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2017-03-14

大杉漣、魂の座 『CURE』

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大杉漣がいちばんえらい。久しぶりに『CURE』を再見してそう確信した。


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大杉漣登場の会議室の場面は衝撃である。ヘアスタイルとメガネだけで話は喜劇に堕ちかかる。その通俗の塊のようない出立ちで萩原聖人に立ち向かってゆくのだから、してやられるのは確実で、予見通りにしてやられてしまった大杉は早々にキレてしまう。萩原はあきれながら役所に愚痴る。


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ところがここで違和感が発起する。今まで役所の視点で観測されてきた物語が初めて完全に萩原の視点になっている。われわれは役所の視点から締め出されてしまうのだ。


以降の場面になると、役所は物語の視点を取り戻したように見える。しかし彼の演技が変わってしまっている。棒読みになっている。


この演技は翌年の『蛇の道』『蜘蛛の瞳』で哀川翔によって踏襲されたものだ。両作品の哀川はサイコパス役で、サイコにもかかわらず主人公であり物語の視点を担う。受け手には理解不能なものに視点を依拠する離人的な感覚が棒読みの演技によって担われている。


役所の棒読みも同じ役割をする。大杉漣の場面で萩原の視点になったとき、彼は役所を同志扱いする。役所すでにサイコパスになっている。にもかかわらず、もはや理解不能となった役所の視点で物語を描画せねばならないから、台詞に感情がなくなってしまう。役所と萩原の関係が逆転した、その分水嶺にいたのが大杉であり、彼こそが世界の救済ないし破壊のきっかけを作ったのである。


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物語という倫理的な形式はサイコパスの退治を要請する。しかし退治は往々にしてサイコパスの卑俗化を伴ってしまう。卑俗化するのであればそれはもやはサイコパスではなく、キャラの特性が一貫しなくなる。


この矛盾の解決案として、精神病質とその担い手を分離するアイデアがある。精神病質の担体は死滅しても病質そのものは他の個体に継承されるのである。


セブンのケヴィン・スペイシーはブラピの手にかかることで、ブラピに精神病質を感染させる。萩原と役所は師弟関係となり、謎の暗殺術が役所に継承される。わたしたちは伝えたいという萩原の動機を知ることで、あろうことか彼を理解してしまう。


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ラストのファミレスがすきだ。ブラピは精神病質の汚染を知って悶絶するのだが、役所は逆に爽快になってしまう。これがすきだ。本来の自分の属性をようやく発見したのである。


そこにはまず卑近のうれしさがある。これまで苦しんできた彼が救済されている。それを観察できるのがうれしい。


また、無敵の暗殺術を手に入れたような中学二年生病の万能感が、モリモリとファミレス食を咀嚼する役所からあふれ出ている。撮影も陰影ある顔貌を作ってノリノリである。それは異世界転生もののよころびであり、『マトリックス』ラストのキアヌであり、ひいては生命賛歌である。

2017-03-09

宿命を知る 『ちはやふる』

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広瀬すずは美人である。最初のつまずきはそこである。劇中でも美人であるとはっきり言及されていて、彼女の課題設定に負の影響を及ぼしている。美人の時点で課題が消失しかねない。このことは語り手も自覚していて、美人であることを無効にするための描画が冒頭で幾度も繰り返される。変顔をさせたり等々。しかしもっと人生に関わるアプローチから美人の無効化が図られるとき、本作は同じ青春劇である『桐島、部活やめるってよ』と課題の様式を共有する。非進学校の閉塞感であり、未来の流動性のなさである。


この舞台が非進学校であることは、たとえば肉まんが机を勧誘するとき、進学校に敵愾心が示されることからも伝わってくる。すずは自分にはかるたしかないと悲痛の叫びを行って、課題を決定的にする。進路が閉ざされた感じはすずが美人であることの万能感を損なわせる。このひとは実はかわいそうな人じゃないか、と受け手に優越感を抱かせる形で彼女の課題の設定が終わる。すずへの恋慕が露見して、視点が野村周平に完全に移行するのだ。


