紙で、あなたにどれだけのことを伝えられるか、私には分からない。だけど何度も書き直して、ようやく形に出来た手紙です。

お願いだから、最後まで読んでください。お願いします。

あなたがまさかあの人の弟だったなんて、私は知らなかった。

本当よ。馬鹿だね。名字を聞いて、すぐに気が付けばよかったのに。そうすれば秋良を深く傷つけなくてすんだのに。

聞きたくないかもしれないけれど、私はあなたのお兄さんと恋人の関係にあった。お互い結婚さえ考えていたの。でも、そんな矢先にあの人は死んでしまった。私ね、すごく恨んだわ。あの人も、あの人を車で撥ねた人も。そして何よりも自分を。悲しいなんてものじゃなかった。体の一部を持って行かれたような激しい痛みだった。葬儀にも、お悔やみにも行けなかった。

どんな顔をして行っていいのか、全然分からなかった。情けないわよね。いい大人がさ。私が秋良の大学へ足をはこんだのは、あそこが彼の母校でもあったから。そうやってほんの少しでも、あの人とのつながりを作りたかったの。

だから、あなたが現れた時は本当に驚いたわ。正直言うとね、初めのうちは彼を忘れるために秋良と付き合っていたの。ごめんね。ごめんなさい。でも、これから書いてあることを信じてほしい。今の私は、秋良を愛してる。あの人とのつながりはいっさい関係ない。本当に本当。愛しています。私の傷を癒してくれたのは、他の誰でもなく、あなたです。でも、秋良への気持ちが大きくなればなるほど私はあなたに近づけなくなっていったのも事実。愛する人を二度も失うのが怖かった。

もしもこの先、あなたまで失ってしまったら・・・。考えただけでも目眩がした。だから後一歩、なかなか踏み込めないでいたの。でも駄目ね。

結局私はあなたを傷つけ、失った。この手紙はイタリアで書いています。今ね、ローマに住んでいる学生時代の友人のアパートにいるの。そうだ。こっちにきてから知ったんだけど、私が乗るはずだった飛行機が落ちたらしい。ニュースでもやっていたと思うから、きっとあなたも知っているわよね。私もその便でいく予定だったんだけど、こっちの友人が私を迎えにくる時間の関係でひとつ早く乗ることにしたの。その墜落事故を友人から聞かされた時、私は考えたわ。どうして自分が助かったのか。何故、私はここでこうして呼吸をしているのか。

私なんて他人を傷つけるだけの生きていてもしょうがない人間なのに。どうして。長い時間考えた結果が、この手紙です。私はあなたが大好きで、きっとこれからもそれは当たり前のように色あせなくて、魔法みたいに続いていくから今の私があるんだ。そしてこれから、それを証明するために、今の自分が存在しているんだ。そう思いました。秋良が、この手紙を目にするのは多分、クリスマスイヴの頃だと思います。ひょっとすると、私の方が少し早くそっちに到着してしまうかもしれない。イヴの晩、私はあなたに会いにいきます。

自分の想いを、自分の言葉で伝えるために。もう逃げたりしない。

あなたが、好き。大好き。こんなに傷つけてしまって、いまさらのこのこ現れて、そんなこと言われても困ると思うだろうけれど。でも、伝えるだけ伝えたい。この気持ちが一片の偽りもない、真実だということを。

イヴの晩。神様のくれた奇跡の下で、もしもあなたがもう一度だけ微笑んでくれるのなら。 私は、もう何も望んだりしないから。

杉浦 紅葉

2006-05-21 コール

散歩に行ってくる、と家族に言い残して外へ出る。コンビニまでは行かず近くの自販機でホットコーヒーを買う。ジーンズのポケットから携帯を取り出すと、アドレス帳から彼女の名前を選び出した。コールしようか迷った挙句、僕は渋々それをポケットへ戻した。何度迷えば気が済むのだろう。友達から始まった彼女に、どうやって好きだと伝えよう。携帯の電波は三本なのに、どうしても伝えられない。畜生、と呟くと僕はコーヒーを飲み干す。end

2006-05-17 桜ノ木ノ下デ歌ウ

既にしどけないまでに咲き誇る桜並木を愛犬と共に歩く。ふと犬が立ち止まり辺りに視線を巡らせる。何か聞こえるのだろうか。周囲に人影はない。再び歩き始めた時、今度は僕が足を止める。ほんの一瞬耳元をかすめた若い女の歌声。囁きにも似た吐息混じりの歌声。桜に向かって犬が唸る。その木は他の桜より一際美しく、そして鮮やかに私達の頭上で赤く咲き誇る。

end

2006-05-08 Close or Not 三章

翌日、朝のニュースで犯人逮捕をアナウンサーが淡々とした口調で伝えていた。彼女を殺害したのは、僕の知っている人物だった。 僕はテレビをつけっ放しにしながら、さっさと服に着替えて冷蔵庫から作りおきの朝食を取り出して簡単に済ませた。靴を履き、ドアを開けて出て行くまで、テレビは同じニュースを何度も伝えていた。アパートの外では、ものすごい人の数が例の公園を囲んでいた。あの場所は、これからも公園としてやっていけるのだろうか。続けたとしても、多分それは、普通の公園では無くなってしまうだろう。コートについたフードを深くかぶって、人だかりを足早に通りすぎると、僕は角を曲がった所で走りだした。待ち合わせを、うちの大学にしておいてよかった、と思う。公園なんかにしていたら、きっとこの騒ぎに巻き込まれていた。車なんて気の利いたものはもっていなかったし、タクシーを利用する金も貧乏学生には惜しい。全速力で走り、大学の階段を二段とばしで駆け上がって、教場の入り口までくると人の気配を感じた。

日曜の早い時間など、学生はほとんどいない。僕は教場へ踏み込み、窓際にその人が座っていることを確認した。コートを着込んだ、長い髪の女性。彼女は、つい最近までここの生徒だった。

「待ったかい」一歩、彼女へ近づく度に僕のブーツの音が、天井まで響く。僕に背中を向けたまま椅子に座る彼女は、今きたところ、と答えた。「犯人、捕まったらしいね」教壇の一段高くなった所に立ち、僕は続けた。「僕の知っている人だったよ」ぴくん、と彼女の肩が動くのを僕は見逃さなかった。「朝にさ、よく挨拶をする人だった。ゴミを捨てるついでにね。とても明るい人で、何度か立ち話もしたくらいだ。もちろん、僕がそう言うのが苦手だということは、君もよく知っていると思うけれど」「・・・」「そんな人が何故、あそこまで常識から逸脱した犯行を行ったのかまでは分からない。だけど、多分僕は誰よりも先にこの事件の行き着く先を見つけたんじゃないか、と思っているんだ」そこまで言っても、彼女はこっちを振り向いてはくれなかった。ただ黙したまま、閉じた窓に体を向けていた。外の雪景色なんて、見えているはずがないのに。

「はじめは僕も気が付かなかったんだ。しばらくは騙されていた。昨夜、君に電話をした時も実は半信半疑だった」「・・・きっかけは、何だったの?」ようやく口を開いた彼女の声は、何かに耐えるように小さく震えていた。「一つは、財布だよ。君が使っていた財布は特殊なもので、君も知っているだろうけれど、あれは左利き用のものだった。それを君は、本当の利き腕である右で使っていた。持ちかえることもなく、ね。これが一つ目。もう一つは・・・」「缶コーヒーね」

