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2016-09-20

そして想いが残った 『秒速5センチメートル』

|  そして想いが残った 『秒速5センチメートル』を含むブックマーク

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この物語が到達する結論には、悲惨なようでいてどこか明朗なところがある。ラストカットを構成する視座が客観的で、それが救いになっている。それまでの物語はタカオ君か花苗の視点によって担われてきた。ところがタカキ君と明理が立ち去り今や無人となった踏切の全景に至ると、物語の視点は劇中の人物から離れ、語り手のそれと同化する。わたしたちは誰もいなくなった踏切に否応なく語り手の存在を意識させられてしまう。この異常な物語が実のところ作者の監視を受けていて、傷心したタカキ君のナルシシズムと作者の間には距離がある。ラストカットの客観性がかかる感覚を受け手にもたらすことで、ナルシシズムによって閉塞寸前だった物語が解放される。


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失われた半身を恋求めるような、宿命としての恋愛観がある。その否定を本作の目的だと解すると、物語にはどうしても超えればならぬ課題が生じてくる*1。タカキ君を恋の呪縛から解放することが明理の心情を理解することとトレードオフになってしまうのである。タカキ君は明理に拒絶されねばならないが、ただ拒絶しては明理が非情な女になってしまう。タカキ君を拒絶しつつも明理の心理に接近せねばならない。あるいはタカキ君を拒絶するからこそ理解できる明理の心情を設定せねばならない。そこで用意されたのがタカキ君の心象風景といってもいい踏切であった。


わたしは踏切の場面を構成する動線と間のとり方がすきだ。上り電車がINして画面を横断する。その対向から下り電車が交差する。タカキ君が振り返る。電車が去る。明理が立ち去り無人となった空間がタカキ君の前に広がる。その空間に彼女の決意を知ることで、わたしたちはようやく明理の心理に到達する。タカキ君は明理の意思表示に唖然とするばかりだ。その時の彼は、終わってしまったという喪失感とやっと終わったという解放感とそれらの感情の混乱を客観視しようとする自己憐憫がミックスした、典型的な失恋をした男の顔をしていて、映画のナルシシズは極限に至る。この後に来るのが問題のラストカットなのである。明理が立ち去り、そしてタカキ君が立ち去ってしまうと、踏切は全くの無人となる。ところが視座は踏切に残置される。


この状況は『春の日は過ぎゆく』のラストカットを連想させる*2。男は失恋の痛手に酔っている。物語は自閉してしまったように見える。しかし男の後背には、まるで彼の自閉活動を監視するかのように一本の樹木がそびえ立ち客観性の担保となっている。『秒速』でこの樹木に相当するのがあの踏切なのだ。


十数年に及ぶあまりにも病的なタカキ君の妄念は無駄であった。明理の拒絶を受けて今やすべてが失われてしまった。しかし本当に失われたのか。


「タカキくん、来年も一緒に桜を見えるといいね」


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恋の呪縛から解放された場所が踏切ならば、幼少のタカキ君が呪いにかけられた場所もまた踏切である。そこから彼は明理を追い始め、やはり踏切で明理に追いつくことで彼は解放される。タカキ君の息の長い恋の全工程を見守ったのは踏切だった*3


あの病的なタカキ君も、“地球ではない惑星上”で夢想され続けた明理も、もうどこにもいない。すべてが終わり無人となった踏切にはただ想いだけが残っている。あのタカキ君と明理は無人の踏切という空間に表象されることで永遠となったのだ。

*1「煉獄を経て」を参照。

*2「いつも見ている」を参照。

*3:見守るという感覚については「報いの技術」「「現実」と「虚構」を越えて」も参照。

2016-09-14

愚鈍たる軌跡 『リップヴァンウィンクルの花嫁』

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四月物語』の松たか子無能の人であった。何を楽しみにして生きているのか見当がつかず、その行動の意味するところは不明瞭である。物語の進む目的や解決すべき課題が隠されるためにわたしたちは苛立ってしまい、その余波として松を無能と思ってしまう。彼女の意図がようやく判明すると、わたしたちは彼女を理解し好感を抱くことができる。


本作の黒木華は松に輪をかけた愚鈍である。だが『四月物語』とは異なりこの話は最初から面白い。ラース・フォン・トリアー映画のごとく、黒木華の愚鈍が利用されることで事態が加速し、世界観があらぬ方角へ膨張する。


