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2018-01-16

『四月は君の嘘』

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 あくまで山崎賢人が事件を目撃する体裁は保たれるべきで、広瀬すずは観察対象であらねばならない。すずは隠し事をしていて、その発覚がオチとなるからだ。しかし男の視点であるならば、当然、彼の抱えている課題に物語は傾注する訳で、すずは課題解決の踏み台にしかならなくなる。殊に、彼女のマンガじみた大仰な挙措が双極性障害じみたような病理を思わせるから、賢人が変なものに引っ掛かってしまった体となり、ややもするとすずは話から浮いてしまう。このマンガの挙措が単なる様式的な性格描写の現れだったら、違和感は慣れの問題であって、しばらく経てば受容できたことだろう。ところが、すずの不自然な力みは不自然として受容されるべきものであって、最後には合理化される類の引っかけなのである。意図された真正の不自然なために、彼女は筋から浮いてしまう。むしろ遊離せねばならないのである。結果、すずは賢人の課題解決のプロセスのきっかけとなりながらも、話の進展にともない解決の過程から疎外される。賢人の課題は、自分で勝手に悩んで勝手に解決してしまった自家発電のような様相を呈す。あるいは、抑圧の解除が偶然依存に見えてしまい、すずが要らない印象を受ける。すずの隠し事が明かされ、不自然な挙措が合理化されてもその印象は変わらない。

 本作のすず周りのプロットは『AIR』の観鈴ちんのそれを踏襲している。『AIR』の主人公は頭のおかしな女子高校生に絡まれてしまう。ところが切実な理由があって、勇気を出して彼女は男の絡んだのである。そして、残り少ない余命を知ったすずは人格改造を試み、賢人に敢えて絡んだのである。同じ文体を共有する両者だが、顕著な違いもある。観鈴ちんほどすずの内面は秘匿されない。殊に、症状悪化以降、観察対象でありながらも、すずの内面が漏れやすくなってしまい、『君がいた証』と同じ問題を提起してしまう*1

 息子がサイコパスだったという秘匿すべき情報がある。他方で、その息子の視点を陳述し、あたかも彼が非サイコパスであるかのような描写をおこなう。これが『君がいた証』の問題点である。隠さねばならないキャラクターの内面を敢えて陳述することで、秘匿を完全なものにしたい。しかしそれでは矛盾が生じる。内面を叙述して隠し事がないと明かしておきながら秘匿された活動があったと結論で引っくり返してしまうと人格の整合性が危うくなる。本作の自己啓発以前のすずの初出が惹起する強烈な違和感もかかる矛盾の波及だと考えられるのだ。


 ギャルゲーというメディアの特性もあって、内面管理に意識的な観鈴ちんのもたらす哀感が鋭角的だとすれば、すずの内面開示の緩さは哀感を拡散的にする。すずの短い人生を目撃したという俯瞰の余韻と、彼女の人生に厚かましく賢人が包摂されたという感慨が交雑するのだった。

*1離断なき絆を参照。

2018-01-10

高慢を超えて 『踊らん哉』

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 失恋をした男の顔を如実にトレスすることで『秒速』のタカキが嫌な共感をもたらすように、男の好意を察知した女の顔を忠実にトレスすることで『言の葉の庭』のユキノがこれもまた嫌な共感を喚起する*1。御苑のベンチでタカオの好意を悟った彼女は、自らの優位を享受するかのような微笑をたたえるのであった。『言の葉』は恋愛体質の裏返しとしての女性嫌悪に終始したといえるだろう。タカオに墜されユキノが性愛の優位を失い報復を受けることで話は終わっている。失恋が題材となると男女のいずれかが憎悪の対象となりかねない。それを回避するアイデアが問われる所以である。

 

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 Shall We Dance [1937] が、これは終盤になるのだが、男の好意を察知した女の顔をジンジャー・ロジャースにやらせている。ジンジャーはユキノと同じように好意を悟った当初の段階では素直に驚く。離婚届を携えてアステアのショーを訪れた彼女は舞台で展開されている異様な光景を目にする。ジンジャーの仮面を被らせたバックダンサーを従えてアステアが変態機動を行っていたのだ。フラれたとしてもせめて彼女の幻想と踊りたい。彼はそう悩乱したのである。

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 ジンジャーはアステアの愛慕を悟り、やはりユキノのように微笑を浮かべる。ところがその造作は性愛の優位を悟った高慢を醸しながらも、ユキノとは違い、受け手の反感を免れているように見える。口元は確かに笑みを湛えている。しかし、その眼差しが男の悲痛さを認めている。恋敗れたにもかかわらず、舞台の上では明朗に挙動しようとする男の健気さに感応している。

