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2017-05-13

失われた記憶と分岐する人格

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 記憶を喪失した人物が災厄に見舞われている。その災厄は、記憶を失う以前の当人が引き起こしたものである。しかし記憶を失った彼はそれと知らずして災厄と戦っている(『ヘラクレスの栄光III』『CASSHERN』)。

 記憶の継続を人格の要件と見なす立場を採用すれば、このケースの業の深さは軽減する。記憶が途絶しているのであれば、過去の悪さを引き起こした自分は別の人間であって、今の自分は責任の主体とは言えない。では記憶を回復して自分の罪業を思い出したのなら、責任の主体を取り戻せるのか。それはそうであろうが、曖昧なところも残る。記憶が回復された人格にあっては記憶を失う前の本来の人格に記憶を失った以後のそれが合流しているので、喪失以前と回復以降の人格が一致するとは言い難いのである。


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 記憶の喪失がその断絶を境として同じ人物をふたつの人格に分岐させることで、アリストクラシーな倫理観の契機となることがある。『ファミコン探偵倶楽部 消えた後継者』の結末をそのように解釈することもできるだろう。

 今、自分が享受する境遇は過去の自分の尽力に依るものである。ところが、記憶喪失が今の自分と過去に尽力した自分を別の人格にしてしまっている。自分が行った事でありながら自分の責任だとは思えない。むしろ昔人の恩顧を以て自分があるように感ぜられてしまうのである。

2017-05-12

三島由紀夫『雨の中の噴水』 石原慎太郎『完全なる遊戯』

|  三島由紀夫『雨の中の噴水』 石原慎太郎『完全なる遊戯』を含むブックマーク

戦後短篇小説再発見1 青春の光と影 (講談社文芸文庫)

 恋愛の局面にあっては男は選択の主体になり難い。選ぶのは女だからだ。では男が選択の主体となるにはどうすればよいか。三島の『雨の中の噴水』は恋愛の終局に着目する。選べなくとも棄てる決断はできるはずだ。この発想がさらに倒錯すると、恋愛が目的ではなく選択の主体となるための手段となってしまう。女を棄てるという決断を下すために恋愛を行う自然への挑戦が始まるのである。

 ここから『雨の中の噴水』は石原の『完全なる遊戯』と似てくる。棄てることが受け手にとって好ましい状況の成立を図るべく、両作とも女の未練の執拗さを叙述するとともに、いかに女を棄却するかという技術論を展開する。

 『完全なる遊戯』では、精神疾患の女性を強姦する段階にあっては、強姦者の男らの方へ憎悪が誘導される。ところが女には行き場がなく、厄介なものを拾ったという状況になる。女への煩わしさが生起することで、いかにこれを棄却するかという技術論への傾斜を可能になる。しかもそれは段階を踏むことで憎悪を増幅して解決への邪な切望を煽る。

 最初はソープに沈めることで解決が期される。次に店の方で扱いに困り返却というタメがやってきて最終解決に至る。若者の素行を話題とした紋きり的な世代論といえばそれまでだが、ただ彼らがあまりに果断で手際が良すぎるために技術論のよろこびが露出してしまうのである。

 『雨の中の噴水』の方でも、男が別れようと宣言しても立ち去ろうとする彼から女は離れようとしない。ここで女性へ憎悪が誘導される。ところが、この話で最後に知らされるのは、男は決断したつもりでいたが、実のところ選択の実効が成り立っていなかったことである。正確に言えば、女の機知が男の選択を遡及的に無効にしてしまう。

 女性への従属へ収斂してしまうのだから男である受け手には悔しいはずだ。しかしそうはなっていない。リベラル心(?)が心地よく刺激される点は否定できないものの、何よりも憎悪の的となっていたキャラクターに人格や機知を見出せたことがうれしいのである。

2017-04-21

嬌飾された偶然 『ライク・サムワン・イン・ラブ』

|  嬌飾された偶然 『ライク・サムワン・イン・ラブ』を含むブックマーク

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この老人に訪れるオスの試練には段階があり、その階梯の間にはタメとしての踊り場がある。中盤での加瀬亮との接触がそれで、メスをまるで扱えない童貞然とした老人が加瀬へ人生の教訓を垂れ始め、オスとしての甲斐性をようやく発揮する。


ただし不穏なのである。


老人との関係が恋人の加瀬に知覚されることを女は恐れている。老人はケセラセラと実に無責任な言辞を彼女に弄する。性欲が事態を都合よく解釈している。老人のターレン振りは、これから彼をどん底に突き落とすことへの前振りなのか。それとも老人は語り手の魔の手から逃げ切れるのか。語り手の価値観をめぐるスリルが生じるのである*1