「・・・そう。僕が放った缶コーヒーを、君は右手で取った。とっさのことだったから、なんて言う言い訳は、必要ないね。何故なら、とっさであるなら、怪我をしている右手を使うなんてなおさらおかしなことだから」「・・・・・」「警察だってばかじゃない。この事件の犠牲者が別人であることは、近いうちに気が付くさ。例え君たちが一卵性双生児であっても。きっと、殺害されたのは本当は妹の美里であって、生き残ったのは姉であると、世間は知るだろう。君は、死んではいなかったんだな」 「・・・・・」「裡里」そこで言葉を区切ると、沈黙が降りた。近くで、女の子の笑い声が聞こえた。ゼミか何かで登校してきたのだろうか。重い沈黙を破ったのは、彼女だった。「美里は、優しい子だった。姉の私と違って、よく笑い、友達も多く両親にも優しい。よく似た姉妹なのに、同じなのは外見だけで中身は全く似ていなかった。あの子は私が帰るとね、いつだって夕食を一緒に取ったわ。自分が先にすませてしまった時でも、一緒にいてくれた。正直言ってそういうことが、とても面倒臭い時もあったけれど」神様は不公平よね。はなをすすりあげる音が、聞こえた。「あんなにいい子が何故、どういう理由があって殺されなくちゃいけないの?人に憎まれることも、きっとなかったでしょう。どうしてあんな殺され方をして・・・。だからあの子の死を知ってから、とっさに思いついたのが入れ替わることだった。幸い私たちは見た目は同じで、あの日も服装は同じだった。持ち物は抜き取られいたらしいから、彼女が美里である証拠はなくなっていた」「何故、入れ替わる必要があったんだい」一瞬、裡里が言葉に詰まり、ため息を吐き出すように、「分からないの?」と言った。「私が死ぬ分には、きっと誰も困らない。だけど妹の美里が死んでしまったら、あの子の友達も、それに私たちの両親だって深く悲しむに決まっているわ。だから私は、美里がこの世を去った瞬間から彼女の人生を引き継ごうと思ったのよ」「本当に、そう思っているのかい」「・・・」「君が死んでも、誰も悲しまないと?」「君が死んだと分かった時、君のご両親はどんな面持ちだった?」「・・・」最後まで、裡里が僕に背中を向けたままだった理由がその時になってようやく理解出来た。僕はコートのポケットへ両手を突っ込むと壇上から静かに降り、立ち止まった。「美里ちゃんの人生は彼女のものだ。君の人生は、志摩裡里として生きて行くしかないんだ」かすかに、はなをすする音が耳に入った。廊下へ出て後ろ手にドアを閉めようとすると、教場の隅の方から、すすり泣く裡里の声がかすかに聞こえた。

                     完

2006-05-07 Close or Not 二章

裡里の葬儀は、ひっそりと行われた。空は仄暗く曇っており、空気は湿り気を帯びていた。昨夜降った雨で雪は消えており、道端の隅っこにだけ泥と交じった塊が、辛うじて残っている程度であった。参列者の姿も少なく、しかも訪れている者たちのほとんどが、見たこともない大人たちばかりであった。 僕が見た限りでは、大学の同級生は一人も見当たらない。「みんな、親戚なの」僕の隣りで肩を並べていた美里が、ぽつりと言った。姉の死に、どれだけ泣いたのだろう。喉はひどく乾いている様子で、トーンも低い。考えてみれば、僕は裡里の死から、まだ一度も涙を流していなかった。おそらく、これから泣く、ということもないだろう。僕の網膜には、裡里の屍が鮮明に焼き付いていた。あの殺され方は、殺す側の精神状態をもろに反映している気がした。犯人像については、この数日間、ワイドショーなどでも最高のネタとして扱われていた。「犯人は、まだ見つかっていないよね」久しぶりに着たスーツのポケットへ両手を突っ込んだまま、僕がきく。美里は、無言で頷く。長い髪の毛が、うつむきがちな彼女の顔を半分ほど隠している。「僕はもう帰るけれど、事件のことで何か分かったら知らせてもらえるかな」犯人に興味があるんだ、ということは伏せたまま美里にお願いすると、僕は自分の携帯番号を彼女に伝えてその場を去った。空からは、再び雨が落ち始めていた。久しぶりに大学へ顔を出すと、裡里についての話題はたえてはいなかった。特別、友達でもない同級生からは同情の言葉をかけられ、それをきっかけに事件の詳しい真相をきいてくる者もいれば、あからさまに興味本位で近づいてくる者もいた。中でもたちが悪かったのが、犯罪心理学ゼミに在籍している連中で、彼らは自分たちの見解を織り混ぜながら、事件の話をしつこくききたがった。こうなることが目に見えていたから大学を休んでいたというのに、ちっとも効果がなく、そのことに僕は内心で落胆していた。講義を受ける気持ちもすっかり萎えてしまい、とりあえず僕は教場の隣りにある喫煙所へ移動した。歩きながら煙草をくわえて火をつける。ため息が白い煙となって、吐き出された。長椅子の上の、ヤニで汚れた壁にかけられた丸時計が、三時を指していた。美里から連絡が来たのは、裡里の死後から三週間経った、深夜だった。覚め切らない意識で、条件反射のように携帯を耳に当てた僕は、一瞬だけど驚いた。小さなスピーカーから聞こえてくる声が、裡里のそれかと思ったのだった。しかしそんなはずはなく。妹の美里からの電話だと、幸い、相手に僕の勘違いを悟られるより前に気づくことが出来た。「もしもし」はりのない、消え入りそうな声で彼女は言った。「もしもし。どうしたの?」「ごめんなさい。こんな遅くに。どうしてもかけたくなってしまって」ひょっとして事件に進展があったのかと思ったのだが、どうやらそういうわけではないらしかった。僕はベッドで横になったまま、「いいよ」と答えた。いいわけではなかったが、こんな声をきいてしまったら、さすがにすぐに切ってしまうには忍びなかった。「眠れなかったの?」「・・・はい」あの、と口ごもりながら美里が切り出した。 「どうかした?」「・・・お姉ちゃん。すごい殺され方をしたんですよね?私、お姉ちゃんの遺体も見せてもらえなかったし、話もあまりきけなくて」 そういうことか。僕は体を起こすとベッドから出て、キッチンへ向かった。床の冷たさが、足の皮膚をかたくした。「ひどかったよ」