その世界観と黒木の受動的な在り様はギャルゲ主人公を髣髴とさせてしまう。彼女の決断で事態が動くことはなく、彼女は状況に流され続ける。事態を動かしているのはドラえもんキャラたる綾野剛である。篠田昇の弟子筋の神戸千木は記録映画のような生々しい文法を本作に適用している。作中の人物も記録映画の被写体のような演技をして、かえってわざとらしい。かかる中にあって、綾野の、いかにも演技しているような大仰な物腰が救いになる。この物語では綾野のみが明確な目的を持っていてそれを遂行できる能力を有している。彼だけが観察に値する人物なのだ。しかし物語はあくまで黒木の視点をトレスする。


黒木には課題がない。困難が生じてもドラえもん綾野がすぐに解消する。そもそもかかる困難自体を綾野が全部設定している。観察すべきなのはこの綾野の挙動なのだが、そこが悩ましい。彼が何かを企てているという情報は早々に明かされる。しかし策謀の内容は明かされず、その目的のわからなさがまず物語の牽引となっている。ただ不吉な予感だけは伝わってくる。黒木の愚鈍に苛立つわたしたちは、かかる愚鈍が罰せられることを密かに期待している。どんなものすごい事態に突入するか、それこそトリアー映画のように、不幸の予感がわたしたちを物語に引き寄せるのである。


物語の世界観はCoccoの投入を境にして断絶する。それはほとんどSFといっていいだろう。綾野は黒木を謎の大邸宅に送り込みメイド服で飾り立てる。黒木とCoccoがウエディングドレスを纏ってレズり始めるに至っては、いったいわたしたちはどこに連れて行かれるのか、展開される現象の異常さ自体におののくとともに、岩井俊二の、50男にしては直情的な性欲に圧倒される。綾野の陰謀と黒木を主人公としたハーレムエンドをどう結びつけるのかまるで見当がつかなくなる。


結論からいえば、ここがピークアウトだったのである。物語は陰謀と現象の亀裂をつなぐ合理的な理由を見いだせなかったように見える。展開された現象に見合うようなスケールが策謀には含まれず、物語は月並みな結論に落ち着き急激に収縮してしまう。綾野がお膳立てしたのは本当に黒木を主人公としたハーレムエンドだったのだ。


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結末が意外性を持たないように、全編に渡って黒木は変わることがない。冒頭でも結末でも愚鈍な彼女のままである。しかし、かかる恒常性は愚鈍であることのたくましさを表象し始めている。綾野とCoccoが彼女の愚鈍を利用したのではなく、むしろ彼らは黒木の嫋々とした母性に引き寄せられていた。事態に全く動じない黒木に怪物性を見出したところで物語は終わる。

2016-09-02

好きが届く奇跡の場所 『君の名は。』

|  好きが届く奇跡の場所 『君の名は。』を含むブックマーク

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その男にとってあの女はどれほど希少な存在なのか。あるいはその女はあの男のどこに惹かれたのか。劇中にあって恋愛感情を誘発して然るべき個人の属性は、たとえば長澤まさみに関していえば記号的といえるほど露骨に設定されている。クレーマーをあしらう長澤を見て、わたしたちは彼女にたやすく好意を抱くことができる。ところが肝心の主人公ふたりにはかかる属性が見受けられない。あまりにも何もないから、このふたりの間に恋愛という状況が生じることを語り手が忌諱しているようにすら見える。恋愛感情にこだわらないこの姿勢はシナリオによい効果を与えていない。女を救いたい男の切実さが伝わりにくい。事がただの人命救助になりかねない。それだったら彼である必然性がない。


恋愛感情の未成立は視点配分の緩やかさに負うところが大きい。物語はふたりの視点を往来し、両者の感情をモニターし続ける。これでは恋愛に切実さが生じない。恋は相手の意図が見えそうで見えない場所で醸成されるからだ。『秒速』の「桜花抄」はタカキ君の視点に固執している。逆に二幕目の「コスモナウト」では彼の視点は締め出された。最終幕ではようやくヒロインの視点に物語は到達する。しかしその内面には空虚が広がるばかりだった*1。物語はヒロインの内面の隠ぺいを全うすることで彼女を聖化し、タカキ君の恋愛感情を煽るだけ煽ったのだった。


