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2016-07-25

報いの技術 『サウルの息子』

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タイトーのスカイデストロイヤーがすきだ。このゲームには主人公補正の不条理さがよく表れている。ゲームの中でわたしたちが搭乗するのは機銃と魚雷を無限に積んだゼロ戦である。対するF6Fは謎の火球一発を放ってくるのが関の山である。


『サウル』の画面はサードパーソン・シューターを連想させる。カメラは主人公の周囲にとどまり彼を追従し続ける。カットは基本的に分断されない。ゲームとは違うところもある。サードパーソン・シューターは広角とパンフォーカスで見通しを確保する。サウルは逆に後ろボケで情報を遮断し、男の自閉性を表現する。その視野狭窄から受ける印象は概してよくない。


物語ではふたつの計画が並走している。サウルは彼の息子とされるものを正規に埋葬すべく奔走する。その周辺では脱獄の計画が進められている。どちらの計画がわたしたちの興味を惹くか、これはいうまでもない。この極限状況で“息子”の埋葬に執着する動機がまずわからない。画面の自閉性によって、サウルがすでに正気を失っていることは伝わってくる。埋葬への執着はその症状のひとつだろう。しかし、サウルの心理が合理化されようとされまいと、脱獄の計画に比べれば興味が湧かない。ところが、物語はサウルの執着の方をフォローする。


苛立たしさはサウルに与えられる恩顧にも感ぜられる。サウルの埋葬計画は脱獄計画をしばしば妨害する。もはや正気を失っているから行動が無軌道になる。けれども、ちょっとした逸脱で即座に脱落するモブキャラに対して、サウルは幾度もトラブルを起こしながら罰せられることがない。周辺の好意を失うこともない。むしろ、語り手の恩顧に彼は甘えているように見える。そもそもゾンダーコマンドである時点で主人公補正が働いているのだ。


主人公補正の露見はわたしたちの共感を拒絶する。実人生にあってわたしたちは主人公ではない。モブキャラである。映画は主人公補正から彼を引きはがしにかからねばなるまい。


終盤でサウルはどさくさの内に脱獄に成功し、主人公補正をあからさまにする。しかし森の納屋に逃れると、カメラは納屋の入口に対して不自然な尺で固定され、サードパーソン・シューターのような映像文法に変化が訪れる。今からこの入口から何か出てくると画面が訴え始め、恐怖映画の文法が立ち現われる。果たして、現れたものを見てわたしたちはぞっとする。“息子”を仮託するような幽霊然としたものをそこに見てしまう。サウルはその仮託物を見て徒労となったはずの自分の尽力が報われたことを知る。


恐怖映画の文法を経由することでサウルの周辺から脱したカメラは、息子の仮託物とされる少年に憑依する。立ち去る少年に追従しながらカメラは納屋を離れ、サウルは映画の視野から外れる。納屋の方角から聞える銃撃が脱獄の失敗を伝える。


彼もまたモブキャラの一員だったわけだが、そのモブキャラ性こそ報われたという認知を彼にもたらしたものでもある。納屋の入り口からサウルを眺める少年の不思議な視点は、見ていたという感覚をもたらすものだ。サウルの側からすれば、自分は見られていた。この不条理の中でどれほど尽力していたかを。


誰かが見ていたという感覚は主観的な視点からは生じがたいだろう。映画が少年の周囲へ憑依してサウルの主人公補正を奪わないと、見ていたという感傷は出てこないのである。

2016-07-22

鳴動するオッサンの辺にて 『進撃の巨人』

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人に挙動がなければ、そのキャラの人となりを知ることができない。挙動を引き起こすには事件が必要だ。キャラの性格造形は事件に対するその人の反応の仕方を通じて描かれる。


この理屈からすれば、冒頭の15分が奇妙なのである。謎の高原をエレン一行が遊山している。彼らがいかなる人間でここはいかなる舞台か、ある意味で執拗な説明が対話を通して行われる。ところが、この間、事件は何も起こらない。ただ対話があるのみである。造形説明に事件を利用しないこの感覚は純文学に近く、逆に事件が起こってしまうと、途端に事件へのキャラの反応が画一化し、彼らは喧騒の内に埋没してしまう。巨人の対応にリソースが割かれ、キャラの個別化に手が回らない。ただ逃げ惑うばかりなのだ。