と、僕は言った。自分の声が、静かなキッチンに響く。冷蔵庫を開けて、残り一本となったシンジャエールを取り出した。明日にでも買ってこなければならない。「とにかくあれは、普通の死体じゃなかった。テレビでもやっていたけれど、あれはもう、彼女に恨みをもつ者か完全に狂っている者の犯行だと僕は思っている。詳しくは言えないけれど、あの姿はすでに人じゃなかった」 しばしの沈黙をおいてから、美里は、「そうですか」と返事を返した。それ以外に、なんて答えられただろう。「とにかく君は、あまりそういうことを知ろうとしない方がいい。僕は何度も人が死んでいるところを目にしているけれど、君は僕とは違うから」「はい」美里が頷くのが、見えるようだった。それから挨拶を交わして電話を切ると、夜の静寂が、また僕の狭い部屋を包み込んだ。ベッドへ腰掛け、目の前の炬燵を見つめた。ついこの間まで、裡里はここで眠ったり食事をとったり読書をしたりしていたのだ。だるそうにしながら。あの日、彼女が最後にここにきた日。彼女が途中で目を覚まさずに眠っていたら、無理にでも引き留めて一緒に食事をしたら、裡里は死んだりしなかったのだろうか。裡里は、あんな風に殺されたりはしなかったのだろうか。過去のことをどうこう考えても仕方のないことなのは分かっていたが、確かにやり切れない思いも胸のうちに、しこりのように残っていた。「眠いわ」そう言って炬燵で眠る彼女を見れなくなったのは、正直言って、つまらない。この事件に僕が疑問を抱いたのは、それからさらに一週間後のことだった。ささいなきっかけが、僕の心の奥底に小さな波紋を作り、疑問符を生んだ。その日、僕と美里は裡里の死体が放置されていた公園で顔を合わせた。彼女の家での様子を詳しくききたくて、僕から連絡をしたのだった。その日は珍しく天気がよく、久しぶりに太陽が顔を出していた。しかしあの事件以来、公園に人影はなく、あったとしてもせいぜい、やじ馬や取材にきている人間くらいであった。

「ここで、お姉ちゃんが死んでいたのね」ベージュのコートに身を包んだ美里は、姉の死体が立てられていた砂場を睨むようにしながら憎々しげに呟く。「そうだよ」僕は煙草をくわえながら、答えた。「そんなことよりも、美里ちゃん。裡里は家ではどうだった?誰かにねらわれているような様子はなかったのかい」ないわ。美里は首を振る。「お姉ちゃんはいつも寝ていたから」

「・・・そう」外に変わったことはなかったか。自宅に遅く帰ってきた日はどんな感じだったか、郵便物で何か届けられたか、家族に不審な点はなかったか、とにかくなんでもいいから教えてほしいと頼んだのだけれど、収穫はなかった。 長い時間を外で過ごしたため、僕らの体はすっかり冷えきってしまい、とりあえず近くのコンビニへ行くことにした。僕らの関係で共通点といえば裡里しかなく、なので移動の最中も裡里の話ばかりだった。だけどそれは、傷口にカラシやワサビや香辛料を塗りたくるような、さらに痛みを広げる愚かな行為でしかなかった。コンビニのドアを押し開く頃には、僕らはすっかり憂鬱になってしまっていた。僕は晩に食べる弁当とホットコーヒー二本とジンジャエールが五本入ったカゴを左手に持ちながらレジに並んだ。僕の前に立つ美里は喉飴をカウンターに出しコートから、財布を取り出している。左手に持たれた草色の財布をやけに使いにくそうにしながら小銭をつまむ指先が肩越しから見えた。「・・・」お先に、と笑顔で美里が外へ出た。会計を済ませて彼女の後を追うと、美里は気の抜けた横顔で力無く立っていた。きっと軽く押しただけで、あの背中は簡単に倒れてしまうだろう。あの晩、裡里が殺された日にあった美里の明るさは、もう影すら無い。恋人を失った男と、姉を無くした妹。第三者から見れば、そんな感じで、間違いなく同情の的となりそうな構図が出来上がる。だけど僕の胸の内には、小さな疑問符が浮かび出していた。それは普段なら、別に気にするようなことのない、ささいなことが原因だった。僕は、僕が店から出ていることに気が付かないでいる彼女に向かって声をかけると同時に、二本買った内の缶コーヒーの一本を放った。群青色の缶は、低い放物線を描くようにして美里へ届いた。慌てて腕を伸ばしてそれをキャッチした彼女の右腕、コートが下がって現れた細い手首には、真新しい白い包帯が巻かれていた。普段は気にならない時計の針の音が、やけに耳につく。一時間前からベッドに入っているというのに眠くならない。むしろ、闇の静けさも手伝って、鮮明になった思考回路が僕の意識から離れたところでシャカシャカと働いていた。毛布と掛け布団の中で、何度も寝返りを打ちながら、枕元から同じ目線にあるコンポを見つめた。頭の中で、裡里を思い出していた。彼女について知っている限りのことを、想像上の棚に並べて、その下に美里の情報を並べた。何度考えても、同じ答えにしか行き着かない。だけとそれは、あまりに大胆な予想であり、もしも本当にありえることならば、この事件の結末は誰も予想していない場所へ落ち着くことは間違いなかった。覚悟を決めて、枕元に置いてある携帯電話を手に取る。電源を入れると辺りがぼうっと明るくなり、僕は目を細めた。

                     続く

2006-05-05 Close or Not  一章

死体の匂いを嗅ぎ付ける能力が自分に備わっていることを知ったのは、もう随分と昔の事だ。その異質な力をはっきりと自覚したのが今から十年ほど前、僕が九歳の頃だ。以前から、どす黒く光る内蔵を広げた猫を道端で見たり、玄関先に羽を閉じたまま固くなっている雀や、蠢く蛆に包まれた何かの肉塊が目の前に現れた事は多々あったものだが、それらは全て偶然であって特別な理由などありはしないのだと深く考えもしなかった。少なくとも、あの夏の日。僕が人間の死体を見つけてしまうまでは。どういう理由から自分が森の奥深い部分まで足を伸ばしてしまったのかは、よく覚えていない。そもそも何故、森へ向かったのかもまるで記憶に無い。幼さゆえか、それとも視界に飛び込んできた、あの映像があまりに衝撃的だったせいなのか、細かいところは分からない。とにかく気が付くと、僕が足を止めた数メートル先に、それはあった。背丈の高い木々は、シェルターのように外界の明かりを遮り、濃い闇をたたえている。木漏れ日が一本、湿った地面に突き刺さるように伸びていた。そして照らし出されるように、人間の躯が横たわっていた。間違いなく、それは息の絶えてしまった人間であった。服は泥だらけになり、汚れた小さな蛆が這っている。半袖から剥き出しになった両腕は灰色っぽく、紫色の毛細血管が皮膚を通してはっきりと見えた。生臭い。僕は辺りに視線を巡らせ、首から上についてあるはずのものを探した。そしてそれはすぐに見つかった。どういうわけで本体と離れた所に落ちているのだろう。頭がひとつ、サーカーボールのように無造作に転がっていた。乱れた茶色い髪の毛はからまって瑞々しさを失っていたけれど、きっと生前は背中まである美しい髪の毛だったに違いない。その顔は膨張し、蛆に穴を空けられ、もはや原形を留めてはいなかった。両目も、開いていたのかとじていたのか分からない。唇はぎざぎざに削られていて、そこから数本の前歯がのぞいていた。かすかに笑っているようにも見えた。