『君の名は。』が主人公ふたりの内面を開放的にしたのは、それとは別の何かを隠したい意図があるからだった。両者の視点に等しく言及が及ぶことで、このふたりが別の時空を生きていることを隠ぺいすることができる。しかし同時に、受け手に対する感情喚起についてトレードオフが生じてしまう。前述のとおり、ふたりの感情が並行してモニターされるのなら切実さの構成が困難になる。相手の意図が見えてしまえばゲーム的状況にはなり難い。17歳の三葉が上京する場面では例外的に瀧くんの内面が排除され切実さが実現されている。だがそれはやはり例外なのであって、それこそ御神体ゾーンでの邂逅に至るまで両者の気持ちは受け手に向かって放流され続ける。ふたりが別々の時空にあるという意外性と切実さが、両者の感情がモニターされることで損なわれる切実さに相殺されるのである。


新海誠とは何か。それは性欲の権化である。彼の表現活動は射精そのものだ。『秒速』で花苗に告白されると、彼のスペルマは後背で打ち上げられ上昇するH2Aロケットに仮託された。『言の葉』ではなざーに告白されると、もはや彼の男根の象徴といっていいドコモタワーの尖塔に虹がかかる形で、放出されるスペルマが表現された。しかし今作では、たとえばテッシー部屋のティッシュがせいぜい微苦笑を誘う程度で、性の不穏さは見当たらない。純愛への異常執着も影をひそめている。たしかに商業的配慮は理解できる。その成功も賀すべきだ。しかし俺たちの、いや俺だけの新海誠がもはや永遠に失われてしまった寂しさは否むべくもなく、わたしはとしまえんのスクリーン5をボーバクとして眺めていたのである。ところが、である。過去作とは比較にならない太く逞しいものを、わたしたちは間もなく目の当たりにするのだ。


常時監視され言及されたふたりの視点は、両者が時空を共にしていると受け手に思わせるための誤誘導である。しかしそれを誤誘導だと思わせてしまうこと自体が、受け手の目を更なる別の事から逸らすべく仕組まれた誘導だったのだ。ふたりの感情は常に観察できる状態にある。このことでわたしたちは、このふたりには観測不能な内面があたかもあり得ないように誤解してしまう。ところが観測できないものは観測可能なもので覆い隠されていた。観測できなかったもの。それは男の「好きだ」という感情である。これが露呈することで男には観察不能な内面の活動があったのかという驚きが生まれ、かかる驚きにより、わたしたちが欲してやまなかった感情の切実さと信憑性に物語はとつぜん到達する。この男は本当に好きだったのだとわたしたちは否応なく実感させられるのだ。物語の大半を覆う切実感のなさが最後に到達する切実さの踏み台になる点では本作は一発芸であり、最後の爆発のために前戯を続けた『言の葉』の構造に近い。また観察可能なもので観察不能な内面を覆うことにより感情の信ぴょう性を担保する逆説的な手法は、ヒロインの内面に言及することでかえって彼女の感情をわからなくした『秒速』のそれを思わせる。


求愛の切実さに呼応するかのように、その射精の美しさと規模は比類なきものだ。上空から降り注ぐ飛散したスペルマが家々を焼き地殻に大穴を穿つ。これほど力強い射精がかつてあっただろうか。まさにオナ禁明けの大爆発である。糸守町の消滅について本作は伏線を明瞭に張らないというまずいやり方をした。かつて村が大火で焼けたとごく迂遠に伏線を設定することで受け手との勝負を回避していて、消滅の事実は単線的に判明するばかりである。しかし町の消滅は本当に隠すべきイベントではなかったのだ。本当に隠したいもの、したがってあらかじめ堂々と提示することで伏線を張って勝負をかけたもの、それは今回の射精が彗星に仮託されていたことである。瀧くんの「好きだ」によって、あの彗星が一瞬のうちに再解釈され、わたしたちの目前で天文学的規模のスペルマへと変貌し地上を蹂躙する。わたしは泣いた。笑った。何も失われてはいない。新海誠そのものだ。俺の、俺だけの新海誠だ。


