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悠々萌殺 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012-01-25

韜晦した自意識の中心で父権は孤立する ―― 『僕は友達が少ない』

|  韜晦した自意識の中心で父権は孤立する ―― 『僕は友達が少ない』を含むブックマーク

キャラクターの一貫しない言動は、受け手のいら立ちを誘いかねない。われわれは小鷹を憎む。リア充を謳歌するにもかかわらず、殊更にフラストレーションをためてみせるこやつを憎んでしまう。われわれはまた、語り手の自意識もそこで疑っている。あくまで強面の外貌を根拠にして、疎遠な境遇を合理化しようとする語り手の技量を侮っている。しかし、この不自然にこそ意図があり、語り手は受け手の憎悪を密かに誘導している。


語り手の自意識に出会う場面というものがある。『とらドラ』の生徒会長を憎んだとき、われわれはすでに語り手の術中にある。朝礼台から軍隊調の檄を飛ばすこやつを無頼を装うゲスだと解し、その言動を奇人の記号として好意的に扱う語り手の無神経に腹を立てたとき、受け手の憎悪は意図的に誘導されている。およそ1クール後、大河が彼女をゲスだと詰る場面を以て、受け手はようやく、語り手もアレをゲスだと考えていたことを知る。語り手の自意識と出会うのである。


特機隊員に扇情的な格好をさせたり『攻殻』の美術に繁字体を用いることで押井守が人々のPC脳を煽るように、『はがない』は隣人部の人種構成や“ゲルニカちゃん”で語り手の政治的配慮を疑わせ、結果、受け手を油断させてしまう。自意識は、受け手を誘導するために、あえて韜晦せねばならない。



なぜ小鷹には友だちが少なかったのか。すでにわれわれの憎悪の中に、答えはあったというべきだろう。憎悪を誘うから人が寄りつかない。では、われわれはこやつの何に憎悪したのか。物語の冒頭の小鷹は、孤独を嘆く夜空に対し、孤立を忌避する世間の価値感に疑義を表し、彼女に迎合した。ところが、半クール後、人混みで社交不安障害を引き起こし竜宮ランドを後にした夜空に、この男は「まだ変わってないのか」と嘆く。


一貫しない造形は確かにいら立ちを誘うが、語り手の誘導は別にしても、一貫性に欠ける言動が受け手にとって積極的な危害になるとも思われない。教室でモンハンに勤しむ享楽的なクラスメイトたちが知覚し恐れ、結果的に小鷹をハブることになったのは、むしろあの嘆きからうかがえる干渉癖だろう。


小鷹の干渉癖は、その受容のされ方次第で、さまざまなキャラクターの造形を表現してゆく。クラスメイトの反応を介せば、同調圧力への抗議がやがて同調圧力そのものへと変貌する様を語り、理科の爆発という形で現れる語り手の自意識を準備する。一方で、こやつへ向けられる星奈の好意に目を向けたとき、それは彼女の造形の高まりと一貫性を担保する。成績優秀、スポーツ万能、暗愚、泣きゲーマー等々、調和するとは思えない性格群は、小鷹を受け入れた受容性によって整合化され、女を聖化する。情報の受容が素直だから、学習効率が高く、泣きゲーに転がされ、夜空に騙される、という世界観がある。「包容を聖化する」という自意識のゲームが新たに派生するにしてもだ。



オープニング冒頭で隣人部の扉を開いたカメラは、室内でポージングする部員たちを収める。そこでひとり奇妙な表情を浮かべる人物が目を引く。笑みを湛えた理科の眉は、しかし逆八の字に上がっている。当初はドヤ顔という演出意図だったらしいが、そこに生じた新たな含意を、今のわれわれは知っている。彼女は憤怒の表情を浮かべていたのである。

2012-01-20

世界観の正当性をめぐる自意識の戦場 ―― 『相棒 劇場版II 警視庁占拠!特命係の一番長い夜』

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物語は、キャラクターの世界観や価値観を試すことで、かれらの人生の動機を顕在化させ、かれらの佇まいを観察に価するものへと昇華しますが、規範意識という社会性のバックアップは、しばしば、この企てを妨害します。たとえ災難が発生したとしても、価値観に広凡な支持があるのなら、世界観が揺らぎにくい。逆に、規範意識からの脅威は、キャラクターに人生の定義を迫ります。『マイレージ、マイライフ』のクルーニーは、妻帯という同調行動に絶えずさらされる。スタローンは最後の戦場でNGOからパシフィズム?の欠如を非難される。『Papa told me』の親戚のおばさんたちは、近代的自我を脅かし続けるのです。



『相棒』は二編の劇場版とも、人生の動機を特異な筋立てで扱ってきました。復讐を試みる被害者には人生の動機が生じない。かれらは自分の世界観に確信がある。価値観に疑念があり怯えているのは加害する敵役の方であり、國村隼は自らの正当性をくどくどと右京に訴えるハメになった。価値観の揺らぎを自覚しているのです。岸部一徳は更に踏み込んだことをいう。自分は天然を装うが、自分の価値観が規範意識と拮抗することは自覚している。右京が正しいことも知っている。


