Hatena::ブログ(Diary)

感想文 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-01-23

自意識と英雄譚 『アイアムアヒーロー』

|  自意識と英雄譚 『アイアムアヒーロー』を含むブックマーク

f:id:disjunctive:20170124004917j:image:right

マンガが最高という咆哮からわかるように、常に業界人の自意識が滞留している。課題は雄らしさという性愛にまつわるものだが、片瀬那奈とすでに家庭が営まれている設定がその課題を弱くしている。猟銃というのも造形に合わないから唐突の感があり、自意識が物語に滞留するがゆえに、この恣意性を語り手は承知しているようにも見える。不自然と分かっているから手順を踏む。手順を踏むから話が進まない。冒頭はほぼ12分間停滞している。


語り手の自意識はまたゾンビに語り手自身の思想を語らせてしまう。自意識があるゆえに自分で語るのが恥かしいのである。しかしゾンビに自意識が仮託されると恐怖が減じる。意識が人柄を示唆し、人柄が彼らをゾンビに見えなくしてしまう。他方で、生身の有村架純の人柄が紋切り型を出てこない。音楽というガジェットを使って言葉で人柄が説明されてしまう。人柄は事件への対応を通じて表現すべきものだろう。しかし進展がなく事件がないため反応を描画しようがない。ただ、自意識があることが感情移入への阻害となっているのだから、有村架純が後に自意識を失う展開は正しい。架純とのバディムービーを合理化するためには、彼女を人外化する必要がある。これもまた作者の自意識の照れではある。それが結果として少女の人柄を描画できないことを逆に活かしたように見える。


+++


ゾンビに残存してしまった意識は殺そうとする決断を軽いものにしていると言わざるを得ない。自意識の残存は人に死の自覚をもたらすのだが、かかる覚悟は観察者に抱かせる不憫を減じてしまう。猟銃の使用に至る細かい段取りは作者の自意識の産物だったのだが、殺害が軽いものに見えてしまうから、使用に至る決意の重々しい過程がわからなくなる。


恣意性を隠そうとする手続きにも蔑にされている部分がある。たとえば易々と駐車場にたどり着ける長澤が男たちのそれまでの労苦の意味を失わせる。架純の我に返り方も都合がよく、このあたりの恣意性を暴露には躊躇がない。架純の意識が半ば温存されている設定にかんしては原作準拠が優先されていると考えるべきなのだろう。作品内では伏線の回収は行われていない。

2017-01-07

離断なき絆 『君が生きた証』

|  離断なき絆 『君が生きた証』を含むブックマーク

f:id:disjunctive:20170107233124j:image:right

劇中の人物の行動に不審がある。これが合理化されるのは受け手にとってたいへんなよろこびだ。しかし事情が明らかになっても、受け手がそれまでに不審を覚え続けたという事実と経験は変わらない。すでに過ぎ去ったことなので、取り返しのつきようがない。しがって、われわれがキャラクターの行動に不信を感じ続けているまさにその時間において、かかるストレスを緩和する措置が並走せねばならない。


本作における受け手の不審とは何か。ビリー・クラダップのバンドはビリー息子の書いた曲でのし上がる。ビリーは曲の出自をメンバーに明かさない。息子は銃乱射事件で落命している。ビリーはなぜその開示を拒むのか。バンド活動を通じて息子の喪失から立ち直るビリーとバンドがのし上がる過程の享楽がこの不審を紛らわす。それが前半の構造である。


中盤に入ると作曲者の開示を拒む理由が明らかになってわれわれはたまげる。しかしその驚きの性質が問題なのである。驚いたのは予想ができなかったからだ。語り手は開示される事実を匂わせる情報すら隠匿していた。伏線を伏せすぎて回収したという実感に至れず、アレがそうだったという感激に乏しいのである。隠しているのだから驚いて当たり前なのだ。


語り手が受け手に望んだこと。それは息子が乱射事件の犠牲者であるとわれわれが思い込むことである。しかし息子はサイコパスであった。父ビリーが作曲者の情報を開示できるわけがない。ビリーの行動の謎が氷解するだが、今度は別の不審が出てくる。息子がサイコパスという情報を隠したい欲望が、息子の人格を都合に応じて改変させてしまう。


本作の明瞭な伏線は事件後に張られていて、だからこそ弱くなってしまう。事件直後、ビリーを慰める人々の様子に違和感を持たせることで伏線が設定される。かかる違和感のカウンターとして機能するのが、事件発動直前の息子の日常に言及する冒頭の場面である。そこで描かれる彼はサイコパスとはとても思えない。常套としては、サイコパスか否か判断を留保させるような荒い解像度で息子の生活は切り取られるべきだろう。しかし本作では積極的に隠ぺいしようとして、普通人としての息子を殊更に強調する。即物的な驚きの追及が優先されて、キャラクターの造形の一貫性が犠牲にされるのである。


