今夜降る奇跡の下で

杉浦紅葉。
スギウラモミジ。
たった今、順から教えてもらった名前を口の中で繰り返す。彼女の横顔が、ひらめきのように脳裏に浮かんだ。幻影だったあの人が、これで名前を得たわけだ。
「なにニヤニヤしてんだよ。秋良」
いたずな笑みを作りながら、順は僕の顔をのぞき込むようにして言った。別に、と平静を装いながら答えたものの、その時の僕の顔はやつの言葉どおり、間違いなくだらしないくらい崩れていたに違いない。しかし今回ばかりは、それも仕方のない話だ、と思う。
なにせ、この数カ月間ずっと遠目から見ていて想うだけの相手の名前を知ることが出来たのだから。

彼女のことを最初に知ったのは八月の中旬。
その日はしゃれにならないくらいの猛暑で、例年と比べてかなりの数字を記録した日でもあった。大学は夏休みに入っていて、当然サークルの仲間たちは朝からみんなで連れ立って海へ遊びに行っていた。そう。補習で大学へ通わなければならなかった僕を残して。うだる、どころの話ではなく、むしろ焼けるとか蒸発するとかの表現の方がしっくりくるようなふざけた暑さだった。だだっ広い教場には僕を含めても十数名ほどの人数しかなく、しかもそのほとんどが寝ていたり雑誌を広げているやつらばかりで、まじめにノートをとっている生徒は見る限りではほんの小人数だ。開かれた白紙のノートに手をついてシャーペンを回す。普段の講義に出席しないで遊びほうけていた自分に、いまさらながら腹が立った。こんなことになるなら、もう少し出席するか、せめて他の要領のいいやつらみたいに代返でも頼めばよかったのだ。
なんだか、なにもかもいやになってきた、そう思った時だった。手元に置いてあった携帯が、教場内の沈黙をやぶるように突然鳴りだした。泡を食った僕は、相手が誰かも確認しないまま取り落としそうになったそれを慌てて耳にあてる。
「もしもし」
背中に教授のきつい視線を感じながら、僕は背中を丸めてこそこそと廊下へ移動した。
「よお秋良。講義はどう?」
人を小ばかにするような、あっけらかんとした口調。思った通り、電話は順からだった。
「最悪だよ」
窓際に寄りかかりながら、僕は力無く言った。教場よりはマシかと思ったが、期待外れだった。開けっ放しになった大きな窓から風がよそよそと入ってくるものの、熱風ばかりでちっとも涼しくない。
「最悪?講義が?。ひょっとして俺の電話じゃないよな」
「両方」
「なんだよそれ。傷つくなあ」
たいして傷ついてもいない口調で、やつは言った。海から電話をかけてきているのだろう。順の気配に重なって、雑音みたいな騒がしさがかすかに聞こえてくる。こっちでは地獄の暑さも、向こうではきっとこの炎天下さえ心地よく感じるんだろうな。そう思ったとたん、なんだか無性に腹が立った。自分のだらし無さが招いた結果が今回の補習だということを分かっていたから、余計にそう感じたのかもしれない。気が付いた時には、なおも何か話そうとしている順を無視して、僕は電話を切ってしまっていた。

一階の食堂で缶ジュースを買い、気分転換にキャンパスをぶらぶら歩くことにした。校舎の中とは違い、ここは人影も多い。僕と同じように補修に出ている者もいれば、サークルなんかで出て来ている者もいる。きんきんに冷えたポカリのタブをあけ、芝生を横切りながら、一気に流し込む。喉元から胃の中へすとんとおさまるまでの道程が、冷たさでよく分かった。
僕が彼女を見たのは、とりあえず近くのベンチに座ろうとして周囲を見渡した、その時だった。大きなポプラの下にあるベンチで視線がぴたりと止まった。いや。正確には、そこに腰掛けていた彼女に目がいったのだった。 肩のところでぱっちりと切り揃えられた栗色の髪の毛が、風にかすかに揺れていた。年下か、しかし上にも見える。どこの学部だろう。
見たことがない。そもそもここの学生なんだろうか。ここからではよく分からなかった。その人は何をしているわけでもなく、ベンチに座ったままぼうっとしていた。たいてい下を向いていたけれど、時折顔を上げる度に、僕は慌てて違う方を向き、少し待ってはまた盗み見るようにしながら彼女を見つめた。 どうしてだろう、と不思議に思った。こんなことは初めてだ。
どうしても、彼女から目が離せなかった。磁石につく砂鉄みたいに引き寄せられた。しかししばらくすると、彼女は腰を上げ、そのままキャンパスから消えてしまった。僕は彼女の背中が小さくなり、やがて見えなくなるまでその場から動けずにいた。それからだ。度々、彼女をキャンパスで見かけるようになったのは。その人はいつも同じベンチに座り、そして決まってしばらくぼうとした時間を過ごしては消えた。そうしたことがしばらく続き、そしてつい先日のことになる。
昼食をすませた僕が、順と一緒にキャンパスを歩いていた時のこと。例の場所で、彼女を見つけた。ベージュの長袖のカーディガンとすとんとしたスカートといういでたちで、その人はベンチに座っていた。
僕の視線の先に気が付いてかどうかははっきりとしないが、あれ、と順はぽつりと言ったのだった。あれ、杉浦じゃないか、と。