右京は人生の動機とは無縁です。自分の世界観に疑念がないことを彼は知っています。受け手も右京の世界観が正しいと知っている。キャラクターの規範意識は、社会性によって、受け手の価値観とリンクしています。右京のまわりに、加齢臭のハーレムが自然と出来上がるのは、罪の自覚のある揺らいだオヤジどもが、自らの正当性を乞うて右京に群がるからでした。しかしながら、これでは、人生の動機に苛まれる一徳や國村の造形ばかりが強度を増すこととなり、右京はただのおもしろいオジサンに止まってしまう。


『相棒』は被害者の動機を飛躍させることで、受け手の混乱をほしいままにしてきました。前作の西田敏行については前に述べました。息子を南米のゲリラに拉致殺害された彼が、なぜ都内で無差別テロを起こすのか。ここに飛躍があると考えます。岸部一徳の、不自然な説明台詞で唐突に行われた『相棒』の世界観をめぐる叫びは、この飛躍を埋める鍵であって、ヒールは揺らいで右京は正しすぎると騒いだ直後、彼は自らの遭難を以て、被害者側に人生の動機を禁じた『相棒』の謎を釈義するのです。本庁の地下駐車場で、ノンキャリ石倉三郎の凶刃に倒れた一徳は、駆け寄ってきた右京に「殺されるなら、お前にだと思ってた」と吐露する。右京は驚愕する。


彼の驚きにはふたつの意味があります。右京自身の知らなかった造形を、一徳に提示されてしまった。ここでは、世界観の正当性をめぐる戦いが自意識の深度を競う争いと互換している。さらに、確信して疑わなかった自分の世界観こそファナティックに他ならないと、一徳の指摘で知ってしまった。


石倉の件もそうですが、今作でも、ヒロインであり被害者でもある小西真奈美の行動には飛躍の感を禁じ得ませんでした。彼女は、婚約者を殺された腹いせに、本庁舎の玄関ホールで備品の短銃を國村に向ける。わたしは、あまりの政情不安な有り様に、語り手のリアリズムを疑いました。やたらと悲愴感を盛り上げる劇伴とカメラワークにも混乱しました。小西の行動を通して語られる価値観に理解が及ばない。わからないのは当たり前です。今や一徳の指摘から知られるように、右京や西田や小西の世界観こそファナティックだったのです。右京の驚愕は、また、物語の自意識と出会ったわれわれの驚きでもあったのです。

2011-08-01

属性主義は造形を発見する

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愛の始まりに不自然があっても、それを遡及的に追認することはできるし、その意味で、『セカチュー』の長澤まさみ観鈴ちんと似ている。女の痴性を媒介にして始まったその恋は、受け手の劣等感と警戒心を煽ることなく、自然な状況として受け入れられる*1。ところが、人は痴性を人として扱うことができない。属性を愛することができないのであり、また属性主義からみずからの希少性を引き出すのが困難だからでもある*2


属性主義は、この矛盾を解くために、造形を発見せねばならない。観鈴ちんの痴性によって恋が始まっても、痴性を愛することはできない。属性主義は、問題を反転して、どうして観鈴ちんが痴女めいた振る舞いをせねばならなかったか、問いかけ始める。受け手は彼女を発見するのである*3


観鈴ちんの造形性は自己完結していて、その高揚にわたしの存在を必要としない。対して、長澤まさみは、わたしを媒介とすることで、自らの造形性を高めている*4。わたしは、わたしに惚れ込んだ長澤の感性通して、彼女を発見する。同時に、長澤を発見することで、わたしはわたし自身をも発見している。そもそも、わたしは長澤の何を発見したのだったか? それは長澤が何かを発見したことである。では、長澤は何を見つけたのか。彼女は、わたしが人間であることを発見したのである。

2011-07-26

人格性耐久レース ―― 『容疑者Xの献身』

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人格性耐久レースとは、キャラの造形の一貫性を願わずにはいられなくなる受け手の態度から生じるもので、たとえば『ダークナイト』のジョーカーや『模倣犯』のピース、あるいは『まどマギ』のQBに感情移入すると、語り手にとっては時に想定外のスリラーが、受け手の中で勝手に成立してしまう。『アバター』の大佐に好意を持ってしまったわたしは、馬脚を露わし取り乱す彼の姿を見たくない。しかし、ジャンルムービーの敵役である以上、造形の凋落は避けられそうもない。そこで、物語が彼をどう処遇するか、語り手の価値観をめぐって、受け手の中でスリラーの自家発電が執り行われるのだ。どうかQBさんが最後まで笑顔でありますようにと手に汗を握るのである。


語り手が、受け手の多元性に配慮を示すケースもある。QBに感情移入する視聴層を想定すると、彼にたいする憎悪にも好意にも対応できるような、両義的な顛末を求めたくなる。しかしこれはこれで、フラストレーションの元となりかねない。