事件の起こらない平時における個別化への執拗な意思は、語り手の自覚を窺わせる。この若者たちがそもそも個別化のむつかしいあり方をしている。ゆえに彼らは主張を激せねばならならず、主人公たちの後背ではモブキャラが自らの造形を主張する挙動を事あるごとに展示する。現場中継するキャスターの後背でしばしば行われるアレである。


個別化の希薄さは、物事を動かす実感を得られない現場の焦燥と関連がある。若者たちはただ状況に反応しているだけであり、主体性のなさをカバーすべくオリジナルキャラとして投入されたオッサンらが状況を主導して、若者そっちのけでどつき合いをする。これは確かに楽しいが語り手のエゴである。最後のエレンとミカサの邂逅に実質が伴わなくなってしまう。オッサンが事件を引き起こしそれをオッサンが始末したのであって、彼らはその周りでオタオタしていただけなのだ。


若者たちの個別化の薄さは巨人の造形の立ち方と対照を成している。巨人らは個性を展示する必要がない。ただ歩いているだけでそれらの人となりが激烈に伝わる。


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この映画でわたしが最も好きな絵は高原に屯する巨人たちの遠景である。


どうして彼らのキャラが否応なく立ってしまうのか。文芸的な観察に値する事情を彼らこそが抱えているからだ。彼らにはかつて人間としての日常があった。それがいきなり知性を失い、かかる醜悪な事態に放り込まれてしまった。これを超える不条理が作品に見当たらない。高原の巨人たちに惹かれるのは、失われた知性の残滓がそこに見えるからだ。


文芸的観測に忠実であるべきなら、巨人たちがかつて人間であった地点にまで物語を掘り下げるべきだ。しかしあくまで巨人たちに対応する人間の物語にしたいのなら、特に外貌の面において、巨人と若者の立ち位置を逆転するべきだ。


三浦春馬とか桜庭ななみとかもってのほかで、これは大地康雄フィリップ・シーモア・ホフマンやブシェーミによって演じられるべきだろう。そして、巨大な宮崎あおいの群れに追い込まれ、恐慌を来す康雄とシーモアとブシェーミの前に後光さしながら現れるのが、ブリンナー、マックイーン、ブロンソン、コバーン。これは別にスタローン、ブルース・ウィリスチャック・ノリス等々でもいいぞ。演出はマイケル・ベイ

2016-07-20

失われた人格を求めて 『鎮魂』と『血別』

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血別 山口組百年の孤独

鎮魂 さらば、愛しの山口組 (宝島SUGOI文庫)

太田守正『血別』と盛力健児『鎮魂』が共有する問題意識は、渡辺芳則という人物の解明にある。盛力本は渡辺を批判し、太田本は盛力本を批判することで渡辺を擁護する。この両者は渡辺という人物の造形構築について補完関係にある。ところが、両本を参照したとしても渡辺の人物像はつかみ難い。


わたしは岸本才三がすきだ。盛力本には幾度か彼が登場する。その扱いは好意的である。盛力が執行部に話を通すとき、岸本が窓口となって登場する。わたしたちは岸本の日常業務の一端を知ることができる。だが、太田本を参照すると、盛力本だけではわからない意味合いがこの風景から見えてくる。


太田本において盛力は長期服役の単調な生活で人格を破壊された人物として登場する。彼は正常な判断力を失っており、ヤクザに群がる詐欺師の話に幾度も引っかかるばかりか、それに周囲をも巻き込んでしまう。他の直参からは相手にされておらず本部では孤立している。ただ岸本だけは立場上、彼をハブるわけにはいかないのである。