すずをめぐる三角関係が始まると、犬童版の『タッチ』に似てくる。野村周平視点なので彼の課題が焦点となる。真剣佑に能力が及ばない彼には、オスの普遍的問題が突きつけられている。すなわち仕事ができないオスにメスは惹かれない。ではどうすればよいか。これを問われた國村隼の答えはカルヴィニズム的である。またこの答えは『桐島』で提示された課題に対応するものでもある。「なぜ頑張るのか」と『桐島』は問う。國村にいわせればそれは宿命を知るためということになる。


偏差値で能力が可視化された状況に置かれた受験経験者にとって、ここでいう「宿命を知る」はよく知られた現象である。天与の資質によって偏差値の天井が規定されている。そこから先はどんなに時間をつぎ込んでも進めない。個々人にはそういう宿命が設定されている。だからといってこれが人間のインセンティブを減じることにはならない。とりあえずやってみなければ、宿命を知ることすらできないからだ。


國村は、真剣佑に能力が及ばないからメスの気を惹けない問題を細分化したといえるだろう。宿命を知るつまり能力の限界を試してみるという、やる気を煽る方策が取られたのである。


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ここでとりあえずの野村周平の課題の処理が終わり、同時にそれは短期的な解決を見る。頑張るオスはメスの気を惹く。すずがメス顔を野村周平に向けるようになるのだ。したがって物語の視点が今度はすずの方に移行して後半になる。が、物語が展開上の壁にぶち当たってしまうのはここからである。わたしたちはすずのメス顔に自分を入れてくれるクラブに入りたくない感覚を抱いてしまうのである。そもそも野村周平はこのメス顔のどこに惚れたのか。


今一つ、もっと根源的な問題も持ち上がる。なぜ頑張るのか。オスにとってこの答えは自明である。メスとセックスするために頑張るのである。ついでに頑張りの副産物として文明が興ったりする。ではメスはどうなのか。彼女は何のために生きているのか。それは犬童版『タッチ』がたどりついた結論でもあって、全盛期の長澤まさみですら甲子園には行けないのである。


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後半になりすずの視点になって、このメスの空虚さが前面に出てしまう。後半冒頭で真剣佑と再会したすずは野村周平に対して呈した同じメス顔を彼に向けて、われわれを憤慨させる。これではただのさかりのついた雌豚である。この女を取り合う男二人にとって課題は存続しているのだが、この女に人生の課題を設定しようにももはや何もない。ただ卑近の課題を解決すべく右往左往するだけでなく、女の魅力を描画し損なうことで男どもの課題すらも軽くしてしまう。こんなビッチもうどうでもいいじゃないか。萌音や茉優のほうがワシはええ。

2017-03-01

激録オッサン密着24時 『現金に手を出すな』

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事情あって『現金に手を出すな』を再見した。初見時は学生であったわたしは寝落ちしてしまって、どんな話か今まで解らないでいたのだった。今回見返してみて、あまりのおもしろさに驚いた。


本作が叙述するのは24時間+αのオッサンの行動であり、省略されている睡眠時間をそこから引けば映画の時間は実質8時間ほどでしかない。進行はリアルタイムの感覚に近く、したがって濃密なオッサンの生活記録となっている。アニメ主人公一般よりもジャン・ギャバンの方に年齢が近くなってしまったわたしには話が他人事ではない。画面にくぎ付けになった所以である。


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生活記録だから生活にまつわる情報は膨大だ。冒頭からブーシェのレストランのテーブルの密度に惹きつけられる。しかもこれらのガジェットが筋と絡む。若い衆のマルコがテーブルにやってくると、ギャバンは卓上の密集物の内からケーキ皿を取出しマルコに食わせてやる。これを契機としてマルコが失業してツケをためている情報が引き出され、彼がこの惨劇に合流する端緒となる。この後、駄弁するギャバン一行の間でマルコは黙々とケーキを食し続ける。この挙動がマルコの素朴な造形を表現する。


