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08-08-28 Thu

仮死状態の当ブログですが、私はまだ生きてます(挨拶)

今年は7月早々から暑くて死ぬかと思いましたが、何とか生きのびました。


阪大ではグローバルCOE「コンフリクトの人文学」というのをやってて、そのなかの研究会のひとつに「横断するポピュラー・カルチャー」てのがあって、なぜかそれに加わってて、昨日は、私の発表の番でした。

仮死状態からの蘇生をはかるため、そのディスカッション・ペーパーを何回かに分けて載っけることにします。

ここ数年、どうもテレビ的なもののことが(ネットやケータイとの対比において)なんだか気になってて、どうせならこの機に、気になってることを整理してみようという不純な動機でまとめたノートです。

なんか自分の好かない方面の文体になってます(泣)

でもそのまんま、若干の注を追加しただけで、載っけときます。

[] 公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (1)  公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (1)を含むブックマーク

 「ポピュラー」なものとは、いったいどのようなもののことか。ポピュラーカルチャー研究においては、もっぱら具体的な対象(音楽、マンガ、等々の諸作品や諸作家)について論じられるためか、この問いはさほど突きつめて問われてこなかったように思える。確かに、定義に悩むほどの概念ではあるまい。手元の辞書には「広く一般に知られ(親しまれ)ている」もののこととあり(『新明解国語辞典 第五版』三省堂)、多くの場合はこの程度の答えで十分だろう。ポピュラーなテレビ番組とは、広く一般に知られ(視聴され)、親しまれ(好まれ)ている番組のことであるというわけだ。

 だが、「広く一般に」とは、だれの(あいだでの)ことなのか。言うまでもなく、20代の男性と60代の女性では、「広く一般に」知られ、親しまれているテレビ番組は異なっていよう。つまり、だれを想定するかによって、何がポピュラーであるかは変わってくる。ただ、ここで問いたいのは、そういう意味での“だれ”ではない。

 子どもはしばしば次のような物言いをする。「みんな、ロンドンハーツ見てるんだよぅ、うちでも見せてよぉ」。この子にとって、ロンドンハーツは、「広く一般に」見られ、親しまれている、すなわち「ポピュラー」なテレビ番組である。たとえ、実際にはクラスの、仲よしの数人しか見てはいなかったとしても、(この子もそれは重々承知だったとしても)「みんな」(everyone)見ているというその感覚はウソでないことがありうる。この「みんな」とは、いったいだれのことなのか。

 横ポゼミの共同テーマ「文化とは誰のものか」に引きつけていえば、ポピュラーなものとは、このような「みんな」のものである、と、ひとまず言いうるだろう。しかし、その「みんな」とは、いったいだれのことなのか。

[] 公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (2)  公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (2)を含むブックマーク

 問いかたを少し変奏しよう。「みんな」のものということであれば、公的なものもそうだろう。公園や公道などの公共財は、まさに「みんな」のものである。子どもたちは、「みんな」の迷惑になることはしてはいけない、と公共の場でのふるまいかたを教えられる。

 だが言うまでもなく、ポピュラー性と公共性は異なる。さらにはコンフリクトを生じる場合もある。公的であるべき政治を、政治家の獲たポピュラリティによって動かすことはポピュリズムと批判される(小泉政権のように)。ポピュラーなものは、公的なものに対して、「みんな」という共通点をもちつつも、何か相反する点を含む。

 それは、先の辞書的定義のなかでは(不要にも丸括弧に囲われているが)「親しまれ」であるだろう。ポピュラーなものは、身近さや親しみの感覚に結びついている。「みんな」に親しまれるもの、好まれるもの、それがポピュラーなものだ。

 対して、公的なものにおいては、そのような情緒や好き嫌いは重要ではなく、むしろ積極的に排除される。それよりも、何が「みんな」にとって正しいことか、善いことかが、判断や行動の規準となる。

 ポピュラーなものが欲求の原理に基づくのに対し、公的なものは規範の原理に基づくと言い換えてもよいかもしれない。ポピュラーなものは、その点では、むしろ私的なものに近接する。ポピュラーなものは、このように公‐私の軸を横断するがゆえに、コンフリクトを引き起こす。

