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2008-03-16 フォーラム米騒動に参加した

フォーラム米騒動に参加した

昨日、魚津市で開かれたフォーラム米騒動のディスカッション・バージョンに参加してきた。参加者のご発言から、地元では当時の「米を積み出すな」と要求した側とされた側の抗争とそれがもたらした大きな影響のしこりが残っているということに改めて気づいてびっくりした。


それと同時に、米騒動から90年経つにもかかわらずそうしたしこりが色濃く残り、米騒動をおこして世の中を変えたというその事実を認め、それを誇りに思い、そうした事実をなんとか伝えていきたいと思っている人たちもおられること、そうした方達がしがらみを乗り越えて前に向けていきたいと「フォーラム米騒動」を始められたのだということもわかった。


今年は米騒動90周年。当時の建物として唯一残っている魚津水産さん使用の米倉も相当朽ちてきていることもみなさん心配そうに語っておられた。このフォーラム米騒動への参加者は100名を軽く超えているという。それだけの方が今も米騒動にアツイ思いや関心を抱いておられるという事実があるのだ。米騒動の90周年の今年、魚津から米騒動にちなんだ何か新しい動きが起きることを期待したいなと思って帰路についた。


[追記]

以前の米騒動エントリーに海人さんが書き込みをされていた件について一言。

「男の出る幕じゃない」「おやっさんは気ぐらいがあったのででなかった」がどういう意味であったのかをもっと深く考える必要があるというご指摘だったと思います。単にこれを「ジェンダーの問題」とだけとらえていいのかという問題提起と受け止めました。


当時の女で米騒動に参加したのはどういう職業、階層、立場の女性たちであったのか。また、米騒動に参加した男たちはどういう職業、階層、立場の男性たちであったのか。それらを丹念にみていくと、単純に「台所の問題だから女ががんばった」という結論にはならないはずというご指摘は、改めて『証言米騒動』その他の証言に当たってみて納得いたしました。


先に書いたフォーラム米騒動に対する地元の方の感想にもつながるのですが、女性の中でお男性の中でも実に立場の違いが大きいということです。参加した女性には仲仕の人たちが多く、また男性の参加者には、日雇いで働く人や仲仕、行商人などが多かった。一方、参加しなかった男性は役場につとめている人、沖仲仕の頭などがある。沖仲仕の頭領などは日頃の米商人とのつきあいがあるために参加しなかった(紙谷信雄『米騒動の理論的研究』)。社会において既得権力を握っている層は、男性も女性も参加しなかったということが言えよう。単純に女が参加し、男は参加しない(見ているだけだった)ということは言えない。以後、またまとまったら何か書くかもしれませんが、ジェンダーに特化すると見えなくなることがあるよというご指摘は傾聴したいと思います。ありがとうございました。


これって最近話題になっているアメリカの総選挙でのクリントンとオバマの「女性」vs「黒人」問題にも通じる話だなと思います。クリントン支持の白人女性が「女性」を強調することよって、自らの「白人」の特権性が見えなくなるということに、、。

海人海人 2008/03/18 13:06 オバマとクリントンの対比に通じる話だという斉藤さんのご指摘に共感します。米騒動のことに関心をもつことがどんな現在的価値を生むかを明らかにしていただいて、斉藤さんに拍手を送りたいと思います。それにしても、浅生さんが「米騒動80年とジェンダー」という新聞記事をなぜ書こうとされたか、そのことを振り返っておかねばならないと思います。
 富山の米騒動がいかに女性たちの組織的・主体的なものであったかについて、一部の女性史研究グループが掘り起こし本に書いてきたが、いっこうに県民の歴史意識に浸透していかない、その理由を浅生さんは探ろうとされたのでした。細川嘉六氏ら先導研究者が米騒動の女性主導を全体として過小評価したせいではないか、という結論でした。私のような素人でも驚く思い切った分析です。《女房会議》の組織に言及していながら、哀願的なものに終始し、政治に結びつくほどのものではなかったと細川氏らが結論したせいである、そのことをこれまで誰も疑って見なかった、浅生さんは鋭くこう指摘しています。歴史意識を既成のままにしてしまったのが、民衆の側に立った研究者と評判の高い細川氏らであったというのです。浅生さんが歴史研究者としてご自身に関わる切実さを持って執筆されたことが伝わります。
 さて、斎藤さんが米騒動には「社会において既得権力を握っている層は、男性も女性も参加しなかったということが言えよう」とお書きのように、米騒動は誰が参加して始まったのか、なぜ女性の主導となったのか―これを明らかにすることは本当に大切です。一つ一つ見ていかねばなりません。前回の私の書きように幾つか難点がありましたので、補っておきます。
 「《おやっさん》たちは気ぐらいがあったので出なかった」という証言について。おやっさんに括弧をつけたのは証言を聞き出した新聞記者の田村昌夫氏その人です。なぜ括弧をつけられたのか、私の忖度を記しておきます。この網元の息子さんは「これは女たちだけにまかせる問題ではなく、町中全体が一丸となってあたらねばならぬと考え」と言っています。自分の父親のような顔役が談判すれば、米屋や米投機に走った商人たちも町中全体の問題であると認識して手控えてくれるのではないか、青年はそう考えたということでしょう。だから、おやっさん《たち》と複数形でしゃべったのだと思われます。でも、おやっさんたちは気ぐらいがあって出てくれなかったと、青年は言います。気ぐらいというのは浅生さんの言う「食べ物のようなささやかなことで男は騒いでならなかった」ということではないように思われます。私の考えでは「米の値が一・五倍になったくらいで」という意味だと思います。二倍にも三倍にもなったなら網元といえども物申さねば済まないだろうが、これくらいの値上がりで騒ぐのは、たくさんの漁師を雇っている網元として甲斐性がないように見られて、それはイヤだということではないでしょうか。食べ物のようなささやかなこと、というのは言い過ぎではないでしょうか。食べ物のことは男女を問わず重要な問題です。
 もう一つ、「男の出る幕ではない」という証言について。本の著者・田村昌夫氏は終わりの方で『富山県警察史』の一文を次のように引用しています。自分の意見をコメントしていませんから、ほぼ同意しているのでしょう。