天を仰ぐと僕の太ももほどある太い枝には、ロープが輪を作ってぶら下がっていた。移動したのは、躯の方か。別段驚く事なく、僕の思考回路は淡々と考える。恐怖も、正直言ってまったくなかった。むしろ感動や興奮を、胸の奥で感じたくらいだった。その瞬間、僕は漠然と理解したのだ。自分は、死体を嗅ぎ付ける能力がある。そしてそれは、他人にはない特別な力なのだ、と。「眠いわ」 炬燵に入ったままの志摩裡里は、背中を丸めながらテーブルへ頭を横たえて呟いた。「眠ればいいじゃないか」彼女と向かい合う形で座っていた僕は、実家から送られてきた蜜柑の皮を剥きながら、苦笑した。裡里が眠たがるのはいつものことだ。というよりも、きちんと起きている時の方が少なく思えるくらい、普段から彼女はうとうとしている。もはや病的なほどに。僕は炬燵から抜け出て、何か冷たいものでも飲むかい、と裡里にきいてみた。返事の代わりに、規則正しい寝息が顔を伏せたままの彼女から聞こえてきた。腰まである黒髪が広がっていて、寝顔はよく見えない。静かにキッチンへ出て、冷蔵庫からジンジャエールの缶を取り出して、タブを開ける。炭酸の心地いい刺激が、喉元を流れ落ちていく。裡里と僕のデートは、たいてい僕のアパートで一日を終える。テレビゲームをしたりトランプをしたり、時々は僕が宝物にしているデスファイルのビデオを観たり。二人並んで昼寝をしたり、と。引きこもりの若者が単に一緒にいるだけ、という形が出来上がる。以前、それをきいた友人が、そんなものはデートではないと笑っていたけれど、仕方がない。人のいる場所が極端に苦手だった僕らには、選択肢がないに等しかった。ジンジャエールを片手に炬燵へ戻り、再び中へ両足を潜らせた。僕の持つ暖房器具はこれひとつだったので、部屋はいつも寒い。息が白い時も珍しくはないくらいだ。ベッドわきの四角く切り取られた窓ガラスの向こう側では、雪がちらちらと降り始めていた。裡里が目覚めたのは、日も沈み夜が訪れてからだった。退屈を埋めるために僕が観ていたデスファイルの物音でどうやら気が付いたらしく、彼女はむっくりと顔をあげるなり、乾いた声で、帰るわ、と言った。「晩御飯はいいのかい?パスタぐらいならすぐに出来るけど」立ち上がった裡里は、玄関先でふと足を止めてから振り返った。「今日は家に帰って食べるわ。なんだかとても眠くて。このままじゃ、また眠ってしまいそう」「そう」

「それじゃあ、また大学でね」ひらひらと手を振ったまま、裡里が外へ出る。ゆっくりとドアは閉まり、バタンと音を立てた。空き缶を流しに置いて壁掛け時計に目をやると、午後の七時を少し回っていた。その晩、床についた僕は何故か無性に本を読みたくなって、パジャマから再び洋服に着替えると、厚手のコートを着込んで外出した。雪は相変わらず降っていて、昼間の分はすでに地面に積もり、歩く度に足の裏で音を立てた。この辺は民家の密集地帯で、車道は狭く、車どおりはほとんど無い。静まり返っている路地を僕はコートのポケットへ両手を突っ込んだまま進み、突き当たりを左に折れた。表通りへ抜けると、建ち並ぶコンビニや飲食店の明かりと喧噪が僕を包んだ。車が走っていないことを確認し、車道を横断する。そのまま真っ正面にある本屋の自動ドアを、くぐり抜けた。店の中は閑散としていて、ほとんど人の姿はなかった。へたをすれば、客よりも店員の頭数の方が多いかもしれない。CDコーナーには目もくれず、本の並ぶ棚を眺めながらぶらぶらと進む。本を読みたくて足を運んだのだけれど、具体的にどんな種類のものを読みたいのか考えていなかったので悩んだ。インテリア系の雑誌を置いてある所を通り過ぎたところで、目のふしに映った人物に気が付き、僕はふと足を止めた。裡里だ。珍しい。参考書でも立ち読みしているのだろうか。彼女は手に持った本を真剣に読んでいる。「裡里」手を挙げて彼女へ歩み寄ると、裡里はきょとんとした表情で僕を見た。その顔を目にしてから、自分がとんでもない勘違いをしていることを悟り、声をかけたことを後悔した。 「尚喜さん」本を閉じた彼女は、裡里と瓜二つの顔で微笑んだ。さすがは一卵性双生児。僕でも見分けがつかないくらい、酷似している。「美里ちゃん、か」よく考えれば、裡里がこんなところにくるはずがないのだ。きっと今頃は夢の中にいるに違いない。それにしても、と僕は裡里の妹である美里を眺めながらあごをしゃくった。双子だから言って、なにも服装まで同じにすることないのに。これでは見間違えても仕方がない。「尚喜さんも本を買いにきたんですか?」「うん。眠れなくてね。美里ちゃんは、参考書?」「はい」顔の作りは同じでも、二人の性格は朝と晩くらいまるで違う。美里は、姉に似ないではきはきとよく喋る。会話の苦手な僕には、少しやりにくい相手だった。「今日はお姉ちゃんは?」「会ったよ。でももう帰った」「そっか」ポケットから右手で財布を取り出すと美里は中を確認し、苦笑した。

「お金、足りないや、尚喜さん、五百円貸してもらえます?」美里と別れた後も僕は店内をしばらく徘徊し、欲しい本を見つけられないまま、店を後にした。そして帰る途中で自動販売機から暖かい缶コーヒーを買い、きた時と同じ道を歩いた。雪はやんでいたけれど、夜が深くなるにつれ空気は冷え込み、時折吹き抜ける風は肌に刺さるような痛みを与えた。なんだか、とても無駄に時間を費やしてしまった気がしておもしろくなかった。早く帰って、もう一度風呂にでも入って、もう眠ろう。明日も一時限目から講義がぎっしり入っている。と、缶コーヒーを飲みながらアパートの前までくると、僕は誰かに呼ばれたような気がして振り返った。夜の公園は昼間の騒がしさが嘘のように、無言で街灯に照らし出されていた。「・・・」僕の視線は、公園の一番奥に注がれた。

あれは、何だ。心臓が、ざわりと音を立てた。親に連れられた近所の子供達が、いつも遊んでいる砂場。そこに何かがある。一瞬、子供かと思った。しかしこんな時間に、いるはずがないのだ。でもあのシルエットは、決して大人ではない。好奇心に背中を押されるように僕は公園の中へ入り、砂場へ向かった。予感は、あった。この感覚は、過去に何度か経験しているものだった。そう。心臓がざわつき、気持ちが狂ったようにはじけだす。よく知っている感覚だった。こういう時の僕は、決まって死体を見つける。それが何であるかを理解した瞬間、僕は彼女を見下ろした。やっぱり死体だった。子供の影だと思ったそれは、砂場に押し付けられるように立てられた上半身で、下半身はその隣りに横たえられていた。彼女の顔は真上を向いていた。残念ながら、目を合わせることは出来なかった。眼球が両方ともくりぬかれ、そこには砂が詰め込まれていた。口はあごが外れたように力無くぱっかり開き、舌が、まるで夏場の犬のように横からだらりと垂れ下がっていた。 歯はすべて抜き取られ口の中に入れられていた。長く、闇に溶けそうなほど黒い髪の毛は肩よりもわずかに上で切られ、一束ずつ両手に握らされていた。よく見ると、眼球もその上にのせられている。不思議なことに、服にこびりついた血の跡以外は、特に目立った汚れは見当たらなかった。彼女を殺した人物が拭きとったとしか考えられない。上半身の立っている周囲には、元は内蔵だったものが巨大な蚯蚓のように濡れながら、散らばっていた。僕は真っ二つになっている彼女を見つめた。 この服装。顔付きから予想して、まず間違いない。彼女は数時間前に僕のアパートを出たはずの、志摩裡里だ。

