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2008-02-21 「女一揆」を女性運動と呼ぶ理由

「女一揆」を女性運動と呼ぶ理由

米騒動を「女一揆」と呼ぼうという話の中で、彼女たちの運動も「女性運動」だと認識しているということを書いた。しかし、わたしが富山湾沿岸における1918年の「米騒動」を女性が主役として担ったから「女一揆」であり、「女性運動」の列に加えよというのではありませんでした。改めてなぜ1918年夏富山で起きた女一揆を「女性運動」とみなすかという点について書いておこう。わたしは、主に、井本三夫『北前の記憶』(桂書房)とマイケル・ルイス『 暴徒と市民−−帝国日本における大衆的抗議』カリフォルニア大学出版局(未邦訳)に基づいて述べている。ルイスについては、ここも参照ください

井本三夫によれば、米騒動を起こした女房たちは日本海側でも起きていた産業革命――東海側のように製造業中心ではなく、海運・流通業中心であったが――により、荷役労働者になっていたので、組織性やリーダーシップを発揮できた。しかし、荷役労働は、米一俵、二俵を軽々と担ぐ女たちの仕事であった。そうした女たちにとって、女というだけで日当が半分というのは不当な待遇とみなされていただろう。同じ仕事をしても男の半分という不当に安い賃金に忍従していた。そうした賃労働者であったことから荷物を運ぶからジョーキ船が来れば米の値段が上がる、米を地元から北海道などへ移出するから米の値段がつり上がることに敏感であった。


1918年以前から富山に米騒動が多かったのは、「明治に北前船の中心となった越中が、依然として米移出地帯であった越後と並んで、明治期米騒動の集中地帯となったのである。」(井本三夫『北前の記憶』桂書房。326頁)

一揆を起こす目的が、米の積み出し阻止にあるということだ。その点、大阪や東京などでの大消費地型の米騒動とは異なる性格をもっていた。富山での1918年の米騒動を含め、近世の米騒動は越前から越中、越後などの日本海側、すなわち北前船が発展している地域で起きていた。これは、米が舟によって積み出され、移出することを阻止するために「一揆」や「騒動」を起こしていたということになる。

江戸時代は、年貢として領主が米を集め、それを換金する各藩のおかかえ商人が米騒動のターゲットだったが、明治期以降は地主層と結びついた移出商が米を移出し金儲けをし、米価を沸騰させた。そうしたいわゆる「成金」に対する怒りが米騒動を起こす原動力となったのであった

一方、マイケル・ルイスによれば、米の移出によって不当に金を儲けている米商やそれを黙認している町の有力者は、「モラル・エコノミー」、すなわち経済的公正と社会的公平という民衆の伝統に反するということで民衆(富山では荷役労働の女性労働者たち)が立ち上がったのであった。

女一揆は、「女性に不利益をもたらす差別の撤廃」というフェミニズム運動の意識を明確に持っていたかどうかまでは明らかにできないが、産業革命により賃労働者になった女性たちが起こした運動という点で言えば、女性に不利益が大きい資本主義の雇用の元にあったということは言えるであろう。

井本の説明にしろ、ルイスの説明にしろ、いずれも不公正な待遇や不公正な社会のしくみに憤った女性荷役労働者たちの抵抗運動という意味は共通する。このような不公正な社会のしくみに対する抵抗運動という意味で、富山の「女一揆」は女性運動の列に加えるのが妥当だと考えたのでした。


ここで、改めて「女性運動」を定義しておきたいと思ったのですが、それがなかなか難しいことがわかりました。『岩波女性学事典』で「女性運動とは何か?」をあたってみましたが、「女性運動」という項目は収載されていませんでした。では、「女性解放運動」はどうかというとそれもありません。この事典にあるのは、「ウーマン・リブ」や「フェミニズム」「女性の政治参加促進運動」であった。だが、それらとそれ以前の女性運動や、婦人運動と言われる運動がどのような関係にあるのかを考えることはできかった。


さらに、日本では「社会運動」論と「フェミニズム・女性運動」論は、同じテーブルで議論されることがほとんどない。よって、日本の女性運動を日本の社会運動の流れの中に位置づけた議論は見あたらないように思う。

唯一、女性運動論が語られているのが、女性史の領域ではないかと思う。最後に、『日本女性史論集 (10) 女性と運動 』(総合女性史研究会編、吉川弘文館)での「女性運動」の定義を紹介してこの項を終えたい。

