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2016-05-18

北大路欣也を救え 『資金源強奪』と『広島死闘篇』

|  北大路欣也を救え 『資金源強奪』と『広島死闘篇』を含むブックマーク

山一抗争の顛末が明らかになった今日から見ると『激動の1750日』にはつらいものがある。


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この話で中条きよしは中井貴一に心服しきっている。幹部会で見せた中井の胆力に「胸があつうなったわ」と感嘆する。ところが今日のわたしたちは知っている。実際のところ、きよしは中井を単なる神輿としか考えていない。中井は後に跡目を継ぐと、きよしの操り人形で甘んじることはできなくなり、事はきよしの射殺にまでヒートアップしてしまう。


中井は丹波哲郎に説得されて夏八木勲の引退を飲む。そこで話は終わる。しかしながら、現実の彼は丹波を通して夏八木に金を渡している。夏八木が引退しないことには、跡目を継ぐ名分が立たなかったからだ。


美談が強調されるほど、滑稽になってしまう。しかし現実との齟齬ばかりが『激動』を滑稽にしてるわけでもない。独立した物語としても『激動』は脆弱さを抱えている。抗争に駆り立てられる人々の動機が分かりづらいのである。美談調であるがゆえに具体的な金の話を避けるからだ。中井は抗争の動機について端的に口頭で説明する。夏八木一派が代紋を握ると若い者が報われないと。どう報われないのか。いかなる不利益が生じるのか。これらが具体化されることはない。


ヤクザは個人事業者である。組は個人事業者の互助団体である*1。個人事業者として彼らは組に月会費20〜30万上納する*2。経済の話をしてしまうと、個人事業者としてのヤクザの性格から事は個人に還元されてしまい、集団劇の構成の難易度が上がる。『激動』の課題は明らかだろう。集団抗争劇と個人劇の並走をいかに構成するのか。それが問われたのである。


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『広島死闘篇』は集団抗争劇のシリーズにあっては変則的な位置づけにある。話はあくまで北大路欣也の周縁に留まっている。構成の難易度でいえば、続編『代理戦争』の方がはるかに高い。敗北する北大路の『死闘篇』に対して、『代理戦争』は渡瀬恒彦の成長と挫折の物語である。渡瀬は広能組へ加入する。それが話の発端の一つになっていて、彼の人生の帰結を以て『代理戦争』は幕を閉じる。『死闘篇』との違いは、かかる渡瀬の個人の物語が集団抗争劇が組み込まれ、それと並走しているところだ。『死闘篇』では具体的な金の話は扱われない。ところが代理戦争では経済が扱われ、経済が人々の動機や行動原理を統制している。金の話が個人と組織を結び付け、話を個人の枠に留めないのである。


シリーズを通して広能の動機を駆り立てているのは山守への憎悪である。『代理戦争』はスクラップ置き場という装置を通じて、山守への憎悪に対する共感を喚起する。広能組のシマであるスクラップを山守は断りもなく持ち出してしまうのである。どうして山守を野放しにしてはならないのか、この場面ひとつで事の痛切さが伝わってくる。


スクラップ置き場はまた個人劇の駆動装置としても働く。スクラップは広能組の三下である川谷拓三にもくすねられてしまう。川谷は仕事ができない男なのだ。


『死闘篇』は梶芽衣子と北大路の恋愛の物語である。個人劇としての『代理戦争』は池玲子をめぐる川谷と渡瀬の三角関係の物語でもある。池は川谷の女であり、そこにちょっとした謎の提起がある。なぜ池は川谷のようなダメ男にくっついているのか。広能組に新たに加わり、このふたりの間に割り込んでくるのが渡瀬なのである。


抗争劇としての『代理戦争』の山場は広能と武田の邂逅にあるだろう*3。広能が山守打倒の共謀を武田に持ち出す。他方で個人劇としてのひとつの山場になるのが、渡瀬と池と川谷の三角関係が顕在化するところである。池は川谷を振り捨てて叫ぶ。


