【読書196】壊れた脳 生存する知

壊れた脳 生存する知」(山田規畝子/角川ソフィア文庫)

病をきっかけとして、性格、人格が変わってしまう・・・。都市伝説のように稀に聞く話だが、そのようなことは実際あるのだろう。
アルツハイマーをはじめとする認知症や、脳の病気、怪我など原因とされるのは様々であるが、原因となる疾患の一つが本書の著者も患う高機能脳障害である。
本書はもやもや病という脳血管障害から三度の脳出血を起こし、高機能脳障害となった医師によってかかれた、患者としての体験談であり、患者視点での分析の書である。

脳出血後の後遺症として、想像しやすいのは麻痺や言語障害などだろうか。
実際の後遺症は損傷をうけた部位によって様々であり、筆者の場合は、靴の前後がわからなくなり、時計は読めない、さらには世界の左半分を喪失してしまう。

一方で、言語系の能力はなんとか持ちこたえたようで、それ故にまた別の問題に直面することとなる。

猛然としゃべりだした私の症状は、いわゆる「ハイパーラリア」と呼ばれるものではなかっただろうか。
ハイパーラリア、脳の右半球が損傷を受けた場合に生じる、とりとめのない言葉の自走である。それが落ち着いた後も、
その後もいろいろな場面で、私は何事も都合のいいように解釈する人間になっていた。そうでないとスピーディに反応できないことがたくさんあった。相手の話す内容は、早く答えようとするあまり、知らず知らずのうちに自分の理解しやすい内容に歪曲されていった。
しかし場合によっては歪曲しながら、本人はその事実と異なる内容を事実と信じてしまう。
高次脳機能障害の場合、認知症と明らかに違うのは、「自分が誰だかを知っている」という点だ。客観的に自分を見つめることができるのだ。それに加えて、自分の行動にもかなりの自覚がある。
曲解の世界にいながら、己がおかしいことがわかる。病識のある虚言癖のようである。
普通の状態と異常な状態が混在することで、一緒にいる人間は非常に混乱するだろう。
それこそ、患者の人格が壊れたと思うかもしれない。

実際に読み進めていくと、二度目の脳溢血であった33歳から三度目の脳出血を起こす37歳までの間に書かれたもの、三度目の脳出血のあとに書かれたもので、だいぶ異なった印象であった。
37歳より前のものは、障害はあっても快活でキレのよさを感じるが、37歳以降のものは、何度もなんども同じことを繰り返してようやく結論にたどり着くようなまどろっこしさだ。

独学を続けるうちに、病気になったことを「科学する楽しさ」にすりかえた。自分の障害を客観的に面白がれるようになれば、こっちのものだ。これまでやってきた数々の失敗も、理由がわかると「なあんだ、そういうことか」と気が楽になる。
リハビリを続け、社会復帰を果たし、しかしまた病に倒れ、より重篤な障害を負う。
生活がある程度落ち着いたタイミングでの再発作に、望みを断たれても、彼女には助けてくれる身内がおり、息子がおり、なにより彼女自身の知的好奇心があった。
独学を続けたことは、自分のために他ならなかったのかもしれない。
しかし、こうして書かれた書を読むと、それが彼女に与えられた試練であるかのような、宿命的なものを感じずにはいられない。