思考錯誤 RSSフィード

05-03-28 Mon

[] 『ケータイを持ったサル』か?  『ケータイを持ったサル』か?を含むブックマーク

2月末〆切の原稿をようやく脱稿。遅筆すぎ。やれやれどうやったら早く書けるようになるのか(はてなならすぐ書けるのだが)。

ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊 (中公新書)

そのなかで『ケータイを持ったサル』批判をしてみた。わたしは言語・コミュニケーション研究者としての正高信男氏のしごとは、基本的にきわめて高く評価しているのだが、この本ははっきり言ってよくない。紹介されている個々の研究自体はおもしろいし、実験にしても「ゲーム脳」よりはよほどマシな手続きでおこなわれている(だから、この本を単純に「ゲーム脳」と同レベルのトンデモ本あつかいするのは、ちょっと見識が低いんではないかとも思う)。

しかしだな、その実験の解釈や議論の組み立てかたは、やはりトンデモと言わざるをえないところがある*1。いかに優れた自然科学者であっても、生半可に社会評論に手を出してしまうと、こんなことになってしまうんかいなと愕然としてしまう。お願いだから、正高さんには、こっち方面からはとっとと手を引いて(どうせ片手間しごとなんだし)、着実に本業を進めてほしいと切に思う。優秀な人が道を誤っちゃいけない。


以下、その批判箇所の抜粋。


 しかし,この正高の実験結果をもとに,「ケータイの利用が(私的なつながりのコミュニケーションを肥大させ)公共性への志向を低下させる」と結論づけるには,問題点がいくつかある。以下では,とりわけ大きな2つの問題をとりあげ,筆者のたずさわった調査の分析データを用いながら,もう少し慎重に検討をくわえてみることにしたい。

 1つめは,被験者に選ばれた対象の特殊性の問題である。正高は,ケータイをもっていない女子高生と,メル友が300人以上の女子高生を被験者にしているが,いずれもこの年代の若者のケータイ利用実態からすれば,極端といえる層である。たとえば,筆者の参加する研究グループが2001年におこなった全国調査によれば,15〜18歳(対象サンプル119人)のうち,ケータイの非利用者は22%にすぎず,プライベート関係のメールアドレス登録数が300人以上の者にいたっては0%であった(200人以上でみても1.6%)。

 両極端のグループを比較すること自体が不適切なわけではないが,その場合に留意しなくてはならないのは,これら2グループ間には,その特殊性ゆえに,ケータイの利用面に差があるだけでなく,それ以外のさまざまな社会属性や生活様式,心理・行動傾向などに大きな差がある可能性が高いことだ。実際にはそうしたケータイ利用以外の差が,実験相手を信頼して投資するかどうかの差をうんでいた場合でも,実験結果の見かけのうえではケータイ利用の差がそれをうんでいるようにみえる。社会統計学ではよく知られた擬似相関の問題である。

 そこで,先に紹介した2001年の全国調査のデータをもとに,より一般的なサンプルを用いて,この点を再検証してみよう。正高のおこなったような社会的ジレンマ状況での行動選択については,社会心理学的な実験・調査研究の蓄積があり,見知らぬ他者一般への信頼――「一般的信頼(general trust)」という――の度あいと関連することがわかっている(山岸 1998,1999)。この一般的信頼を測る尺度についても,因子分析的研究などによってすでに評価の定まった設問群が用意されており,筆者らの調査では「ほとんどの人は基本的に善良で親切である」「私は人を信頼するほうである」「ほとんどの人は他人を信頼している」という3問を採用し,それぞれ“そう思う”を3点〜“まったくそう思わない”を0点として単純加算した尺度を構成した。

 正高の実験結果の示す傾向がより一般的にもあてはまるものであれば,ケータイ利用が活発であるほど,この一般的信頼尺度のスコアは低くなる,という負の相関関係がみられるはずだ。そこで,調査データから15〜29歳の若者422人を取りだし,まず,ケータイの利用者と非利用者でスコアを比較してみた。その結果は,利用者の平均値4.9点に対して,非利用者は4.6点であり,とりたてて差はみられなかった(むしろ利用者のほうが信頼尺度スコアが高いくらいだが,t検定では有意水準に達していない)。

 次に,ケータイ利用者を対象に,1週間のメール発信数/プライベートでメールをよくやりとりする相手の数/プライベート関係のメールアドレス登録数と,一般的信頼尺度スコアとの相関を分析した結果が,表3である(数値はスピアマンの順位相関係数ρ)。

図3 ケータイのメール利用と一般的信頼との相関
発信数 やりとり相手数 アドレス登録数
単純相関 +.04 +.10 +.12 *
偏相関 +.06 +.13 * +.15 **

※橋元ほか(2002)調査の再分析結果より
(** p<.01, * p<.05 の有意性)

 ここからわかるように,単純相関係数(上段)も,年齢と性別で制御した偏相関係数(下段)も,すべて正(プラス)の値を示しており,また,やりとり相手数との偏相関およびアドレス登録数との単純・偏相関は有意な水準に達している。つまり,ケータイ利用が活発な者ほど,一般的信頼はむしろ高いくらいだということであり,やはり正高の実験結果は,被験者の特殊性によるもので,一般的な妥当性を欠く可能性が高いといえるだろう。