彼女の名前は杉浦紅葉。僕らの二つ上。つまり二十四歳で、順とはしばらく前までバイト先が一緒だったという。
「まあ、すぐに俺のほうがやめちゃったけどな。いい人だったよ。美人だし人気もあった」
学校帰り、途中のコンビニで買ったタバコをくわえながら順は言った。やつがしゃべる度に小さな火がゆらゆら動く。
「でも何でかな。うちのOBでもないのに毎度来てるなんて」
言いながら僕を横目に、やつはにやりと唇のはしをもちあげた。
「案外、彼氏待ってたりしてな」
ちっとも案外じゃない。どっちかと言えば、それはかなり可能性の高い理由だ。もしくは誰か好きな奴がいて、そいつを見に来ていたということだって考えられる。そんなことをほんのちょっとでも思っただけで、胸の奥がつぶれるほど痛んだ。言葉に出来ないような焦燥感に、めまいさえ感じた。これほどまで彼女のことを想っていた自分に、少し驚きさえ感じたくらいだ。

僕が杉浦紅葉に告白したのは、それから一週間ほど経ってからのことだ。考えに考え抜いて出した答え、というよりは、しだいに肥大していく彼女への気持ちが自分でも押さえ切れなくなってとった、衝動的な行動に近い。とにかく僕は、まるで挑戦状でもたたき込むような勢いで彼女に告白した。冬日のようなうっすらとした笑顔。
それが彼女からの返事だった。

「兄貴。俺、彼女が出来たんだ。二週間くらい前になるかな」
薄暗い部屋。闇を揺らすロウソクの明かりに向き合いながら、僕は兄の仏壇に手を合わせた。
「杉浦紅葉っていうんだ。年上なんだけどさ。ああ、そう。兄貴と同い年だな、彼女」 二年か。兄が逝って、もうそんなに経ったのだ。胸のうちには、あの頃のまま歳をとらないでいる兄の姿があった。当時付き合っていた恋人との結婚を親父に反対され家を飛び出した兄。あの日、兄がそこで家にとどまってもう少しだけでも親父への説得を試みていれば、きっと交通事故なんかに巻き込まれなかったに違いない。兄貴の、馬鹿野郎。あれから、親父がどれだけ小さくなってしまったか分かっているのかよ。親父は、結婚を駄目だとあたまっから否定した訳じゃなく、まだ早いと思って反対したんだ。
・・・それなのに。
突然、携帯が鳴った。
静寂の中にいたせいか、着信音がやけに響いた。慌ててジーンズのポケットから取り出し、耳にあてる。
「もしもし」
「あ。もしもし」
くせのあるちょっと低い声。それが誰であるかはすぐに分かった。紅葉だ。
「どうした?」
仏壇から移動し、階段をかけ上がる。
「んー。別に。なんか声ききたくて」
身がよじれそうな歓喜を押さえながら、至って平静を装いながら僕は笑った。
「秋良、今なにしてた?」
「ん?家でくつろいでたよ」
一瞬、向こうに沈黙が生まれた。自分の部屋に入った僕は、ベッドへ腰掛けて時計へ目をやる。
「紅葉、時間ある?」
え、と彼女は驚いたように言った。本当は彼女が言いたかった言葉を、僕が代わりに言ってやる。
「昼飯、一緒にどう?」

考えてみれば、紅葉はいつもそうだ。どこへ行きたいとか何を食べたいだとか何をしたいかとか、とにかく彼女はそういう自分の意志を言葉にしたりしない。デートの約束も、家へ帰るのもなにもかも僕しだい。それを遠慮と呼ぶにはあまりにあんまりだ、と僕は思う。なんだか、ひょっとして自分は片思いなんじゃないかと本気で不安になる時さえある。 でも、そのことについて僕は彼女を一度だって責めたことがない。多分、怖かったのだ。聞くことが、ではなくて、確かめることが。もしも彼女は僕のことなんて好きでもなんでもなくて、ただ勢いに押されて付き合っているだけで、そして自分に向けられた気持ちがたんなる同情でしかないとしたら、それこそ僕は次の瞬間から生きていられなくなるに違いない。だから僕は、確かめることも知ることも望んではいなかったのだ。
彼女が、紅葉がそばにいてくれる。その事実だけでよかったのに。だけどやっぱり、謎にはきちんと理由が用意されていて。僕は考えられる限り、最悪な形でそれを知ってしまったのだった。
不思議なものだ。
それまで一度だって目にとまらなかった写真立てが、その時にかぎって視界に入るなんて。兄の本棚に、息をひそめるようにしてそっと置かれていたそれには兄と、彼女が写っていた。髪は今よりもずっと長く、笑顔も今よりずっと眩しい。
しかし紛れも無く、紅葉だった。裏切られた。そう思った。後で考えたら、きっと彼女もそのことに気づいていなかったのだろう。僕が、自分の愛した男の弟だとは。そうじゃなければ、僕が怒り狂った弾丸みたいに彼女を責めまくった時、あんな顔はしなかったはずだ。心底傷つき、生きることさえやめてしまいそうな弱々しいまばたき。紅葉は、泣いていた。
それから一週間後。携帯に彼女からメールが届いた。
『さよなら。あなたを悲しませてしまった私は、もうここにはいられません。さよなら』
時間の流れは本当に一定なんだろうか。つい疑いたくなるくらい紅葉のいない時間はあっと言う間に過ぎていき、気が付けばクリスマスイヴを数日後に控えていた。考えてみれば紅葉と過ごした期間なんてほんの一握りしかない。なのに、喪失の痛みは例えようのないくらいに大きく、深かった。本当は、会いたかった。会いたくてしかたないのに、そう思えば思うほど僕は意固地になって行動には移さなかった。深夜、冷蔵庫から取り出した缶コーヒーを片手に居間のソファーへ腰掛ける。
たいして興味のある番組はなかったが、とりあえずテレビをつけると、何かただごとではない映像が視界に飛び込んできた。緊急のニュースだ。
僕はコーヒーをくびくび流し込みながら、他人事のようにそれを眺めていた。どうやら飛行機の墜落事故らしい。どこかの森を裂くようにして続く凄惨な現場をヘリが飛んでいる。その音にかき消されそうになりながら、女性のアナウンサーの声が叫んでいた。「海外行きか」
どうやらそれは、イタリアミラノへの飛行機だったらしい。アナウンサーの声が、ほとんど半狂乱になりながら搭乗者に日本人もいたことを知らせていた。画面が切り替わり、搭乗していたと思われる日本人の名前がカタカナで並ぶ。瞬間、僕は缶コーヒーを落としてしまった。
「嘘、だろ」
吸い込んだまま、呼吸が止まった。そのまま止まってくれた方がどれだけ幸せだったか分からない。
『スギウラ モミジ』
カタカナで連ねられた五人の日本人搭乗者の中に、彼女の名前が表示されていた。嘘だ。そんなの。嘘。同姓同名だ。きっと。自分にそう言い聞かせる一方で、何かが音を立てて崩れて行く気がした。