対称性に至らない恋がある。男が女をどれほど希少だと見なしても、男に対する女の感情はニュートラルである。かかる際、わたしたちは感情の根源的な伝達不能性を思い知らされる。求愛の対象にわたしたちはおのれの愛の証を立てることができないのである。わたしたちは恋愛の挫折を幾度か経て、愛の信ぴょう性そのものを信じなくなる。恋愛を交尾機会の探索過程として客観視できるようになり、生物として自然な振る舞いができるようになる。新海誠は違う。彼が語るのは人という不自然な存在であり続けること、あるいはかつてそうあり続けた事の絶望と勇気を祝福する物語だ。愛の信ぴょう性を性欲で表現する以外に術を持たない、誰よりも人間を愛するこの男は、ならば持てる限りの性欲でスペルマを深宇宙の彼方から発射するのである。8光年先からからメールを飛ばしたミカコのように「好きだ」が届く奇跡のような瞬間を信じながら。

*1「煉獄を経て」を参照。

2016-08-23

僕らはみんな死んでいる 『ガールズ&パンツァー 劇場版』

|  僕らはみんな死んでいる 『ガールズ&パンツァー 劇場版』を含むブックマーク

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ウォシャウスキーの『スピード・レーサー』を連想したのである。CGI車輛と本編が絡む構成が類似している。もっとも、多くの商業アニメと同様に『ガルパン』はCGIとセル芝居のカットを基本的に分離する形でシーンを構成しているので、『スピード・レーサー』の方がCGIと役者の連携に配慮しているように見える。他方で『ガルパン』のCGIには重さがある。競技車と装軌車輛の違いもあって、両者を比較すると『スピード・レーサー』のCGIは軽すぎる。


『ガルパン』の戦車の挙動が『スピード・レーサー』を想起させてしまう点で明らかなように、作品に登場する戦車とはあくまで戦車と称されるものであって、実物の戦車とは関連のない別物と考えるべきだろう。劇中のそれらの機動はわれわれが教則を通じて知っているような挙動からは離れている。人が死なないという前提によって危険に対する鈍磨があり、中学生のサバゲーに類するような乱戦が多くのアクションを構成している。たとえば援護という概念がこの作品には薄い。冒頭で突撃する知波単が無謀だとしても、相手の頭を抑えるために周囲は援護をすべきだろう。本作のサバゲー的カオスは挙動を様式で固める道という思考と矛盾している。


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『スピード・レーサー』を連想させるところは他にもある。『スピード・レーサー』はレース事故で死んだ兄の背中を弟が追う話であり、全編に兄の死という不吉な影が漂っている。『ガルパン』では、終幕の乱戦でみほがまほの背中を偶然追う形になるカットが出てくるが、全く意味合いが違うとはいえ、兄の幻影をレース中に追ってしまうスピードが重なってしまうのである。


『スピード・レーサー』は競技者に厳重な保護措置があることを劇中で強調する。それがかえって事故死した兄を浮き彫りにしてしまう。『ガルパン』も同様である。キャラが死から隔てられると、それだけ不穏さが増してしまう。戦車道は殺し合いそのものを模倣する。『スピード・レーサー』よりもまして保護措置は厳格になされるべきだろう。しかし『スピード・レーサー』が保護措置の作動する有様を劇中で幾度か展開して見せるのに対して、『ガルパン』は保護措置の存在を設定しておきながら、実際の画面では措置の存在を隠匿している。搭乗者に危害がないという結果の明示を以て措置が働いたことを示すのみで、措置の機序については言及がないように見える。


搭乗員が規定の装甲材に覆われた砲塔内にとどまり、レギュレーションのかかった砲弾を撃つ合うだけならば、わたしにはそれだけでもおそろしいのだが、保護の機序を殊更に描く必要はないのかもしれない。だが、キューポラから車長が乗り出した状態ですれ違わんばかりに対向車に近接し、中学生のサバゲーのような機動で撃ち合うとなると、露曝者の安否を気遣わざるを得ないが、かかる搭乗員に対する安全措置を示唆する描写が劇中には見当たらない。むしろそれは興ざめとして演出上あえて言及しないように思われる。


戦車道の安全性についてどうしても議論が発生してしまうのは、劇中のサバゲー的挙動と搭乗員が被りかねない危険度が矛盾しているように見えるからだろう。死なないからサバゲーのような大胆な挙動が可能となる。ところが、戦闘の真実味を担保するために搭乗員に対する安全措置は隠ぺいされる。結果、不穏当で不吉な死臭が競技を超えて日常までも侵食する。ボコと呼ばれる継ぎ接ぎのぬいぐるみ。廃園の遊園地。学園を乗せた巨艦。