                   続く

2006-05-03 最後の希望

息子よ。歪んだ俺の視界でもお前の顔はよく見える。俺はきっともうすぐ逝くだろう。こんな体になってから思うのは、父としてお前に何かしてやれたのかということだ。自分でもよくわからない。せめて今の俺がお前にしてやれるのは、死の怖さと生の大切さを伝えることだけだ。しかめっ面で泣くのを堪える気丈な息子。強くなれ。一人で立てるよう、誰かを支えられるよう、ひたすら強くなれ。それが俺の願い。先に逝く父の願い。end

2006-05-02 サヨナラ

傾いた太陽が、僕らの足元に影を作る。大きなボストンバックを右手にぶら下げた彼女が新幹線へ乗り込んだところで振り返った。僕を含めた見送りの数人で彼女に別れの言葉を贈る。閉まるドアの向こう側で、彼女はそっと微笑んだ。さよなら。心の中で呟きながら目を伏せる。さよなら。本当に伝えたいことはそんな言葉じゃなかったのに。さよなら。とうとうそれしか言えなかった冷たい三月。end

2006-04-22 林檎

凍るような寒さを、漆黒の夜空とそこに浮かぶいくつかの雲が包む。街灯がほとんどない薄暗い路地から表通りへと抜けると、視界が一気にひらけ、僕はそこで足を止めた。右手に建つ赤レンガ調の巨大な時計台は午後の十一時を回っている。都会の中心部ならともかく、そのはずれならとっくに静寂の訪れるような時間帯だ。しかし細い道から現れた僕に迫ってきたのは、あふれかえる人波と、きらびやかなネオン、大音響で空気を振動させる音楽だった。 喧噪に飲み込まれそうになりながら、僕は歩き始めた。向かった先には、ばかみたいな数の電球ライトアップされたクリスマスツリーがある。今夜の、クリスマスイブの主役だ。向こうから歩いてくる人達にぶつからないように気をつけて歩きながら、そういえば、と不意に思い出す。林檎はクリスマスが大好きだった。クリスチャンでもないくせに、いつもこの時期になると調子っぱずれなジングルベルを鼻で歌っていたものだった。「ほらほら眠斗も歌って。ふんふんふーん」 高揚して頬を赤く染めていた小柄な林檎。前髪を真っすぐに切り揃え、その下にはこぼれ落ちそうなくらいに大きな瞳と小さな鼻に薄い唇。透けるように白い肌。まさか彼女の、あの綺麗な肌が病的なものが理由だったなんて知らなかった僕は、彼女の白さを何度褒めたか分からない。ツリーの下までくると、それが本物のモミの木ではないことが分かった。プラスチック製だろうか。真緑の葉が、瞬く電飾に変に反射している。だけどそれが、余計にツリーを幻想的な美しさで浮き彫りになっていたのも確かだ。僕は天を仰ぐようにそれを見上げた。「眠斗は生きるんだよ」去年のクリスマスイブの事だ。病室で僕ら二人は聖夜を祝った。林檎は以前に比べてさらにやせ細り、それまでのような肌の美しさも消えてしまっていた。「なに言ってるんだよ。突然」胸に突き刺さるような痛みを感じながら、僕は言った。あえて笑顔で。そこは外が遠くまで見通せる七階の個室だった。僕だってばかじゃない。個室を取れる人間がどういう人かは知っていた。金持ちか、もしくはもうすぐ命の灯火が消えようとしているものか。たいてい、そんなところだろう。「ありがとうね。毎日、お見舞いにきてくれて。おかげで楽しかった」窓の外を見ながら、林檎は言う。隣りの丸椅子に腰掛けながら、僕はひざの上でこぶしを握っていた。なんてこと言うんだよ。楽しかった、なんて。まるで最後みたいに言うなよ。この世に残す言葉みたいで、それがとても痛かった。「明日もくるぞ。明後日も、明々後日も、その次の日も、次の日も・・・」言ってて涙が出そうだった。自分の声が、震えそうになるのを必死でこらえながら、僕は笑う。「ああ、でもその頃には退院してるな。きっとさ。そしてら二人でまた街へ行こうぜ」語尾は、ほとんど声になっていなかった気がする。耐え切れず立ち上がり、「便所、行ってくるわ」ドアの前まで行った所で、林檎が僕を呼び止めるのを聞いた。「眠斗。大好き。ありがとう」結局、彼女はそれからすぐに逝ってしまった。彼女を愛していた、たくさんの人達を残して。今思えば、彼女は自分の死期を僕らや医者よりも正確に知っていたに違いない。一瞬、額に冷たいものが触れた。雪だ。静かに、囁くように舞落ちてくる。僕は空を見上げたまま、そっとまぶたをとじた。行き過ぎる人々の足音と笑い声、話し声。取り付けられたスピーカーから流れるジングルベルが、林檎の下手くそな鼻歌と交じりあり、やがてシンクロする。まぶたの裏側では、エプロンをつけた彼女が僕に背を向けたままごきげんな様子で、ケーキに生クリームを落としている。林檎。心の中で呼んでみると、彼女が笑顔で振り返る。林檎、会いたかった。林檎。林檎。「眠斗」すぐ近くで鐘の音を聞いた。きっと時計台だ。十二時の合図だろう。しかし僕が弾かれたように目を開け、振り返ったのは、彼女の声を耳にした気がしたからだった。いや、違う。気のせいなんかじゃなかった。僕の目の前には、確かに林檎がいた。元気な時の、明るい彼女が。「林檎」それに続く言葉が見つからなくて、僕は口をつぐんだ。近づけば消えてしまいそうで、それさえ出来ない。「ありがと眠斗」はにかむように微笑みながら、彼女が僕の頬を撫でた。暖かい。「林檎、俺」「メリークリスマス」風にほどかれるように、ふっと彼女が消える。僕は目を開けた。心臓が早鐘を打った。「林檎?」振り返り、彼女を捜す。けれど林檎の姿はなかった。当たり前だ。この世界に彼女はもういないのだ。それなのに。さっき林檎が触れた頬を、右手でなぞる。手が止まった。かすかな、甘い香りが鼻先をかすめた。確かに、それは生クリームの香りだった。僕は少しだけ笑うと、もう一度、クリスマスツリーに向き直り顔を上げた。真綿のような雪は降り続き、僕が流していた涙も消してくれた。「メリークリスマス。林檎」ぽつりと呟く。空よりもずっと向こう側の世界で、彼女が笑っている。そんな気がした