「うちはもうたけしのものじゃけえ」


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捨てられた川谷の反応がカワイイ。「おんどりゃああ」と鳴き声を上げて襲いかかる。なぜかつての池は川谷の情婦となったのか。その謎が氷解する。彼はカワイイのだ。同時に、仕事ができない川谷から彼女が離れることで自然の摂理が表現されるのである。


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『死闘篇』は『資金源強奪』とセットで見るべきだ。両作品の中で収監中に北大路は恋愛の裏切りに遭遇する。娑婆に残してきた女が取られてしまう。ところが反応が違うのである。『死闘篇』の北大路はそれを知って刑務所から出奔し惨死を遂げる。『資金源』の北大路は明るい。あくまで前向きに事態に立ち向かおうとする。


『資金源』の北大路は敵対組織の組長を殺害して服役している。出所してみると、組はかつての敵対組織と宥和していて居場所がなくなっている。女も兄貴分に取られている。しかし彼は前向きなのだ。北大路は組の賭場から3億5千万を強奪する。裏切った女も計画に利用する。北大路の策謀を知って憤る女に北大路は語る。


「人間みんな一人ぼっちや。これがワイの8年間のムショ土産や」


『資金源強奪』はふたつの意味で『死闘篇』を補完している。『死闘篇』で敗北した北大路を救うこと。タイトルからわかるように『死闘篇』が欠いていた経済性を補間すること。


追手から車で逃れる北大路は、偽装のために小泉洋子を拉致って助手席に乗せる。北大路と小泉には何の関係もない。偶然そこにいたから小泉は拉致られてしまった。小泉を引きずり回し目的を達した北大路は、口止めを渡して彼女を解放する。


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計画が成功し空港に向かった北大路。彼を最後に見舞うのは、そのピカレスク性を利用した緊張である。空港カウンターのむこうには、彼が拉致をした小泉が立っているのだ。北大路は土壇場で計画の瓦解を悟る。今にも小泉が騒ぎ出すと予想する。ところが彼女は雌の顔をしている。胸元には彼が口止めとして与えたブローチが輝いている。北大路は一人ぼっちではなかったのである。


これは市場の逆説性の寓話だろう。市場は孤立した個々人の間を介在するが、逆に孤立した個人が存在しないような血縁社会では市場の醸成が不完全になる。経済性の焦点化により、関係性の成立は分離した個人を前提とするようになる。あるいはまた、経済性は信頼の再醸成の機序にもなる。経済性への配慮が人間の行動を予期可能にして信頼を醸成する。北大路と小泉の間に取引関係が成立したように。


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ピカレスク性を経由した連帯は『資金源』の姉妹編ともいえる『狂った野獣』でも扱われている。『資金源』が『広島死闘篇』で敗れた北大路を救う話に対して『狂った野獣』は『代理戦争』で敗れた渡瀬を救う話である。


宝石を強奪した渡瀬は逃走中にバスジャックに巻き込まれてしまう。バスジャック犯は川谷だから、彼にしてみれば『代理戦争』の報復戦になるのだろう。その混乱の中で描かれるのは、孤立した乗客たちのエゴイズムだ。しかし彼らは、渡瀬の逃走の幇助を契機として一体となる。渡瀬に共感するわたしたちは、同じようにその成功を祈る乗客たちにもそこで初めて共感するのである。


『資金源強奪』の前向きさはまた、同じ高田脚本の『新仁義なき戦い 組長の首』にも波及している。両者とも構成が似ている。


文太は兄弟分の山崎努のために服役する。山崎は西村晃組の幹部で、文太はその敵対組織の会長を銃殺したのだった。ところが出所してみると頼みの山崎はシャブ中で廃人となり破門されている。文太は相手にされない。彼はそこで西村組の乗っ取りを明るく画策するのである。

*1:鈴木智彦『ヤクザ1000人に会いました!』宝島社

*2:溝口敦『暴力団』新潮社

*3無能の表象としての個性を参照

2016-05-04

twitterに上げた練習物

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真中は川口春奈グラビアの激写したもの。下は佐野ひなこグラビア。