太田本に登場する渡辺は盛力について冷淡である。盛力を「やっぱり、だいぶボケてるな」と彼は評する。盛力が渡辺を批判する動機は明らかだろう。しかし、盛力本に戻ると、渡辺に対する盛力の非難に不可解な印象が出てきてしまう。盛力は渡辺の人間性を糾弾するのだが、出所の祝い金が少ない、執行部に入れない等の不満は、太田本の盛力像からすると渡辺の欠陥とは必ずしも言えない。人格批判と解せるものは、三代目の仏壇に礼を失しているといった些細なことばかりで、渡辺の人格が具体的に組織に害をなす様が見えてこない。渡辺の人柄を伝える情報量が盛力本に不足するがために、批判の対象となり得るような明瞭な人物像が描けず、批判が成立しないのである。


盛力本だけでは渡辺という人物が解らない。彼はいかなる能力で以ていかなる仕事をしていたのか。この謎を集約するかのように、盛力本の最後では岸本が渡辺に対して辛辣な評を投じている。


「あんな自分勝手な男、俺は見たことない」


ふたりの間で何があったのか。盛力本では語られないが、太田本には示唆がある。盛力とは違い太田は岸本に批判的である。岸本は渡辺を悩ませていたと太田本は指摘する。国税の査察や改正暴対法についてネチネチと悪い方向にばかり解釈して渡辺を苦しめたという。この辺はいかにも岸本らしく、微笑ましく思われてしまうのだが、渡辺の人物造形についてはひとつのヒントがある。実務に弱い印象が出てきてしまう。


太田本は渡辺のかかる側面についておそらく自覚的だ。太田本はこれを取り繕うべく、組織人としての渡辺を描画しようとする。ところが逆効果なのだ。渡辺の役割が幕藩体制や天皇機関説といった抽象的な言葉で説明されるばかりで、仕事の具体的な内容には言及がないのである。しかも機関説という説明の内容自体が渡辺の無能力を暗示してしまう。太田本も組織人や仕事人としての渡辺をつかみかねている。描かれるのは、いかに彼がお茶目だったかという他愛のない日常エピソードばかりである。


盛力本における司忍の人物造形と比較すれば、渡辺の印象の薄さは際立つ。盛力本の事実上の主人公は司忍である。彼はそれだけ盛力本の中ではキャラが立っている。


司は手先が器用である。同じ刑務所に服役したとき、盛力に見事な貼り絵を送っている。仕事で一億が入用になった盛力が司に泣きついたことがある。翌日には1億円がきっちりと用意される。「帯封された100万円の新札の束の積み重なったレンガが上下に10個、ピッチリとビニールで包まれておった」と盛力は感嘆する。


弘道会の地下にはプールがある。司はそこで運動に余念がない。直系の組員には組の費用で3か月間、集中的にインターフェロンを投し、全員のC型肝炎を治した。弘道会には秘密部隊があって捜査員の個人情報を集めている。いかにも仕事ができそうなエピソードに事欠かない。


宅見勝の後継として、盛力が司を岸本に推薦する件がある。盛力に言わせれば、頭補佐の中には司以外に人がいない。組織の実務者としての権能が宅見から司へ継承される様子がそこから見えてくる。一方で太田本は司への継承を棚から牡丹餅だと見ている。太田によれば、宅見の後継の本命はあくまで桑田兼吉であって、桑田が獄中にあったために司に順番が回ってきたとする。


いずれにせよ両者とも宅見の実務的な造形については見解が一致している。


盛力本は渡辺に対する宅見の振る舞いを戯画的に描写している。「今日は機嫌よくしときなはれや」、「今日はちょっと(機嫌) 悪うしときなはれ」、「右向きなはれ」、「左向きなはれ」と渡辺を操縦していたという。


盛力本の見解では、宅見が健康を害して渡辺に引退を申し出ると、渡辺は100億を要求したという。宅見はこれにキレてクーデターを画策するも、あの顛末となってしまった。


太田本はこの解釈を採らない。渡辺と宅見の仲でこの話はあり得ないという。ここで宅見の造形にかんするエピソードが出てくる。姐さんの焼肉屋によく通ってくる太田によろこんだ宅見は、彼に財布を送る。太田はそれにかこつけて、小遣いをねだってしまう。