この数日間、どうやって過ごしてきたのか全く思い出せない。ただ、時々嗚咽に背中を震わせて泣いた痛みは覚えている。こうして生きているということは、きっと食事もとって眠りもしたのだろう。あるいは僕はあのニュースを見てからすでに死んでいて、今、明かりの消えた部屋のすみっこでこうしてひざを抱えて座り込んでいるのが幽霊だったとしても、きっと疑いはしないだろう。それくらい、僕の意識は腐敗していた。もうなにもかもがどうでもよかった。あの惨劇の続報は見ていない。見てもしかたのないことだからだ。僕は愛する人を永遠に失った。どう転んでも、その事実は変わらない。

紅葉。

紅葉。

紅葉。

好きなら、会いに行けばよかったんだ。簡単なことだったのに。それなのに。床に爪を立てて泣き崩れようとした、その時だった。 トントン、と部屋のドアがノックされた。
「・・・」
「秋良」
おふくろだ。
「あんた、いつまで閉じこもっている気?何があったか知らないけど、そろそろ出てきたら?」
「・・・」
「・・・あんたに、手紙きてるわよ」
スッとドアの下から差し込まれる音がした。 「ここにおいて置くからね。明日は大学行きなさいよ」
それだけ言うと、おふくろは階段を下りて行ってしまった。僕はドアに差し込まれた手紙を、涙でぼやけた視界で凝視した。手紙。誰だろう。はなをすすりながら、はうようにして近づき、それを拾う。月明かりの差し込む窓際まで移動し、目を落とす。見たことのある模様。エアメールだ。差出人の名前がないかわりに、メリークリスマスと一行書いてあった。
はっとしてカレンダーへ目をやった。忘れていた。そういえば、今日はイヴだ。力の入らない指先で封を開けると、二通の手紙が入っていた。外の明かりで、ぎっしりと埋め尽くされた文面が浮き彫りにされる。思わず、弾かれるように僕は立ち上がった。窓の外は、この部屋よりいくらか明るく、ゆっくりと天使の羽根ような雪が降り始めている。ここから眺める世界は、しんとした静寂をたたえ、奇跡させ予感させるほど完璧な空気を持って広がっていた。



親愛なる秋良

この手紙で、あなたにどれだけのことを伝えられるか、私には分からない。だけど何度も書き直して、ようやく形に出来た手紙です。
お願いだから、最後まで読んでください。お願いします。
あなたがまさかあの人の弟だったなんて、私は知らなかった。
本当よ。馬鹿だね。名字を聞いて、すぐに気が付けばよかったのに。そうすれば秋良を深く傷つけなくてすんだのに。
聞きたくないかもしれないけれど、私はあなたのお兄さんと恋人の関係にあった。お互い結婚さえ考えていたの。でも、そんな矢先にあの人は死んでしまった。私ね、すごく恨んだわ。あの人も、あの人を車で撥ねた人も。そして何よりも自分を。悲しいなんてものじゃなかった。体の一部を持って行かれたような激しい痛みだった。葬儀にも、お悔やみにも行けなかった。
どんな顔をして行っていいのか、全然分からなかった。情けないわよね。いい大人がさ。私が秋良の大学へ足をはこんだのは、あそこが彼の母校でもあったから。そうやってほんの少しでも、あの人とのつながりを作りたかったの。
だから、あなたが現れた時は本当に驚いたわ。正直言うとね、初めのうちは彼を忘れるために秋良と付き合っていたの。ごめんね。ごめんなさい。でも、これから書いてあることを信じてほしい。今の私は、秋良を愛してる。あの人とのつながりはいっさい関係ない。本当に本当。愛しています。私の傷を癒してくれたのは、他の誰でもなく、あなたです。でも、秋良への気持ちが大きくなればなるほど私はあなたに近づけなくなっていったのも事実。愛する人を二度も失うのが怖かった。
もしもこの先、あなたまで失ってしまったら・・・。考えただけでも目眩がした。だから後一歩、なかなか踏み込めないでいたの。でも駄目ね。
結局私はあなたを傷つけ、失った。この手紙はイタリアで書いています。今ね、ローマに住んでいる学生時代の友人のアパートにいるの。そうだ。こっちにきてから知ったんだけど、私が乗るはずだった飛行機が落ちたらしい。ニュースでもやっていたと思うから、きっとあなたも知っているわよね。私もその便でいく予定だったんだけど、こっちの友人が私を迎えにくる時間の関係でひとつ早く乗ることにしたの。その墜落事故を友人から聞かされた時、私は考えたわ。どうして自分が助かったのか。何故、私はここでこうして呼吸をしているのか。
私なんて他人を傷つけるだけの生きていてもしょうがない人間なのに。どうして。長い時間考えた結果が、この手紙です。私はあなたが大好きで、きっとこれからもそれは当たり前のように色あせなくて、魔法みたいに続いていくから今の私があるんだ。そしてこれから、それを証明するために、今の自分が存在しているんだ。そう思いました。秋良が、この手紙を目にするのは多分、クリスマスイヴの頃だと思います。ひょっとすると、私の方が少し早くそっちに到着してしまうかもしれない。イヴの晩、私はあなたに会いにいきます。
自分の想いを、自分の言葉で伝えるために。もう逃げたりしない。
あなたが、好き。大好き。こんなに傷つけてしまって、いまさらのこのこ現れて、そんなこと言われても困ると思うだろうけれど。でも、伝えるだけ伝えたい。この気持ちが一片の偽りもない、真実だということを。
イヴの晩。神様のくれた奇跡の下で、もしもあなたがもう一度だけ微笑んでくれるのなら。 私は、もう何も望んだりしないから。

