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2016-08-23

僕らはみんな死んでいる 『ガールズ&パンツァー 劇場版』

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ウォシャウスキーの『スピード・レーサー』を連想したのである。CGI車輛と本編が絡む構成が類似している。もっとも、多くの商業アニメと同様に『ガルパン』はCGIとセル芝居のカットを基本的に分離する形でシーンを構成しているので、『スピード・レーサー』の方がCGIと役者の連携に配慮しているように見える。他方で『ガルパン』のCGIには重さがある。競技車と装軌車輛の違いもあって、両者を比較すると『スピード・レーサー』のCGIは軽すぎる。


『ガルパン』の戦車の挙動が『スピード・レーサー』を想起させてしまう点で明らかなように、作品に登場する戦車とはあくまで戦車と称されるものであって、実物の戦車とは関連のない別物と考えるべきだろう。劇中のそれらの機動はわれわれが教則を通じて知っているような挙動からは離れている。人が死なないという前提によって危険に対する鈍磨があり、中学生のサバゲーに類するような乱戦が多くのアクションを構成している。たとえば援護という概念がこの作品には薄い。冒頭で突撃する知波単が無謀だとしても、相手の頭を抑えるために周囲は援護をすべきだろう。本作のサバゲー的カオスは挙動を様式で固める道という思考と矛盾している。


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『スピード・レーサー』を連想させるところは他にもある。『スピード・レーサー』はレース事故で死んだ兄の背中を弟が追う話であり、全編に兄の死という不吉な影が漂っている。『ガルパン』では、終幕の乱戦でみほがまほの背中を偶然追う形になるカットが出てくるが、全く意味合いが違うとはいえ、兄の幻影をレース中に追ってしまうスピードが重なってしまうのである。


『スピード・レーサー』は競技者に厳重な保護措置があることを劇中で強調する。それがかえって事故死した兄を浮き彫りにしてしまう。『ガルパン』も同様である。キャラが死から隔てられると、それだけ不穏さが増してしまう。戦車道は殺し合いそのものを模倣する。『スピード・レーサー』よりもまして保護措置は厳格になされるべきだろう。しかし『スピード・レーサー』が保護措置の作動する有様を劇中で幾度か展開して見せるのに対して、『ガルパン』は保護措置の存在を設定しておきながら、実際の画面では措置の存在を隠匿している。搭乗者に危害がないという結果の明示を以て措置が働いたことを示すのみで、措置の機序については言及がないように見える。


搭乗員が規定の装甲材に覆われた砲塔内にとどまり、レギュレーションのかかった砲弾を撃つ合うだけならば、わたしにはそれだけでもおそろしいのだが、保護の機序を殊更に描く必要はないのかもしれない。だが、キューポラから車長が乗り出した状態ですれ違わんばかりに対向車に近接し、中学生のサバゲーのような機動で撃ち合うとなると、露曝者の安否を気遣わざるを得ないが、かかる搭乗員に対する安全措置を示唆する描写が劇中には見当たらない。むしろそれは興ざめとして演出上あえて言及しないように思われる。


戦車道の安全性についてどうしても議論が発生してしまうのは、劇中のサバゲー的挙動と搭乗員が被りかねない危険度が矛盾しているように見えるからだろう。死なないからサバゲーのような大胆な挙動が可能となる。ところが、戦闘の真実味を担保するために搭乗員に対する安全措置は隠ぺいされる。結果、不穏当で不吉な死臭が競技を超えて日常までも侵食する。ボコと呼ばれる継ぎ接ぎのぬいぐるみ。廃園の遊園地。学園を乗せた巨艦。


下肢と頭部を露曝させた状態で戦車に搭乗する娘たちが痛々しい。砲弾を撃ち合うのならまだしも劇中の戦車は頻繁に横転して、安全措置への懸念は装甲材云々の話では収まらなくなる。車内にはカースタントを前提とすべき措置があるべきであり、搭乗者はベルトで固定されてしかるべきである。しかしかかる措置は皆無であり搭乗者はあの軽装のまま車内に錯綜する突起物の蹂躙をその身体に被るのであるが、横転の終わった車内に画面が振られると搭乗員に目立った外傷がない。彼女らは普通の人間ではないのだ。最初から死んでいて、それに気づいていないのである。あるいは、われわれが見ているのは仮想空間にコピーされた人格たちの遊戯だろうか。