 ポピュラーなものとは、どのようなもののことか。ここまででの答えは、とりあえず次のようになる。「みんな」が欲求によって関与するものである。それに対して、公的なものは「みんな」が規範によって関与するものである、と。

 しかし、まだすっきりしない。そもそも、ポピュラーなものにおける「みんな」と、公的なものにおける「みんな」は、同じ「みんな」なのだろうか。

[] 公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (3)  公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (3)を含むブックマーク

 公的な(public)ものに限っても、そこで想定される「みんな」は必ずしも一義的ではない。それは、公共性(publicness)という語の多義性に対応している。斉藤純一[2000:viii-ix]*1は、その意味あいを、次の三つに大別している。

 第一に、国家に関係する公的な(official)ものという意味。この意味での「公共性」は、国家が法や政策などを通じて国民に対しておこなう活動を指す。たとえば、公共事業、公共投資、公的資金、公教育、公安などの言葉はこのカテゴリーに含まれる。対比されるのは民間における私人の活動である。……。/第二に、特定の誰かにではなく、すべての人びとに関係する共通のもの(common)という意味。この意味での「公共性」は、共通の利益・財産、共通に妥当すべき規範、共通の関心事などを指す。公共の福祉、公益、公共の秩序、公共心などの言葉はこのカテゴリーに含まれる。この場合に対比されるのは、私権、私利・私益、私心などである。……。/第三に、誰に対しても開かれている(open)という意味。この意味での「公共性」は、誰もがアクセスすることを拒まれない空間や情報などを指す。公然、情報公開、公園などの言葉はこのカテゴリーに含まれるだろう。この場合には、秘密、プライヴァシーなどと対比される。

 第一の意味における「みんな」は、国家の成員(つまり国民)すべてである。第二の意味では、国家に限らない何かしらの社会集団や共同体の「みんな」、第三の意味では、社会集団や共同体すら問わない、場合によっては異星人すら含みうるような「みんな」である。

 このなかで言えば、ポピュラーなものにおける「みんな」は、第二の意味での「みんな」に最も近い。何がポピュラーであるかは、社会集団によって変わってくるからだ。

 とはいえ、第二の意味での「みんな」とまったく同じと考えることはできない。公共性の場合には、「みんな」の範囲やメンバーシップが明確でなくてはならない。でなければ、何が共通(の規範や関心事など)であるかが決まらないからだ。だが、ポピュラー性の場合は、必ずしも「みんな」の範囲やメンバーシップが明確であることを要さない。宝塚歌劇ファンの「みんな」は、どこからどこまでか。どのくらい好きであればファンと言えるのか。ファンクラブの会員は明確でも、ファンそのものの範囲やメンバーシップは明確ではないし、明確である必要もない。せいぜいのところ、メンバーシップとして挙げられそうなのは、宝塚歌劇が(程度はともかくとして)好きなことという同語反復だろう。

[] 公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (4)  公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (4)を含むブックマーク

 それと関連して重要なのは、次のことである。ポピュラー性の場合は、好きなものの共通性が「みんな」を定義する(共通性→「みんな」)。一方、公共性の場合は、「みんな」がまず定まらないと何が共通かも決まらない(「みんな」→共通性)。機序が逆なのだ。

 このことは、先の第三の意味における「みんな」にもかかわってくる。斉藤[同上書:x]の指摘するように、「「共通していること」はほとんどの場合「公共性」を一定の範囲に制限せざるをえず、「閉ざされていないこと」と衝突せざるをえない局面をもつ」。他方、ポピュラー性における「みんな」は、それを好きであること以外にメンバーシップの制限がない。だれに対しても開かれている。ポピュラーなものに媒介された共同性は、その点では、きわめて開かれた共同性である。おかしな表現になるが、ポピュラーなものは、公共性の第三の意味(と第二の意味)において、公的なもの以上に公的とも言えよう。



→つづく

*1:斉藤純一,2000,『公共性』,岩波書店.

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