杉浦 紅葉

コール

散歩に行ってくる、と家族に言い残して外へ出る。コンビニまでは行かず近くの自販機でホットコーヒーを買う。ジーンズのポケットから携帯を取り出すと、アドレス帳から彼女の名前を選び出した。コールしようか迷った挙句、僕は渋々それをポケットへ戻した。何度迷えば気が済むのだろう。友達から始まった彼女に、どうやって好きだと伝えよう。携帯の電波は三本なのに、どうしても伝えられない。畜生、と呟くと僕はコーヒーを飲み干す。end

桜ノ木ノ下デ歌ウ

既にしどけないまでに咲き誇る桜並木を愛犬と共に歩く。ふと犬が立ち止まり辺りに視線を巡らせる。何か聞こえるのだろうか。周囲に人影はない。再び歩き始めた時、今度は僕が足を止める。ほんの一瞬耳元をかすめた若い女の歌声。囁きにも似た吐息混じりの歌声。桜に向かって犬が唸る。その木は他の桜より一際美しく、そして鮮やかに私達の頭上で赤く咲き誇る。
end

Close or Not 三章

翌日、朝のニュースで犯人逮捕をアナウンサーが淡々とした口調で伝えていた。彼女を殺害したのは、僕の知っている人物だった。 僕はテレビをつけっ放しにしながら、さっさと服に着替えて冷蔵庫から作りおきの朝食を取り出して簡単に済ませた。靴を履き、ドアを開けて出て行くまで、テレビは同じニュースを何度も伝えていた。アパートの外では、ものすごい人の数が例の公園を囲んでいた。あの場所は、これからも公園としてやっていけるのだろうか。続けたとしても、多分それは、普通の公園では無くなってしまうだろう。コートについたフードを深くかぶって、人だかりを足早に通りすぎると、僕は角を曲がった所で走りだした。待ち合わせを、うちの大学にしておいてよかった、と思う。公園なんかにしていたら、きっとこの騒ぎに巻き込まれていた。車なんて気の利いたものはもっていなかったし、タクシーを利用する金も貧乏学生には惜しい。全速力で走り、大学の階段を二段とばしで駆け上がって、教場の入り口までくると人の気配を感じた。
日曜の早い時間など、学生はほとんどいない。僕は教場へ踏み込み、窓際にその人が座っていることを確認した。コートを着込んだ、長い髪の女性。彼女は、つい最近までここの生徒だった。
「待ったかい」一歩、彼女へ近づく度に僕のブーツの音が、天井まで響く。僕に背中を向けたまま椅子に座る彼女は、今きたところ、と答えた。「犯人、捕まったらしいね」教壇の一段高くなった所に立ち、僕は続けた。「僕の知っている人だったよ」ぴくん、と彼女の肩が動くのを僕は見逃さなかった。「朝にさ、よく挨拶をする人だった。ゴミを捨てるついでにね。とても明るい人で、何度か立ち話もしたくらいだ。もちろん、僕がそう言うのが苦手だということは、君もよく知っていると思うけれど」「・・・」「そんな人が何故、あそこまで常識から逸脱した犯行を行ったのかまでは分からない。だけど、多分僕は誰よりも先にこの事件の行き着く先を見つけたんじゃないか、と思っているんだ」そこまで言っても、彼女はこっちを振り向いてはくれなかった。ただ黙したまま、閉じた窓に体を向けていた。外の雪景色なんて、見えているはずがないのに。
「はじめは僕も気が付かなかったんだ。しばらくは騙されていた。昨夜、君に電話をした時も実は半信半疑だった」「・・・きっかけは、何だったの?」ようやく口を開いた彼女の声は、何かに耐えるように小さく震えていた。「一つは、財布だよ。君が使っていた財布は特殊なもので、君も知っているだろうけれど、あれは左利き用のものだった。それを君は、本当の利き腕である右で使っていた。持ちかえることもなく、ね。これが一つ目。もう一つは・・・」「缶コーヒーね」
「・・・そう。僕が放った缶コーヒーを、君は右手で取った。とっさのことだったから、なんて言う言い訳は、必要ないね。何故なら、とっさであるなら、怪我をしている右手を使うなんてなおさらおかしなことだから」「・・・・・」「警察だってばかじゃない。この事件の犠牲者が別人であることは、近いうちに気が付くさ。例え君たちが一卵性双生児であっても。きっと、殺害されたのは本当は妹の美里であって、生き残ったのは姉であると、世間は知るだろう。君は、死んではいなかったんだな」 「・・・・・」「裡里」そこで言葉を区切ると、沈黙が降りた。近くで、女の子の笑い声が聞こえた。ゼミか何かで登校してきたのだろうか。重い沈黙を破ったのは、彼女だった。「美里は、優しい子だった。姉の私と違って、よく笑い、友達も多く両親にも優しい。よく似た姉妹なのに、同じなのは外見だけで中身は全く似ていなかった。あの子は私が帰るとね、いつだって夕食を一緒に取ったわ。自分が先にすませてしまった時でも、一緒にいてくれた。正直言ってそういうことが、とても面倒臭い時もあったけれど」神様は不公平よね。はなをすすりあげる音が、聞こえた。「あんなにいい子が何故、どういう理由があって殺されなくちゃいけないの?人に憎まれることも、きっとなかったでしょう。どうしてあんな殺され方をして・・・。だからあの子の死を知ってから、とっさに思いついたのが入れ替わることだった。幸い私たちは見た目は同じで、あの日も服装は同じだった。持ち物は抜き取られいたらしいから、彼女が美里である証拠はなくなっていた」「何故、入れ替わる必要があったんだい」一瞬、裡里が言葉に詰まり、ため息を吐き出すように、「分からないの?」と言った。「私が死ぬ分には、きっと誰も困らない。だけど妹の美里が死んでしまったら、あの子の友達も、それに私たちの両親だって深く悲しむに決まっているわ。だから私は、美里がこの世を去った瞬間から彼女の人生を引き継ごうと思ったのよ」「本当に、そう思っているのかい」「・・・」「君が死んでも、誰も悲しまないと?」「君が死んだと分かった時、君のご両親はどんな面持ちだった?」「・・・」最後まで、裡里が僕に背中を向けたままだった理由がその時になってようやく理解出来た。僕はコートのポケットへ両手を突っ込むと壇上から静かに降り、立ち止まった。「美里ちゃんの人生は彼女のものだ。君の人生は、志摩裡里として生きて行くしかないんだ」かすかに、はなをすする音が耳に入った。廊下へ出て後ろ手にドアを閉めようとすると、教場の隅の方から、すすり泣く裡里の声がかすかに聞こえた。