「頭、わしこれ、中身がないと使えまへんのやけど」


「うん? そうか。おーい、100万円持ってこい」


その後、本家に顔を出した太田に渡辺が言う。


「おまえっちゅうやつは、厚かましいやっちゃなあ。頭から聞いたで。みんなで爆笑してたところや」


渡辺が宅見を「頭」と役職で呼んでいることに注目したい。彼は宅見を立てている。盛力本は極端にしても、実務面の印象の薄さも相まって、宅見に対する渡辺の依存がここでも見えてくる。「100億置いていけ」という話はなかったとしても、宅見を欠いたらどれほど困難になるか、それを象徴する寓話として解釈はできよう。事実、太田本の岸本批判から窺えるように、暴対法以降の世界で宅見を失った渡辺は窮することになる。太田本の見解通り、宅見の遭難に渡辺の関与はなかったと見る方が説得的に思えてくる。その一方で、宅見の遭難については裏が見えなくなってしまう。太田本は盛力本の推論を根拠がないと批判するが、遭難の背景について歯切れが悪い。中野会の吉野和利が中野太郎の頭就任を目指し暴走したと太田本は推測している。

2016-07-12

ブライダルビデオ、極限へ 『ザカリーに捧ぐ』

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物語から提示される課題はふたつあるように見える。ひとつは怪物のエスカレーションの不可解さである。彼女は自らの命を犠牲にしてまで嫌がらせを敢行する。これが理解に及ばない。彼女は何を破壊しようとしていたのか。


課題のいまひとつは父親に負わされる人生の課題である。怪物に襲われたことの不条理にどう耐えるか。意味のないことにどう耐えるか。父親は事件を社会化することによって、かかる不条理に意味を見出そうとする。ところが、わたしたちが父親の闘いを通じて目撃するのは、不条理と対決するうちに当人が不条理に感染してしまったような、困惑を覚える事態である。物語はこの出来すぎた父親を聖化するに至り、人であらざる者に祭り上げてしまう。


これはブライダルビデオといってよいだろう。映画としての品質も含めて。美談という価値観を以てしか現象を把握できないフォーマットで物語が編成されている。被害者の関係者は善人の集団意外に描きようがない。しかし、扱われる事件は美談とは遠く離れたものであり、美談にしてはいけない現象である。


ブライダルビデオが一部のシニカルな人々に与える印象がある。善というものの本質的な垢抜けのなさがそれである。本作のブライダルビデオ性も、事件の責任を被害者側が共有するかのような印象をもたらしかねない。息子は彼女をサイコパスだと判断できなかった。善人の集団に育まれた彼は正常な判断力を育めなかった。


事件の顛末は冷酷である。父親は怪物に息子を奪われる。遺された孫が生きがいになる。それすらも同じ怪物に奪われる。彼は超人的な努力で事態の克服を試みる。ただ、この不条理に対する物語の態度も冷酷に見える。語り手は彼の存在を奇跡だと称賛する。その存在が勇気を与えてくれると。とことんまで、この男のひどい人生を利用し尽くそうとする。


わたしにはこの価値観が受け入れがたい。しかし、物語の態度に憤りをおぼえたとき、物語は確実に怪物の心理に接近している。怪物が命を賭してまで破壊したかったものがまさに提示されるからだ。女が破壊したかったもの。それは本作の究極のブライダルビデオ性の証たる美談の網羅力の貪欲さではなかったか。あるいは、起こってしまったからには利用せずにはいられない根源的な貧乏性ではなかったか。

2016-06-30

もしゆかな声であれば 『her/世界でひとつの彼女』

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離婚をした男は復縁を望んでいる。あるいは離婚に踏み切れないでいる。いかなる状況であれば男にかかる未練が残るのだろうか。互いに憎悪があれば未練は残らない。あくまで男が捨てられた状況が必要である。


不肖・宮嶋 史上最低の作戦 (文春文庫PLUS)