 造作のダブルミーニングがジンジャーの顔貌を高慢に見せないだけではない。自分の仮面を被るあのダンサーたちに紛れてやろうとジンジャーは策謀する。彼女の微笑が茶目っ気と解釈されることで、高慢が隠ぺいされるのである。


 オスの好意を察したメスが高慢になるのは自然である。にもかかわらず、フィクションの叙述に当たっては、女が反感を招くようであってはならない。その顔貌は高慢でありながらも、また別の解釈ができ得るような多義性を湛えねばならない。

 『柴又慕情』の吉永小百合は寅の好意に全く気がつかず、その鈍感が彼女を酷薄に見せかねない*2。ゆえに彼女に代わって彼女の無意識が男の好意を察知するのである。無意識の仕業ゆえに、女は自分の涙の理由がわからない。ただ当惑するばかりである。

 『一週間フレンズ。』で男の尽力を感知するのもやはり女の無意識だ*3。記憶を失っている女は男のことを忘れている。しかし無意識がそれを覚えていて、女を正体の知れぬ悲痛に陥れるのであった。

*1春を売る声を参照。

*2魔性からのサルベージを参照。

*3匿名の観察者を参照。

2018-01-04

匿名の観察者 『一週間フレンズ。』

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 設定の受容について語り手と受け手の間にすれ違いがある。おそらく語り手は解離性健忘を主題として軽視している。しかし、受け手としてはそれこそが叙述されるべきものと認識している。このすれ違いで設定の受容に困難が来す。とにかく不自然なのだ。こういう状況に置かれれば、日常のログを残すことは自然に発生する習慣だと思われる。ところが日記が斬新なアイデアとして劇中で取り扱われる。かかる不自然へのエクスキューズも乏しい。物語への導入の初動でこれがつまずきとなってしまう。

 健忘が主題となってはいない。では何を以て受け手の喚起を謀ろうとているのか。造形物としての川口春奈には、やせ我慢としてのダンディズムを放出するような、品のある陰湿さがある。殊に屋上で黙々と弁当を使う様が小動物のような憐憫を呼び起こす。陳述されているのは、同性から孤立してしまう美人の受難である。だが、同性からの嫌悪が課題ならば、解離性健忘をそこに介入させる必然性は少ない。かえって健忘の設定が主題を薄めかねない。むしろ、この段階での健忘はやせ我慢としてのダンディズムを春奈から抽出して、山崎賢人へ波及させる機能を果たす。失恋に耐久する男の心象が窮極的な課題として立ちあがるからだ。ただ、それでもなお問題は生じる。春奈が失恋男の心象陳述の捨石となってしまい、失恋において典型的にみられるように、女は一転して憎悪の対象になりかねない。そこで物語は山崎と春奈を互いに立て得るような、失恋の心象を超えた課題に至るのだ。『サウルの息子』のような、その尽力を密かに誰かが見ていた、という類型に。

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 『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の文化祭話数を想起したい。文化祭終了後、孤立するもこっちを抱擁するのは着ぐるみを被った今江恵美である。抱擁者の正体をもこっちは知らない。しかしわれわれは知っている点で、この話は一級劣っている。誰かが見ていた際、その誰かには匿名性が担保されねばならない。さもないと観察者の慈善の欲が発露していると解される余地が生じる。匿名性を担保するアイデアがこの類型において競われるべきで、『サウル』はそれをクリアしている。本作の記憶障害も最終的には観察者の匿名性を確保するために使われている。失恋の日々を叙述するモンタージュでは、視点は当然、山崎のそれに基づかれる。ところが、時折、女の視点が混入する。男の尽力を健忘したかのように見える春奈には、無意識がかすかに残存していて、瞬間瞬間に違和感で苛まれる。観察者のかかる匿名性が、男の尽力をあれは尽力だったのだと規定し始めるのである。

2017-12-29

ブルース・スターリング 『タクラマカン』

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タクラマカン (ハヤカワ文庫SF)

 メガゾーンから脱するのではなく、外部者がメガゾーンに包摂されてしまうオチであるならば、ディザスター物の範疇に入ることだろう。ディックの『ユービック』はこの系統にしてはイレギュラーな話で、メガゾーンへの包摂に幾分かの好ましさを付加し、かかる内向性が良くも悪くも人の耳目を引いてしまう。包摂されることで、死んだと思われていたバディが生きていたことをわれわれは知るのである。