                     完

Close or Not 二章

裡里の葬儀は、ひっそりと行われた。空は仄暗く曇っており、空気は湿り気を帯びていた。昨夜降った雨で雪は消えており、道端の隅っこにだけ泥と交じった塊が、辛うじて残っている程度であった。参列者の姿も少なく、しかも訪れている者たちのほとんどが、見たこともない大人たちばかりであった。 僕が見た限りでは、大学の同級生は一人も見当たらない。「みんな、親戚なの」僕の隣りで肩を並べていた美里が、ぽつりと言った。姉の死に、どれだけ泣いたのだろう。喉はひどく乾いている様子で、トーンも低い。考えてみれば、僕は裡里の死から、まだ一度も涙を流していなかった。おそらく、これから泣く、ということもないだろう。僕の網膜には、裡里の屍が鮮明に焼き付いていた。あの殺され方は、殺す側の精神状態をもろに反映している気がした。犯人像については、この数日間、ワイドショーなどでも最高のネタとして扱われていた。「犯人は、まだ見つかっていないよね」久しぶりに着たスーツのポケットへ両手を突っ込んだまま、僕がきく。美里は、無言で頷く。長い髪の毛が、うつむきがちな彼女の顔を半分ほど隠している。「僕はもう帰るけれど、事件のことで何か分かったら知らせてもらえるかな」犯人に興味があるんだ、ということは伏せたまま美里にお願いすると、僕は自分の携帯番号を彼女に伝えてその場を去った。空からは、再び雨が落ち始めていた。久しぶりに大学へ顔を出すと、裡里についての話題はたえてはいなかった。特別、友達でもない同級生からは同情の言葉をかけられ、それをきっかけに事件の詳しい真相をきいてくる者もいれば、あからさまに興味本位で近づいてくる者もいた。中でもたちが悪かったのが、犯罪心理学のゼミに在籍している連中で、彼らは自分たちの見解を織り混ぜながら、事件の話をしつこくききたがった。こうなることが目に見えていたから大学を休んでいたというのに、ちっとも効果がなく、そのことに僕は内心で落胆していた。講義を受ける気持ちもすっかり萎えてしまい、とりあえず僕は教場の隣りにある喫煙所へ移動した。歩きながら煙草をくわえて火をつける。ため息が白い煙となって、吐き出された。長椅子の上の、ヤニで汚れた壁にかけられた丸時計が、三時を指していた。美里から連絡が来たのは、裡里の死後から三週間経った、深夜だった。覚め切らない意識で、条件反射のように携帯を耳に当てた僕は、一瞬だけど驚いた。小さなスピーカーから聞こえてくる声が、裡里のそれかと思ったのだった。しかしそんなはずはなく。妹の美里からの電話だと、幸い、相手に僕の勘違いを悟られるより前に気づくことが出来た。「もしもし」はりのない、消え入りそうな声で彼女は言った。「もしもし。どうしたの?」「ごめんなさい。こんな遅くに。どうしてもかけたくなってしまって」ひょっとして事件に進展があったのかと思ったのだが、どうやらそういうわけではないらしかった。僕はベッドで横になったまま、「いいよ」と答えた。いいわけではなかったが、こんな声をきいてしまったら、さすがにすぐに切ってしまうには忍びなかった。「眠れなかったの?」「・・・はい」あの、と口ごもりながら美里が切り出した。 「どうかした?」「・・・お姉ちゃん。すごい殺され方をしたんですよね?私、お姉ちゃんの遺体も見せてもらえなかったし、話もあまりきけなくて」 そういうことか。僕は体を起こすとベッドから出て、キッチンへ向かった。床の冷たさが、足の皮膚をかたくした。「ひどかったよ」
と、僕は言った。自分の声が、静かなキッチンに響く。冷蔵庫を開けて、残り一本となったシンジャエールを取り出した。明日にでも買ってこなければならない。「とにかくあれは、普通の死体じゃなかった。テレビでもやっていたけれど、あれはもう、彼女に恨みをもつ者か完全に狂っている者の犯行だと僕は思っている。詳しくは言えないけれど、あの姿はすでに人じゃなかった」 しばしの沈黙をおいてから、美里は、「そうですか」と返事を返した。それ以外に、なんて答えられただろう。「とにかく君は、あまりそういうことを知ろうとしない方がいい。僕は何度も人が死んでいるところを目にしているけれど、君は僕とは違うから」「はい」美里が頷くのが、見えるようだった。それから挨拶を交わして電話を切ると、夜の静寂が、また僕の狭い部屋を包み込んだ。