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2016-05-03

自助が可能となる場所 『ゴモラ』

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仕事ができないという属性をキャラクターに設定すると、次に、無能という負い目によってどのような恥辱や被害がもたらされるのか描画する必要が出てくる。課題を解決しようとする意欲がそこで具体的となり、わたしたちの共感が生まれる。


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ドン・チーロは組織の運び屋である。この初老の男は構成員の家族と遺族に金を配って糧を得ている。配金に回るたびに、カスタマーたちは給金の乏しさを彼にぶちまけてくる。男には意気地がないため、この歳になっても下っ端の仕事をやらされている。それを知るがゆえに人々は堂々と彼を侮辱できるのである。


物語はここでふたつの課題を提起している。ひとつには、もちろんドン・チーロが直面している問題で、彼が日々屈辱を受けることでかかる課題が醸成されてくる。


いまひとつは、彼を侮辱するカスタマーたちが受け手であるわれわれに与える印象に関連している。彼らは弱者であるゆえに男を虐げている。これはあまり倫理的な振る舞いだとは思われない。つまり、ドン・チーロがおのれの弱さとどう向き会いそれを乗り越えて行くか。この問題のほかに、彼を虐げるカスタマーたちを罰したいというわれわれの欲望に働きかけてくる課題があるのだ。彼らに憎悪が向くよう物語は受け手を誘導するのである。


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恥辱は我慢すれば済むものであれば、課題の醸成にはなっても解決行動を促すことはない。行動を促すのは解決できなければ生死にかかわるイベントの生起である。抗争が勃発するのだ。


男はここで初めて行動を起こす。敵対組織に赴き命乞いをする。男には力がないゆえに事態に責任がない。責任のないものに責任を負ってしまう。これは不条理だ。ところが敵対者の理屈は違う。手前は組織に養われてきたという理屈になる。


男にはここで初めて選択の余地が提示される*1。組織を売るかどうか。男が放り込まれたのは自助努力の物語であり、それを可能にした選択と自由の物語なのだ。


組織を売る決断を下した男には遅すぎた通過儀礼がやってくる。全てが終わった後、屋外に出ると死体が四方に転がっている。


過酷な救済はさまざまな浄化をもたらしている。われわれ自身である男が物理的に救われたことがうれしい。自分を苦しめてきた構造が自分の決断によって滅ぼされたことがうれしい。もたらされたのは、報復の成就であり、かつ自らの力がようやく承認された感覚である。

2016-05-02

小説 仙太郎 第二回

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ゴシマ男爵の使いで鎌倉を訪れた仙太郎は、半僧坊にあるオガサワラ伯爵の邸宅を訪ねた。男爵と伯爵はアニメ仲間だったから、用件が済むと自然、マク〇スΔの事に話題は及んだ。


「ゴシマ男はどうかね。やはりあの瀬戸麻〇美の、ツンツンしたのがええんか」


伯爵は籐椅子から身を乗り出して訊いてきた。


「オペレーターの娘がいいらしいですよ。猫口の」


「君は瀬戸麻〇美だらう!」


「僕は幼少から早瀬少佐一択ですよ」


朗々とした笑いが屋敷に響き渡った。



この季節としては数年ぶりの寒波が訪れていた。屋敷の廊下には冬の香りが戻っていた。午後には東京に戻った仙太郎は、日本橋の二丁目を入ったところで鈴の鳴るような声に呼び止められた。見れば男爵令嬢のタタミが車から顔を出している。


「仙太郎、乗りなさい。命令よ」


有無を言わせないタタミの口振りには、自身の美貌についての確信のなさが窺われた。男なら美しい娘にホイホイとついて行くはずである。そうでなければ、美貌に疑いが生じてしまう。タタミはそれを恐れるがゆえに、拒否を容赦しない口振りになるのである。仙太郎にはそう思えた。