淡き期待があるからこそ、インターホンのモニターに出た、狂戦士化した加瀬亮が与える絶望はすさまじい。地理的に遠隔しているので、加瀬が老人の居所を探り当てるとは思えない。その驚きもある。しかし彼が見つけるであろう伏線は張ってあって、もしそれが唐突に見えるのなら語り手は受け手との勝負に勝ったことになる。


老人は加瀬の工場でかつての教え子と遭遇している。教え子は老人の近所に住んでいるという。通俗小説のような偶然であるが、この話では人の関係についてこの手の偶然が頻繁に発動する。不自然の中に本当の作為を見落としてしまうのである。


加瀬の来襲で老人が達するオスの試練の最高段階は、メスの目前で展開されるゆえに痛々しさは天井知らずだ。女の目前でオス性を否定された方が屈辱感が大きいのであり、女を自室に連れ戻したプロットが活きている。老人は、加瀬に襲われたメスを一端は庇護したもののまるで役に立たず、甲斐性のなさが恐怖の前戯となっている。そこに来襲するのが加瀬であり、老人はメスの前で右往左往するばかりである。


ケツ持ちのヤクザは何をやっているのか。あまりのおそろしさに、わたしはテクニカルな話題に固執して恐怖を紛らわしたくなった。

2017-04-19

六平直政 怨念の箱舟 『復讐 運命の訪問者』『マルタイの女』

|  六平直政 怨念の箱舟 『復讐 運命の訪問者』『マルタイの女』を含むブックマーク

『運命の訪問者』は異能者の連帯とその芸が継承される物語である。哀川翔と六平直政は『CURE』の役所広司萩原聖人の相似である*1


『運命の訪問者』は六平直政の生き様と死に様の物語だ。六平にはモンテーニュが言及するようなローマの偉人の徳がある。恐怖の感情をもたないから決断に躊躇がない。その職人の身のこなしは殺人というよりも屠殺を思わせる。


六平にとどまらず、この話の主要なキャラクターのほとんどがサイコパスである。哀川ですらそうで、彼は自らに眠る異能者の血を恐れるあまり拳銃を持とうとしない。これが六平と感応しあう内に本性に目覚めるのである。それはある種の連帯といってもいい。六平とその仲間たちがたき火を囲んでカップ焼きそばをモリモリと咀嚼する場面がある。仲間のひとりが煙草を手に取ると、六平が火をつける。これがいい。彼らはあくまで同朋なのだ。


サイコではないメインキャラは六平の兄である清水大敬くらいだろう。サイコの視点で話を構成したらそれはサイコとは言えなくなる。したがって清水の視点が要請されるのだ。


視点構成の定石からすれば、清水の初出の場面は異様である。


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幼少のころ、哀川は家族を惨殺されている。彼はただ一人の生き残りである。清水と霊安室で対面した哀川は彼が犯人だと気がついてしまう。ところが清水の方も哀川に気づいてしまって驚愕してしまう。哀川が主役であって彼の視点で構成するのならば、清水の視点をここで導入するのは定石外しであり違和感が出てしまう。清水はあくまで観測の対象であって、事態を観測するべきではない。つまり、この物語は清水という普通人がサイコパスたちの様態を観察する記である。そのような宣言が行われているのである。そして清水が抹殺されて普通人の視点が失われ、場面にサイコパスしか登場しなくなると、話が論理的に構成されなくなる。あの最後の海辺だ。哀川と六平が互いを撃ち合う。ともに銃弾に倒れる。その様子には銃火を交えることでしか分かり合えない蛮族の交歓すら感ぜられる。


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哀川の銃弾を浴びて六平は断末魔をあげる。同じく銃弾を浴びたはずの哀川は平然としている。彼はいまや不死身である。


六平は哀川にいま自分が経験しつつあることを伝えようとする。


「死ぬのは痛いだけだ」


技術者がカンファレンスで情報を共有するノリである。


六平も哀川も声がいい。道化のような、あるいは少年のような声である。


最後は哀川のモノローグで終わる。


「拳銃は捨てなかった」


語尾が幸福に満ちている。彼は安住の地を見出したのだ。


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六平は同年公開の『マルタイの女』でも奇妙な役をやっている。管理官名古屋章の女房役の刑事であり、情熱家の名古屋に冷や水を浴びせる役柄である。


名古屋はマニュアル本を片手に犯人の洗脳を解こうとする。六平は受験勉強の真似事を嘆き、名古屋の捜査方針に疑問を抱く。ここで名古屋の大演説が始まり、演説の終わりでは六平が名古屋の情熱に押されたような感じになる。


舞台の場面でもこれが再現される。


この場面は、舞台の芝居に対する各キャラクターの反応を見せることで、キャラのパーソナリティの描き分けを行っている。わたしは中でも村田雄浩の反応がすきだ。


開演の前、彼は所轄の刑事たちと警備の打ち合わせをする。所轄の人々の表情が硬く村田と彼らの仲があまり円滑でない印象がよぎる。ところが舞台で西村雅彦の大立ち回りが始まると、彼らは一様に昂奮してしまう。村田と彼らは蛮族の血を共有していて、そこに連帯感を見出すことでわれわれは安心してしまうのである。