「多様な支配を歴史的に受けてきた人間はまた、多様な形の抵抗を自分たちの意思としてあらわすことによって歴史をつくってきたという考えから、『運動』の内容を最大限ひろげ、支配者にたいする消極的抵抗、人びとの意思の何らかの行動による表現から積極的抵抗、組織的運動まで、性差別をふくむもろもろの差別にたいする自覚的な、あるいは無自覚的な動向の、すべてをふくむものとした。このように『運動』をとらえることによって、古代から現代まで女性の抵抗と運動がいくすじもの細い流れをとりながら、一本の本流をかたちづくって要求を実現していく長い歴史過程が明確にできるだろうと考える」(p.369桜井由幾・早川紀代「解説」)


ただし、この「女性運動」の定義はあまり満足できるものではなかった。これだと、「女性」が担った運動はすべて「女性運動」という定義になってしまう。うーん、これでは「女性運動」の定義としてふさわしいとは思えない。困った。他にどこかに「女性運動」の定義で適切なものがあるのだろうか。

kinakokinako 2008/02/22 17:04 「米騒動を女一揆と呼ぶ理由」は、説得力がありました。浅生幸子さんのたてた、「女は家庭」の時代で政治闘争への発展の可能性はもともとなかった、との論に対する見事な論考だと思いました。「産業革命によって賃労働者になった女性たちが女性に不利益な資本主義の雇用の元にあった」との分析、その通りだと思いました。1918年7月〜の「女一揆」は、大消費地のそれとは異なる、という指摘は新鮮でした。
魚津でのフォーラムで直接discourさんの話を聞いたある方が、自分がぼんやり過ごしているこの10年くらいの間にこの方は、はるかな地点まで行ってて凄い凄い、と言ってたのですが(その人は全然「ぼんやり」してませんでしたが)私も同感です。「米騒動」について語る言説のイデオロギーが問題、というdiscourさんの仕事がまた1つ結実した論考のように見受けました。なお、「女性運動」の定義ですが、手持ちの歴史辞典には、以下の様なことが書いてありました。
女性解放をめざした女性自身による運動。第1の流れは、婦人参政権など、既存の社会体制のなかでの女性の権利獲得、差別撤廃を目指す運動。第2の流れは、社会体制そのものを変革して男女平等を実現しようとする運動。最終的には資本主義そのものの変革をめざす運動(岩波 日本史辞典1999年版)。discourさんが言われるように、この定義をあてはめればまさに第二の流れということだと私は思いました。Josefさんがつぶやいておられた「立派」でないと(女性運動と)認められないのか、との問いには、私はdiscourさんが、かぎかっこつきで「毒」をもっているといわれたのがその通りと思うのです。参政権運動なら「立派」で女一揆は「立派」でないという「立派」争いじゃなくて、無自覚だったのかもしれないが、女仲仕の労働者が「変革」を求めたから、これは女性運動だった、と私は論を読んで深く頷きました。

discourdiscour 2008/02/22 23:24 kinako さん、コメントありがとうございました。
お褒めいただいているのですが、この論はほとんど井本氏のご著書の受け売りです。井本氏と桂書房編集者氏のなみなみならぬ突撃インタビューの成果ともいえるものです。その労苦にこそ、感謝したいと思いました。

また、岩波日本史辞典のご紹介ありがとうございました。これもいささか驚く内容ではありました。「社会体制そのものを変革して男女平等を実現しようとする運動。最終的には資本主義そのものの変革をめざす運動」という記述に、、。

JosefJosef 2008/02/25 10:59 「女性運動」の従来の用法がイマイチなら、discourさんがより有用な定義をすればいいと思いますよ。

私としては、別に「女性運動」という枠に押し込まなくても、と思います。一つの枠に入れることで個別性が失われていく、とりわけいちばん魅力的な部分が失われていくようにも思います。
女たちの運動もまた多様であった、その多様を多様なままに描くことで女性史のconstellationが出来上がっていく。それは場合によっては「正史」を書き換えることにも繋がるでしょう。

ところで、岩波の歴史書や思想書は巷間言われているように「左」に偏ったものが多いですね。また、「運動」は変革を求めるだけでなく、変革の動きに対して「保守」を求めるのもまた「運動」でしょう。

discourdiscour 2008/02/26 18:32  Josef さん
>女たちの運動もまた多様であった、その多様を多様なままに描くことで女性史のconstellationが出来上がっていく。それは場合によっては「正史」を書き換えることにも繋がるでしょう。