 スターリングの本書では、メガゾーンはタクラマカン砂漠の核実験場跡に見出される。メガゾーン内部では脱出計画が進行中である。ところが、外部者である主人公は逆にメガゾーン内部に魅せられてしまう。メガゾーンの神官がツンツン美少女であり、個人的な性欲が男をメガゾーンに駆り立ててしまう。メガゾーンへ吸引する理屈としては他愛もない。ただ、外部者がメガゾーンに惹かれる構図は、現代の日本語圏読者にはメタ化されやすい部分もある。バブル直前の東京を「一番いい時代」と評価した『メガゾーン23』の語り手の自意識は興味深いが、タクラマカン砂漠に見出されたメガゾーンの中身が農耕部族社会ではなくバブル直前の東京だったとしたら現代の日本語圏読者ならば切なくなるだろう。


 『ユービック』とは違い本書の外部世界はメガゾーンに完全に包摂されるわけではない。あくまで外部は存在し主人公が両者を往来できる緩さがあり、切実さとは程遠い。しかし結末では、かかる緩さがメガゾーン回帰にディザスター物の浄化をもたらすことになる。緩いがゆえにメガゾーンが外部を侵犯できるのだ。何かでかいことが始まったという所感がそこから抽出される。

2017-12-21

『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』

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 冒頭で信州を旅する寅次郎からとらやに絵葉書が届く。「いいなあ君の兄さんは」とさくらに博が所感を述べる。手前の兄貴でもあるわけだから、この言い方には博らしくない距離感がある。中盤でも、いしだあゆみが上京して寅に付文を渡す場面で、博はメタな視点を持ち出してくる。「こういうケースは初めてだな。どう考えりゃいいのかな」と感想を漏らす。冒頭の台詞の距離感は、寅を客体化しようとする博と息子の満の働きを示唆しているのだ。

 博の述べる通り、『寅次郎あじさいの恋』はイレギュラーな話である。序盤の京都では、マドンナであるいしだあゆみの視点に躊躇なく尺が割かれる。寅の視点は圏外に置かれがちで、彼のマドンナにたいする好意があまり詳らかにされない。最初に惚れてしまったのはいしだあゆみなのだ。ところが、いしだには津嘉山正種という婚約者がいる。それでいながら寅に気をやるのだから、津嘉山との話が破綻しても同情を寄せ辛い。丹後に隠棲するいしだを寅が尋ねると色仕掛けまで繰り出す。本来であるならば、いしだの誘惑に応じることができず空寝を決め込む寅の成熟のなさに憤りが生じそうなところだが、いしだが淫乱でおそらく酒精依存の気もあるからことから、これは地雷ではないかと思われてしまう。寅の空寝もいしだの迫りくる薄幸の魔性からの緊急避難として納得できてしまう。しかし、上京してきたいしだに鎌倉デートを誘われても全く度胸がなく、満同伴でそれに臨む至っては、寅に苛立ちしかなくなる。さすがのいしだも気がついてしまう。このひとは甲斐性の全くない駄目な人だと。寅が「満を先に返す」と提案して間接的な告白を行っても手遅れである。いしだはすでに冷めている。

 「今日寅さん、なんか違う人みたいやから」

 寅の未成熟を見抜かせることで、受け手にとっていしだがようやく理解の可能な造形物となる。客体視によるキャラ立ては寅にも同じように作用し始めていて、博が物語の構造に言及した客体視が寅自身にも波及し、彼は自分を客体視しようとする。満を帰そうとできたのもその表れだろう。デートの前、恋の病に罹患しとらやの2階で焦燥していた寅は満に嘆じた。

 「おまえもいずれ恋をするんだな、可哀想に」

 焦燥という生理現象に苦痛を覚え、自らを憐憫しているとわれわれはこれを解しがちだ。ところが違ったのだ。寅自身が無意識ながら、本当の病が別のところにあると気づきかけていたのだ。

 鎌倉から単独でとらや戻った満は報告する。

 「おねえさんと別れたあと、おじさん電車の中で涙こぼしてた」

 いしだあゆみという特定の女との恋が破綻したことを嘆くだけではない。男は自らのネオテニーを自覚したのである。成熟したオスであるならば、失恋してもまた別のメスに機会を求めればいいだけである。成熟できないという病に冒された自分にはそれが永遠に出来ないことを寅は知ったのである。この認知は寅をシリーズから逸脱させかねない。したがって、われわれの知らぬところで、寅が自らの客体化を行う様を満は目撃せねばならないのだ。


 エピローグ。彦根城の堀端で寅は片岡仁左衛門と再会する。辺りでは部活動に励む女子高生の嬌声が響いている。冒頭の京都の鴨川で「じいさんも色気の方は卒業したんだろう」と寅は仁左衛門を揶揄ったものだった。その枯れた老人と童貞が性の位階の頂点に君臨する女子高生と対比される。わたしはあまりの酸鼻に震え上がった。