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2018-05-30

銀河帝国のドレスコード 『銀河英雄伝説 Die Neue These』

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 戦前の宮中のドレスコードは、同じ宮中であっても表御座所と御内儀を往来するたびに天皇に着替えを要請する。明治期の場合、表御座所では軍服を着用し御内儀ではフロックコートになる。大正と昭和戦前期では、表御座所では軍服だが御内儀ではスーツになる。19世紀末から20世紀初頭にかけてスーツが仕事着になった世間一般の経緯がある。

 旧作とノイエ版を比較すれば、仕事着のドレスコードを最も変え来たのは帝国の文官だろう。同盟もフェザーンも旧作と違わないスーツである。ところが宮廷服だった帝国の文官も今回はスーツを着用している。ただ、三つ揃えのダークスーツとウィングカラーのシャツで差別化を行っている。リヒテンラーデ公は執務だけではなく宮中に参内するときもこの手のスーツを着用している。つまりドレスコードが緩い。

 明治期の文官はどんな格好で参内していたか。米窪の『明治天皇の一日』には、伊藤博文が参内するとき剣を吊っていたとあるから、大礼服の印象を受ける。しかし映画や絵画の御前会議ではフロックコートを用いている。昭和戦前期は写真が残っていてわかりやすい。現代の認証式と同じノリで、参内するときはスーツからモーニングコートに着替える。宮廷の内外で服装を変えないノイエの宮廷はこれらよりもドレスコードが緩いのである。

 未来の話である。歴史的なドレスコードと整合性がとれなくてもよいはずだ。それでもなお、スーツではなくフロックコートやモーニングを仕事着にすれば、帝国と同盟の文明差はよりはっきりしたと思う。あるいは宮中だけでも、たとえばモーニングにした方が、ドレスコードの存在を意識させて世界観に奥行きが出たと思う。われわれには現実の精緻な模倣に愉快を覚える特性があるのだ。

2018-05-23

第17話 「making the dream」『アイドリッシュセブン』

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 新人賞を獲得したアイドルたちが舞台で祝福を受けている。舞台袖からその模様を観察していたマネージャーの紡が感極まる。これが紡の最後の登場カットである。歓声にかき消されるように彼女の嗚咽は聴こえない。歓声の渦に圧され消え入りそうな、置き去りにされたかのようなか細さだ。紡がアイドルたちを観察する体裁で端を発したこのシリーズは、ここに至り彼女から当事者たることをはく奪している。

 分水嶺はちょうど中盤にあった。8話のナギとの絡みと9話の王様ゲームの件は、紡を明らかに性愛の対象として扱っていた。ところが、アイドルたちの自己実現に話が傾斜すると、男女の優越をめぐるいつものトレードオフらしきものが現れる。ゲームが性愛から自己実現に移行すると、紡は物語の視界から外れてしまう。だが、聴こえない嗚咽は聴こえないからこそ何事かを以てわれわれを惹きつけてしまう。他人に夢を託す属性としての母性の哀切が抽出されているのだ。

2018-05-10

チャールズ・ストロス 『アッチェレランド』

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アッチェレランド (海外SFノヴェルズ)

 複数の自分のコピーに人生を送らせ淘汰を試みる事業が作中に出てくる。人生の正しい選択を見出す手立てなのだが、そこにおいて各コピーの人権問題が提議されることはない。ゆえに、自分をコピーして分岐させる決断はカジュアルに行われる。劇中人物はバックアップを残して冒険に出る。ところが、このバックアップは記憶の固定された復元ポイントではない。バックアップにも自律した人生を送らせることで、自分を能動的に分岐させてしまうのだ。しかもこれがトラブルを招く。冒険から帰るとバックアップが負債を残して消え失せている。ヒロインはこの負債を負ってしまう。

 これは近代法とは異質の世界観だろう。バックアップとはいえ分岐以降の記憶は共有されていない。記憶の継続と責任能力を関連付ける立場からすれば、もはや当人にとってバックアップは他人であり責任を負う必要はないはずだ。しかし血縁の近しさによって責任が発生する。未来が氏族制度に先祖返りしている。そう考えるのなら、コピーに人権問題が生じないのも何となくわかる。

 技術の進展が市場ベースの経済を変貌させて氏族制度と融和するような形態となった。これで理屈は通るのだが、しかしもどかしい。血縁部族が復古する様が叙述されながらも、叙述しているのが血縁部族であって市場の変貌がそれをもたらしたという意識が、語り手の中ではぼんやりとしていて、明瞭になっていないように見える。近代とは異質の社会の法体系が陳述されたというよりは、話の成り行きで法体系が改変されて継当てされるような散漫な印象の方が強い。


 淘汰の踏み台にされるコピーの心理に拘りがない。これも意識的にアンチ・イーガンをやっているのではなくて、語り手のパーソナリティの反映だと思わせてしまう。IDが分裂するイーガンのおなじみの恐怖が、最後にようやくとってつけたように言及があるだけで、とにかく自意識に執着がない。執着がないのだから法人に自意識を与える発想がでてくる。

