空気を読むのと無難なことを話すのは全く別のことなんじゃないのというお話


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「空気読めよ」

会話の中で度々用いられるこの言葉、あまり好きではない方も多くいらっしゃるのではないだろうか。「俺は空気の奴隷になるなんてゴメンだ。言いたいことを言わせてもらう」そういう考えもわからなくない。

また、人によっては
「空気を読む=無難に話す」
と考えていることがあるかもしれない。

しかし僕はこう言いたい。「空気を読む」のは無難に話すことでは決してないし、さらに、空気を読んで会話ができたらきっとメチャクチャ面白い、と。

この主張の背景には僕なりの“空気”の解釈がある。

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下のグラフを見て欲しい。x,yがそれぞれ会話の無礼度・突飛度を表している。また、点A(Xa,Ya)はある人Aさんのそれぞれへのポジティブ受容境界点である。
Xaを超えると、Aさんからしたら「ちょっと言ってることがよく分からない」また、Yaを超えると、「コイツはちょっと無礼なんじゃないか」となるわけだ。

つまり、点Aを頂点とする長方形の領域内であれば、Aさんを怒らせたり呆れられることはほぼ無い。また、この長方形のx,y軸でない方の境界に近ければ近い内容の話題ほど、Aさんとの会話においてそれは“スリリングである”ということだ。スリリングな会話というのは、大体の場合において両者にとって、面白い。
ある会話の内容を表す点Pがこの四角形の中に収まっている場合、そのPを頂点として描かれる青色の長方形の面積が、会話としての面白さの度合い(=効用)であるとも言える。


そして僕の考える“空気”とは、ズバリここで言う点Aの位置である。そして、どの程度の話題ならば、怒らずに、呆れずにこの人は受け止めてくれるのかを見極めることこそが“空気を読む”ということなのだ。空気を読むのが上手な人は、相手が攻めてきて欲しいと感じるギリギリいっぱいに切り込んでいく。僕の周囲にも何人かこういう人がいるけど、話が弾む弾む。

無礼だと受け取られない範囲での攻めのコミュニケーションは、相手との距離を縮めることに繋がる。また、呆れられない程度の突飛さは、相手にとって想定外の面白さとして映るはずだ。笑える=いい意味で相手の想定を裏切ると定義してもいいと思う。


ここで“無難な会話”を上のグラフで当てはめて考える。
「無難=突飛でなく無礼でもない」わけだから、当然原点Oの近くの話題である。そうなると、当然会話としての効用もゼロに近い。相手との距離も遠く、想定内のやり取りしか行われないため、笑えない。中身の無い会話だ。

もちろん、無難な会話はどんな場面でもするべきでない、と言うつもりはない。例えば、会社の重役など、ポジティブ受容境界点を超えた場合のリスクが大きい人と話をする場合には、無難な会話に終始するのも仕方ない。あとはそもそもそれぞれの境界点がかなり原典寄りの、率直に言えばキャパが狭くてユーモアなどを理解しない人と話さざるを得ない場合も同様だ。

しかし、そうではない相手に対してひたすらただ無難に話し続けるのは大きな機会損失だと思う。それこそ全く空気を読んでいない。読むことを放棄している。


「空気を読む」ということは、サーフィンに例えられるかもしれない。風や波の様子を注意深く感じて、上手くそれらに乗る。もし少し読み間違えてボードから落ちてしまって(会話で相手を少し不快にさせてしまって)も、また改めて読み直してボードに乗ればいい(きちんとフォローや謝罪をすればいい)。

逆に空気を読むことを放棄するというのは、周りのみんながサーフィンに挑戦している中、一人岩陰でフナムシの動向をただただ見ているようなものだ。


そういうわけで僕は、会話においては自ら率先して空気を読みにいくべき、と考える。

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余談だが、僕の周囲では「童貞は空気が読めなくてつまらない」という意見が出ている。

きっとその背景には、“セックスという行為が、かなり根本的な部分で相手にとっての快/不快を感じ取る作業であり、それを経験していない者は会話においても同様に相手のキャパの見極めができず、攻めの姿勢がとれない”という考えがあるのだと勝手に解釈している。


しかしながら、実際には人によりけりだと考えているので、僕個人としてはセックス経験値と面白さの間に有意な相関は無いと思っている。
むしろ「僕童貞なので空気が読めずあなたに不愉快な思いをさせてしまうかもしれませんが、まことに僭越ながら発言させていただきます」を枕詞にしている人がいたら結構面白いんじゃないの。



最後まで読んで下さってありがとうございました!