黒髪・別れたる妻に送る手紙 (講談社文芸文庫)

近松秋江が捨てられたのは甲斐性がないからだった。夫が家計を支えないから妻は逃げてしまう。宮嶋茂樹は妻に病気をうつしてしまった。彼はこれを悔やみ続けるのだが、当人が別の場所で語っているように、これだけが原因でもない。宮嶋はフリーになった当初、妻のヒモ状態になっている。


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彼らの行状に対してホアキンの未練には明快さがない。ともかく未練があるのだから妻に逃げられたと考えられる。当人の資質に問題があったと思われる。定石であれば、かかる負の資質に起因する課題が作中で浮き上がってきて、それを解決する話になるだろう。ところがそうではない。ホアキンの経済力には問題が見当たらない。彼はタワマン暮らしである。離別の原因は抽象的に扱われるだけで、未練が残る別れ方に納得ある説明がない。それが具体的に解らず実感として受け手に伝わらねば、作品への移入は著しく阻害されるだろう。『インセプション』が妻の自決を説明できなかったように。


ホアキンがスカヨハOSに引っかかったことを考えれば、彼の孤立が俎上に載ったようにも見える。しかし作中のホアキンは全く孤立していない。女性関係に不自由がない。スカヨハOSに引っかかったのはあくまで事故なのであり、引っかかる造形的必然性に欠けている。


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事故なら事故で語り様はあったはずだ。わたしたちの価値観からすれば、ギャルゲへの没入は反社会的事象である。それはたとえば『イヴの時間』が意識的に扱った問題で、ハウスロイドに恋をするのは反社会的事象だから、事態は色々な意味でうれし恥ずかしくなってしまう。


本作にはこれもない。皆がギャルゲに没入してしまうから、それは恥でも何でもない。ホアキンは「OSの恋人ができた」と高らかに宣言して、わたしたちの腹筋を挑発する。しかし、劇中ではさすがにやや留保はあるものの、この発言はとりあえず自然に受け取られ笑いが成立しない。


エビコレ+ アマガミ特典なし

水月~迷心~

ホアキンの没入の様態そのものを観察すれば、男が駄目になるおもしろさがないこともない。『アマガミ』の七咲的な、あるいは『水月』の雪さん的な。だが、かかるギャルゲ的消費にかんしても深刻な障害がある。肝心のスカヨハOSにまるで魅力がない。


本作にはルートが2つあるために、主人公男とプレイヤーの心情が分離するお馴染みの現象が見受けられる*1。スカヨハ・ルートとエイミー・ルートの分岐である。どっちを選ぶかというと、それはエイミーの方がまぶいに決まっているのだから、ホアキンはスカヨハにうつつをぬかすが、こちらとしては早くエイミールートに行きたくて仕方がない。スカヨハをめぐるホアキンの焦燥にまるで理解が届かない。


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泡鳴五部作 (上巻) (新潮文庫)

岩野泡鳴の『泡鳴五部作』は、彼が下宿人に手を付けた顛末を綴った連作である。泡鳴は女に病気をうつし、病身の彼女を置き去りにして樺太に渡るも事業は失敗。女に送金ができなくなる。女の病は治癒を見ず、耐えかねた彼女は北海道までやってきて、責任をとれと泡鳴に迫る。


こうなっては、酷い話だが、もはやうざいのである。読者にとっては、酷いことと理解しながらも、いかに女から逃れるか、その問題でしかなくなる。泡鳴には女から逃れるという気持ちもあるが未練もある。わたしたちにはこの未練が理解できないので、作中の人物と心理が分離する。


失われた時を求めて 2?第一篇「スワン家のほうへII」? (光文社古典新訳文庫)

似た感覚は『スワン家の方へ』にもある。オデットの不貞は読者には明らかである。しかしスワン当人は確信がもてず、だからこそ焦燥か増幅する。読者はオデットを憎悪するから、彼女に懸想するスワンの気持ちがわからない。ただ、この憎悪は語り手の誘導でもあって、オデットからスワンがようやく解放される際に生じる浄化のタメとなっている。