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2017-02-21

恋と技術の無差別付託 『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』

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バーナード・ローズの格調のない演出に戸惑ってしまった。ジャレッド・ハリスの懇々たる説得が始まると劇伴が盛り上がってきてキャラクターの感情を説明する。ロンドンに行けば霧、紅茶と紋きり感甚だしき記号がヒューモアを醸す。乳繰り合いが始まるとやっぱり劇伴が盛り上がる。


冒頭の場面を落としてしまう構成もあり得たはずだ。ジャレッドがデイヴィッド・ギャレットを口説き落とすのだが、落ち目にあるそのギャレットと次の場面で博打に狂う彼が同じ人間に見えてこない。人格が一定しないことは劇中でも自己言及されていて、シャーロットが「あなたは本当は誰」とやる。ギャレット自身、技術の非属人性を示唆する。人格が技術を獲得するのではなく技術が人格へ憑依する。そのさい、技術は人格を選ばない。どんな人格でも構わない。キャラクターの造形のなさも記号的誇張もここで話と接点をもってくる。人格ではなく形式があるばかりである。音楽が造形をもたらす。


造形の信用できない可変性には功罪がある。ロンドン公演では信用できないことが緊張と浄化をもたらす。


幕が上がってもギャレットは出てこない。楽屋に行けばもぬけの殻である。ギャレットの信用できなさを散々見せつけられているわれわれは、クリスチャン・マッケイとともにこの行状に絶望と憎悪を抱いてしまう。しかしそれが浄化の仕込みなのだ。この人はサイコパスか否か。かかる不明瞭さがスリラーになる様式が使われている。


演奏が始まるとシャーロットがメス顔になるのもいい。人格がないからわかりやすい。わかりやすさがそこではヒューモアとなる。だが残念なことにここがピークアウトになっていて、一層のこと、ロンドン公演の前後だけに限定した記録映画風の体裁でよかったのではないかと思わせてしまうのである。これ以降、造形のなさが今度は仇となってしまう。ギャレットがシャーロットに恋をしてそれが悲恋となる。ところが、これがわからない。シャーロットの技量に彼は惚れたことになっている。しかし劇中では彼女の技量が同時に客観化されていて、なんでこの技量に惚れたのか受け手に不審を抱かせるようにもなっている。しかも博打と女狂いの造形からこの初心さを演繹できない。造形性のなさが悲恋のもっともらしさを阻害してしまう。ギャレットの乱行が亢進しても、なぜそこまで恐慌を来すのかこちらにはわからない。


こうなると、彼の造形のなさはジャレッド・ハリスの造形の強固さを引き立てる方向へ働く。どんな乱行に際してもジャレッドは困らないから、今度はどう切り抜けるか、最後まで困惑顔をさらさないでいられるか、という人間性の持続を試す展開に興味が惹かれてしまう。


われわれの期待通り、ジャレッドは最後まで取り乱さない。しかしこれも困ったことに、首になっても顔色を変えず退場というオチであるから、確かに彼の人間性は一貫したのだけど結局なんだったのかという腑に落ちない余韻が残ったのである。

2017-02-14

全性愛の陽のもとに 『望郷』

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『将軍たちの夜』を連想したのだった。『将軍たちの夜』でピーター・オトゥールの猟奇殺人を追うのはオマー・シャリフである。『望郷』でジャン・ギャバンを追っているスリマン(リュカ・グリドゥ)は現地人の扮装をしている。どちらも捜査官が中東系かそれに準ずる人物である。


『将軍たちの夜』はオトゥール&シャリフというキャスティングを『アラビアのロレンス』から踏襲することで、ロレンスの配役が受け手の思考におのずと課す枠を利用してわれわれを誘導しようと試みる。劇中でオトゥールのゲイ疑惑が言及される。ロレンスの連想からわれわれはその疑惑を容易く信じてしまう。この確信が従卒を連れてパリ観光するオトゥールを劇化してしまうのだ。オトゥールの異様な芝居を見て、従卒の貞操が危機にさらされているのだとわれわれは誤解して、勝手に緊張を強いられるのである。『望郷』のジャン・ギャバンも男色の気配が濃厚である。スリマンの顎をやたらとなで回し、お気に入りの若い衆の失踪に動揺を来す。


『将軍たちの夜』は戦況にかかわらず捜査を敢行するシャリフの、職業人としての生き様の話である。この手の魅力は『望郷』のスリマンにもよく出ている。容貌が菅義偉のこの人物は童貞の闇に落ちないのがいい。