ガジェットでいえば、ピエロの卓上にあって自己を主張する分厚いデスクマットもいい。やけに目につくデスクマットだと思ったら、後半の討ち入りのところで機関銃収納木箱と絡むことになる。


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本作のギャバンは性欲を失いつつあるオッサンである。あるにはあるのだが、体力が精神に追いつかないような、ダラダラとしたオッサンらしい性欲の形態となっている。


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レストランではナイトクラブに来るようジョジーとローラがしきりに誘いをかける。ギャバンはいかにも興味なさそうに応じている。けっきょくオッサンらは娘らの誘いに根負けしてピエロのナイトクラブへ移動する。ギャバンは体力的にウンザリしながらも、ダラダラした性欲はひとりでに垂れ流れる。ジョジーとローラの遅刻に怒るギャビー・バッセには「色男が引きとめたのさ」と発言。楽屋裏では「重いだらう。持ってやってもいいぜ」と後背から胸部におさわり。名言の嵐である。この場面では真顔で踊り子たちの臀部におさわりする照明係もすばらしい。ついでに着座するときリトンがギャバンに背部におさわりするのも見逃せない。


ブーシェのレストランに劣らずナイトクラブの情報量も膨大だ。ここでは劇伴も絡んでくるから余計にそうである。


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ピエロに呼ばれて、客席とカウンターの間の通路をギャバンが進む。客席の前のステージではダンサーの娘どもが挙動している。この4重レイヤーが同一のフレームに配置される。


ダンスシーンは劇伴とギャバンとリトンの対話がリンクするから編集技師泣かせでもある。


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ダンスを眺めるギャバンはジト目で、心底ウンザリした様子を呈す。彼の半目は性欲喪失の指標である。画面はステージになって劇伴が大団円を迎える。この劇伴が明るいからこそオッサン二人の悲哀が照射される。彼らの人生が大団円を迎えつつあるという感傷が現れるのである。


店を後にすると、明日の1時にブーシェの店でとギャバンはリトンと約束して別れる。このオッサンらは昼間っから夜までブーシェの店に毎日のように入りびたりで、それからナイトクラブに梯子しているのだ。すばらしい。


ギャバンが自室に戻っても見せ場は止まらない。むしろここからが本番である。独居オッサンの部屋だからこちらとしてはガン見せざるを得ない。しかも独りオッサンの住まいとしては小奇麗過ぎて想像をたくましくさせる。特に一瞬見えるキッチンに整然と吊るされたフライパンが実に似合わない。これはジョジーかあるいはお女中の仕業なのか。しかし、本作の最大の見せ場といっていいギャバンの隠れ家場面になるとギャバンの主夫属性が露見する。


この隠れ家はオッサンの夢が詰まっている。


リノ・ヴァンチュラの手下に襲われたギャバンは隠れ家にリトンと籠る。食器棚には食器がこれもまた整然と並んでいる。これは隠れ家だからこのオッサンが整理したのか。それもとやはりお女中がいるのだろうか。


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オッサン二人が近しく並んでラスクを肴に飲み始め愚痴る。ギャバンが盛り付けるバターの塊の膨大さがいい。補助金漬けのフランス農業の賜物である。ラスクの一片がリトンのズボンに落っこちるのもいい。


ラスクもそうだが隠し部屋は準備がよすぎる。


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オッサン二人分のパジャマ、タオル、歯ブラシ、シーツ、枕がそろっている。そして木之本桜が冷蔵庫からケーキを取り出す挙動を活写するCCさくらのごとく、オッサン二人がネクタイを外しパジャマに着替え歯磨きをしてベッドに潜るまでが交互に、綿密に描かれるのである。


翌日になって、リトンが抜け出した後、ギャバンがリトンの無能を愚痴るところもラスクに次ぐ本作の見せ場だ。


冷蔵庫を開くと大量のシャンパンがストックされている。チェストを開くとレコードプレイヤーがあって、例によってグリスビーのブルースが流れてグダグダになる。謎の小箱から謎の塊が取り出されてギョッとするが、手巻きのたばこ葉である。