「越中の農民運動は明治三年をもって終わり、明治八年以降はほとんどが米価高による貧民騒動で、これら明治年間に発生した数は、のべ四十四回、そのうち婦女のみによるもの二十二回、男によるもの十三回、男女合同のもの五回、不祥四回であった。
 このうち騒動の中心になった東岩瀬から泊町にいたる一連の海岸沿いの町村では、大正七年の場合と同様、男だけによる騒動は皆無で、要求が難航すれば、ときに加勢に加わることもあったが、ほとんどは女のみで行なわれる慣例となっていた。女たちの運動はもっぱら哀願の形式をとり、中には土下座をし、あるいはひざまずいて取りすがり、これを執ように行なうもので、なぜ男たちが騒動に加わらないかという理由は、出かせぎ漁民が多いこともあったが、当時の土地の大部分の男たちにいわせるなら、それは《男がどうしてそんなまねができる、みっともない》ということのようであった…」

 土下座をしたり、ひざまずいて取りすがったりすることがみっともないというのは私にも分かります。が、それを女はできて、男はなぜできないのか。気ぐらいという語にやはりつながりそうです。先に、女仲仕の代表が男仲仕の代表に男も出てくれと頼みにきたが、おやじは男の出る幕ではないと断ったという証言を紹介しました。大事なことは、付け加えて「乱暴せんようにな」と親父がいったという部分です。女たちに警察沙汰にならないよう注意していると思われます。女たちが哀願行為に終始すれば、警察は引っ張りようがないことを見越しています。米屋に実力行使してはいけない、言葉はいくら乱暴であっても―《おばば》たちも警察を意識しているのは間違いありません。米を移出船に積み出そうとする男仲仕の行く手を遮ったりしては実力行使になるが、その足に取りすがって止めるのは実力行使にならないギリギリの線であることを彼女たちは知っていたと思われます。すごく考え抜かれていたと私は思います。男の出る幕ではないという性別規範は、このような浜のおばばたちの作戦によって作り出されてきたのではないでしょうか。明治以来、何十回も騒動は続けられてきました。取りすがるという行動は、歴史的に効果を認められてきたものだということでしょう。女たちが取りすがり哀願の大声を出す後ろに黒山のように詰めてやることが男の役割であった、そう言えるのかも知れません。女が前に出ている騒動だけれど、男が後ろを守っていた―そういう面があると思います。性別規範はあったけれど、役割分担された騒動であった、そういうことなのかも知れません。井本三夫氏が米騒動の記憶という本を執筆なさっているといううわさを聞きました。井本氏の本に注目したいと思います。女の主導性について、井本氏はドンナ説明をされるのか。

discourdiscour 2008/03/19 23:46 海人さん、ありがとうございました。
それぞれの説がどのような時代・社会背景から生まれてきたものか、を検討する必要性があるというご指摘、重要だと思っています。
百姓一揆の研究は、民衆運動の展開と不可分な形で展開してきました。自由民権運動盛んな時代や占領期、60年代末から70年代と社会運動の盛んな時に活発化することを繰り返しています。そこで言われているのは、自由民権期には、義民と竹槍蓆旗という2つの百姓一揆イメージが生まれ、行政の展開とともに地方史の刊行が盛んになりそこでは義民と竹槍蓆旗の拡大・変質がおきた。それは民権家がもっていた悪政転覆のための竹槍蓆旗の正当性はなくなっていたため、悪い形態である暴動・暴徒として描かれることになっていったというものです。