ノンナの離別にうろたえるカチューシャの動揺がよくわからない。だかがサバゲーなのにあたかも本当に死人が出かねないような悲壮さが劇中から浮いている。これはカチューシャの精神遅滞を示すものと解釈できるが、それは別の意味で正しい。頭が弱いゆえに物語の不穏な有り様を感じ取ってしまうのである。


わたしはアンチョビがすきだ。彼女は下肢を露曝しないからである。わたしは継続高校が好きだ。フィンランドに思い入れがあるからではなくジャージだからだ。特にあそこの操縦手はスカートの下にジャージである。わたしは秋山優花里がすきだ。おそらくあの頭部のボリュームに安全性を見ているからだろう。彼女たちは死臭漂う劇中にあって生の拠り所となっている。

2016-08-13

批評する現場 『シン・ゴジラ』

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『シン・ゴジラ』は会議室映画ではない。むしろ管制室映画の成分が濃厚である。作中でも語られる通り、第1形態に対応する会議ではすでに結論が決まっていて、情報を集約し共有する場として活用されている。それはあくまで管制室であり、会議を娯楽物にする対立者というファクターに欠ける。そのため会議場面の構図やカメラワークは単調さを免れない。陣営が別れていれば、画面はそれぞれの陣営の面容を補足すべく多様な構図や運動を許されることになるが、対立軸のない本作の会議は商業セルアニメのように画面が静的である。


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『フェイル・セイフ』は会議室と管制室の成分を明瞭に分割している。大統領の執務室ではヘンリー・フォンダがソ連側の説得を試み続け会議の娯楽を担う。他方で管制室という娯楽は作戦司令室が分担し、会議室と管制室が並走する。


『シン・ゴジラ』における政策の対立は、多国籍軍や核の使用をめぐってようやく発生する。本当の会議が行われる場所は官邸ではなく、国連のファシリテーター・プロセスや安保理の非公式協議を行うコンサルテーション・ルームにあり、したがって代表部の参事官や書記官といった人々を登場させるべきだろう。安保理のコンサルテーション・ルームに画面を割り振ったら、それこそ冒頭の官邸とは様変わりした本当の会議室映画を目の当たりにできたはずであるが、外交の現場を本作は抽象化してしまう。そもそも尺が足りそうにない。


しかし尺の問題に目を向けると、切り詰めたように見えて、説明的で感傷的な台詞が多いことに気づかされる。


変転する事態に反応して、マンガのような挙動を引き起こして驚愕をアピールする人々に丁寧に画面を振ってしまうのは、それはそれで風刺になるとはいえ、感情をこれでもかと説明しないと伝わらない商業セルアニメの強迫観念を引きずっているように見える。


官僚が行政手続きの煩雑さを嘆き、同僚が民主主義が云々と返す。そんなものは見ていてわかるのであり、言葉で説明する必要があるとは思えない。危機管理の現場で忙殺する官僚がそんなことを言うのも違和感がある。会議をしないと進まない有様に「なにをやってるんだ」と嘆息されても、それは手前が何とかするべきことであって、他人ごとに見えてしまう。核の使用について「怪獣よりも人間が云々」と現場で批評をやるのもよくわからない。これに限らず、多くのキャラクターが直面した状況について批評をやりすぎで、エヴァ破の終盤、翼をくださいの赤城博士の饒舌のように、語り手の悪い癖が出ていると思う。


この映画で本当に仕事をしているのは官房長官の柄本明だけかもしれない。彼は批評をやらない。批評をやる暇がないのである。このことはキャスティングの無駄の多さを示唆している。

2016-08-10

おたく的想像力の自叙伝 『シン・ゴジラ』

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第1形態の出現から最初の上陸に至る場面の、会議室映画あるいは管制室映画としての精密さは、文明批評を可能にするほど卓越している。これらの場面では想定外という言葉が頻用されるが、自然災害のアナロジーとして事態が把握されている限りでは想定内にとどまるものであって、だからこそ画面の情報量は膨大になる。自然災害に比し得るのなら既存の対応手順を参照することができる。現実に勝る情報量はない。