ベッドへ腰掛け、目の前の炬燵を見つめた。ついこの間まで、裡里はここで眠ったり食事をとったり読書をしたりしていたのだ。だるそうにしながら。あの日、彼女が最後にここにきた日。彼女が途中で目を覚まさずに眠っていたら、無理にでも引き留めて一緒に食事をしたら、裡里は死んだりしなかったのだろうか。裡里は、あんな風に殺されたりはしなかったのだろうか。過去のことをどうこう考えても仕方のないことなのは分かっていたが、確かにやり切れない思いも胸のうちに、しこりのように残っていた。「眠いわ」そう言って炬燵で眠る彼女を見れなくなったのは、正直言って、つまらない。この事件に僕が疑問を抱いたのは、それからさらに一週間後のことだった。ささいなきっかけが、僕の心の奥底に小さな波紋を作り、疑問符を生んだ。その日、僕と美里は裡里の死体が放置されていた公園で顔を合わせた。彼女の家での様子を詳しくききたくて、僕から連絡をしたのだった。その日は珍しく天気がよく、久しぶりに太陽が顔を出していた。しかしあの事件以来、公園に人影はなく、あったとしてもせいぜい、やじ馬や取材にきている人間くらいであった。
「ここで、お姉ちゃんが死んでいたのね」ベージュのコートに身を包んだ美里は、姉の死体が立てられていた砂場を睨むようにしながら憎々しげに呟く。「そうだよ」僕は煙草をくわえながら、答えた。「そんなことよりも、美里ちゃん。裡里は家ではどうだった?誰かにねらわれているような様子はなかったのかい」ないわ。美里は首を振る。「お姉ちゃんはいつも寝ていたから」
「・・・そう」外に変わったことはなかったか。自宅に遅く帰ってきた日はどんな感じだったか、郵便物で何か届けられたか、家族に不審な点はなかったか、とにかくなんでもいいから教えてほしいと頼んだのだけれど、収穫はなかった。 長い時間を外で過ごしたため、僕らの体はすっかり冷えきってしまい、とりあえず近くのコンビニへ行くことにした。僕らの関係で共通点といえば裡里しかなく、なので移動の最中も裡里の話ばかりだった。だけどそれは、傷口にカラシやワサビや香辛料を塗りたくるような、さらに痛みを広げる愚かな行為でしかなかった。コンビニのドアを押し開く頃には、僕らはすっかり憂鬱になってしまっていた。僕は晩に食べる弁当とホットコーヒー二本とジンジャエールが五本入ったカゴを左手に持ちながらレジに並んだ。僕の前に立つ美里は喉飴をカウンターに出しコートから、財布を取り出している。左手に持たれた草色の財布をやけに使いにくそうにしながら小銭をつまむ指先が肩越しから見えた。「・・・」お先に、と笑顔で美里が外へ出た。会計を済ませて彼女の後を追うと、美里は気の抜けた横顔で力無く立っていた。きっと軽く押しただけで、あの背中は簡単に倒れてしまうだろう。あの晩、裡里が殺された日にあった美里の明るさは、もう影すら無い。恋人を失った男と、姉を無くした妹。第三者から見れば、そんな感じで、間違いなく同情の的となりそうな構図が出来上がる。だけど僕の胸の内には、小さな疑問符が浮かび出していた。それは普段なら、別に気にするようなことのない、ささいなことが原因だった。僕は、僕が店から出ていることに気が付かないでいる彼女に向かって声をかけると同時に、二本買った内の缶コーヒーの一本を放った。群青色の缶は、低い放物線を描くようにして美里へ届いた。慌てて腕を伸ばしてそれをキャッチした彼女の右腕、コートが下がって現れた細い手首には、真新しい白い包帯が巻かれていた。普段は気にならない時計の針の音が、やけに耳につく。一時間前からベッドに入っているというのに眠くならない。むしろ、闇の静けさも手伝って、鮮明になった思考回路が僕の意識から離れたところでシャカシャカと働いていた。毛布と掛け布団の中で、何度も寝返りを打ちながら、枕元から同じ目線にあるコンポを見つめた。頭の中で、裡里を思い出していた。彼女について知っている限りのことを、想像上の棚に並べて、その下に美里の情報を並べた。何度考えても、同じ答えにしか行き着かない。だけとそれは、あまりに大胆な予想であり、もしも本当にありえることならば、この事件の結末は誰も予想していない場所へ落ち着くことは間違いなかった。覚悟を決めて、枕元に置いてある携帯電話を手に取る。電源を入れると辺りがぼうっと明るくなり、僕は目を細めた。