2006-04-18 名も知らぬ君へ

例えば、それを一目ぼれと呼ぶにはなんとなくしっくりとこない気がする。別に僕は、彼女を初めて目にした瞬間、恋に落ちたというわけではないのだ。ただ毎日、同じ場所で、同じ時間に彼女を見かけるうちに、いつの間にか特別な感情が胸の内に芽を出していた。 朝。時間は七時四十分ジャスト。近所にある酒屋の低い石段の上で、彼女は何をしているわけでもなく、ただ空を仰ぐような姿勢でいつも一人ぽつんと座っていた。僕が彼女を初めて見つけたのは、今から一カ月くらい前、確か月曜日だったと思う。 高校へ向かう途中で、喉が渇いていた僕はまだシャッターの上がらない酒屋の前に車を止め、店のわきに並ぶ自販機でジュースを買っていた。そして取り出し口から、キンキンに冷えたコーラを手に取り車へ戻ろうとした。 その時だった。不意に視界の隅で、誰かがこっちを見ていることに気が付いた。ほとんど反射的に、何げなく首を回して目にしたのが、その人だった。お互いの視線がぶつかったのは、文字通り一瞬だったと思う。それから僕は後ろ髪をひかれるのを感じながら、そのまま、その場を去った。二度目に会ったのは、翌日。同じ場所で。同じ時間。前日を、そのままコピーしてもってきたような不自然なまでのシチュエーションだった。けれど偶然は、それだけでは終わらなかった。明くる日も、そのまた次の日も、まるでそれが日課であるかのように僕らは顔を合わせ続けた。これが偶然でないことは、途中から気が付いていた。 そうじゃなくしてしまったのは、僕だ。いつからかは分からない。けれど気が付くと、彼女をひとめ見たいがために毎朝、あの場所で飲み物を買うようになってしまっていた。その苦労は容易ではなかった。低血圧にもかかわらず早起きし、食事や朝シャンを家を出るまでの時間内に終わらせる。万が一、遅れそうな時は食事を我慢してでも、僕は同じ時間を狙ってあの石段へ立ち寄るようにしていた。他人が聞いたら、きっと馬鹿にするだろう。僕がその立場なら、鼻で笑う。もっと現実を見ろよ、なんて言ったりもするかもしれない。僕だって、頭ではちゃんと分かっているのだ。そんなことをしても、何も始まらないし、何も変わらない。だけど、この恋は理屈じゃなかった。おおげさなんかじゃなく、毎朝のあの数分のために生きている気さえしたのだ。本当に。

彼女の名前は分からない。歳は上だろうか。どちらともとれない。年齢を感じさえない人だった。とても長い栗色の髪はいつも一束にして、背中をはっていた。座っている彼女しか見たことがなかったからよく分からないけれど、背丈はそれほどないんじゃないだろうか。とにかく、こうして僕はなんのあても保証もない恋にはまった。僕と彼女との間に変化が生まれたのは、それからしばらく経ってからのことだ。たとえ休日でも、ハチ公みたいにこつこつ決まった場所へ足を運んでいた僕は、その日も時間を見ながら玄関のドアを開けた。「あ」雨降りなことに気が付いた僕は、思わず声をもらしてしまった。しかも半端な量じゃない。天が破けて、そこからぶちまけられたような、容赦ない横殴りの雨だった。「これじゃあ、さすがにいないよな」肩を落としながら、それでも手には傘を握り、外へ出る。この天気では親に車を頼むのが普通なのに、僕はあえて徒歩を選んだ。たいした理由はない。ただ、なんとなくたまには歩いて行ってみたかっただけ。それに戻ったら、風呂にでも入ればいいだろうと考えていた。 周囲の音さえかき消すほどの豪雨の中、やっとのこと酒屋へたどり着いた僕は、彼女の姿がどこにもないことを悟り、落胆した。当たり前だ。

いるはずないじゃないか。この天気だ。何度も自分に言い聞かせながら、それでもせっかくだからと自販機の前に立つ。傘を肩にひっかけて財布をジーンズのポケットから取り出す。「今日もきてたんだ」雨音さえ通り抜けるような高い声が、不意に僕に届いた。それが誰であるか予想はついたものの、気が付いた時には後の祭りだった。驚いて取り落とした財布が地面に落ちた拍子に、中身までそこらへんにばらまかれてしまったのだった。慌ててしゃがみこみ、小銭を拾い集める。

「ちょっと、大丈夫?」頭の上からの声に、顔を上げる。そして二階の窓からは、彼女が顔を出してこっちを見下ろしていた。それで気が緩んだせいか、突風に当たられた瞬間、傘の柄がするりと手から抜け、あっと言う間に数メートル向こうまで転々と転がって行ってしまった。「ちょっと!」弾かれたように、彼女が声をあげる。僕の全身は服のまま風呂にでも浸かったかのように、ほんの数秒ですぶ濡れになってしまったのだから声だってあげたくもなるだろう。額に張り付いた前髪をかきあげて再び目をあげると、彼女の姿はなくなっていて、すぐに酒屋の隣のドアから傘を持って出てきてくれた。「はいこれ。傘」もう一方の傘を、その人は僕へ差し出した。 「あ。いいっすよ」と首を振る。「これだけ濡れたら意味ないし」馬鹿ねえ、と彼女は肩を揺らして笑うと、その場にしゃがみこみ、さっき僕が落とした小銭を拾い始めた。慌てて僕もひざを折る。 「いいっすよ。俺が拾うから」「これがないと毎朝、コーラ買えないわよ」 一枚一枚わずかについた砂を払いながら、彼女は僕の小銭を拾い続けて言った。せめて長靴でも履いてくればよかったのにな、と僕は彼女の足元を見て悲しくなった。べージュの高そうなサンダルはすでにびしょ濡れで、色白の足の先まで濡れてしまっている。「はい。どうぞ」拾い終わった僕の全財産を受け取ると、僕は頭を下げて礼を言った。いいのよ、と彼女ははにかむように笑った。「一本おごります。何を飲みます?」「え?いいわよ。別に」「拾い主に、一割」自販機に五百円玉を入れながら僕が言う。あは、と吹き出して彼女は、「じゃあ、コーラね。あなたと同じ」二人分のコーラを手に取り、片方を彼女へ渡す。そこであらためて、僕は自己紹介した。 「上野テツっていいます。いつもあそこの石段に座っていましたよね」「うん。天気のいい日はね。ほら、私の住んでる所が上のアパートだから。あ、私は芹沢キョウコ。よろしくね」よろしく。僕は頭を下げた。まさか彼女と会話が出来るなんて。今頃になって、感動が胸の奥から突き上げてくる。 キョウコさんはタブを開けた缶を僕に傾けると、雨にはとても似合わないようなまぶしい笑顔で言った。「二人の出会いに、乾杯」      END