中盤の伏線回収以降、かかる新たな疑問は受け手の没入を妨げることになる。メンバーに情報を開示しない不審が、今度はリスク管理に無頓着なビリーの無能に対する苛立ちへと変わり、受け手に別のストレスがもたらされる。バンドの興行は拡大する。手遅れになる前に息子の情報をメンバーに開示せねばならないのは自明に見える。ところがビリーは何の手も打たないから、最悪の形で露見してバンドが崩壊しても同情を誘われない。


息子の造形展開を超える享楽を提供できなかった物語は、ここでようやく新たな動機をビリーに与え得たともいえる。創作物は創作者の人格から独立できるか。それが物語の最終的な課題となり、とうぜん独立すべきと主張される。


わたしはこの主張に反対である。色眼鏡を超えられるというのは人間の傲慢であると考える。たとえ人格と作品を分離できても、良き創作物が創作者の人格を高からしめる経路が途絶してしまう。だが、本作の見解を受け入れたとしても、作中でそれを裏切るような現象が起こる。ライブバーに赴き、息子の曲だと明かした上で弾き語りを始めるビリーの場面で物語は終わっている。真実を知った聴衆は一様に謹聴の面持ちである。ステージの男は無差別殺人犯の父親で、歌われているのはその息子が書いた曲かという嗟歎が自ずと醸されている。創作者の人格が利用されているのである。

2017-01-06

同時多発通過儀礼 『天空の蜂』

|  同時多発通過儀礼 『天空の蜂』を含むブックマーク

f:id:disjunctive:20170107002027j:image:right

本作('15)と『BRAVE HEARTS 海猿』('12)と『シン・ゴジラ』('16)を震災トリロジーと呼んでいいだろう。ともに震災に感化された公務員賛歌である。他方で、全くの偶然ながらこれらの間には『新幹線大爆破』の影が見え隠れする。


『海猿』と『天空の蜂』はパニック映画に準拠する点でまず一括りにできる。そして『天空の蜂』は『新幹線大爆破』の事実上のリメイクなのだ。新幹線がヘリと原発というガジェットへ翻案され、『新幹線』同様に爆弾処理と並行して爆弾犯を追う捜査シーケンスが展開される。


シン・ゴジラに対する『新幹線大爆破』の影響経路は欲望で歪んでいる。シン・ゴジラの語り手たちはかつて『新幹線』のレーザーディスクのブックレット上でリメイクを作りたいとハッスルした。劇中で爆破されることのなかった新幹線は、40年の時を経てN700系爆弾としてゴジラに突入しようやく爆発できたのだった。


+++


『天空の蜂』は『新幹線』のフォルムにあくまで忠実である。ゆえに両者を比較すると、『新幹線』の良きところ、『天空の蜂』が『新幹線』を継承しようとして果たせなかったところ、逆に継承し発展させたところがよくわかる。


『天空の蜂』のよくないところ。それはモックンの動機の弱さに尽きると思う。共感がむつかしいのである。


父の職業に向けられた迫害の余波で息子が自決してしまった。モックンは息子の自死を社会的な文脈で把握して原発を人質にする。ところがモックンには職業を選択できたのである。かかる職業を選択せねば事態は回避できた。息子の顛末にはモックンにも責任があると解釈できて、それを他に転嫁しようとすれば、彼は責任を受容できないように見えてしまう。


対して『新幹線』は誰にも責任を負わせようとしない。キャラクターたちは語り手の恣意性に翻弄される*1。沖縄から集団就職で上京したヒロシは行く先々で会社を倒産させる。これは彼の責任ではない。佐藤純彌の散漫な気質がそうさせるのである。高倉健は純彌の散漫な気質を伝播させることで報復を目論み、宇津井健がその巻添えを喰らう。


『新幹線』には大人しか出てこない。誰も事案の生起に責任がない。にも関わらず誰も仕事人の全うを破棄しようとしない。ヒロシの不幸体質という宿命を分散してみんなで担おうとする。『新幹線』は大人というあり方に対する審美的な評価を行うのである。対して『天空の蜂』はモックンに大人を全うさせようとしない。


+++


社会的な文脈から演繹され構築されて絵空事になってしまった犯人の造形とは対照的に、『天空の蜂』では『新幹線』の捜査シーケンスがより精緻化されている。『新幹線』の現場捜査員にたいする眼差しは侮蔑に近い。『天空の蜂』には語り手の同情がある。公務員に対する移入は震災映画の証だ。