上陸した第1形態の全容は衝撃というほかはない。緻密な本編とそれを揶揄するかのように着ぐるみ然とした間抜けな造形の対比は、かかるマンガ怪獣相手に脂汗をかく大人たちの挙動を風刺する。大杉漣のあんまりな性格造形は、橋本行革以降の強い官邸や総理像からすると違和感を覚えるのだが、戯画化されることで主題は明確になっている。


組織過程を描画する情報量は事態を風刺に止めない。カオスを組織化するというまた別の文明批評が提示される。手段ではなく目的と化してしまった会議が人々の正気をつなぎとめる密かな効能を発揮する一方で、その正気が事態の解決にはものの役にも立たず、正気が保たれたまま事態が進展し悪化してとりあえず沈静化してしまう不思議が展開される。


会議室映画の極限たる『フェイル・セイフ』がそうであるように、会議室映画の管制室性はリアルタイム進行によって担われる。本作の第1幕もリアルタイム進行だ。つまり、進行がリアルタイムではなくなったとき、物語は臨場性を失うことになる。本作ではゴジラが活動を停止して2週間の猶予が与えられる件がそれになる。物語はそもそもが八百長であり、リアルタイム進行はそれを隠ぺいする手段のひとつであった。それがいったん進行を止めてしまうと、反動として受け手は現実に引き戻されかねない。物語が八百長であることを意識させかねない。


『フェイル・セイフ』はリアルタイム進行を全うしながら、並走してキャラクターの人生の課題を発現させた。本作が参照したであろう会議室映画『日本のいちばん長い日』では、人生の課題は個人にではなく文化系と体育会系の相剋として、集団を以て表象された。『シン・ゴジラ』はこの方法論をさらに拡張している。リアルタイム進行が終息して今や八百長を隠しきれなくなった物語は、キャラクターの人生の課題を設定して、その解決を模索させることで八百長を隠ぺいする手法に転じる。物語の課題が生じるのは個人でもなく集団でもない。日本という文明そのものである。


この文明はかつて総力戦に敗北してしまった。自らの有効性を実証できなかった。日本という文明の課題とは次の戦争では負けないことである。『シン・ゴジラ』は日本という文明に試練を与え、その有効性をシミュレートし実証しようとする。しかし八百長を隠そうとして行われたことは、逆にその最たるものをやってしまったように見える。超えられない試練は八百長であるがゆえに与えられないのである。


第1幕の想定外は自然災害のアナロジーである限り想定内であり続けた。ところが、劇中で核兵器の使用が想定されると、日本という文明は本当に想定したこともない未知の領域へ足を踏み入れる。それにともない、組織の描画は第1幕のような緻密さを失い、描画のリソースを少人数のチームに集約せざるを得なくなる。物語が参照し準拠すべき情報が想定外ゆえにどこにもないからだ。しかし正確には、このような事態を実際に想定した文明がある。ライン川を防衛するために戦術核の使用を本気で考えていた人々がいる。冷戦下のNATOの作戦計画である。西独市民からすれば多摩川の防衛戦はママゴトに見えるだろう。自分たちが属するドイツという文明に比して、この文明はいかに恵まれた環境にあるかと。


『シン・ゴジラ』は、現場のオーバーワークで事態が回ることに日本という文明の特殊性と強みを見出そうとする。しかし、それはかかる文明が直面する環境の甘さの裏返しでしかないと思う。現場がどうかすれば回ってしまう程度の負荷しかやって来ないのである。


ヤシオリ作戦は冒頭の文明批評の再現である。しかも冒頭の会議描画が意図した批評であるのに対して、ヤシオリ作戦は意図せざる批評ゆえに効果は甚大である。あの横転したトカゲは、多摩川からバンカーバスターに至るインフレを引き起こした豪胆な生物と同一のものとはもはや思われない。事態が対応する文明に扱えるよう伸縮している。アヘ顔のトカゲにストローを突っ込み、チューチュー吸わせるまことにみみっちい絵が展開されるが、作戦を統制する本編の役者の演技はあくまでまじめで悲壮そのものである。冒頭のコミカルな着ぐるみ状のものに恐慌を来した大人たちの姿が繰り返されている。