『望郷』のジャン・ギャバンは性欲が強い。彼の全性愛志向は力強い性欲の現れにも見える。劇中のギャバンはミレーユ・バランに惹かれ口説きにかかる。たちまちバストショットでふたりは交互に見つめ合い、ソフトフォーカスでキラキラになる。これが作中から文法的に浮いてしまい笑ってしまうのである。撮影時期が30年代後半だから古いのである。これ以外の場面は時代相応に撮られているので、ソフトフォーカスキラキラバストが浮いてしまうのだ。したがって次の引きのショットになると、ソフトフォーカスキラキラのふたりが文法的途絶により一気に客観化されてしまう。ギャバンとミレーユはキラキラのまま見つめ合っているが、その手前では二人に背を向けたスリマンがアンニュイな表情を浮かべていて、このキラキラしたふたりを暗に揶揄している。


しかしながら、この童貞的孤立状況にあってスリマンが前向きなのがいい。彼はふたりの熱愛を悟るや、これは利用できるとほくそ笑む。そこには仕事の情熱だけあって、松本清張のように現実充実者を嵌めてやろうという闇は感じられない。


対して性欲に突き動かされるギャバンの焦燥と無軌道ぶりはどうだろうか。彼はミレーユを追って街に出ようとする。しかし街に出ては逮捕されるという設定である。情婦のイネスが止めにかかる。ミレーユがうちに来ていると虚言する。急ぎ帰宅したギャバンはミレーユの不在を認めると、我に返り、自分が莫迦だったお前しかいないとイネスに吐露。夫婦善哉となって、いい話じゃねえかと思わせつつ、ギャバンが家を出るとミレーユがいて再び狂う。先ほどまでの夫婦善哉は何だったのか。


これと性欲に動じないスリマンの仕事人振りとの対比を見せられると、禁欲・出家の勧めだとか、反ネポティズムとか、そういう世界観を思わされるのだが、童貞の闇が介在しないことで説話臭さは緩和されている。スリマンに対するギャバンの男色傾向、つまり自分がギャバンに感化を与え得ているという自覚が、彼に余裕をもたらしているのだろう。

2017-02-11

認知障害ノスタルジー 『KANO 1931海の向こうの甲子園』

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怪作である。何もないのである。廃部や廃校の危機ではない。夢破れたオッサンが才能ある若者を見出すのでもない。凡人で終わりたくない若者の焦燥でもない。貧困からの脱出ではない。荒廃した地域に希望を与えるでもない。虐げられた民族の恨み節でもない。若者たちは現状に満足している。地域は五族協和の楽土のようなものになっている。冒頭で描かれるのはいかに満足してるかであり、不満ではないのである。状況を物語として構成する意味があるとは思えない。


物語を物語として認知するには一定の手続きや形式が必要である。課題を与えそれを解決させるサイクルにキャラクターを放り込まねばならない。このサイクルがなければわれわれは状況を理解できなくなってしまう。


甲子園や野球が劇中で特権化する理由がまずわからない。永瀬正敏の顕示欲に部員たちが巻き込まれたとしか見えない。


物語として認知できないから、人物の行動が大仰に見える。


会話は絶叫であり、永瀬は腕組みしながらズイズイとマウンドにやってくる。ひどく歩きにくそうだ。宴会のあと、泥酔して嵐の湿原をさまよう永瀬に悲壮な劇伴が被る。しかし大仰な劇伴や演技に相応しい状況ではないのである。単に宴席で軽い嫌味を言われただけなのである。


この不条理の最たるものが大沢たかお登場場面だろう。彼は野球とは何の絡みもない。唐突に前後の文脈をぶった切ってトラックや船にまたがって登場する。レアキャラを見出したかのように部員たちがそこに歓喜して駆け寄る。あまりにも本筋と関係がなさすぎるから、たかお自身事態がよくわからず困惑しているように見えてしまう。


認知ができない以上、展開される状況をどう取っていいかわからない。したがって、キャラクターの行動を劇中で観測するモブの反応を通して、それを知るしかない。状況定義のために物語はモブの反応を詳細にかつこれもまた大仰に言及する。モブの挙動を通して間接的にしか状況を評価できないから話が進まない。多くの映画では、15分も寝落ちすれば筋が解らなくなるだろう。しかし本作では、寝落ちしてもまったく理解が途絶することがない稀有な経験をした。何かを編成して積み重ねる物語の活動がそもそも行われておらず、時間の観念に乏しいのである。

2017-02-09

幻想のナルシシズム 『捨てがたき人々』

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南洋幻想である。弁当屋の店員から商店街のモブに至るまで、容姿に水商売的不自然さがある。ただ理念優先の話らしく、南洋の割には美術が乾いていて生活感がない。いくら時間が経っても南朋の住まいが汚部屋にならず、歳月の経過がわからない。


中盤の田口トモロヲの登場は浄化である。作り物が作り物じゃないように振る舞っている中にあって彼の演技は記号であることを隠さない。ようやく違和感のないキャラクターが出てきた安心がある。しかし、すぐに俗化してしまって発展がない。


南朋にしても、美保純にまで手を出し始めたちどころに彼女を落としまう展開になると、これはオッサンの皮を被っていて原型はとどめないものの、中身は確かに南朋だから絶倫でモテるのか、というよろこびにあふれてくる。役者本来の属性が活性化してキャラクターに現実感を付与するのである。が、これも発展性がない。