シンゴジ以後からすると『天空の蜂』の序盤の停滞ぶりは目を覆わんばかりのものである。シンゴジはわずか十数カットで水蒸気の噴出に至る。『天空の蜂』は序盤15分、話が進まない。ところが一端転がり出すと、キャラクター造形の点でシンゴジよりもはるかに優れたパフォーマンスを発揮する。


爆弾処理と並走する捜査シーケンスもまたふたつのサブシーケンスに分割される。愛知県警の手塚とおる&松島花と福井県警の柄本明&落合モトキである。


名古屋組の手塚とおるは相変わらずのマンガである。これがクールなのにギア方言の松島花と組み合わさることで有能さという現象の多面性を描画する。


福井県警の柄本明は原発所長の國村隼と相まってシンゴジとの連なりを否応なく意識させてしまう。この二人はシンゴジに登場したほとんど唯一の大人たちである*2。状況を批評せずにはいられない現場にあって彼らは批評を行わない。


『天空の蜂』の柄本明もその特性は同様である。


シンゴジは大杉漣が柄本明の介助によって大人になろうとする物語である。『天空の蜂』は落合モトキが柄本明の介助によって大人になろうとする物語である。そして大杉漣も落合モトキもその途上で落命する。宿命を受容する大人の様態を扱った『新幹線』に対して、『天空の蜂』は大人に至る過程を注視するのである。


+++


f:id:disjunctive:20170107002028j:image:right

柄本明と大沢たかおのキャスティングの絡みで笑ってしまった事があった。柄本はその脇役属性から上記作品に限らず主人公の行動の介助することが多い。


解夏』の大沢たかおはベーチェット病で視力を失おうとする。そこに失明者の柄本明が指南役として登場して、どんな最悪の事態があり得るかたかおを散々に脅す。これが『桜田門外ノ変』では一転してたかおの無軌道に柄本が巻添えを喰らい渋面を作らされる。報復だとわたしは思った。『桜田門外ノ変』の監督は佐藤純彌である。

2016-12-31

邪念の呼び声 『花のあと』

|  邪念の呼び声 『花のあと』を含むブックマーク

f:id:disjunctive:20161231211633j:image:right

正反対の資質を持つ二人の男が投入され、どちらが社会的な淘汰圧を耐え凌ぎ生き残るか、それを試そうとする映画なのである。イケメンの体育会系、宮尾俊太郎北川景子が惹かれてしまう。ところが彼女には許嫁の甲本雅裕がいる。この男二人の対比がマンガなほどわかりやすいのだ。



f:id:disjunctive:20161231211634j:image:right

宮尾の凛々しい姿態を散々に見せつけた後に甲本が江戸から帰ってくる。北川にセクハラするわ食い意地が張っているわで、これで性格が悪ければ話は簡単なのだが、困ったことに甲本は善良そのものでもある。受け手へ訴求する資質について、二人の間には競合の余地が残されているのであり、どちらの資質について語り手は好意を寄せているのか気になってしまう。フランクな文系男の甲本に移入せざるをえないわれわれとしては、彼の大勝利は望むべくもないとしても、悲劇的な脱落だけは避けてほしい。語り手の価値観を推測することがスリラーとして働くのである*1


+++


本作の北川景子の芝居は品が良くない。教育によって彼女は不平を直截に呈することはない。代わりに顔容が感情の指標として使われていて、八の字眉が連発する。景子の印象が悪いために、彼女に入れ込まれた宮尾への心証も悪くなる。


作品の顔力への傾斜は亀治郎の登壇で極限に達する。お得意の新劇崩しの芝居で亀治郎の顔面はその登場場面をことごとく笑いの渦に叩き込む。景子の顔芝居は亀治郎の余波なのだ。


感情表出について印象が好ましいのはやはり文系のブサメン甲本の方で、宮尾への北川の恋慕を悟った彼は笑いで動揺を誤魔化しつつ足取りを一瞬ふらつかせる。これもマンガといえばそうなのだが。


+++


仕事人としてのこの二人の能力を試す藤沢周平のスタンスは、当初は曖昧にされておきながら結果はわかりやすく残忍である。体育会系の宮尾は官僚機構には全く適応できない脳筋とされ最期は自刃する。愛する宮尾の顛末に気が気でならない景子は、真相の究明を甲本に依頼する。ここで藤沢のスタンスが明瞭になり始める。究明するという活動が甲本の有能さを展示するための手段となる。