 さて,正高の実験結果の解釈における2つめの問題点は,仮にその実験結果が一般的に妥当するものであったとしても,「ケータイ利用が公的志向性(他者への一般的信頼)を低下させる」のか,それとも「もともと公的志向性の低い者がケータイをよく利用するようになる」のかはわからない,つまり因果関係の向きが特定できないことだ。

 もちろん,同じ批判は先におこなった調査データの再分析結果を解釈する際にもあてはまるが,この調査では同じ回答者を対象に2年後に追跡調査をおこなっているので,因果関係の向きについてもある程度は検証することができる。つまり,2001年にケータイ利用が活発な者ほど,2年後に公的志向性が低くなっているとすれば,(過去にさかのぼる因果関係は考えられないので)「ケータイ利用が公的志向性を低下させる」といえるわけだ。

……(中略)……

 やりとりする相手の数やアドレス登録数など,他のケータイ利用指標については2003年調査に設問が欠けているため,くわえて別の角度からも分析してみることにしよう。この分析では,2003年の一般的信頼スコアから2001年のスコアを単純減算し,2年間における信頼の変動度を測る尺度とする。「ケータイ利用が公的志向性(一般的信頼)を低下させる」のであれば,2001年にケータイ利用が活発であった者ほど,この信頼変動尺度のスコアが低い=信頼が低下しているはずだ。

 まず,2001年時点でのケータイ利用者(195人)/非利用者(36人)で,信頼変動スコアの平均値を求めると,-0.37点/+0.47点であり,t検定でp<.05の有意差が認められた。これは,ケータイ利用が一般的信頼を低下させることを示唆する結果である。

 ただし,ケータイ利用者における個々の利用指標について分析してみると,結果は異なってくる。たとえば,(2001年の)メール発信数と信頼変動尺度との順位相関係数ρは+.20であり(p<.01の有意性),これは,メール利用が一般的信頼をむしろ高めることを示唆するものだ。また,メールをやりとりする相手の数とはρ=+.02,アドレス登録数とはρ=±.00と,いずれも有意な相関は認められなかった。

 以上の分析結果をまとめると,「ケータイ利用が公的志向性(より厳密にいえば,そのひとつである一般的信頼)を低下させる」という因果関係は――いくらか留保をつける必要はあるものの――おおよそのところ認めにくいといえるだろう。

詳しくは、たぶん5〜6月ごろに出版されるNHK放送文化研究所の『放送メディア研究』3号(丸善)をお読みくださいませ。

05-03-19 Sat

今日は卒業式でした  今日は卒業式でしたを含むブックマーク

毎年のことではあるが、去年も書いたことだが(id:dice-x:20040321)、そこはかとなくさみしい。

何か自分だけ留年して取り残されたような気がするのだよ。

おれも卒業したい。

05-03-18 Fri

[] ローレンス・レッシグ "CODE v.2"  ローレンス・レッシグ "CODE v.2"を含むブックマーク

今年中にBasic Booksから出版予定らしい。

ていうか、ここ(↓)で公開改訂作業中。

http://codebook.jot.com/WikiHome

紹介記事はここに(↓) ※アカウント(無料)が必要

http://www.mercurynews.com/mld/mercurynews/business/technology/11148136.htm

一部抜粋。

Further nudging outward the boundaries of online publishing, Stanford University Professor Larry Lessig will put his 1999 book ``Code'' online today and invite Internet users to help him write an updated version.

A noted copyright expert and proponent of free software, Lessig is putting the 297-page treatise about technology, culture and regulation on the Web in the form of a ``wiki,'' a site that can allow people to freely edit its contents. The law professor will take the contributions at http://codebook.jot.com and edit them into a printed version of the book.

``Code has become a part of cyberspace law culture,'' Lessig said. ``And what I found most interesting is that people outside of the academic world talk about it and use it a lot. I was really trying to find a way to encourage them to contribute to the evolution of `Code.' ''

05-03-16 Wed

[] "The Small-World Problem"追加補足  "The Small-World Problem"追加補足を含むブックマーク

昨日のエントリで紹介したミルグラムの論文ですが、あまり原典が読まれないまま、「6次のへだたり」「小さな世界仮説」*1という概念だけが一人歩きしているようなので、もうちょっと補足しときます。

小さな世界仮説はミルグラムに端を発するものではあるのですが、「6次のへだたり(5人の仲介者)を介せばみんなつながる小さな世界、みんな6次のおともだち」というようなニュアンスは、ミルグラムの論文にはまったくありません。

確かにこの論文の最後のセンテンスは、次のようなことばで締めくくられてはいます。

While many studies in social science show how the individual is alienated and cut off from the rest of society, this study demonstrates that, in some sense, we are all bound together in a tightly knit social fabric.