最終目的が「正史の書き換え」でありますからして、その過程について、いろんな戦略がありうるということは了解です。

JosefJosef 2008/02/27 21:47 >最終目的が「正史の書き換え」でありますからして、その過程について、いろんな戦略がありうるということは了解です。

え、そうなんですか?なんか話が逆なような。

まずは「女一揆」に関する諸事実の調査を行い、妥当や評価や位置づけを検討する。その過程で、従来の支配的な歴史記述が間違っていたり不十分であるとなった時に「正史の書き換え」が要請される。これが普通の順序でしょう。

discourさんの言い方だと、始めに「正史書き換え」ありきで、その目的のために「女一揆」を「戦略」的に都合良く解釈する、というふうに誤解されかねません。「米騒動の話その3」で「女性たちが歴史に加えられることは、歴史の書き直しを迫ることにもなる」というスコット(たち)の文言が引用されていますが、ちょっと教条主義的に受け取りすぎているんじゃないかという印象を持ちます。

discourdiscour 2008/02/29 13:07 Josef さん

そうですね、わたしも書いていて、ほんとにそうかなという気もしていました。結果的にそうなればいいくらいですね。

>discourさんの言い方だと、始めに「正史書き換え」ありきで、その目的のために「女一揆」を「戦略」的に都合良く解釈する、というふうに誤解されかねません。

海人海人 2008/03/01 17:14 米騒動と聞くと、ほっとけません。男、しかも異性愛で通俗的な存在ですが、一言。浅生幸子さんの古い記事をたまたま保管してありましたので読み直して見ました。「『男は仕事、女は家庭を守る』という考え方の強い地域で起きた騒動」と浅生さんは要約して確かに言っていますが、自身の前言は本当は「食べ物のようなささやかなことで男は騒いではならなかった」という事実のことで、男は仕事という役割分担の事実ではありません。要約を浅生さん自身が少し間違えているのです。性別役割分業ではなく、性別規範があった、私のような六十代の男には今も多少のリアリティをもつ規範です。そうはいっても、つまりは役割分担からくる規範ではないか、そうお思いかもしれませんが、規範の生まれくる根拠はそれこそ多様であって、一つの原因と限らないと認識しなければ、その腑分け作業に進めないでしょう。discourさんが当時は役割分担はなかったという論点に向かわれたのは尤もなのですが、論議は、先のような規範はどこから生まれ、今それに変わるドンナ規範を男たちは持ち得ているのか、という方向へ向かうのが生産的ではないでしょうか。
もう一つ、浅生さんは「米騒動が女性の地位向上や政治的闘争へと発展する可能性はもともとなかったのである」と結論していますが、やはり急ぎ過ぎています。米騒動のすぐあとに滑川で結成された普選運動が「普選の遷延が米騒動の要因」と宣言したことを浅生さんが記す、まさにそのように社会を変えようとする運動に繋がったのですから、先の結論は早とちりではないでしょうか。女から女へとつながっていないというのは、そんなに嫌な事実なのでしょうか。まず、男たちに影響を与えた、そういう歴史の歩みとして見ればいいのに思います。

discourdiscour 2008/03/02 13:57 海人 さん、コメントありがとうございました。
>米騒動と聞くと、ほっとけません。

このあつい思いはどこから来るものなのかなあと、富山の県民性と米騒動への強い関心との関わりに関心を持っております。ああ、異論があるということでは決してありません。

>論議は、先のような規範はどこから生まれ、今それに変わるドンナ規範を男たちは持ち得ているのか、という方向へ向かうのが生産的ではないでしょうか。
>女から女へとつながっていないというのは、そんなに嫌な事実なのでしょうか。まず、男たちに影響を与えた、そういう歴史の歩みとして見ればいいのに思います。

海人さんの問題関心は理解できますが、ここでの議論はフォーラム米騒動参加者のご関心が、「地元でその後女性運動がなぜ続いておきなかったのか」にあると、浅生さんからお聞きしたゆえに立てた論点に沿ったものです。浅生さんが講演された回ではそのような質問が出た、関心はその点に集中していたと、浅生さんから伺ったので、わたしの回のテーマを「女性」や「女性運動」とのつながりということにいたしました。

浅生さんはリアル世界でもよく知っているので、ここでの議論のことをお伝えしました。ご本人からコメントいただけるといいなあと思っているところです。

海人さんのご指摘の点、改めて考えていきたいと思います。何かわかることがありましたら書かせていただきます。

discourdiscour 2008/03/04 09:27 浅生さんにご連絡しましたところ、今は手が離せない仕事があるので終わったら書きますということでした。ということでよろしくお願いします。