「あら、あなた今朝、オナニーしてきたわね」


乗り込んだ仙太郎に開口一番そう浴びせると、タタミはさも汚らわしそうに身を引いて見せた。


「わかるのか」


「女は匂いでわかるのよ。あらいやだ、本当にしたの? とんだケダモノだわ」


仙太郎にとっては単なる生理現象に過ぎなかったから、それを重篤なものとして扱うタタミが微笑ましく思われた。


「時に君はウンコするのか」


「ころすわよ」


クロケット夫人に聞いた。美女はウンコしないんだと」


「知らなかったの! 当たり前じゃない。常識で考えればわかることよ」


「君もしないのか」


「当然よ。この美女がウンコするところ、あなたに想像できて?」


「......」


「今あなた想像したでしょう! ひどいわ。まさにケダモノだわ」


「君が想像しろと言ったからだ。それに何か昂奮してないか」



一騒動の末ようやく解放された仙太郎は高島屋へ赴きネクタイを求めた。帰りに日本橋の通りを歩いていると、応対に出た娘のことが思い出されてきて、柔和な美形だったものだから、受け取りを取り出して扱いの名前を見てみた。そこには昔懸想した女と同じ名があった。恋叶わなかったあの女の名前が。......

2016-04-22

惰行美人 『小さいおうち』

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吉岡秀隆の登場場面は衝撃的だ。望遠圧縮された坂道の向こうから彼が出てくるのだが、姿を現したのはいかにもアカ崩れで芸大然とした長髪の男なのだ。マンガなのである。ところが、それに輪をかけて事態をおかしくするのが、この男に対する松たか子の反応である。松は一目でこのマンガにいかれてしまう。確かに、文弱に見える吉岡に男性的資質を付与するイベントは丹念に設定されている。台風イベント等で八面六臂の活躍が展開され、吉岡に対する松の反応は合理化される。しかし、それでもなお違和感は残る。吉岡の男振りが開示されるにともない、段階的に吉岡に対する松の好意が醸成されるのではない。あくまで、この資質が公開される前に性衝動は突き上がったのであり、吉岡の男性性は好意の補強に過ぎない。


松の衝動はいったい何か。なぜこのマンガに松はいかれたのか。これが物語の問題提起である。その答えは直截的で、つまり松は淫乱なのである。では、かかる淫乱性は何処から彼女に飛来したのか。中嶋朋子は学生時代の松をこう語る。


「時子は女学校時代から人気があってね、みんな時子が好きになってしまうの」


中嶋が示唆するのは、恋愛に困ることのない人間の中に形成された美人特有の性格である。美人の天然といってもいい。そこには対照的な不自然があって、マンガのような吉岡にいかれた松の不可思議は松の淫乱が昂ぶるにつれて裏返しになる。なぜ吉岡はこんな大年増に体を許すのか。


どちらにせよ邪念とはいえる。文弱がモテるのも年増が若い男にモテるのも。ただモテの信憑性において、そこには非対称がある。吉岡がモテるのはまだいい。松は年増だ。しかし、松の肉欲による蹂躙を吉岡がよしとするのが今度は分からなくなってくる。あるいは、吉岡に盛んにアプローチする松の自信が不可解である。松は自分が美人であることを知っていた。それを知るがゆえに自制がない。かつてはみんな自分のことを好きになってしまったのだから。女はもはやかつての自分ではないのだが、習性だけは惰行している。それはグロテスクとしか言いようがない。美人であることで希薄となった自意識がようやく贖われたのだ。


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妻夫木聡の造形がすさまじい。山田洋次はこの男の台詞に露骨な政治的配球を託してくる。倍賞が30年代の好景気を語れば、事実を曲げてはいけない、満州事変だ暗黒だと糾弾する。ところが「奥様の恋人」のことを知ると、生真面目な左派の学生のように見えた妻夫木は「赤紙! 戦争で引き裂かれる恋!」とハッスルしてしまう。妻夫木の思考に政治的な含意はなくて、なにか悲劇めいたもの、スペクタクルめいたものに対する関心が彼を突き動かすのである。


劇中に妻夫木が事故で入院する挿話が出てくる。姉の夏川結衣が倍賞に愚痴を言う。毎日、違う娘が見舞いに来ると。妻夫木は松とともに、美男や美女の自意識のあり方を分け合っているのだ。妻夫木聡として生まれること、松たか子として生まれることがどういうことなのか、われわれに教えてくれるのである。