ただ、このin some senseという留保にあたる部分も、その数パラグラフ前でちゃんと述べられているのです。

Finally, when we state there are only five intermediate acquaintances, this connotes a closeness between the position of the starting person and the target person. But this is in large measure misleading, a confusion of two entirely different frames of reference. If two persons are five removes apart, they are far apart indeed. Almost anyone in the United States is but a few removes from the President, or from Nelson Rockefeller, but this is true only in terms of a particular mathematical viewpoint and does not, in any practical sense, integrate our lives with that of Nelson Rockefeller. Thus, when we speak of five intermediaries, we are talking about an enormous psychological distance between the starting and target points, a distance which seems small only because we customarily regard "five" as a small manageable quantity. We should think of the two points as being not five persons apart, but "five circles of acquaintances" apart - five "structures" apart. This helps to set it in its proper perspective.

つまり、5人の仲介者(6次のへだたり)と聞くと、小さいように思えるけれども、それは単にわたしたちが「5」(または「6」)を扱いやすい小さな数量と考えがちというだけの理由であって、実際のところ心理(学)的にははどえらい距離なのだよ、とミルグラム自身は明言しておるわけで。

「小さな世界仮説」「6次のへだたり」はSNS関係で言挙げされることが多い昨今ですが、ミルグラムのこの“留保”を対面的関係と同様にしてSNSにそのまま適用することはできないにせよ、やはりそれと同時に、こういう“留保”をきちんとおさえておくこともまた重要ではないかと思うのです。

だいたいだな、「6次のへだたり」とともにSNS関係で言挙げされることの多い「弱い絆(weak tie)」にしても、グラノヴェッターの原典*2をちゃんと読んで言っている人がどれほどいるか。「弱い絆」つうメタファもけっこうミスリーディングなとこあるぞ。ビジネスでは強いきずなより弱いきずなが重要だ、だから勤務時間中にミクシで人脈づくりに励んでも問題なーし、などと単純に考えないほうがいいと私は思う。まあ、この話はまた別の機会に。

*1: ミルグラム自身はこの論文で「仮説(hypothesis)」という言い方はしておらず、small-world problemと言ってます

*2: M.S.Granovetter(1973) The Strength of Weak Ties, American Journal of Sociology, vol.78-no.6, pp.1360-80.

05-03-15 Tue

[] ミルグラム≠6次のつながり  ミルグラム≠6次のつながりを含むブックマーク

『認知科学』最新号(12巻1号、2005年)の特集は「認知科学オントロジー」。

オントロジーといっても哲学用語でいう存在論ではなく、工学用語。ま、ここではおおよそ辞典くらいに考えればよい。その辞典の項目に「ソーシャルネットワーキング」があり、次のような説明が(p.16)。

元々は人と人とのつながりを示す言葉であるが、最近ではインターネットなどを介したデジタル空間上での人同士のつながり、あるいは、人同士のつながりを電子的に支援するサービスを表すことに用いられる場合が多い。

6人の人を介すれば地球上のすべての人がつながることを社会学者のミルグラムが示した(6次のつながり)。電子的な支援としては不特定多数を相手とする「出会い系」と紹介による「知り合い系」との二通りがある。

(強調は引用者)

だから、ちがうって。ミルグラム自身は「地球上のすべての人」が6次のつながり(6次の隔たり six degrees of separation)で包含されるなんて、示してないし、言ってないって(厳密には)。

http://japan.cnet.com/column/mori/story/0,2000050579,20074758,00.htm

via id:hidex7777:20041009#p4

via id:hidex7777:20050302#p1

via id:hidex7777:20050307#p1

さすがに学術的な辞典の位置にあるものに、この解説はまずいのではないかと。編集委員会にメール送っとこう。


ちなみに原典(と思われるもの)は、

Stanley Milgram, The Small-World Problem, Psychology Today, vol.1-no.1, pp.60-67, 1967

それに基づくなら、この項目解説部分の問題点は、次の通り。

  1. この論文におけるミルグラムの問題意識自体は確かに"Given any two people in the world, person X and person Z, how many intermediate acquaintance links are needed before X and Z are connected?"から出発しているが、少なくとも結論として「世界(地球)中の人が6次でつながる」という主張はしていない(下記のような問題点があるために主張を控えたと思われる)
  2. ミルグラムの実験調査は、アメリカ国内の範囲でおこなわれたもので「地球上のすべて」とはいえない
  3. その実験調査で、Nebraskaから発送された手紙のうち、Massachusettsのtarget personにたどり着くことに成功したのは160通中44通にすぎず、この点で知見は限定的
  4. ミルグラム自身が取り出している数値(target personにたどり着くまでの仲介者数のメジアン)にしたがうなら、「6人の人を介すれば」ではなく「5人」。「6」は、X→a→b→...→Zという仲介段階(→)の数

【追記】日本認知科学会の橋田編集委員長から速攻でメールが返ってきました。次号で修正し、「認知科学辞典」本体に反映させたいとのこと。ありがとうございました、橋田先生。