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名古屋章の反応はどうか。彼は六平と並んで座っていて、お涙頂戴の場面が来るとたやすく頂戴されてしまう。隣席の六平の視線は舞台にはなく、名古屋を気持ち悪そうに眺めている。彼の冷静さは遠心作用となって作品から受け手を遠ざけようとする。しかし大団円になると大感激する名古屋の隣で六平も鬼瓦を綻ばせている。村田雄浩のケースと同様に、六平がようやくよろこんでいるのを観測してわれわれもうれしくなる


『マルタイ』の六平とは何なのか。彼は、特定の場面についていかなる感情を受け手は抱けばよいかその指標なのであり、究極的には語り手である伊丹十三の自意識なのだ。


われわれはここで『運命の訪問者』の正体を知る。『マルタイ』の六平とは伊丹の自意識へと送られた黒沢清の呪いであり、まさに運命の訪問者だったのである。伊丹の自裁はマルタイの公開から三か月後のことである。


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『運命の訪問者』と『マルタイ』から4年後、六平は北野の『BROTHER』で渡哲也組の幹部を演じた。祝いの席で侮辱を受けた大杉漣がその場で腹を切る場面が出てくるのだが、腸をひり出す大杉の隣で六平は平然と咀嚼を続ける。


復讐四部作は初期北野の影響下にある。『BROTHER』のサイコパス六平は大杉漣という黒沢組と北野組を架橋するキャラクターを通じてなされた返歌であり、かくして円環は閉じられたのである。

2017-04-12

景物の誘い 『人生スイッチ』『蜘蛛の瞳』

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自らの過ちが原因とはいえ、反社会的人格の搭乗する車を煽ってしまった男は『激突!』の状況に追い込まれてしまてしまう。


ここで状況を観測しているのは、もちろん追われる男の方である。彼を襲撃する反社会的人格の視点には言及がない。内面が明かにされるキャラクターとそうでないキャラが対比された場合、パワーバランスは前者に傾くからであり、かつ反社人格はそもそもが理解不能だからでもある。しかし追い込まれた男が反撃を試みると、襲撃する男の視点で初めて状況が観測され始める。襲われていた男が行動に移ると、今度は彼が自分の内なる反社的人格と出会い、物語の視点を弾き飛ばしてしまうのである。


両者の攻撃性の発揮とその強度に応じて、視点はふたりの男を交互に行き交い、やがて視点は特定の人物のものではなくなる。野蛮の応酬を繰り広げる男どもを遠くから眺める第三者のそれにとって代わる。蛮人らはその内面に受け手の理解を届かせないゆえに景物となってしまう。代わりに本来は景物であったはずのBMWが、そこに備わる様々なガジェットが暴力の応酬に活用されるうちに一種の人格を帯びてくる。


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このBMWは『蜘蛛の瞳』でいえばラストの木偶になるだろう。


『蜘蛛の瞳』の哀川翔サイコパスである。にもかかわらず、哀川の視点で事態は観測され、絶えず不可解なイベントに出来する。その極限にあるのが殺害したはずの寺島進の復活なのだが、哀川はサイコだからどんな不条理でも順応して、精神病質の視点を構成する。


ただ作中では、哀川を客観化しようとする第三者の視点がある。彼が寺島を埋めるとき、その情景を謎の景物が観測している。白布に覆われた人型の物体である。ラストで哀川が白布をはぎとって現われるのが、木偶という景物の最たるものなのだ。木偶を認めた哀川は自分を客観化しようとするその力にウンザリしてしまう。


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『蜘蛛の瞳』の哀川の棒読みは『CURE』の役所広司を踏襲したもので、反社人格が物語の視点を担うために、当該のキャラクターが感情を失ってしまう*1


『人生スイッチ』には『CURE』の役所と連接してしまう話も出てくる。


サイコに変貌したビル爆破職人は、事を起こす前にカフェでモリモリとクロワッサンを咀嚼している。受け手はその泰然とした様子に彼が反社人格となったことを察知できる。これは『CURE』のラストでモリモリとファミレス食を咀嚼する役所広司そのものである。


爆破職人も役所広司もあるいは襲撃されたBMW男も、奥底に眠る野蛮を召還したとき、宮崎駿アニメの主人公のように凛然たる佇まいでわれわれを魅了する。フィクションにおいて、野蛮な反社会的人格はしばしば有能さと連接する。われわれはその有能さという現象を目の当たりにして歓喜する。『人生スイッチ』は有能という徳を導出するために精神病質を描画する。南米の失敗国家への絶望が仕事ができるという徳に固執するのである。