名も知らぬ君へ

例えば、それを一目ぼれと呼ぶにはなんとなくしっくりとこない気がする。別に僕は、彼女を初めて目にした瞬間、恋に落ちたというわけではないのだ。ただ毎日、同じ場所で、同じ時間に彼女を見かけるうちに、いつの間にか特別な感情が胸の内に芽を出していた。 朝。時間は七時四十分ジャスト。近所にある酒屋の低い石段の上で、彼女は何をしているわけでもなく、ただ空を仰ぐような姿勢でいつも一人ぽつんと座っていた。僕が彼女を初めて見つけたのは、今から一カ月くらい前、確か月曜日だったと思う。 高校へ向かう途中で、喉が渇いていた僕はまだシャッターの上がらない酒屋の前に車を止め、店のわきに並ぶ自販機でジュースを買っていた。そして取り出し口から、キンキンに冷えたコーラを手に取り車へ戻ろうとした。 その時だった。不意に視界の隅で、誰かがこっちを見ていることに気が付いた。ほとんど反射的に、何げなく首を回して目にしたのが、その人だった。お互いの視線がぶつかったのは、文字通り一瞬だったと思う。それから僕は後ろ髪をひかれるのを感じながら、そのまま、その場を去った。二度目に会ったのは、翌日。同じ場所で。同じ時間。前日を、そのままコピーしてもってきたような不自然なまでのシチュエーションだった。けれど偶然は、それだけでは終わらなかった。明くる日も、そのまた次の日も、まるでそれが日課であるかのように僕らは顔を合わせ続けた。これが偶然でないことは、途中から気が付いていた。 そうじゃなくしてしまったのは、僕だ。いつからかは分からない。けれど気が付くと、彼女をひとめ見たいがために毎朝、あの場所で飲み物を買うようになってしまっていた。その苦労は容易ではなかった。低血圧にもかかわらず早起きし、食事や朝シャンを家を出るまでの時間内に終わらせる。万が一、遅れそうな時は食事を我慢してでも、僕は同じ時間を狙ってあの石段へ立ち寄るようにしていた。他人が聞いたら、きっと馬鹿にするだろう。僕がその立場なら、鼻で笑う。もっと現実を見ろよ、なんて言ったりもするかもしれない。僕だって、頭ではちゃんと分かっているのだ。そんなことをしても、何も始まらないし、何も変わらない。だけど、この恋は理屈じゃなかった。おおげさなんかじゃなく、毎朝のあの数分のために生きている気さえしたのだ。本当に。
彼女の名前は分からない。歳は上だろうか。どちらともとれない。年齢を感じさえない人だった。とても長い栗色の髪はいつも一束にして、背中をはっていた。座っている彼女しか見たことがなかったからよく分からないけれど、背丈はそれほどないんじゃないだろうか。とにかく、こうして僕はなんのあても保証もない恋にはまった。僕と彼女との間に変化が生まれたのは、それからしばらく経ってからのことだ。たとえ休日でも、ハチ公みたいにこつこつ決まった場所へ足を運んでいた僕は、その日も時間を見ながら玄関のドアを開けた。「あ」雨降りなことに気が付いた僕は、思わず声をもらしてしまった。しかも半端な量じゃない。天が破けて、そこからぶちまけられたような、容赦ない横殴りの雨だった。「これじゃあ、さすがにいないよな」肩を落としながら、それでも手には傘を握り、外へ出る。この天気では親に車を頼むのが普通なのに、僕はあえて徒歩を選んだ。たいした理由はない。ただ、なんとなくたまには歩いて行ってみたかっただけ。それに戻ったら、風呂にでも入ればいいだろうと考えていた。 周囲の音さえかき消すほどの豪雨の中、やっとのこと酒屋へたどり着いた僕は、彼女の姿がどこにもないことを悟り、落胆した。当たり前だ。
いるはずないじゃないか。この天気だ。何度も自分に言い聞かせながら、それでもせっかくだからと自販機の前に立つ。傘を肩にひっかけて財布をジーンズのポケットから取り出す。「今日もきてたんだ」雨音さえ通り抜けるような高い声が、不意に僕に届いた。それが誰であるか予想はついたものの、気が付いた時には後の祭りだった。驚いて取り落とした財布が地面に落ちた拍子に、中身までそこらへんにばらまかれてしまったのだった。慌ててしゃがみこみ、小銭を拾い集める。
「ちょっと、大丈夫?」頭の上からの声に、顔を上げる。そして二階の窓からは、彼女が顔を出してこっちを見下ろしていた。それで気が緩んだせいか、突風に当たられた瞬間、傘の柄がするりと手から抜け、あっと言う間に数メートル向こうまで転々と転がって行ってしまった。「ちょっと!」弾かれたように、彼女が声をあげる。僕の全身は服のまま風呂にでも浸かったかのように、ほんの数秒ですぶ濡れになってしまったのだから声だってあげたくもなるだろう。額に張り付いた前髪をかきあげて再び目をあげると、彼女の姿はなくなっていて、すぐに酒屋の隣のドアから傘を持って出てきてくれた。「はいこれ。傘」もう一方の傘を、その人は僕へ差し出した。 「あ。いいっすよ」と首を振る。「これだけ濡れたら意味ないし」馬鹿ねえ、と彼女は肩を揺らして笑うと、その場にしゃがみこみ、さっき僕が落とした小銭を拾い始めた。慌てて僕もひざを折る。 「いいっすよ。俺が拾うから」「これがないと毎朝、コーラ買えないわよ」 一枚一枚わずかについた砂を払いながら、彼女は僕の小銭を拾い続けて言った。せめて長靴でも履いてくればよかったのにな、と僕は彼女の足元を見て悲しくなった。べージュの高そうなサンダルはすでにびしょ濡れで、色白の足の先まで濡れてしまっている。「はい。どうぞ」拾い終わった僕の全財産を受け取ると、僕は頭を下げて礼を言った。いいのよ、と彼女ははにかむように笑った。「一本おごります。何を飲みます?」「え?いいわよ。別に」「拾い主に、一割」自販機に五百円玉を入れながら僕が言う。あは、と吹き出して彼女は、「じゃあ、コーラね。あなたと同じ」二人分のコーラを手に取り、片方を彼女へ渡す。そこであらためて、僕は自己紹介した。 「上野テツっていいます。いつもあそこの石段に座っていましたよね」「うん。天気のいい日はね。ほら、私の住んでる所が上のアパートだから。あ、私は芹沢キョウコ。よろしくね」よろしく。僕は頭を下げた。まさか彼女と会話が出来るなんて。今頃になって、感動が胸の奥から突き上げてくる。 キョウコさんはタブを開けた缶を僕に傾けると、雨にはとても似合わないようなまぶしい笑顔で言った。「二人の出会いに、乾杯」      END