Political Compass  Political Compassを含むブックマーク

やってみた(↓ここ)

http://www.politicalcompass.org/

結果は第三象限(=Economic Left + Social Libertarian)。ん〜、ま、しょうがないか

05-03-14 Mon

[] 「装幀の風景(3)」  「装幀の風景(3)」を含むブックマーク

月刊『言語』に今年の1月号から連載されている臼田捷治さん(現代装幀史)のコラムの第3回。

今回とりあげられているのは、「第5回中原中也賞を受賞した少壮気鋭の女性詩人、蜂飼耳(1974年生まれ)の初めてのエッセイ集」、『孔雀の羽の目がみてる』。

孔雀の羽の目がみてる

孔雀の羽の目がみてる

この批評文が何ともいい。

装幀・本文レイアウトは……菊地信義が手がけた。まず、手に取ってびっくりするのは「チリ」(本文の紙より表紙のほうが大きい上製本の、その出ている部分)が8〜9ミリもあることだ。私はこんなにたっぷりとした幅をもつチリのある本はこれまで見たことがない。あたかも鍔広の帽子をまとった深窓の麗人のようなしとやかさ。

ちなみにチリは、ブリュッセルでルリユール(製本術)を学んだ書物研究家の貴田庄によると、中世ヨーロッパにおいて「花布(はなぎれ)」(上製本の中身の上下両端に貼り付ける布で、本を丈夫にするとともに装飾の役目を果たす)が工夫されたことから、その花布の分だけ表紙が高くなり、やがて上製本の製本スタイルとして定着するようになったのだという。

菊地は雑誌のインタビューに答えて、チリを大きくしたのは、本を書見台に置いたときのような印象を与え、ひとつの「結界」をつくることを意図したためと語っている(『ブレーン』2004年11月号)。そういえば中世の西欧では、本の多くが書見台に鎖でつながれて並んでいた。ふだんは意識することすらない部分に着目し、書物の成り立ちにまでさかのぼるかのような構造性を浮き彫りにする高次の批評感覚は水際だっている。


こういう、単なるデザイン論に落ちない、「メディア論」的な批評センスは、やはり今こそ貴重なのではないかと思う。

たとえば、ケータイのインダストリアル・デザイン(史)について、だれかこういう研究をしてくれないか(自分でやれという話もあるが)。ケータイの情報空間で重要なのは、もはやそこでやりとりされるメッセージではないのだから。

ケータイの「チリ」にあたるもの。それがどのように編成され、編成しなおされてきたか。

ケータイをパカッと“開き”、メールしたり通話したりして、パカッと“閉じ”る。パカパカ式のケータイが普及する以前は、こうした“開き”“閉じ”という行動が、ケータイの情報空間に臨む際の「儀式」として定型化されることはなかった。つまり、ひとつの(情報)世界を“開き”“閉じ”るという、書物と同様のメタファは成り立ちえなかったわけだ。

もちろん、パカパカ式の開発は、大画面ディスプレイの確保という産業技術的要請によってうまれたものであるにせよ、こうしたメタファたちの成り立ちは、そこ(単なるインダストリアル・デザイン論)には回収できない。だから、それをある種の「チリ」――書見台というメタファを成り立たせるような――として見るような視点が案外(ではなく)重要ではないか、と思うのだ。

05-03-07 Mon

[] ケータイと不倫  ケータイと不倫を含むブックマーク

via id:contractio:20050307#1110167348

http://www.sunmark.co.jp/00/media/image/nikkeibijinesu_l.jpg

――不倫や離婚に関する相談が最近はものすごく増えているそうですね。

日本の社会で不倫がものすごく増えているからですよ。その大きな要因は携帯電話だと思います。以前だったら、異性に対して連絡を取ろうとしたら、手紙を書いたり自宅に電話したりしなければならなかったでしょう。これって、ものすごくハードルが高いでしょう。しかし、携帯電話の普及で簡単に連絡が取れるようになりました。しかも、携帯メールの普及がそれに拍車をかけています。

電話に相手が出なくても一方的にメールを送りつけておけば、声を出さなくてもいいですしね。昔に比べればはるかに簡単に異性と連絡がとれるようになったと思いませんか。実際、私たちのところに来る相談件数も携帯電話の普及に比例して増えてきました。不倫している人たちは例外なく携帯メールの達人ですよ。

(山崎世美子(談)「携帯が不倫を増やした」『日経ビジネス』2005年2月21日号,p.81)

いや、ホント、そうだと思う。

渡辺淳一ダイセンセイも次のように書いていらっしゃる。

恋する者にとって、携帯電話ほど便利なものはない。それも電話よりメールのほうが、相手の状態を気にせず送れるだけ便利である。

もっとも、菊治の年令*1では携帯を持っていない人もいるし、持っていても、メールをつかえない人もいる。

多分、そういう男は恋人がいないからで、恋する人がいたら必ずメールもできるようになる。

そしていま、菊治は携帯なしでは一日も過ごせない。このメールが、冬香とつながる唯一の、そしてたしかな命綱である。

むろん、携帯で話すこともあるが、それは午前の、子供たちがいないときにかぎられる。それも冬香が家にいるときに、「これから、電話をしてもいい?」とたしかめ、「はい、お待ちしています」という返事をもらってから始める。

初めは時候見舞いのようなことから始まっても、じき、「早く逢いたい」「大好き」といった、他愛ない言葉のくり返しになり、冬香からも、「わたしもです」「お逢いしたいです」と返ってくる。