先日『十三人の刺客』を見て不満を覚えた。この話でも例によって、わたしはバカ殿以外に感情移入できず、あの非道ぶりだから役所広司一派に退治されるのは致し方ないとしても、せめて最後まで取り乱さず鬼畜でありながら最期を迎えてくれと、その造形の一貫性の耐久を祈りながら鑑賞することとなった。


『刺客』の語り手は、おそらくバカ殿への感情移入を考慮している。通俗的なジャンルムービーの規則にしたがって恐怖におののき取り乱し、いったんはわれわれを落胆させてしまうバカ殿は、その後、退治される際には何事もなかったように冷静な造形を取り戻してしまう。バカ殿の造形が、受け手の価値観の多元性へおもねるかのように、分裂するのだ。バカ殿がバカ殿のまま退治されたといっても、造形の一貫性を温存する意味での人格性耐久レースはすでに破綻していて、あのバカ殿は、もはやわれわれの愛するバカ殿ではない。QBが無難に生き残ったとしても、記憶の継続性がない以上、あのQBは俺のQBさんではないのである。望ましい顛末を迎えたとしても、造形の一貫性が破れたとあっては、その人格が信用に能わなくなる。それは、両義的な顛末というよりは、ソフトな凋落に過ぎない。



『容疑者Xの献身』を、人格性耐久レースの文脈で扱うのはいささか的外れかも知れない。敵役の堤真一に語り手の明確な好意があるからだ。『模倣犯』には幾度も言及してきたが、この映画は、敵役の造形の一貫性について、原作者を激昂させるほど、明確な意識を持っている。『容疑者X』では、敵役という枷が外されているため、結果として物語の自意識がさらに亢進していて、造形の一貫性はもとより、人格性耐久レースが受け手の側で成立することも見越されている。われわれは、堤真一=俺の造形が好意的に一貫されることを望む。堤がダンカンに嫉妬してストーキングに手を染め、造形を凋落させた段階では、まだ受け手には語り手の価値観や自意識の深度に疑問がある。この凋落はジャンル映画の価値観を反映しているのか、それともそう見せかけた誤誘導なのか、わからない。人格性耐久レースが心理的なスリラーとして意図的に活用されているのである。

2011-06-14

当事者性と感情の信憑性は代替する ―― 原民喜『夏の花・心願の国』 関千枝子『広島第二県女二年西組』

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『夏の花・心願の国』と『広島第二県女二年西組』をハシゴ読みした。


人の死に様を観察する美文が苦手で、大岡昇平を読んでも、戦死者をオカズにして自慰にふけっているように見えてしまう。当事者に美文をしたためる余裕があるとは思えず、話が作り物に見える。


『夏の花・心願の国』は前半が妻の看病記になっていて、原民喜は詩人だから、現代詩調の文体でネチネチと綴る。本書でも美文が醸す心理的な余裕に好ましからぬ印象を最初に自分は持ってしまった。おのれの心理を追求するあまり、病の妻を労るというよりは、病の妻を持ってしまった自分の不幸を嘆じる、ある意味でとても正直な話に終始している。


原民喜も『広島第二県女二年西組』も与えられた課題は同じなのだろう。当事者性からの解離を解決する方法や表現を両者は追求している。究極的な当事者は、病身の妻や焼け死んだ級友たちであって、生き残った語り手ではない。


『心願の国』の解決方法は、藤枝静男の『悲しいだけ・欣求浄土』と似ていると思った。いよいよテンパって轢死を試みる原に、ようやく当事者であることの安らぎが訪れるのだが、自裁という手法自体には力業の感がある。われわれを煽るのは、その安らぎの描かれ型の方だろう。


景観に死者を託し偏在させるのは、彼らから同胞の意識を享受し、当事者の感覚を得たい原の閉塞した願望の反映である。しかし同時に、死者を等価にしてフラットにするその過程の中で、戦災で焼け死んだ人々と戦前に病死した妻を同列に扱えることが発見されると、あの美文にまみれたイヤらしい看病記が、遡行の形で、ガチだったと伝わる。看病記を捨て石にするのではなく戦災の文脈に回収する話術の構成が、やさしさを裏付けるのである。その際、当事者の感覚は、自裁することで自らを死者にすることにはなく、妻への感情の信憑性を表現し得たことで獲得されたと考える。



『広島第二県女二年西組』は帰還兵ものの文脈から当事者感覚にアプローチしていて、たとえば『父親たちの星条旗』の後半と構成が似てくる。生き残ったという不条理な罪悪感に対して、生き残ったからこそ自分には情報があるという希少性の感覚が拮抗し、語り手を動機づけるようだ。



後は余談だが、幾度か触れた『いしぶみ』の広島第二中の面々は新大橋近辺で罹災していて、そこは爆心地から0.5kmくらいの距離にあたる。ここからだと投下されたリトルボーイがこちらに向かって来るドラム缶のように見えたらしく、「伏せろ」という声を聞いた者もある。


対して、第二県女の面々は市役所裏で罹災。こちらは1kmくらい。ラジオゾンデの落下傘を上空に見つけて彼女たちははしゃぐのだが、それから四半世紀経ってもなお、あの落下傘にリトルボーイが吊してあったと著者が誤解している記述がある。