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それでシャンパンと手巻きたばこ手に、グリスビーのブルースでグダグダになったギャバンはソファに沈み込み、例のジト目となるのであった。


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無能なリトンがさらわれてギャバンの救出計画が発動すると、ブーシェのレストランが半ば人格性を帯びてくる。ブーシェがいいのである。ギャバンの様子から事情を察して彼女は人払いをする。ブーシェの有能さが表現される。ギャバンは金を渡して何かのときには弁護士と差し入れをと依頼する。こうすればいいのかと独居オッサンのあるべき処世を展示して昂奮させてくれる。


ピエロもいい。ギャバンはピエロのナイトクラブに赴いて助力を乞う。ここでピエロの造形が豹変するのだ。初出のピエロは経営者らしく重厚にメタボの体を革張り椅子に鎮座させ、微動だにしなかった。これがギャバンの危機を知るや苛烈な現場主義のオッサンに化ける。ヴァンチュラの手下をどつきまわす身の軽さ。決断の速さ。あのメタボ体のどこにその敏捷さがあるのか、ギャバンに対する忠誠とともに心打たれるのである。

2017-02-21

恋と技術の無差別付託 『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』

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バーナード・ローズの格調のない演出に戸惑ってしまった。ジャレッド・ハリスの懇々たる説得が始まると劇伴が盛り上がってきてキャラクターの感情を説明する。ロンドンに行けば霧、紅茶と紋きり感甚だしき記号がヒューモアを醸す。乳繰り合いが始まるとやっぱり劇伴が盛り上がる。


冒頭の場面を落としてしまう構成もあり得たはずだ。ジャレッドがデイヴィッド・ギャレットを口説き落とすのだが、落ち目にあるそのギャレットと次の場面で博打に狂う彼が同じ人間に見えてこない。人格が一定しないことは劇中でも自己言及されていて、シャーロットが「あなたは本当は誰」とやる。ギャレット自身、技術の非属人性を示唆する。人格が技術を獲得するのではなく技術が人格へ憑依する。そのさい、技術は人格を選ばない。どんな人格でも構わない。キャラクターの造形のなさも記号的誇張もここで話と接点をもってくる。人格ではなく形式があるばかりである。音楽が造形をもたらす。


造形の信用できない可変性には功罪がある。ロンドン公演では信用できないことが緊張と浄化をもたらす。


幕が上がってもギャレットは出てこない。楽屋に行けばもぬけの殻である。ギャレットの信用できなさを散々見せつけられているわれわれは、クリスチャン・マッケイとともにこの行状に絶望と憎悪を抱いてしまう。しかしそれが浄化の仕込みなのだ。この人はサイコパスか否か。かかる不明瞭さがスリラーになる様式が使われている。


演奏が始まるとシャーロットがメス顔になるのもいい。人格がないからわかりやすい。わかりやすさがそこではヒューモアとなる。だが残念なことにここがピークアウトになっていて、一層のこと、ロンドン公演の前後だけに限定した記録映画風の体裁でよかったのではないかと思わせてしまうのである。これ以降、造形のなさが今度は仇となってしまう。ギャレットがシャーロットに恋をしてそれが悲恋となる。ところが、これがわからない。シャーロットの技量に彼は惚れたことになっている。しかし劇中では彼女の技量が同時に客観化されていて、なんでこの技量に惚れたのか受け手に不審を抱かせるようにもなっている。しかも博打と女狂いの造形からこの初心さを演繹できない。造形性のなさが悲恋のもっともらしさを阻害してしまう。ギャレットの乱行が亢進しても、なぜそこまで恐慌を来すのかこちらにはわからない。


こうなると、彼の造形のなさはジャレッド・ハリスの造形の強固さを引き立てる方向へ働く。どんな乱行に際してもジャレッドは困らないから、今度はどう切り抜けるか、最後まで困惑顔をさらさないでいられるか、という人間性の持続を試す展開に興味が惹かれてしまう。