2006-04-07 約束

・・・そうだ。俺は。「よお。ユウジ」背中からの声に振り返る。そこには二年前、肺がんで死んだはずのモリタの姿があった。ユウジは唖然として彼を凝視した。「そんな顔で見るなって」モリタは苦笑いして言った。「やっぱり。俺は死んだんだな」とユウジは肩を落として言った。「ああ。ここにいるということは。そういうことだな」「そうか。そういえばお前、なんで若返っているんだよ。死んだのは八十過ぎだろ」ユウジは我に返ったように言った。「この世界ってのは、どうやら自分のなりたい年齢になれるらしいぜ」そう言って笑うモリタの笑顔には胸をつんと痛める懐かしさがあった。「ま。ユウジ。そういうお前だって俺と同じ高校生だぜ」「は?まじで?」

驚いたユウジは自分の手の平に目をあてた。みずみずしい両腕。つい最近までの枯れた肌とは全く違う。「ユウジ。お前。あいつを覚えているか?ユキの事」モリタの言葉に、ユウジの心臓がぎゅっと縮んだ。けれどそれは唐突な質問だったからというよりは、ユキという名前への反応だった。

ユキ。笑顔が、とてもよく輝いていた。だけど、彼女は二十歳という若さで死んだ。当時、恋人だったユウジを残して。「お前、ユキが死ぬ前にしていた約束、覚えているか」「約束」覚えている、とユウジは視線を足元に落としていった。生まれ変わっても、一緒にいよう。死ぬ間際、ユキは最期まで笑顔を選んでそう言ったのだった。その時の彼女の姿を思い出して、ユウジはため息を漏らした。「顔を上げろよ。ユウジ」モリタの言葉に、彼はぎりぎりと重たくなった頭をもたげた。そして、息を飲んだ。信じられなかった。両目を何度かしばたいても、目の前に映っているものが理解できなかった。「ユキ」彼女だった。「ユキ、お前」紛れもなく彼女だった。「おっす」

とユキは笑顔で手を上げた。まるで昨日も会ったかのような、自然な笑顔だった。たまらなくなったユウジは、考えるよりも先にユキの体を抱きしめていた。両腕に、懐かしい、慣れたぬくもりが溢れる。「ごめんね」ユキは消え入りそうな声で言った。「生まれ変わるまで待てなかったよ」

そろそろと、ユキの手のひらがユウジの肩甲骨の辺りをそっと包んだ。まるで、二つの存在が交じり合うように、何もかもがひとつになっていくような不思議な感覚だった。「ここは天国。会いたかったよ。ユウジ」「離さない。絶対にもう。どこへも行くなよ」涙の絡まった声で、ユウジが言う。その耳元で、うん、と頷くユキのかすかな声が聞こえた。約束の果ては、永遠の入り口から始まる。

              END

2006-04-01 ベリー☆ハニー

「高校卒業したら私、福祉の専門学校入るんだ」肩を並べながら歩く彼女が唐突に言った。「福祉?」「そう。福祉」こくんと頷く彼女を、まじまじと見つめる。「縁日をミドリノヒなんて言ってた君が?」「昔の話じゃん」一年前を昔というのなら、まあそういうことなんだろう。「なんだよぅ。何笑ってんの!」容赦なく彼女が僕の尻を蹴飛ばす。馬鹿にしたんじゃない。僕らの未来は成長というレールに乗って確かに突き進んでいると感じたのだ。頑張れ。僕は内心で呟いた。end

2006-03-31 さよなら

傾いた太陽が、僕らの足元に影を作る。大きなボストンバックを右手にぶら下げた彼女が新幹線へ乗り込んだところで振り返った。僕を含めた見送りの数人で彼女に別れの言葉を贈る。閉まるドアの向こう側で、彼女はそっと微笑んだ。さよなら。心の中で呟きながら目を伏せる。さよなら。本当に伝えたいことはそんな言葉じゃなかったのに。さよなら。とうとうそれしか言えなかった冷たい三月。end

2006-03-24 face

私の向かいのデスクに彼女がいる。私とされほど歳の差がない彼女。ころころとよく笑い冗談も口にする明るさをまとった女。だけど私は知っている。その顔が異性にしか向けられていないことに。同性に対しての陰湿な面も、身を持って知っている。他に誰が知っているかは知らない。彼女の二面性。笑顔の下の、歪んだ表情を。end

羊 2006/03/24 20:53 カラオケに行った。むしろカラオケで逝った。肺活量が昔より弱くなったもんだから、ギリギリチョップだった。

嶋本はと嶋本はと 2006/03/28 23:19 こちらなら毎日見ていると思うので、書き込みます。羊さんすみません! 作品を投稿しようとして、間違えてスレッドを削除してしまいました。ほんとうにすみません。直そうと思ったんですけど、よくわかならいので、新しいスレッド立ててもらってもよろしいでしょうか? とにかく、削除してしまったこと、お詫び申し上げます。

羊 2006/03/31 22:03 はとさん。お久しぶりです(^^)向こうにもお返事書きましたが、そう気になさらないで下さい。あとで新しいものを作りますから。次は携帯でも見れるようにしましょうね。しばしおまちを〜。

2006-03-23 Picture

今さら驚くことじゃない。両親は昔から仲が悪かった。お互いをののしりあい、怪我をするだけの大喧嘩を繰り返してきたのだ。今回の離婚も、むしろなるべくして迎えた結果だ。私は自室で自分の荷物を片付けながら考えていた。私は母に引き取られる。このアパートからは出て行かなければならない。ふと積み上がったガラクタの中に一枚の写真を見つけた。所々折り目がつき色あせている。父も母も若く私は幼い。その中で三人は笑っていた。耐え切れず私は嗚咽をもらした。背中を丸め、声を殺しながらひたすら泣いた。

羊 2006/03/23 19:25 寝不足だ。こういうときに限ってやらなければならないことがたくさんある。まいった。まいったYO!

2006-03-22 TAO

一人でいるスタジオはやけに広く感じる。紙コップの珈琲をすすっていると、背中の方で開いたドア彼が入ってくる気配がした。「まだいたのか」驚いた声で彼が言う。「うん。もうこれで終わりなんだなと思うとね」一時間前、私達はラストシングルの収録を終えた。これで私達がバンドとしてやるべきことは何もない。「これからだろ」と彼は言った。「俺たちの道はこれからだ。解散しても俺らは仲間だからな」「うん。ありがと」無理に笑って私はまた珈琲をすする。明日に続く道を見据えながら。

羊 2006/03/22 21:28 DASが解散したのをきっかけに書いたショートショートです。彼らのラストシングルがTAOだったのですが。解散…悲しいです。話は変わりますがglobeのアルバムを買いました。今までで最も好きになれない一枚になりそうです…。

2006-03-21 毒針

彼女の恋人は暴力的だ。優しい彼女を殴り、時には心にまで傷を負わせたりする。それでも、男のことが好きなのだと、窓辺にたたずむ僕を見つめながら彼女は言う。僕には、とても理解できない。ある日のこと。偶然、僕の目の前に立っていた男の掌が何かの拍子に僕に触れた。「痛ッ」驚いて手を引っ込めた男は、舌を打ちながら僕を睨んだ。「腐れサボテンが」僕の針に毒があれば。そう思う。一瞬で男を殺せる猛毒があれば。例え彼女を泣かせる結果になっても、僕はそれを切に願う。end