(「愛の流刑地」『日経新聞』2005/2/25朝刊)

ダイセンセイの妄想力の貧困さにげんなりするのはさておき*2

データの裏づけがあるわけではないが(どっかの雑誌とか調査していそうだが)、ケータイが何を変えたといって、「不倫」にまさるものはあるまい。

「ケータイ・コミュニケーションは何を変えるか」というお題で原稿を頼まれているのだが、「不倫を増やす」を結論にしたい、せめてネタに使いたくてしょうがない。

ことばの起源―猿の毛づくろい、人のゴシップ 伏線にRobin Dunbarの『ことばの起源』を使ってだな、集団で生活を営む動物としてのヒトというサルは、集団生活における関係の葛藤・緊張を解消するために、ひとつは発情期に限定されない性交渉、もうひとつは毛づくろい→音声言語(による毛づくろい)、という手法を進化させた、それらの手法がケータイメールというITツールによって、今また1つに交わろうとしている、とか何とか。

妄想全開のトンデモ仮説ではあるのだが*3、ああ、書いてみたい、竹内久美子が書く前に。

[] ヒーローものゲーム、子供の攻撃性高める可能性  ヒーローものゲーム、子供の攻撃性高める可能性を含むブックマーク

http://www.yomiuri.co.jp/net/news/20050107ij51.htm

来年度の講義のノート作りのためのメモ。

 坂元教授らは2001年11月から12月にかけて、神奈川県や新潟県などの小学5年生を対象に、よく遊ぶテレビゲームと攻撃性に関するアンケートを実施、1年後に同じ児童に追跡調査を行い、周囲の人への敵対心を表す「敵意」など、攻撃性に関する5つの指標について、その変化を調べた。

1時点の調査では相関関係までで因果関係が特定できないので、パネル調査をした、と。

 6校の児童592人についての調査結果を分析すると、知的だったり、見た目がかっこよかったり、魅力的な特徴を持つ主人公が登場し、攻撃するゲームでよく遊んでいた児童は、1年後に「敵意」が上昇していた。「ひどいことをした悪者に報復する」という、暴力を正当化するゲームでよく遊んでいた児童も同様に「敵意」が高くなっていた。

テレビやフィルム(映画)の暴力描写の場合も、いっしょに見ている大人がそれを正当化するか否定するかによって影響の向きが逆になる、というのはよく知られた古典的知見だが、それがテレビゲームの場合もあてはまる、と。

 これに対して、攻撃回数が多い、たくさんの人を攻撃するなど、暴力描写の程度が高いゲームで遊んでいる児童の場合は、研究チームの予想とは反対に、むしろ攻撃性が低下していた。

カタルシス効果か。テレビの暴力映像の場合、カタルシス効果が確認された研究はほとんどないので、これがカタルシス効果によるものだとすれば、テレビとテレビゲームでは影響のプロセスが異なるという重要な知見。

このパネル調査は、↓に紹介されているパネル研究事例(4)をさらに追跡調査したものだろう。

テレビゲームと子どもの心―子どもたちは凶暴化していくのか?

テレビゲームと子どもの心―子どもたちは凶暴化していくのか?

1章 5年サイクルで繰り返す悪影響論

2章 「ゲーム脳」は本当に恐怖なのか?

3章 暴力との関係を社会心理学から検証する

4章 起こりうる悪影響を探る

5章 悪影響と同時に有効利用にも目を向ける

6章 業界、家庭、学校、行政、地域、NPOへの期待


せめてこの本が「ゲーム脳」本や「音読脳」本くらい売れてくれるといいのだが。

*1: 50代という設定

*2: 日経読者のおっさんたちはこれを読んで萌え〜ているんだろーか。妄想力という点ではエロゲなんかのほうがはるかに上だと思うのは私だけでしょうかそうですか

*3: ちなみにDunbar自身の仮説もけっこう論理展開に飛躍がある(おもしろい仮説ではあるのだが)。中村美知夫「霊長類の毛づくろいと言語の起源」『大航海』52号、pp.100-108、2004年

nabesonabeso 2005/03/07 22:24 >ああ、書いてみたい、竹内久美子が書く前に。
ここで書いてしまえば、無問題ですよ。じゃんじゃん書いて、竹内が書いたら訴えてみませんかw

dice-xdice-x 2005/03/14 11:03 nabesoさん、どうもです。インフルエンザで寝込んでたもんで、レスが遅くなりまして。妄想は今書いてる論文に、妄想にならん程度に織り交ぜることにしました。また、書き上がったら、抜粋をここにもアップします。

