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2017-06-21

『HiGH&LOW THE MOVIE』

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 一見には琥珀さんがわからないのである。シリーズからは独立した、自己完結した物語として本作を観察してしまうと、三十半ばになっても族を引退しないヒゲのオッサンが精神的支柱を失ってオロオロしている何とも貫録のない話になってしまう。琥珀さんの慕われ様が不条理に見える。

 このわからなさは、あくまでシリーズを踏まえない受け手にとってのそれであると考えてしまえば割り切ることはできる。ところが結末で判然となるのは、琥珀さんのわからなさが然るべく設定された謎であったことである。これは琥珀さんを知る物語であって、彼の不可解な行動の解釈が課題となっていた。ひとつの独立した話として完結しているのである。103分目で、ついにありし日の琥珀さんの回想が始まるのだ。

 「シケた顔してんじゃねえよ」

 「お前といっしょに走りてえからよ」

 口惜しくもうれしい。これまで散々に琥珀さんの小物振りを見せつけられてきたわれわれとしては屈したくないのである。ところが体は勝手に例の「琥珀サァーン!」モードに堕ちてしまう。小物として描画されてきたからこそ、それに屈することに背徳感が生じる。

 本編での小物な印象は回想になっても拭えない。思い出の中でいくら琥珀さんが父権を振りかざしても、やはり小物である。しかし、無理をしている様子が窺えるからこそ、君主の徳というべき魅惑が琥珀さんから漏れ出でてしまう。父権の属性のないものが立場ゆえにターレンぶらねばならない痩せ我慢が、われわれや手下を惹きつけるのである。これは琥珀さんのやせ我慢が決壊する話だったのである。

 

 『HiGH&LOW』が叙述する抗争はサハラ以南の部族社会のそれと何ら変わることはない。時代錯誤な反近代賛歌である。だが、琥珀さんを怨念の連環から解放する課題に物語が取りかかると、琥珀さん個人の課題がホッブス的状況からの解放という社会的な課題と一体化して話が普遍化する。

 「自由に走れ」

 あろうことか琥珀さんの人生がわたしの人生と重なったのである。

 人生は偉大だ。加齢は素晴らしい。こんなサハラ以南のごとき猿山の抗争にすら人生の符牒を見出せるのだ。

2017-06-14

涙を湛えて微笑せよ

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 男も女も互いの面識を失っている。にもかかわらず、愛の実効が二人の間で再現されてしまう。その際、恋が宿命であったことの強度は記憶喪失の度合いの関数である。記憶がないほど宿命的になる。

 『明日の記憶』では、女についての記憶を失っている男は改めて彼女に恋をすることで、愛の強度を明らかにする。一方で女は男のことを覚えているので宿命の感には欠ける。

 『君の名は。』になると女の記憶も希薄になるため宿命の度合いは高まる。ただ、男女とも完全に記憶を失くしたわけではなく、記憶を失くしたという記憶はあって、互いになんとなく互いを認識できてしまう。

 男女の記憶欠如をさらに進めて、完全に面識を失わせると『未来からのホットライン』となる。二人は互いを知らない。にもかかわらず二人はやはり出会ってしまう。


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 記憶喪失を徹底させない『君の名は。』の、ある意味で商業アニメらしい妥協は、放映版の『魔法少女まどか☆マギカ』のそれを思わせるものだ。そこでは、事件は主人公の自己犠牲によって解決する。自己犠牲は主人公が忘却されるという形をとるが、やはり希薄な記憶は周囲に残置されてしまう。自己犠牲に悲壮さがそれで随分と緩和されてしまう。

 自己犠牲ではないものの、周囲の集団忘却に主人公が巻き込まれる『ONE』では、ヒロインによって主人公に対する記憶にムラが出てくる。この物語では逆に覚えていることがヒロインの立場を特権化する。覚えていることで、主人公の消失に立ち会えるということもある。試練が主人公からヒロインへと伝播するのである。


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 『まどか』の忘却の半端さが気になるのは、『serial experiments lain』の存在が個人的には大きい。ヒロインが忘却されることで事が片付くというモチーフを両作は共有している。しかし玲音の方が忘却される度合いははるかに高い。にもかかわらず彼女は平然と事態を受容してしまう。

 数年前『lain』を再見したとき、冒頭の世相の暗さの如何にもな感じに不安を覚えた。黒沢の『大いなる幻影』を再見したときもそうなのだが、この暗さは自殺者を激増させた当時の経済難の反映であって、今日では通用しない時事ネタに物語を見せかねないのである。なお、『ONE』の発売と『lain』の放映は98年である。『大いなる幻影』の公開はその翌年である。『幻影』もまた忘却の縁にある主人公男をヒロインが覚えていると解釈できる話である。

 『lain』の再見に話を戻すと、話数が進むにつれて大林隆之介への移入がはじまり、この時事ネタ感は薄れてきた。玲音が娘のように思われてきてしまい、むしろ加齢という今現在の個人の問題に直面することとなった。ところが、終盤になると玲音と完全一体化したのである。最終話に至っては、本放映よりもはるかに感激を覚え落涙した。誰からも忘れられても泰然と微笑を浮かべるこの娘にわたしは自分を見出したのである。わが人生がそこに描かれていたのだ。


 『君の名は。』の結末に違和感があるとしたとき、ハッピーエンドゆえに苛立つとなれば大人気ないだけなのだが、恋が成就するのはよいとして、そのアプローチが直球過ぎるがゆえに違和感が生じている可能性は検討されてよい。前述のように、わずかとはいえ記憶が残っているために恋の宿命と希少性が両立できていない。ではどういう解決があり得るのか。