下肢と頭部を露曝させた状態で戦車に搭乗する娘たちが痛々しい。砲弾を撃ち合うのならまだしも劇中の戦車は頻繁に横転して、安全措置への懸念は装甲材云々の話では収まらなくなる。車内にはカースタントを前提とすべき措置があるべきであり、搭乗者はベルトで固定されてしかるべきである。しかしかかる措置は皆無であり搭乗者はあの軽装のまま車内に錯綜する突起物の蹂躙をその身体に被るのであるが、横転の終わった車内に画面が振られると搭乗員に目立った外傷がない。彼女らは普通の人間ではないのだ。最初から死んでいて、それに気づいていないのである。あるいは、われわれが見ているのは仮想空間にコピーされた人格たちの遊戯だろうか。


ノンナの離別にうろたえるカチューシャの動揺がよくわからない。だかがサバゲーなのにあたかも本当に死人が出かねないような悲壮さが劇中から浮いている。これはカチューシャの精神遅滞を示すものと解釈できるが、それは別の意味で正しい。頭が弱いゆえに物語の不穏な有り様を感じ取ってしまうのである。


わたしはアンチョビがすきだ。彼女は下肢を露曝しないからである。わたしは継続高校が好きだ。フィンランドに思い入れがあるからではなくジャージだからだ。特にあそこの操縦手はスカートの下にジャージである。わたしは秋山優花里がすきだ。おそらくあの頭部のボリュームに安全性を見ているからだろう。彼女たちは死臭漂う劇中にあって生の拠り所となっている。

2016-08-13

批評する現場 『シン・ゴジラ』

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『シン・ゴジラ』は会議室映画ではない。むしろ管制室映画の成分が濃厚である。作中でも語られる通り、第1形態に対応する会議ではすでに結論が決まっていて、情報を集約し共有する場として活用されている。それはあくまで管制室であり、会議を娯楽物にする対立者というファクターに欠ける。そのため会議場面の構図やカメラワークは単調さを免れない。陣営が別れていれば、画面はそれぞれの陣営の面容を補足すべく多様な構図や運動を許されることになるが、対立軸のない本作の会議は商業セルアニメのように画面が静的である。


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『フェイル・セイフ』は会議室と管制室の成分を明瞭に分割している。大統領の執務室ではヘンリー・フォンダがソ連側の説得を試み続け会議の娯楽を担う。他方で管制室という娯楽は作戦司令室が分担し、会議室と管制室が並走する。


『シン・ゴジラ』における政策の対立は、多国籍軍や核の使用をめぐってようやく発生する。本当の会議が行われる場所は官邸ではなく、国連のファシリテーター・プロセスや安保理の非公式協議を行うコンサルテーション・ルームにあり、したがって代表部の参事官や書記官といった人々を登場させるべきだろう。安保理のコンサルテーション・ルームに画面を割り振ったら、それこそ冒頭の官邸とは様変わりした本当の会議室映画を目の当たりにできたはずであるが、外交の現場を本作は抽象化してしまう。そもそも尺が足りそうにない。


しかし尺の問題に目を向けると、切り詰めたように見えて、説明的で感傷的な台詞が多いことに気づかされる。


変転する事態に反応して、マンガのような挙動を引き起こして驚愕をアピールする人々に丁寧に画面を振ってしまうのは、それはそれで風刺になるとはいえ、感情をこれでもかと説明しないと伝わらない商業セルアニメの強迫観念を引きずっているように見える。


官僚が行政手続きの煩雑さを嘆き、同僚が民主主義が云々と返す。そんなものは見ていてわかるのであり、言葉で説明する必要があるとは思えない。危機管理の現場で忙殺する官僚がそんなことを言うのも違和感がある。会議をしないと進まない有様に「なにをやってるんだ」と嘆息されても、それは手前が何とかするべきことであって、他人ごとに見えてしまう。核の使用について「怪獣よりも人間が云々」と現場で批評をやるのもよくわからない。これに限らず、多くのキャラクターが直面した状況について批評をやりすぎで、エヴァ破の終盤、翼をくださいの赤城博士の饒舌のように、語り手の悪い癖が出ていると思う。


この映画で本当に仕事をしているのは官房長官の柄本明だけかもしれない。彼は批評をやらない。批評をやる暇がないのである。このことはキャスティングの無駄の多さを示唆している。