05-03-05 Sat

「社内ニート」だってさ  「社内ニート」だってさを含むブックマーク

http://www.japanknowledge.com/singo/today2.html

ここまでくると、さすがにちょっとな。適当に文言変えれば、(大)学生ニートだってできちゃうもの。

ニートとは、労働につかず、教育も職業訓練も受けていない若者のこと。学生ニートは入学したものの、その後なんらかの事情で、その学習意欲や向学の意欲をなくしてしまった者をさす。たとえば、もともと学ぶ意思がないにもかかわらず、親が「大学くらい出とけ」と言うなどの理由から何となく入った者。その大学で何を学ぶかという目的意識もなく入学したため、入学したことだけで燃え尽きてしまった者。入学後、大学の実情を見て、自分の理想とあまりにも違いすぎるために学習意欲をなくしてしまった者。こういう場合、普通は転学(退学)の道を選ぶはずだが、学習意欲もなくした学生ニートは転学(退学)さえ行わない。ただ大学に通い、机に座っているだけである。

おお、きれいにはまりすぎて、おもしろくもない。

[] 電車の中の化粧  電車の中の化粧を含むブックマーク

http://www5b.biglobe.ne.jp/~sken/hp/psychology.embarrassment/resarch%20room/kenkyu/kenkyu.kesyo.htm

菅原健介さんのサイトより。


「仲間以外はみな風景」、だから電車内で化粧をしようが、地べたに座りこもうが平気なのだ、とも言うが、見知らぬ他者を風景化して、そこからの視線を感じなくなったわけではおそらくないのだな。

むしろ、仲間うち空間と、見知らぬ他者の空間が截然と分かたれたなかに生きている、ということなのかもしれない。

こちら側の仲間うち空間と、あちら側の見知らぬ他者の空間は、別の世界であって、基本的に無干渉・没交渉であるべきものである。こちらで何をしようが、あちらに「迷惑をかけない」限りは。逆もまた然り。

これは、ある意味で都市社会の儀礼的無関心の徹底化ともいえるかもしれない。

そこでは、自分の行為は先ずもっては仲間うち(空間)の規準によって律せられるべきものとなる。その規準に適っている限り、恥ずかしかったり不安になったりすることはない。

しかし、その規準に外れたときには、仲間うち(空間)から外れたということ自体が、あちら側(見知らぬ他者)からも視線を浴びせられるべきこととして意識化される。規準の内容は何だっていいのだ。問題は、(仲間うちの)規準から外れたということ、それ自体である。

つまり、これは、仲間うちの規準から外れることはよくないというメタ規準であり、そのメタ規準は見知らぬ他者とも共有されるものとみなされている――すなわち、そのメタ規準への違背は、見知らぬ他者からも視線を浴びるべき恥ずかしいこと・不安なこととみなされるている――わけだ。

まあ、コリクツでしかないが、もうちょっと考えてみる価値はあるかも。

[] ハングル文字のemoticon  ハングル文字のemoticonを含むブックマーク

http://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0502/16/news004.html

個人的には、タイ文字のemoticonを見てみたい(あと、アラビア文字も)

[] 「インターネットは引きこもりなど精神的に悪影響……」との調査に逆説  「インターネットは引きこもりなど精神的に悪影響……」との調査に逆説を含むブックマーク

http://pcweb.mycom.co.jp/news/2004/02/09/007.html

1年以上前の古い記事だが、この「悪影響」調査というのは、クラウトらのInternet Paradox 調査のことか? だとすれば、これ以前から、それを反証する調査研究がかなり出ているが。

[] 統計ソフトよりも基礎分析力を習得しておこう  統計ソフトよりも基礎分析力を習得しておこうを含むブックマーク

http://blog.japan.cnet.com/mori/archives/000973.html

これも古い記事(いまブックマークの整理中なので)。

もちろん、ソフトそのものの利用機会が増え、操作の容易性が高まったことは、喜ばしいことだ。しかし、統計分析ソフトが高度なものになればなるほど実質的な分析プロセスのブラックボックス化や形骸化が進行してしまいがちだ

分析プロセスといっても、ソフトが処理する部分の数学的な根拠をすべての学生が証明できるようになるべきだという極論を言うつもりはない。しかし、ソフトによる処理自体が容易になった分だけ、どんな数値を、どういう手法で獲得するかなど、研究計画がおろそかな状態で、まずアンケート調査ありきとか、マクロ統計ありきで、あとは盲目的に処理するために統計ソフトが登場するという、分析プロセス全体が形骸化し、本来専門知識よりも重要な分析能力の獲得がなされないことになる

怖いことに統計ソフトにかければ、元の数値が身長体重でも、商品番号でも、態度変数でも、ランダムな数字ですら、なんらかの結論が得られてしまうということだ。悪いことに、その結果がどうであっても、それなりの解釈を平気で述べることができる。本来、どう考えても変な結果であってもだ。それでは分析プロセスなぞなくとも、最初から解釈や結論を一種のエッセイとして書いてしまった方がよっぽどいい

まったくだ。

[]携帯電話持つ女子中学生、「家で勉強しない」が非所持群の1.6倍−−警察庁の調査で判明 携帯電話持つ女子中学生、「家で勉強しない」が非所持群の1.6倍−−警察庁の調査で判明 を含むブックマーク

http://medwave2.nikkeibp.co.jp/wcs/leaf?CID=onair/medwave/tpic/317781


携帯電話利用が非行や「好ましくない」行動の原因になっているのか、非行行動に携帯電話の利用が伴うのか、この調査結果*1からだけでは不明だが、携帯電話を持たせる親は、利用について十分な教育や監督を含む子どもとの意思疎通が必要と言えそうだ。