海人海人 2008/03/14 18:13 富山市議会で質問されたりしてお忙しい浅生さんの手が空くまで待とうと思いますが、ほかの方々にも浅生さんの意見の要点を引用してお読みいただこうと思います。北日本新聞に発表された98年7月のご意見のうち、私が問題にしているのは次の部分です。

「『証言米騒動』(北日本新聞社編)によれば、指導的役割を果したのは、四、五十代の「おかか」と「おばば」たち。後押しに加わったのが二十代の若者たち。漁師の「おとと」たちは「男の出る幕じゃない」として出なかった。「おととたちは、気ぐらいがあったので出なかった」とある。「気ぐらい」。つまり食べ物のようなささやかなことで、男は騒いではならなかったのである。
 反対に台所の問題で女たちが騒ぐのは当然であり、騒動があった地域では、女たちが口火をきり、立ち上がったことのインパクトは、全国で受け止められたほど強くなかったと考えられる。
 騒動直後の現地に入った日本弁護士協会の調査では、「元来漁師町では、男が漁に出て、家の内政、外交はすべて女房がやっている。官庁への届け出も近隣との交渉も、女の手で片付けて男は没交渉である」として、女性が中心になっているかのような印象を与える。しかしこれはあくまでも、家庭を切り盛りし近所とうまく付き合うという範囲内のことであった。
 「男は仕事、女は家庭を守る」という考え方の強い地域で起きた騒動が、女性の地位向上や政治的闘争へと発展する可能性はもともとなかったのである。」

 これが浅生さんの文章の一部です。『証言米騒動』という本の中の証言を基に考察されたものです。私も確認のため、その本を見てみました。浅生さんの引用部分は確かにありました。ただし、ちょっとだけ語句を違えて引用されています。滑川町において米騒動に参加した当時19才の若者の証言は正しくは次のようです。

「あのころ、わしらは出漁中の船上で、米が高くなり、生活が苦しくなったことを話し合っていたが、漁民たちの間で、別にどうしようという空気は見られなかった。わしは漁がひまなとき、こずかい銭かせぎに米運びの仲仕のアルバイトをしていたので、米穀商や女仲仕に顔見知りが多かった。それで、これは女たちだけにまかせる問題ではなく、町中全体が一丸となってあたらねばならぬと考え、若いもんで話し合った。せん動しようというのではなく、頼みにいくという純真な気持ちだった。《おやっさん》たちは気ぐらいがあったので出なかった。わしは金川商店へ三度ばかり交渉に行ったが、行きすぎを押さえ、米を外へ出さないように頼みこんだ」

 高緑政次郎さんというこの方の家は網元だといいます。名前から見ると次男でしょうか。浅生さんは「おととたちは気ぐらいがあった」とされますが、「《おやっさん》は気ぐらいがあった」というのが正しい。私は滑川の言葉、しかも大正期の言葉遣いを知るものではありませんが、《おとと》と《おやっさん》は明らかに異なると思います。おととは父親世代一般を指しますが、おやっさんは網元のような顔役の男性を指すものではないでしょうか。政次郎さんの父親がまさにこの顔役です。自分の父親のことをおやっさんと呼ぶことは少ないでしょうが、ここでは米屋などに発言力のもっとある親父に出て欲しかったが、出てくれなかった、それでその理由をインタビュー者に説明しなければとこの語を用いたように私には見えます。おととたちではなく、顔役なら気ぐらいがあってというのは頷けます。浅生さんは男性一般に気ぐらいがあった、つまり、男は仕事、女は台所という役割分担の話につなげておられますが、やはり急ぎ過ぎだったのではないでしょうか。
 ただし、「男の出る幕じゃない」という男性の証言が本の中に何回か出てきます。水橋の男性ですが、「水上のおばばらが、わしの家へ来て《高松の米屋へいって、水橋から米を出さんよう頼んでくる。男も出てくれ》と協力を申し込んできた。おやじは《男の出る幕じゃない。乱暴せんように…》といっていたのを覚えとる」と証言しています。しかし、男性がおかかたちの後ろに続いて米屋へ押しかけたという証言も幾つかありますから、男性一般に言えるのかどうかは疑問のように見えます。
 男の出る幕じゃない、こういう性別規範があった可能性までは否定できません。なかったとも言えません。ここらあたり、浅生さんのコメントをいただけたら幸いです。取り急ぎ、引用まで。

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