                     続く

Close or Not  一章

死体の匂いを嗅ぎ付ける能力が自分に備わっていることを知ったのは、もう随分と昔の事だ。その異質な力をはっきりと自覚したのが今から十年ほど前、僕が九歳の頃だ。以前から、どす黒く光る内蔵を広げた猫を道端で見たり、玄関先に羽を閉じたまま固くなっている雀や、蠢く蛆に包まれた何かの肉塊が目の前に現れた事は多々あったものだが、それらは全て偶然であって特別な理由などありはしないのだと深く考えもしなかった。少なくとも、あの夏の日。僕が人間の死体を見つけてしまうまでは。どういう理由から自分が森の奥深い部分まで足を伸ばしてしまったのかは、よく覚えていない。そもそも何故、森へ向かったのかもまるで記憶に無い。幼さゆえか、それとも視界に飛び込んできた、あの映像があまりに衝撃的だったせいなのか、細かいところは分からない。とにかく気が付くと、僕が足を止めた数メートル先に、それはあった。背丈の高い木々は、シェルターのように外界の明かりを遮り、濃い闇をたたえている。木漏れ日が一本、湿った地面に突き刺さるように伸びていた。そして照らし出されるように、人間の躯が横たわっていた。間違いなく、それは息の絶えてしまった人間であった。服は泥だらけになり、汚れた小さな蛆が這っている。半袖から剥き出しになった両腕は灰色っぽく、紫色の毛細血管が皮膚を通してはっきりと見えた。生臭い。僕は辺りに視線を巡らせ、首から上についてあるはずのものを探した。そしてそれはすぐに見つかった。どういうわけで本体と離れた所に落ちているのだろう。頭がひとつ、サーカーボールのように無造作に転がっていた。乱れた茶色い髪の毛はからまって瑞々しさを失っていたけれど、きっと生前は背中まである美しい髪の毛だったに違いない。その顔は膨張し、蛆に穴を空けられ、もはや原形を留めてはいなかった。両目も、開いていたのかとじていたのか分からない。唇はぎざぎざに削られていて、そこから数本の前歯がのぞいていた。かすかに笑っているようにも見えた。
天を仰ぐと僕の太ももほどある太い枝には、ロープが輪を作ってぶら下がっていた。移動したのは、躯の方か。別段驚く事なく、僕の思考回路は淡々と考える。恐怖も、正直言ってまったくなかった。むしろ感動や興奮を、胸の奥で感じたくらいだった。その瞬間、僕は漠然と理解したのだ。自分は、死体を嗅ぎ付ける能力がある。そしてそれは、他人にはない特別な力なのだ、と。「眠いわ」 炬燵に入ったままの志摩裡里は、背中を丸めながらテーブルへ頭を横たえて呟いた。「眠ればいいじゃないか」彼女と向かい合う形で座っていた僕は、実家から送られてきた蜜柑の皮を剥きながら、苦笑した。裡里が眠たがるのはいつものことだ。というよりも、きちんと起きている時の方が少なく思えるくらい、普段から彼女はうとうとしている。もはや病的なほどに。僕は炬燵から抜け出て、何か冷たいものでも飲むかい、と裡里にきいてみた。返事の代わりに、規則正しい寝息が顔を伏せたままの彼女から聞こえてきた。腰まである黒髪が広がっていて、寝顔はよく見えない。静かにキッチンへ出て、冷蔵庫からジンジャエールの缶を取り出して、タブを開ける。炭酸の心地いい刺激が、喉元を流れ落ちていく。裡里と僕のデートは、たいてい僕のアパートで一日を終える。テレビゲームをしたりトランプをしたり、時々は僕が宝物にしているデスファイルのビデオを観たり。二人並んで昼寝をしたり、と。引きこもりの若者が単に一緒にいるだけ、という形が出来上がる。以前、それをきいた友人が、そんなものはデートではないと笑っていたけれど、仕方がない。人のいる場所が極端に苦手だった僕らには、選択肢がないに等しかった。ジンジャエールを片手に炬燵へ戻り、再び中へ両足を潜らせた。僕の持つ暖房器具はこれひとつだったので、部屋はいつも寒い。息が白い時も珍しくはないくらいだ。ベッドわきの四角く切り取られた窓ガラスの向こう側では、雪がちらちらと降り始めていた。裡里が目覚めたのは、日も沈み夜が訪れてからだった。退屈を埋めるために僕が観ていたデスファイルの物音でどうやら気が付いたらしく、彼女はむっくりと顔をあげるなり、乾いた声で、帰るわ、と言った。「晩御飯はいいのかい?パスタぐらいならすぐに出来るけど」立ち上がった裡里は、玄関先でふと足を止めてから振り返った。「今日は家に帰って食べるわ。なんだかとても眠くて。このままじゃ、また眠ってしまいそう」「そう」