米騒動研究にも同じことが言えると思われます。そこで現在、米騒動の先行研究が、どのような時代にどのような視点から行われたものかをみているところです。米騒動研究には、民衆運動を進めようという側からの研究(片山潜、細川嘉六、井上清ら多くの研究)、それを鎮圧しようとする政府・警察側の研究(特高資料、吉河光貞など)の双方の研究があります。それらの研究の中身や方向は、そうした研究の前提や研究者の立場とも切り離すことはできません。

浅生さんの研究が細川嘉六の研究において女性の果たした貢献を過小評価しており、「組織的・主体的な」行動であったことを見落としているという批判であったことは海人さんご指摘の通り、重要なポイントだと思います。


>明治以来、何十回も騒動は続けられてきました。取りすがるという行動は、歴史的に効果を認められてきたものだということでしょう。女たちが取りすがり哀願の大声を出す後ろに黒山のように詰めてやることが男の役割であった、そう言えるのかも知れません。

一揆の場合、農民が一致団結し徒党を組み、「強制的に救済を求め、哀訴嘆願する」”強訴”をまず行い、それが受け入れられない場合に、「竹槍蓆旗の大騒動」としての”暴動”が起こるという行動様式をとっていたようです。もしかしたら、富山湾沿岸地方での米騒動も明治期からの一揆の形式としてこの「救済を求め、哀願する」という第一段階をとっていたのかもしれません。富山では救済が叶えられたので”暴動”へと進む必要がなかったということかもしれません。そのように考えると、女仲仕たちが富山地方では明治期から慣例化してきた女たちによる”哀願”という形式で米騒動を闘ったのかもしれないという気もします。

《おやっさん》の気ぐらいについてのコメント、興味深いです。そう軽々しく動かないというのは、米商人や有力者たちともよく知っている仲だからそうだろうなという気はします。また、女たちの哀願が女だからという理由のほかに、初期の哀願運動を富山では女たちが担ってきた歴史があるのかもしれないという気がしています。これは明治17年(でしたか?)、30年の米騒動の資料などをみてから書くようにします。そして男たちが黒山の人だかりになるという方式についても同じです。富山お家芸の一揆形式とはどういうものだったのか、という点に興味が惹かれております。

井本さんの本『北前の記憶』は、タイトルは米騒動と無関係なので米騒動本として手に取られる方が少ないと思うのですが、米騒動についての聞き取りで秀逸なものが入っています。必読書と思います。井本本でも、女が主導して、男が引っ込んでいるところの解釈についてもう一度みてみたいと思います。

まとまりませんが、今日はこのへんで。

discourdiscour 2008/03/21 17:41 富山での米騒動、特に1918年以前に東部地方で起きた年は、明治23年、30年(1890,1897年)でした。

浅生浅生 2008/03/30 11:49 はじめまして、このブログで話題になっている浅生です。一ヶ月ほど前に斉藤さんから書き込み依頼を受けていたのですが、仕事が忙しく遅れました。
 私は、富山県史や富山県女性史の編纂、執筆にかかわってきて、米騒動の女性たちが、過大評価されるかもしくは過小評価されるかしかないことに疑問をもっていました。そして「女たちの哀願」というイメージがつくられていった要因の一つに、米騒動そのものより、その後の評価に問題があったのではないかと思い至り、調べていく内に、細川論文にたどりついたのです。もちろん、細川嘉六は当時を代表する進歩的知識人であり、自他ともに認める民衆の味方でした。私は、それを否定する気は全くありません。むしろ、すごい人であったろうと思っています。ただし、本人も左派系研究者も自分たちの意識の中にあるジェンダー意識には、気付いていなかったのではないかと思っています。
 近年「歴史学という物語」という認識も広まり、現実の歴史も人によってつくられるが、その評価の産物である歴史書も人によってつくられることに注意が払われるようになってきました。歴史学というのは、極めて政治的なものであることは間違いないでしょう。
 10年前、米騒動80年にあたり、北日本新聞に何か書いてほしいと言われて、当時の問題意識で書いたものが、「米騒動研究会」の目に留まり、昨年10月の講演となったのです。
 実証研究もおぼつかないのに、という気持ちで今も恥ずかしい限りです。今後、いろいろな側面から米騒動研究が進むことを期待しています。

浅生浅生 2008/03/30 11:54 訂正:最後から4行目「米騒動研究会」ではなく
   フォーラム米騒動の皆さん
   でした。申しわけありません。訂正いたします。

discourdiscour 2008/03/30 13:30 浅生さん、書き込みくださりありがとうございました。
>米騒動の女性たちが、過大評価されるかもしくは過小評価されるかしかないことに疑問

>「女たちの哀願」というイメージがつくられていった要因の一つに、米騒動そのものより、その後の評価に問題があった

いずれも、確かにそうですね。

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