 自意識のなさ自体はポストヒューマンの造形観としてありふれたものだろう。しかし自意識を克服する苦闘などをあまりにも問題にしないのだから、技術が自意識の在り方を変えるロマネスクは薄い。もともと自意識への拘りがないゆえに技術が自意識の軛を超えて跳躍するのである。

2018-04-24

『神様の思し召し』

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 明瞭な選択肢が劇中に現れた時点で負けになってしまう可能性がある。結末が予想を超えない恐れが出てきてしまう。たとえば『地球を守れ』('03)だ。その主人公は宇宙人が襲来すると警鐘を鳴らし続け周囲から狂人扱いされる。結末はふたつしかないだろう。男は狂人か、あるいは本当に宇宙人が来襲するのか。こうなると、狂人だったとしても宇宙人が実在したとしても結末に意外性がなくなってしまう。しかし、選択肢を明快にすることで受け手を誤誘導する手管もある。受け手の注意をそらすためにあえて、明快な選択肢を提示する方法である。『鑑定士と顔のない依頼人』では、見え見えながらもジェフリー・ラッシュの直面した事態が詐欺か否か、それが焦点であるように語られる。ところが、この帰結が明らかになってからが実際の本番であって、ジェフリーの失恋の話が本当に陳述されるべきものだったのである。


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 『神様の思し召し』で提示される二者択一には階梯がある。まず、外科医で啓蒙主義者である主人公が前科者のカリスマ神父に屈するかどうかが問題とされ、屈するという結論になるのだが、屈した感じを緩和するために工夫がある。啓蒙主義が屈したとしても、ボーイズラヴめいた紐帯が屈辱を和らげてくれる。最終局面ではカリスマ神父を交通事故で重体にすることで懲罰感情が充足されやはり屈辱が軽減されるとともに、二者択一がより濃縮されてくる。奇蹟が起こるか否か。つまり神の存否が問われ出す。運ばれてきたカリスマ神父の予後は悪く、担当外科医は奇蹟が必要だと主人公に伝える。

 この二者択一も困難だ。奇跡が起こったら一気に俗謡調に堕ちる。しかし神がいなかったとしたら、そもそも事件を物語にする前提が失われる。ではどうするのか。奇蹟が起こったのか起こらなかったのか、それが判明する寸前で話を終わらせるのである。ただし、奇蹟は起こらなかったという自然の不穏な予兆とそれを認めた主人公の微笑が、奇蹟の有無を明瞭にしない一方で神の存否には結論を下すようである。その予兆をもたらしたものに注意を促すことで。


 二者択一の問題とは趣がやや異なるが、キャラクターの生死が不穏な予兆を醸しながらも宙づりになるモチーフは『四月は君の嘘』でもやっている。

 終盤でヒロインは予後不良の手術に臨む。主人公男は手術の間、不穏な予兆に散々見舞われ、これは駄目だったのだろうと思わせる。しかしその後、時間は飛んで、ヒロインの顛末がぼかされる。彼女はどうなったのか。ラストカット。主人公に渡した手紙の中で女は言う。

 「わたしの人生は君のおかげでカラフルだったよ」

 ここで顛末が確定するとともに、彼女の生死は実のところ問題とされていないことが判然となる。それはもうすでに彼女にはわかっていたことであって、むしろ生存の可否の問いかけはその覚悟を克明とするための肥しだったのである。

2018-04-13

業田良家 「ペットロボ」『機械仕掛けの愛』

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 観測者が匿名でなければ尽力は実効的にならない*1。見られた瞬間に、尽力の実施者にも観測者にも下心が生じかねない。観測者は他人の善行を観測しておきながら、自らの観測に気がついてはならないのである。観測しているのはあくまで無意識であり、観測者にもたらされるのは正体の知れぬ感傷である(『一週間フレンズ。』)。ここにおいて尽力者の尽力は、観測者へ正体の知れぬ感化を与えることで、観測者の内に間接的に表れる。尽力をやったという尽力者の自負もまた軽減されるのだ。

 『サウルの息子』は観測者のかかる無意識をより徹底している。尽力者の尽力の来歴に全くの無知である観測者が尽力者をただ一瞥するだけなのだが、アイロニーの様式によって尽力者は尽力を見られたという感覚を手に入れてしまう。かつ、アイロニーの確定のなさが尽力者の下心を緩和するのである。

 

機械仕掛けの愛 1 (ビッグ コミックス)

 尽力を匿名化は観測者の匿名性を担保するのではなく、逆に尽力者を匿名にすることでも陳述できる。業田良家の「ペットロボ」では、尽力者が自らの尽力を認知できない。尽力者の方が記憶を失っているからだ。ここにおいては、観測者の利己心が観測の匿名性によって減じられる関係が逆転している。観測者が観測していたと強く意識するほど、観測者の私心のなさが証明される。尽力の記憶のない尽力者に観測者の想いがとどくはずがないからだ。ただ、尽力者にあっては尽力の痕跡が、この場合には記憶ではなく肉体に残っているのである。

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*1匿名の観察者を参照。