 『君の名は。』の最後は、結論は違うとはいえ、秒速の変異体である。そして秒速は、ある一面において『(500)日のサマー』と結論を共にしている。自分の甲斐性を上げる以外に恋の成就の途はないという解答が出て、ジョゼフ・ゴードンが就活を始める。われわれはここで、タキくんが就活に勤しむ『君の名は。』の終盤を思い起こしていい。ジョゼフは同じく面接にやってきたオータムを口説く。タキくんも同じことをやればいいとわたしは妄想する。『未来からのホットライン』のモチーフとの接続である。タキくんも三葉も互いに対する記憶は完全に失っている。にもかかわらず、タキくんは三葉を口説いてしまうのである。

2017-06-13

『クリーピー 偽りの隣人』

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 精神病質者の視点がたびたび挿入される。理解不能な人物の主観が入るわけだから、男の病質性はおのずと低減される。地下鉄の場面で明示されるように、男の挙動が精神病質であるとはっきりと定義したくない意図がある。彼がそれであるのかどうか、その可否の追求が緊張を伴う課題となるからだ。しかしこの構成には問題がある。中盤で男が精神病質者であると明確になるが、それでもなお、あるいはだからこそ、われわれは前半の男の姿を引きずらずにはいられない。

 同じ問題は『君のいた証』でも見られた。この話も劇中の人物の精神病質性の可否を問うことで受け手に緊張を強いるよう構成されていて、序盤ではその人物の精神病質性を隠さねばならなかった。したがって、前半と後半で彼の造形が分裂してしまう恐れが出てしまったのである。

 『クリーピー』には、まことに黒沢清らしいことに、病質者への同情が認められる。前半の視点開示も同情と共感の結果だと解せる。精神病質者へのかかる興味は、病質の確定を境にして分裂しかねない彼の造形を統合しようとする働きとなって現れる。病質が確定されても男の主観は開示され続ける。理解できない精神病質を叙述するという営みがそこで発生してしまう。

 黒沢の90年代のフィルモグラフィーの中で、たとえば『復讐四部作』や『CURE』でこの営み自体は散々試みられたことであるが、アプローチが異なっている。精神遅行や障碍者の累犯の様態に近いものとして本作では病態が描画されている。障碍者と少女の組み合わせは、ジャンルとしては『レオン』や『アイ・アム・サム』に似たものがあり、やはり病質への憐憫を伴う同情がある。

 人間を手段としか認知できない精神病質の、カント的な倫理観への反立も、目的の欠如として意図的に誤解釈される。目的がないゆえに、行動が地勢に従属してしまい、それが憐憫をもたらす。一方で、特定の地勢が人を動かしてしまう不思議が話をただの同情で終わらせない。病質を理解することが自然に人間的な性質を見出すアニミズムとして解される。そして自然物とされた病質が同じく自然物である動物と遭遇すると、話は唐突な幕切れを迎えるのである。

2017-06-12

補完される機能的色彩

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叛逆航路 (創元SF文庫)

 劇中の人物が自分の正体を知る叙述文学の公式は、その冒頭において、自分が何者か知らないがゆえに当該のキャラクターから機能的色彩が欠落することがある。それは受け手のいら立ちを誘いかねない。

 『叛逆航路』はバディ物であるが、キャラクターの無能さが誘う苛立ちを緩和すべく、機能的色彩を担う別のキャラクターが当座のしのぎとして準備され、したがって相棒物となる。自分の正体をしらない人物が相棒の感化によって起動する点で、それは依存と感化の相棒物である。

 この公式でいうと、『バトルアスリーテス大運動会』の冒頭は無能なヒロインが相棒に依存する物語である。やがてヒロインは自分が何者かを知る。その段階でこの相棒物は、ヒロインとそのバディの力関係の逆転に着目する。ヒロインの視点で相棒に依存する物語を叙述してきたそれはバディの視点に移行して、天才が目前に現前したときいかなる態度をとり得るかという課題を提示する。

2017-05-13

失われた記憶と分岐する人格

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 記憶を喪失した人物が災厄に見舞われている。その災厄は、記憶を失う以前の当人が引き起こしたものである。しかし記憶を失った彼はそれと知らずして災厄と戦っている(『ヘラクレスの栄光III』『CASSHERN』)。

 記憶の継続を人格の要件と見なす立場を採用すれば、このケースの業の深さは軽減する。記憶が途絶しているのであれば、過去の悪さを引き起こした自分は別の人間であって、今の自分は責任の主体とは言えない。では記憶を回復して自分の罪業を思い出したのなら、責任の主体を取り戻せるのか。それはそうであろうが、曖昧なところも残る。記憶が回復された人格にあっては記憶を失う前の本来の人格に記憶を失った以後のそれが合流しているので、喪失以前と回復以降の人格が一致するとは言い難いのである。


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 記憶の喪失がその断絶を境として同じ人物をふたつの人格に分岐させることで、アリストクラシーな倫理観の契機となることがある。『ファミコン探偵倶楽部 消えた後継者』の結末をそのように解釈することもできるだろう。

 今、自分が享受する境遇は過去の自分の尽力に依るものである。ところが、記憶喪失が今の自分と過去に尽力した自分を別の人格にしてしまっている。自分が行った事でありながら自分の責任だとは思えない。むしろ昔人の恩顧を以て自分があるように感ぜられてしまうのである。