だからな、それなら「分析プロセスなぞなくとも、最初から解釈や結論を一種のエッセイとして書いてしまった方がよっぽどいい」のだよ。

*1: ネタ元の警察庁の調査報告書はこっち。http://www.npa.go.jp/safetylife/syonen16/keitaityousa.pdf

05-03-04 Fri

[] ケータイ的つながりの不安  ケータイ的つながりの不安を含むブックマーク

いつのまにやら3月。1月末〆切の原稿をこのあいだようやく片づけたので、こそこそとはてなを再開してみたりする。いや、2月末〆切の原稿がまだ片づいていなかったりもするのだが...

以下は、片づけた原稿のなかからの抜粋。研究が一向に進まぬことを露呈するような原稿ではあるのだが、有斐閣から夏に刊行予定(あくまで予定)の井上・船津編『自己と他者の社会学(仮)』に掲載されますんで、よろしければ買ってくださいませ。

 それは裏をかえせば、絶え間なきつながりのなかでしか「私」の所在を感じとれないという不安でもあるだろう。中村[2003]*1の大学生調査では、「ひとりで夕食をたべるのは耐えられない」といった孤独耐性の低い者ほど、よく友だちとケータイメールをやりとりすることが確認されている。ここからは、ひとりでいることの所在なさ・不安が、つながりへの(中毒的な?)依存に結びついているようすがうかがえる。

 ただ、筆者の周囲の学生に聞き取りをおこなったところでは、「ひとりでいること自体よりも、それを知りあいに見られ、友だちのいないヤツと思われるのがイヤなのだ」という声がいくつかあった。つまり、単なる孤独への不安ではなく、孤独に対する他者の視線への不安だというのである。そこで、(a)まわりにだれもいない状況(自宅や下宿)で、ひとりでいるのがつらいかどうか、(b)知りあいがみているかもしれない状況(大学のキャンパス)で、ひとりでいるときにまわりの視線が気になるかどうか、に質問をわけたアンケートをつくり、2004年12月に大学生228名を対象に簡単な調査をおこなってみた。

表3 孤独不安とケータイメール頻度との関連
(a)自宅でひとり つらい 84通/週
つらくない 73通/週
(b)大学でひとり まわりの目が気になる 86通/週
気にならない 59通/週

 表3は、これら(a)(b)に対する答えによって、友人へのメール送信数の平均値を計算した結果である。(a)の状況で、孤独をつらく感じる者は、そうでない者よりもメール頻度が低いが、統計学的には誤差の範囲内で、意味のある差ではない。一方、(b)の状況では、意味のある差がみられ(t検定で5%水準)*2、まわりの目が気になる者のほうが友人とメールをよくやりとりする傾向にある。

 調査対象が限られているため、あまり確かなことはいえないが、この結果が示しているのは、身のまわりの他者からの(潜在的な)視線が、ある種強迫的に、人を絶え間なきつながりへと駆りたてている可能性があるということだ。つながることを求めるがゆえに、つながる相手となりうる身近な他者の目に敏感になる。その他者の目がまた、つながることを強迫するようにはたらく。そして、そのつながりへの強迫がまた、他者の目を……。このような循環的なプロセスのもとで、つながりは自らを再生産していくことになる。