意図せざる文明批評は本編と特撮の分断によってもたらされたものだ。本来これらをつなぐべき特殊建機小隊という現場とそこで挙動する人々に画面の割り当てがない。会議室映画の欠陥が出ているのである。会議室は現場ではなく、現場の描画を言葉で表現せざるを得ない。血液凝固剤の開発からメーカー製造に至る過程はすべて説明台詞で処理され、建機小隊が遠景化された結果、尽力したという実感が醸成できず、オチが弱くなってしまう。


唯一、日本という文明を視覚上で表現できたのはJR爆弾だろう。こんな素晴らしく感動的な絵はそうないと思うが、この文明を共有しない受け手にとっては、poor CGIでしかない*1。そもそもこの文明下にある受け手に限定しても、かかる文明肯定に普遍性があるとは思えない。


『シン・ゴジラ』は、『SHIROBAKO』がそうであるように勝ち組の映画である。勝ち組でなければ語り手という身分に到達しえず、勝ち組だから肯定するのは当たり前である。他方で、勝ち組ならざるほとんどの人間にとっては、現場への高負荷で回っている文明はとても肯定できるものにならないだろう。これはむしろ間違っているものであり、潰すべきものとされるはずだ。


日本沈没』は日本という文明を醸成した柔和な環境に自覚的だった。『シン・ゴジラ』はそれをもはや客観視できなくなっている。これはなぜか。本作はポリティカルスリラーのフォーマットに準拠しながらも政治を描かない。本作のアーキタイプたる『ゴジラ'84』は、蔵相の小沢栄太郎に総理小林桂樹の首を狙わせることで政治に言及した*2。あの技術屋ユートピア映画『妖星ゴラス』ですら政治がある。序盤で法相の小沢栄太郎が倒閣を狙うかたちで、この世界にも政治があることが描画された。これらの作品の語り手たちは政治への言及を客観性の担保と考えているのだ。『シン・ゴジラ』の政治へのナイーヴさと無邪気な文明肯定は同じ土壌にあるものだろう。それはおたくの想像力の限界であり敗北である。


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としまえんのスクリーン6は悪意ある構造をしている。入場した観客は必ずスクリーンの前を通らねばならず、着座した客の視点に彼らはことごとく晒されてしまい、客層が一目瞭然となる。


上映前、次々と入室する人々を前にして、わたしは唖然としていた。わたしのような汚らしいイカ臭いオッサンばかりなのだ。


20年前、新宿東映パラスの熱狂は今でも覚えている。『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』の上映を前にして、館内は初々しい童貞たちの熱気で一杯だった。わたしはここに未来があると信じていた。


未来はなかったのだ。あの童貞たちはそのまま凍結して、イカ臭いオッサンとなって、一様に生気のない顔容をたたえながら、としまえんのスクリーン6に転送されてきたのだった。


わたしは泣きそうになった。


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『シン・ゴジラ』と『BRAVE HEARTS 海猿』は姉妹作の関係にあるといってよい。直接の影響関係はないだろうが、両作とも震災を受けて語られた日本という文明の肯定論である。現時点での観測に基づけば、『シン・ゴジラ』の興行収入は海猿を上回ることはないだろう。客層も違う。しかしどちらも日本語話者の圏外に届くことはないドメスティックな物語である。どちらが好きかと問われれば、わたしはおたくだから『シン・ゴジラ』の方が楽しめた。しかし海猿にもこれはこれで感心するところが多々あった。


同じ主題をフォローしながら、海猿には『シン・ゴジラ』が無駄であるとそぎ落としたものがたくさんある。そこには憎むべき恋愛劇があり家庭劇がある。他方で海猿は会議室の映画ではない。あくまで現場の映画である。総じてみればこの両者は補完関係にある。