羊 2006/03/21 19:49 眠い。そしてだるい一日だった。あまりに暇でマガジンとジャンプをかった。デスノートくらいしか見るものはないんだけど…。

2006-03-19 生きる場所

「パパ。ポチ、死んじゃったの?もう逢えないの?」朝早く息を引き取った愛犬の亡骸を撫でながら息子はしゃくりあげるように泣いた。私は息子の頭を撫でながら、そうだよ、と答えた。「でもね、ポチは消えてなくなったわけじゃないんだ」息子が振り返り私の顔を覗き込む。「ポチはね、生きる場所が変わっただけなんだよ。だから、消えたわけじゃない」その時の私の慰めを、息子はどんな気持ちで聞き入れ、どんな形で理解したのだろう。彼はただだだ渡しにしがみつきながら泣いた。やがて泣き止むまで、ひたすら泣き声をあげていた。end

羊 2006/03/19 19:11 今日からまた少しの間、ショートショートを載せていきます。どうでもいい話ですが、ジーンズとスニーカーが欲しい。でも二つ買うと五万超えるので買えません。そもそもそのどちらかもなかなか買えません。そんなことを鬱々と考えていた一日でした。

2006-03-18 まばたきの永遠 解説

この物語は、約五週間で書き上げた。普段なら半年から一年かかってダラダラ書くのだが、今作に限りどういうわけか筆が進んだ。当時、よしもとばななにはまっていた自分は彼女の作品を浴びるように読んだ。活字を浴びるというのはおかしな言い回しだが、とにかくそれくらい熱中して読んだ、ということだ。中でも「アムリタ」「NP」「つぐみ」「哀しい予感」は何度も読んだ。実を言うと、今作「まばたきの永遠」は「アムリタ」の影響が大きい。どこらへんに影響を?と訊かれても返答に困るが、とにかく大きいものは大きい。断固として大きい。絶対になにが何でも大きい。作者はそう思っている。加えていうと、槙原さんの音楽からも影響を受けている。どの曲かはここでは書かないが、ある曲からこの物語は出来ている。この物語は回想だ。紬がプラットホームに立つところから始まり、やがて始発の電車に乗ってあるべきところへ帰っていく所で幕を下ろす。また、それと同時にこの「まばたきの永遠」こそが、作中で紋太が書きたいといっていた夏の物語であることはいうまでもない。とにかくこの作品を最後まで読んでくれた皆さんにお礼を「ありがとうございました」。話は変わりますが、メルマガも好調でもうすぐ読者が400人になる。嬉しいな。嬉しいな。

旬 2006/05/30 03:55 もう4時になる…お久しぶりです!!今読み終えました〜!途中黒斗が亡くなった時はかなりの衝撃を受けましたが、それによりこの作品の…死の重みと尊さがより引き出されたのかなぁなんて素人目に思いました。これからもすばらしい小説を書き続けてください!冬公開の新作も楽しみにしてます!!

羊 2006/05/31 21:28 うお〜、お久しぶりです☆読んでいただけましたか。ありがとうございます。この作品はなるべくメッセージ性の強いものにしました。当時、吉本ばななさんを読んでいたのでその影響が多いと思います(笑

2006-03-13 まばたきの永遠 エピローグ

ホームへ電車が滑り込み、少し待つと、空気が抜けるような音と共に目の前のドアがひらいた。乗り込むと、中に他の乗客の姿はなく、閑散としていた。うっすらと照らされた明かりの下を歩き、私は適当な席を選んで腰掛けた。隣にボストンバックをのせ、窓へ目を向ける。ほどなくして、外の景色がゆっくりと動き出す。ホームを抜けると視界が一気にひらけ、たんぼの風景が気持ちよく広がった。目覚めにはまだ遠い、霧のかかった幻想的な青の世界。美しい。きっと、窓の外は静寂にすっぽりと包まれているに違いない。その風景には、はっきりとそう思わせる力がある。昨日から一睡もしていないせいだろう。体や頭がおそろしくだるかった。しかし、眠りたい気分ではなかった。この夏の風景を終わりまで見つめて、きちんと脳裏に刻み込み、記憶したかった。黒斗のいた最後の季節を。彼の時間は、止まってしまった。もう二度とは動かない。だけど、私や紋太は生きているから、これからも、目の前を流れていくこの景色のように、あらゆる瞬間を越えていくことだろう。 そして、アルバムのベージも重ねていく。そこに黒斗の姿はないけれど、そんなことはたいした問題ではない、と私は思う。写真は、いつかは色あせる。そこは切り取られた世界だし、音もなければ匂いもない。暑さも寒さも痛みも、なにもない。だけど、実際に同じ空気の中にいた黒斗との思い出は、いつまでもこの胸の中に残る。三人で花火を見ている時、彼が言ったように、体で感じたまるごとの思い出だ。笑ったこと、迷ったこと、恥ずかしかったこと、悲しかったこと、怒ったこと、そんなあらゆる出来事が私の中で体温のようにとどまり、時間と共に発酵し、少しずつ美化されていく。それでいいのだ。きっと。私は隣に置いてあるボストンバックをひざへのせ、チャックをあけた。中には、この夏の思い出の品がたくさん詰め込まれていた。黒斗が買ってくれた、たぬきのお面。彼の残していった楽譜。MD。海に行きたくて、慌てて買った水着。紋太から借りて、結局、途中までしか読めなかった小説。まだまだ、ある。 私は、胸の奥から突き上げてくる熱いものを感じながら、それらを見つめた。

 その時だった。ふと、すみの方にある小さなビニール袋に目がとまった。なんだろう。こんなもの、私は入れた覚えがない。手にとって、目の前まで持ってくると、それがなんであるかはひと目で分かった。ああ、そうか。これは種だ。しかも、ひとつじゃない。様々な種類の種、例えば、ひまわりであったり朝顔であったり、とにかく本当にたくさんの種がそこに入っていた。こんなことをする人なんて、一人しかいない。私は、紋太の強気な顔を思い出した。そしてその種が意味する所へ思い至ったとたん、やられた、と私は思った。最後の最後に、彼はなんといういたずらをしてくれるのだろう。次の瞬間、ものすごい勢いで涙が浮かんできて、私はとっさに顔をあげた。我慢出来なかった。まばたきをする度に、涙は頬を伝い、あごの先からためらいがちに落ちていった。はなの奥が、つんとしびれた。それをやり過ごすように、私は熱い息をゆるゆると吐き出した。そして外がしだいに明るくなっていることに気が付いて、私は窓へ目を向けた。遠くから白々と明けてゆく空の下、風景も目覚めるように自分の色を取り戻していく。涙はとまらず、次々とあふれてきて視界をふさぎ、ぽつり、ぽつり、とこぼれた。どんなに手の甲で拭っても、駄目だった。目に映るもの全てが一緒くたになり、やがて、私の瞳は白い光でいっぱいになった。

                    了

羊 2006/03/13 21:32 この物語はこれで終わりです。どうでしたでしょうか。少しでも心に残れば幸いです。次回は解説とあとがきをアップする予定です。感想、聞かせていただければ嬉しいです。

羊 2006/03/13 21:37 ちなみに、もう一度最初から読み直したい方はここからどうぞ。http://d.hatena.ne.jp/diary2005/20060214