「それじゃあ、また大学でね」ひらひらと手を振ったまま、裡里が外へ出る。ゆっくりとドアは閉まり、バタンと音を立てた。空き缶を流しに置いて壁掛け時計に目をやると、午後の七時を少し回っていた。その晩、床についた僕は何故か無性に本を読みたくなって、パジャマから再び洋服に着替えると、厚手のコートを着込んで外出した。雪は相変わらず降っていて、昼間の分はすでに地面に積もり、歩く度に足の裏で音を立てた。この辺は民家の密集地帯で、車道は狭く、車どおりはほとんど無い。静まり返っている路地を僕はコートのポケットへ両手を突っ込んだまま進み、突き当たりを左に折れた。表通りへ抜けると、建ち並ぶコンビニや飲食店の明かりと喧噪が僕を包んだ。車が走っていないことを確認し、車道を横断する。そのまま真っ正面にある本屋の自動ドアを、くぐり抜けた。店の中は閑散としていて、ほとんど人の姿はなかった。へたをすれば、客よりも店員の頭数の方が多いかもしれない。CDコーナーには目もくれず、本の並ぶ棚を眺めながらぶらぶらと進む。本を読みたくて足を運んだのだけれど、具体的にどんな種類のものを読みたいのか考えていなかったので悩んだ。インテリア系の雑誌を置いてある所を通り過ぎたところで、目のふしに映った人物に気が付き、僕はふと足を止めた。裡里だ。珍しい。参考書でも立ち読みしているのだろうか。彼女は手に持った本を真剣に読んでいる。「裡里」手を挙げて彼女へ歩み寄ると、裡里はきょとんとした表情で僕を見た。その顔を目にしてから、自分がとんでもない勘違いをしていることを悟り、声をかけたことを後悔した。 「尚喜さん」本を閉じた彼女は、裡里と瓜二つの顔で微笑んだ。さすがは一卵性双生児。僕でも見分けがつかないくらい、酷似している。「美里ちゃん、か」よく考えれば、裡里がこんなところにくるはずがないのだ。きっと今頃は夢の中にいるに違いない。それにしても、と僕は裡里の妹である美里を眺めながらあごをしゃくった。双子だから言って、なにも服装まで同じにすることないのに。これでは見間違えても仕方がない。「尚喜さんも本を買いにきたんですか?」「うん。眠れなくてね。美里ちゃんは、参考書?」「はい」顔の作りは同じでも、二人の性格は朝と晩くらいまるで違う。美里は、姉に似ないではきはきとよく喋る。会話の苦手な僕には、少しやりにくい相手だった。「今日はお姉ちゃんは?」「会ったよ。でももう帰った」「そっか」ポケットから右手で財布を取り出すと美里は中を確認し、苦笑した。
「お金、足りないや、尚喜さん、五百円貸してもらえます?」美里と別れた後も僕は店内をしばらく徘徊し、欲しい本を見つけられないまま、店を後にした。そして帰る途中で自動販売機から暖かい缶コーヒーを買い、きた時と同じ道を歩いた。雪はやんでいたけれど、夜が深くなるにつれ空気は冷え込み、時折吹き抜ける風は肌に刺さるような痛みを与えた。なんだか、とても無駄に時間を費やしてしまった気がしておもしろくなかった。早く帰って、もう一度風呂にでも入って、もう眠ろう。明日も一時限目から講義がぎっしり入っている。と、缶コーヒーを飲みながらアパートの前までくると、僕は誰かに呼ばれたような気がして振り返った。夜の公園は昼間の騒がしさが嘘のように、無言で街灯に照らし出されていた。「・・・」僕の視線は、公園の一番奥に注がれた。
あれは、何だ。心臓が、ざわりと音を立てた。親に連れられた近所の子供達が、いつも遊んでいる砂場。そこに何かがある。一瞬、子供かと思った。しかしこんな時間に、いるはずがないのだ。でもあのシルエットは、決して大人ではない。好奇心に背中を押されるように僕は公園の中へ入り、砂場へ向かった。予感は、あった。この感覚は、過去に何度か経験しているものだった。そう。心臓がざわつき、気持ちが狂ったようにはじけだす。よく知っている感覚だった。こういう時の僕は、決まって死体を見つける。それが何であるかを理解した瞬間、僕は彼女を見下ろした。やっぱり死体だった。子供の影だと思ったそれは、砂場に押し付けられるように立てられた上半身で、下半身はその隣りに横たえられていた。彼女の顔は真上を向いていた。残念ながら、目を合わせることは出来なかった。眼球が両方ともくりぬかれ、そこには砂が詰め込まれていた。口はあごが外れたように力無くぱっかり開き、舌が、まるで夏場の犬のように横からだらりと垂れ下がっていた。 歯はすべて抜き取られ口の中に入れられていた。長く、闇に溶けそうなほど黒い髪の毛は肩よりもわずかに上で切られ、一束ずつ両手に握らされていた。よく見ると、眼球もその上にのせられている。不思議なことに、服にこびりついた血の跡以外は、特に目立った汚れは見当たらなかった。彼女を殺した人物が拭きとったとしか考えられない。上半身の立っている周囲には、元は内蔵だったものが巨大な蚯蚓のように濡れながら、散らばっていた。僕は真っ二つになっている彼女を見つめた。 この服装。顔付きから予想して、まず間違いない。彼女は数時間前に僕のアパートを出たはずの、志摩裡里だ。

                   続く

最後の希望

息子よ。歪んだ俺の視界でもお前の顔はよく見える。俺はきっともうすぐ逝くだろう。こんな体になってから思うのは、父としてお前に何かしてやれたのかということだ。自分でもよくわからない。せめて今の俺がお前にしてやれるのは、死の怖さと生の大切さを伝えることだけだ。しかめっ面で泣くのを堪える気丈な息子。強くなれ。一人で立てるよう、誰かを支えられるよう、ひたすら強くなれ。それが俺の願い。先に逝く父の願い。end