現場を抽象した為に、『シン・ゴジラ』では主に矢口の言葉を借りて主題が設定される。これは日本という文明の話であり、かつそれを肯定する話であると宣言される。物語の課題設定では、海猿の方がスマートだろう。まずヒロインに災難が起こり、『セブン』のブラピ夫妻のごとく、この文明はそこで子育てするのに値するものなのか、彼女に疑問が生じるかたちで課題が迂遠に設定される。その後、社会的な災厄が発生し、それに対応する日本という文明の機能をヒロインが目の当たりにして、彼女はその文明を肯定したくなる。


『シン・ゴジラ』が文明を試し肯定する話だと高らかに宣言するのに対して、海猿のそれは、最後のヒロインの文明肯定によって、ようやく受け手にも明確に把握される類のものだ。これは文明を肯定する話だったのだと最後に判然となるのである。物語の課題を遡及的に把握させることによって、映画に不可欠な何かを俯瞰したという実感を海猿は生み出している。『シン・ゴジラ』にはかかる俯瞰の感覚が欠けてしまう。矢口に政治家の責任がどうのこうのと演説させるばかりで、事件を俯瞰しようとする気がない。良くも悪くも歪なシナリオなのだ。


シンゴジは重すぎて再度見るのはしんどいという意見を幾例か目にした。これも俯瞰性のなさと関連があると思う。

*1IMDbのこのユーザーの感想を参照。IMDbに見る本作の海外評は概して低評価である。

*2小林桂樹内閣のいちばん長い日を参照。

2016-07-27

その残骸はかつて美少女だった 『海街diary』

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本作における長澤まさみのウエイトを考えれば、イメージビデオと見紛うような冒頭のカットがよくわからない。映画が始まると、鶏ガラのような脚を画面が舐め回す。それはかつて長澤まさみと呼ばれた美少女の残骸である。ここまで執拗に長澤の脚を舐めるのだから、これは彼女の物語かと誤解してしまう。ところが夏帆と同様、長澤がなくともこの物語は成立する。これは綾瀬はるか広瀬すずの物語であって、このふたりに長澤が有機的に組み込まれることはなく、すずと長澤の間には基本的に交渉がない。いや、おそらくあったはずだが印象に残らず、互いを無視をしているような気まずさがあり、物語が長澤を持て余している様に見える。わたしたちは彼女が信金の窓口係だと知って、そのあり得なさにギョッとしてしまうのだ。冒頭の長澤のイメージビデオは、それこそイメージビデオにおいて被写体の挙動に意味を求めるのが徒労であるように何の意味もない。


長澤の挙動には美人の不自然さがある。それは彼女が物語に組み込まれていない証左である。すずの実家旅館に着いて「びーる、びーる」とわめく喧騒がいやだ。『セカチュー』や『タッチ』から時が止まったように、自分が美人であることを知っている長澤は、ただ喧騒を引き起こせば自分が絵になると信じている。しかし通じないのだ。あの美少女の通力はもはやどこにもないのである。彼女の過大な自己評価が見透かされ、苛立ちを誘われる。天然を演じるという美人の不自然の語義矛盾が露わになる。


他の是枝作品の例に漏れず、本作にはハリボテのような造形の人間しか出てこない。しかし、福山雅治のマンガのような造形が無理筋としか思えないネグレクト劇に緩急をつけたように(『そして父になる』)、本作でも造形のハリボテ感が美人の不自然を余すことなく表現するのである。


冒頭の不自然な長澤の身体から始まった映画は、やはり彼女の不安定な身体を印象付けて幕を閉じる。それは鎌倉の小汚い浜辺を歩む四人姉妹の遠景である。長澤の不自然に長い手足が危ういバランスでその胴体を運んでいる。彼女の蜃気楼のような姿はもはや緊張の域に達している。画面は他のシーンも概してそうであるように蒼白である。まるで是枝裕和のスペルマが付着したかのように。


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これは美少女の高慢の物語である。長澤の自己評価は過大だと思うが、広瀬すずが自分を美少女と評価するのは正当である。美少女そのものだからだ。しかし、この美少女性もまたひとつの惨劇である。