景子厳父の國村隼がなぜか甲本と馬が合うという謎が序盤で出てくる。この伏線が回収されるのであり、当人の意図ではないとはいえ、結果的に景子は男選びに関して正しい選択をしていたのではないか。そういう展開になってくる。


体育会系と文系の相剋において亀治郎は境界的な人格をしていて、ゆえに彼は媒介者となる。誰よりも官僚機構に順応する亀は無楽流居合いの遣い手でもある。宮尾を罠にはめた黒幕であった彼は、報復として挑まれた景子に傷を負わせる。これが甲本による傷の手当プレイという常套イベントの発起となり、その頼もしさに景子ならずともメロメロである。


後日談に入ると文系の自惚れはとどまるところを知らなくなる。われわれの分身たる甲本は後に筆頭家老まで出世を遂げたと開示され、景子は男選びで大勝利したことが判明する。こんなに気持ちよくていいのか不安になるとともに、宮尾を文系称揚のための単なる踏み台とした藤沢の邪念と冷酷さに震え上がるのである。

2016-11-29

大海信長伝・下天II

|  大海信長伝・下天IIを含むブックマーク

先日『大海信長伝・下天II』を十数年ぶりにやって、このゲームの好きだったところをいろいろと思い出した。下天IIは今でいうならばパラドゲーである。17世紀前半が舞台で日本しか担当できないのだが、インドまで行くことができる。


武将の能力値の可変性が高く戦闘のたびに彼らが成長する本作にはシミュレーションRPGの趣がある。育てゲーの楽しさというべきか。本作の事実上のラスボスはヌルハチになるのだが、史実とは違い、放置しておくと雲霞のような騎馬軍団が日本列島に上陸してくる。女真軍団が山海関を破る前に武将と陸軍の熟練度を上げて満州に突っ込ませねばならず、時間との競争が緊張をもたらしてくれる。


今回、新たに気付いたこともある。


f:id:disjunctive:20161129201438j:image:right

本作の根源的な課題は経済成長にある。経済成長を以て、やがて無尽蔵に湧き出てくる騎馬軍団に対抗せねばならない。ところが、日本の初期条件は大幅な財政赤字であり、“資金”はマイナス状態からゲームが始まる。この数値の意味するところがわたしの知識では不明瞭なのだが、とにかくマイナスになると以下の不都合が出てくる。まず兵力の補充・拡張が行われない。さらに資金の赤字が累積すると物価高になり人口が流出して一揆が発生する。結果、GNPが減少してしまう。


この機序は一見して不可解である。財政インフレはともかくとして軍備拡張できないのが解せない。ただこの点だけを見れば、発売当時の世相を反映しているのか本作は緊縮志向のゲームであって、最初に歳出を削減して資金のマイナスを解消せねば補充すらかなわない。しかし経済成長を期するとなると歳出削減だけではどうにもならなくなる。本作の経済成長は教育への投資とリンクしている。それをねん出するために歳入そのものを増大させる必要がある。ここで初期条件の財政赤字の意味が解されてくる。日本国内にとどまれないように設定されているのだ。ゲーム開始の翌年に家康の叛乱イベントが発生する。それをしのぎつつ東南アジアからインド一帯にかけて政務団を派遣して商館を建てまくり、イスラム商人から市場を奪うのである。これで一応、財政は黒字となる。だが、これがもし交易不能な世界であったらどうなるか。資源と市場へのアクセスが制限され経済成長の術がない世界だとしたら。そう思い至ると、本作は17世紀を舞台にしているようでいて実のところ近代日本のパロディであり、ヌルハチとはロシアのことだとわかってくる。交易不可という条件があれば、そのまま1930年代の日本のパロディになるだろう。


現代のわれわれは30年代の人々の行動をよく理解できなくなっている。ところが本作をやると、気づけば似たようなことをやってしまっている。


無茶苦茶に強い家康を1年かけて退治したのち、手元が狂って南進した信長軍団はベトナムに上陸侵攻。そのまま東南アジアを席捲する。安土に引き上げて数年の雌伏を経て、いよいよ満州に上陸してヌルハチと雌雄を決する。ヌルハチは気が遠くなるほど強い。撃滅に2年かかった。逆にヌルハチからすればこれは不条理な話で、とつぜん雲霞のごとく20万の砲兵とマスケット兵が上陸してくるのである。いったん撃退しても翌年にはまた同じものが来寇する始末だった。


こうして女真族を滅ぼした織田・羽柴・伊達・島津軍団は勢い余って山海関を超えて明国をなぜか蹂躙。そのまま天竺に達しムガール帝国を滅ぼし、ついでにアルマダを太平洋の藻屑とするのだった(BGM: 総進軍の鐘は鳴る)。


D