昨年の講義でも、このあたりの話が一番ウケがよかった。講義の感想を書かせたシートから、反応を拾ってみると。

  • メールを打つ、送る(周りの目が気になるYESの人が)が多いのは、うんうんと思いました。メールを打つ(ケータイをいじってる)というフリ・姿も周りの目に勝つための防御策なんではないでしょうか。
  • 授業での例に挙げられていたケータイや食堂で一人で食べることなど、身近な例であったので、考えさせられる内容でした。私は孤独感を感じることが多く、他人の眼を感じてメールをすることがよくあります。「あいつには友達おらんねや」っておもわれるのが耐えられないからです。授業中に何度もギクリとしました。
  • 今日の講義で、「一人で夕食を食べるのが耐えられない」という項目で周りの目を気にするというのがありましたが、私はそれにあてはまります。一人でご飯を食べるのは平気なのですが、生協や関前で一人で食べることは勇気がいります。それは、「一人で食べて、友達おらんのちゃうん」と思われるのも嫌だし、周りは楽しくしゃべりながら食べているのに私は一人、ということもさみしいからです*3。だから、梅田の吉牛とかは平気です。かといって、メールはそんなに使いませんが…。
  • ちなみに私も大学の生協などで一人でごはんを食べるのは嫌だし、したことありません。
  • 今日の講義での生協で1人でごはんを食べるということは本当に他人の目がきになり、きっとメールをしてごまかして食べるんだろうと思いました。
  • 今日の授業のつながってはいるけどつながり不安が残る...とか、調査アンケートの結果は、納得させられました。
  • 今の若者は常に誰かとつながっていたいという意識が非常に強いと思う。やはり、自分も誰かにメールをして、返事が返って来ないと不安になるし、教室に一人でいると、周りの目線が気になって仕方なくなる。
  • たしかに、一人で行動することは別に恥ずかしくありませんが、それを見られるのはイヤなときがあります。梅田や三ノ宮を一人で歩くのは平気ですが、時々学校を一人で歩いているといやな気分になるときがあります。ほとんど平気なんですけど。
  • 今日の話のように、学校でひとりで食事をするのは私もやや抵抗感があります。女子控え室では平気ですが、食堂ではあまり食事したくないです。最近そういう感覚になることを恥ずかしく感じることがあります。
  • この「つながらなくてはならない」の呪縛は、たしかに感じることがあります。それ自体を感じるというより、何かふっきれた時にすごく気がラクになるのです。そういう時に、「あぁ何にしばられてるんやろ、自分」とバカバカしく思います。で、それがふっきれると、生協でひとりでゴハンもできるようになります。
  • 今日の授業は、私がまさしく感じていたことでした。一人で学食に行く時は、まず知り合いの顔を探します。一緒に食べるわけではありません。「一人でごはんを食べる自分」を見る人がいないかどうかです。そんなことをしてしまうことは自分でもずっと謎でした。でも私はこれからも無意識にしてしまうだろうことは確実です。
  • 今日挙げられていた、“話す友達によってキャラが違う”ということは自分にとって当てはまることである。その事を「なぜだろう…」と自己嫌悪が起こる事もしばしばあった。今日の講義を受けて、たしかに孤独不安の裏返しとして起こっている事かもしれないと感じた。
  • これからの社会において、自己のブレというか、自己の拡散は、ますます進むものと思います。正直個人的な不安として、これから社会人になってさらに人間関係に幅が出ると、それに今の様な方法でついていけるのかと思ってしまいます。様々な顔をつかいわけながらそれを客観視する様なスタンスでいくと、今にその矛盾に耐え切れなくなるような気がするのです。
  • 私は確かなつながりが築けていると思う人とは一ヶ月、それ以上連絡を取らなくても何の不安も湧いてきません。しかし、関係が曖昧な人、その上それほど仲が良いわけでもない人ほどこまめに連絡を取ります。それも何だかおかしな話だなと思いました。
  • 私の友人で、1人暮らしの部屋にいるのが寂しく耐えられなくてオンラインゲームにはまり、中毒になったせいで留年、大学を退学した子がいました。彼女は「ネット上で待っててくれる人がいるのが嬉しかった」と言っていたのですが、「つながり」のループに入り込んでしまった一人なのかもしれないと、この講義を聞いていて思いました。
  • 私もホームページを持っていますが、私はgoogleから飛べないようなサイトにしています。完全内輪でやってます。私は、何かおもしろいことを書いてみんなをたのしませようと思ってサイトを運営しています。それでも返答や反応がないとすごくさみしです。内輪なのに。会った時に「見てくれてる?」と聞いて、どうしても確認してしまいます。
  • 今日の授業の中で、ブログを開設する理由についてですが、この前友人に聞かれて一つ疑問に思ったことがあります。その友人の友人がブログを始めることになり、「見てね」と言われ、アドレスを教えられたそうです。私の友人は、webに日記を公開する気持ちも、オフラインの友人に日記を見てもらうという気持ちがいっさい分からない、見たいとも思わないと言っていました。ブログは、知らない人とつながる一つの手段になることは分かるのですが、知っている人に見てもらってどんな利益があるのかいまいち私には理解できません。これも自己不安の一種の表れなのかなとも思うのですが。

高校までの密閉度の高い関係性のなかで、こうした孤独への被視線不安を感じるのは、わかる気がするのだが、大学ってとこはもう少しゆるゆるとしたオープンかつ流動的な関係性であるはず。にもかかわらず、視線に絡みとられているところが興味深い*4

この「“つながっていない”すがたを見られているかもしれない不安」は、形式的にはフーコー的な「見られているかもしれない不安」と同型だが、まなざしを送ってくる他者は、見知らぬ他者――というより抽象的・超越的な他者――の水準に位置しておらず、あくまで具体的・経験的な他者の水準にある。

この位相転換のもつ含意を、さて、どう考えるか。

*1: 中村功[2003],「携帯メールと孤独」『松山大学論集』14巻6号

*2: 無作為抽出でもない学生調査で検定かけて何の意味がある?とか言うな。さらにまた、より厳しくノンパラメトリックな順位和検定をかけると、p=.26と有意差は消えてしまい、あてにならないこと夥しくはあるのだが。

*3: 言っていることは、孤独の被視不安と疎外感に対応している。ちなみに疎外恐怖もメール頻度と相関することが複数の調査で確認されている。

*4: ただこれは関大の学生文化・気質ならではのものではないか、という声もある。確かに、概して関大生は友だちといつも楽しそうにしている。関学も同志社も立命も、キャンパスの雰囲気をみるかぎり、こういう「楽しそう」度はより低い。他大学でも調査してみねば。

05-03-03 Thu

スタイルシートいじってみた  スタイルシートいじってみたを含むブックマーク

こんなことしてる場合でないのは、わかっちゃいるのだが。