2010-07-01
わたし、The Smiths、スキよ ―― 500 Days of Summer のトレーラーを見て
映画 |
エレベーターで The Muffs を聴いてるわたくしに、同乗の萌え美少女が微笑みかける――「わたし、The Muffs、すきよ」 劇中のトムはたちまち顔をたるませ、われわれをキモがらせつつ泣かせるが、わたくし個人の所見としては、萌え美少女に共通の趣味を見出しても、顔が弛緩するという反応は想像できない。むしろ引きつりたくなる。これはなぜか。理由を三つ考えた。
第一に民間生態学の解釈。趣味の似てる個体同士がつがいになると、種の多様性が担保できない。よってわれわれは趣味の近すぎる異性を拒絶する。
二番目。物語の恣意性が明らかになって興醒めする。オッサンである自分と趣味を同じくする萌え美少女が存在するはずない。したがってこれは夢である。物語が語り手の欲望の体系であることを否定しない。しかしかかる恣意性が誤魔化されないと、われわれはよがれないし、そこに話者の芸がある。オッサンと女子高生が恐怖映画で盛り上がったとき、『JUNO』の語り手は可視化されネタとなる。それにしても誰か『僕の彼女はサイボーグ』を止められる者はいなかったのか。
三番目。ミソジニーと差異化ゲーム。つまり萌え美少女ごときが俺の差異化ゲームに伍するのか、という憤怒。これは彼女を通してセキララになった自分の優越感ゲームへの恥じらいでもある。The Muffs を差異化ゲームとして使う少女に滑稽を見て、それがそのまま自分に返ってドン引くのである。わたくしはなんとつまらない差異化ゲームをやっていたのかと。

たいへんクレバーな映画とは思いましたが…。でもいいじゃない…都合の良い妄想させてくれてもいいじゃない…。そんな泣き言めいた感情も沸き上がるのです…うぐぅ。