三輪ひとみも魔性化して始まったなと思わせておきながら、やはりそう思わせたのがピークアウトで、すぐに矮小化してしまう。


キャラクターの発展を閉ざすのは、キャラクターが実際に送っている生活と彼の苦悩の分離である。南朋の生活からどのような理路をたどれば彼の吐露につながるのかまるで見えてこない。南朋は三輪に排他的な愛を要求する。しかしこの南洋幻想の、性に開放的な社会で南朋のような倫理観が発達するとは思えない。彼はまた、自分の負の属性が自分の息子に踏襲されてしまう因果について大仰な嘆きを訴える。しかしわたしには単なる子どもの中間反抗期に映る。属性の踏襲が行われているようには見えない。


孕ませた三輪に南朋は中絶を迫る。自分は負の属性が強いから、それを踏襲する子は不憫であると南朋は考えている。これは苦悩ではない。自分の属性の特別視であり、南朋のナルシシズムの発現である。


わたしはハゲタカのラストを想起した。踵を返して群馬の田舎道を颯爽と後にするナルシシズム満点の南朋を思い出し顔がほころんだのである。

2017-02-08

みじめさを抱きしめて 『フレンチアルプスで起きたこと』

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ここで描画される雄の危機、つまり男としての自信の喪失には解釈の余地がある。標準的な教科書の見解に基づけば、雄の逃走は勇敢さの強度とは関連がない。単に勇敢さを振るう状況ではなかったのである。


雌には雄にない確証がある。夫は不明であっても、子どもが自分の血を引くことを彼女は確証することができる。雄にはこれが解らない。少なくとも現代に至る雄の習性が形成された石器時代においては。


生殖にかかるコストも雌と雄とでは差がある。妊娠すると10か月間、雌は生殖活動ができなくなる。雄にはそのコストがない。追加的な生殖活動を試みるコストが低いため、子どもの損失について雌よりも彼は冷静になり得る。ではなぜ、彼はあそこで雄の自信を喪失したと感じたのか。勇敢さが発現しなかったことを悔やむのか。


勇敢さが発現しないと何が問題となるのか。非力な雄は雌に選ばれず、生殖行為の機会を失ってしまう。つまりここで夫は妻との追加的な生殖活動を望んでいるが、勇敢さが発現しなかったためその機会を失おうとしている。しかし一方で、彼には子どもが2人いて、すでにその女との間では生殖活動は達成されている。彼の勇敢さは過去の機会に発現していて、それゆえに彼は雌に選ばれたのである。勇敢さがないわけではない。やはり発現しなかっただけなのだ。


これが一度でも生殖活動を達成できないでいる雄であったならば、課題は根源的となり、雄としての自信が問われるのは自然である。その雄の場合、勇敢さが先天的に欠ける可能性がある。だが、作中の男の場合、そうではない。彼が追加的な生殖を妻に望むのは、新たな相手を探索するよりコストが安いからである。だが加齢によって、遠くない未来に妻は生殖不能になるだろう。夫は無意識にそれを知っているから、勇気はおのずと発現しなかった。怯懦は雄の資質の問題ではなく環境依存であり、男には責任がない。この時点で課題のボールはむしろ女の方にある。自身の加齢のため夫を子育てに拘束できない。あるいは、この男を選んだ自分の選択は正しかったのか。


ここで女性の課題を焦点化するのはひとつの手ではあるが、どちらの課題に言及するにせよ、それは普遍的な興味になりえないだろう。男性の受け手にはこの雌の課題を自分のものとすることはできない。逆もまた然りである。課題は性差を超える必要がある。


あの野小便がいい。尿意を催した女はゲレンデでおもむろにパンツを降ろす。放尿で弛緩する顔。そして彼女は遠くに夫と子どもらの姿を認めて落涙する。


社会小説のような、主題優先の人造的な話である。理念的にキャラクターが構成されているから、教科書に参照してキャラの心理の可否を論じることができる。しかしまた、作為はみじめさを文脈から剥離することもできる。みじめさを抽出して、それ単体で愉しめる挙動にすることもできる。妻の野小便は性差を超えた普遍的なみじめさに至っている。男女問わず小便をせねばならないのである。


主題に限らずホテルの美術もキューブリック調というべきか、いかにも人為的な有様である。しかし美術の作為も、われわれの想定を超えた意味を持ち始める。作中では、主題優先ゆえに雄の勇気を試すイベントが頻発せずにはいられない。ところが、あまりに頻発するために、事は雄個人の属性の問題というよりも、またしても社会化してしまう。ホテルの安全管理の杜撰さが課題だとしか思えなくなってしまうのである。われわれはこの異常な建物にひとつの人格を見出すのだ。その意味でやはり『シャイニング』というか、キューブリック節である。