われわれの期待通り、ジャレッドは最後まで取り乱さない。しかしこれも困ったことに、首になっても顔色を変えず退場というオチであるから、確かに彼の人間性は一貫したのだけど結局なんだったのかという腑に落ちない余韻が残ったのである。

2017-02-14

全性愛の陽のもとに 『望郷』

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『将軍たちの夜』を連想したのだった。『将軍たちの夜』でピーター・オトゥールの猟奇殺人を追うのはオマー・シャリフである。『望郷』でジャン・ギャバンを追っているスリマン(リュカ・グリドゥ)は現地人の扮装をしている。どちらも捜査官が中東系かそれに準ずる人物である。


『将軍たちの夜』はオトゥール&シャリフというキャスティングを『アラビアのロレンス』から踏襲することで、ロレンスの配役が受け手の思考におのずと課す枠を利用してわれわれを誘導しようと試みる。劇中でオトゥールのゲイ疑惑が言及される。ロレンスの連想からわれわれはその疑惑を容易く信じてしまう。この確信が従卒を連れてパリ観光するオトゥールを劇化してしまうのだ。オトゥールの異様な芝居を見て、従卒の貞操が危機にさらされているのだとわれわれは誤解して、勝手に緊張を強いられるのである。『望郷』のジャン・ギャバンも男色の気配が濃厚である。スリマンの顎をやたらとなで回し、お気に入りの若い衆の失踪に動揺を来す。


『将軍たちの夜』は戦況にかかわらず捜査を敢行するシャリフの、職業人としての生き様の話である。この手の魅力は『望郷』のスリマンにもよく出ている。容貌が菅義偉のこの人物は童貞の闇に落ちないのがいい。


『望郷』のジャン・ギャバンは性欲が強い。彼の全性愛志向は力強い性欲の現れにも見える。劇中のギャバンはミレーユ・バランに惹かれ口説きにかかる。たちまちバストショットでふたりは交互に見つめ合い、ソフトフォーカスでキラキラになる。これが作中から文法的に浮いてしまい笑ってしまうのである。撮影時期が30年代後半だから古いのである。これ以外の場面は時代相応に撮られているので、ソフトフォーカスキラキラバストが浮いてしまうのだ。したがって次の引きのショットになると、ソフトフォーカスキラキラのふたりが文法的途絶により一気に客観化されてしまう。ギャバンとミレーユはキラキラのまま見つめ合っているが、その手前では二人に背を向けたスリマンがアンニュイな表情を浮かべていて、このキラキラしたふたりを暗に揶揄している。


しかしながら、この童貞的孤立状況にあってスリマンが前向きなのがいい。彼はふたりの熱愛を悟るや、これは利用できるとほくそ笑む。そこには仕事の情熱だけあって、松本清張のように現実充実者を嵌めてやろうという闇は感じられない。


対して性欲に突き動かされるギャバンの焦燥と無軌道ぶりはどうだろうか。彼はミレーユを追って街に出ようとする。しかし街に出ては逮捕されるという設定である。情婦のイネスが止めにかかる。ミレーユがうちに来ていると虚言する。急ぎ帰宅したギャバンはミレーユの不在を認めると、我に返り、自分が莫迦だったお前しかいないとイネスに吐露。夫婦善哉となって、いい話じゃねえかと思わせつつ、ギャバンが家を出るとミレーユがいて再び狂う。先ほどまでの夫婦善哉は何だったのか。


これと性欲に動じないスリマンの仕事人振りとの対比を見せられると、禁欲・出家の勧めだとか、反ネポティズムとか、そういう世界観を思わされるのだが、童貞の闇が介在しないことで説話臭さは緩和されている。スリマンに対するギャバンの男色傾向、つまり自分がギャバンに感化を与え得ているという自覚が、彼に余裕をもたらしているのだろう。