彼女は吐露する。わたしの存在が人を不幸にしていると。この発想には美少女の高慢がよく体現されていて、自分をどれだけ重く評価しているのかと苛立つのだが、かつての長澤がそうであったように超ド級の美少女であることは事実だから無理もない。問題はかかる美少女性がこの物語を無理筋にしてしまう点だ。自分がどれだけ苛まれているかこの美少女は綾瀬はるかに訴える。これはあり得ない。年増とはいえ長澤が信金の窓口にいてわたしたちをギョッとさせるように、こんなあり得ない話はない。広瀬すずとして生まれ落ちただけで、どれほどの勝ち組であることか。この一点ですべてが作り事になってしまうのだ。


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四姉妹を周遊するオッサンらもハリボテ感が著しい。ただ、オッサンにそれが適用されると、一様に鬱病患者のような挙動として現れてしまうのが興味深い。特にリリー・フランキーはやり過ぎでわらった。

2016-07-25

報いの技術 『サウルの息子』

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タイトーのスカイデストロイヤーがすきだ。このゲームには主人公補正の不条理さがよく表れている。ゲームの中でわたしたちが搭乗するのは機銃と魚雷を無限に積んだゼロ戦である。対するF6Fは謎の火球一発を放ってくるのが関の山である。


『サウル』の画面はサードパーソン・シューターを連想させる。カメラは主人公の周囲にとどまり彼を追従し続ける。カットは基本的に分断されない。ゲームとは違うところもある。サードパーソン・シューターは広角とパンフォーカスで見通しを確保する。サウルは逆に後ろボケで情報を遮断し、男の自閉性を表現する。その視野狭窄から受ける印象は概してよくない。


物語ではふたつの計画が並走している。サウルは彼の息子とされるものを正規に埋葬すべく奔走する。その周辺では脱獄の計画が進められている。どちらの計画がわたしたちの興味を惹くか、これはいうまでもない。この極限状況で“息子”の埋葬に執着する動機がまずわからない。画面の自閉性によって、サウルがすでに正気を失っていることは伝わってくる。埋葬への執着はその症状のひとつだろう。しかし、サウルの心理が合理化されようとされまいと、脱獄の計画に比べれば興味が湧かない。ところが、物語はサウルの執着の方をフォローする。


苛立たしさはサウルに与えられる恩顧にも感ぜられる。サウルの埋葬計画は脱獄計画をしばしば妨害する。もはや正気を失っているから行動が無軌道になる。けれども、ちょっとした逸脱で即座に脱落するモブキャラに対して、サウルは幾度もトラブルを起こしながら罰せられることがない。周辺の好意を失うこともない。むしろ、語り手の恩顧に彼は甘えているように見える。そもそもゾンダーコマンドである時点で主人公補正が働いているのだ。


主人公補正の露見はわたしたちの共感を拒絶する。実人生にあってわたしたちは主人公ではない。モブキャラである。映画は主人公補正から彼を引きはがしにかからねばなるまい。


終盤でサウルはどさくさの内に脱獄に成功し、主人公補正をあからさまにする。しかし森の納屋に逃れると、カメラは納屋の入口に対して不自然な尺で固定され、サードパーソン・シューターのような映像文法に変化が訪れる。今からこの入口から何か出てくると画面が訴え始め、恐怖映画の文法が立ち現われる。果たして、現れたものを見てわたしたちはぞっとする。“息子”を仮託するような幽霊然としたものをそこに見てしまう。サウルはその仮託物を見て徒労となったはずの自分の尽力が報われたことを知る。


恐怖映画の文法を経由することでサウルの周辺から脱したカメラは、息子の仮託物とされる少年に憑依する。立ち去る少年に追従しながらカメラは納屋を離れ、サウルは映画の視野から外れる。納屋の方角から聞える銃撃が脱獄の失敗を伝える。


彼もまたモブキャラの一員だったわけだが、そのモブキャラ性こそ報われたという認知を彼にもたらしたものでもある。納屋の入り口からサウルを眺める少年の不思議な視点は、見ていたという感覚をもたらすものだ。サウルの側からすれば、自分は見られていた。この不条理の中でどれほど尽力していたかを。


誰かが見ていたという感覚は主観的な視点からは生じがたいだろう。映画が少年の周囲へ憑依してサウルの主人公補正を奪わないと、見ていたという感傷は出てこないのである。