2011-02-25
(長めのtweetをここに移した)
十年目の『狂い咲きサンダーロード』
映画 |
「シゲル……変わったな」という辰夫の台詞には、やはり誤誘導が含まれている。敵対者への言葉だから、シゲルはネガティブな意味合いで変わったのだと受け取りたくなってしまう。ところがこの後の台詞で、辰夫の意外な真意が明らかになる。「えらいカッコイイぢゃねえか」と彼は続けるのである。
ここでシゲルの成長は重要でないと考える。成長したのはシゲルを認められた辰夫の方である。この映画は辰夫の造形の恒常性に価値を置いていると思ってきたのだが、それは半分は正しくて半分は間違いと思うようになった。彼は実のところ成長していたのである。
機能は伝播する ―― 『大列車作戦』
映画 |
機関士ではなく運転主任の映画である。普段のバート・ランカスターはデスクワークをしたり、信号所でテコ操作やったりする。これが非常時には機関士をするというのだから、「キャーシュニンサーン」と嬌声が飛ぶ。90分で機関車を降りたランカスターがランボー化して「キャーシュニンサーン」から逸脱しても、今度はドイツ軍の少佐殿が機関車の運用を引き継いで、冷酷な現場主義で「キャーシュニンサーン」を煽る。キャラの逐次投入のお手本と言ってよく、「キャーシュニンサーン」という機能性が彼我を超えて引き継がれるところに、話の奥行きが出る。「キャーシュニンサーン」は線路周りの人間に憑依するのだ。
奥行きといえば絵面もそうで、線路の近くでローポジすると、線形がたちまち消失点を暴露してしまう。そこに沿って隊列がならび、犬釘が抜かれて行くから、遠近感がわかりやすい。
64年の作品であるが、所々にヌーヴェルヴァーグの風が吹き始めていて、過度期を思わせる。
天使を確定せよ――『ウォーク・ザ・ライン』
映画 |
『ウォーク・ザ・ライン』の恋愛観は、天使はあらかじめ措定されているとする。ただ、あくまで措定されるにすぎないから、たとえば某女優を見て「俺の天使だ」と猛り狂ったとしても、その女が天使だとは限らない。天使とは、遡及的に振り返ってようやくあれが天使だったと確証できる類のものであって、実際に女と結婚したところ夫婦生活に倦怠を感じないとは限らないのである。それは実際に添い遂げるまでわからない。
この話は、結婚というイベントを一種のミスリーディングとして用いており、ともに離婚経験者であるホアキンとリーズの行く末に悲観的な見解を抱くよう誘導が行われ、その結果、天使の概念に疑問が生じる。女が天使であったことは、ふたりが添い遂げたことを告げる後日談において、ようやく確証される。
ホアキンにとって、リーズを天使として同定して行く過程は、未来を思い出す作業でもある。天使はあらかじめ予定されてるのだから。ところが「童貞の怨念は岩をも砕く」なかで、遡及的に確証されるはずの、宿命論的な天使の予定説は明らかにその意味合いを変え、ホアキンに諦念を求めるどころか、逆に彼を駆り立ててしまった。彼女が天使だから添い遂げられる。というより、何があろうと添い遂げれば、それで天使は確証する。
こうして『ウォーク・ザ・ライン 君につづく道』はその名のごとく、ゼロ年代童貞映画の頂へと至ったのである。
『ジェイルバード』
テクスト |
応報の教育的感化が先にあって、救われるという情報が倒述的に公開されても問題はない。というより、感化へ興味を向ける点で、むしろ公開せねばならないのかもしれない。
救済の仕込みと発火の時間差が小さくて、まさかアレが仕掛け花火だった的な、因果の案外な距離感で魅せるような話ではない。具体的な発端が後ろになる以上、救済の詳細な方法への興味が強い牽引になることもない。あくまで、集中力に欠ける与太話のゆるやかなガイドとして用いられているようだ。
『大病人』とは何だったのか
映画 |
『大病人』は『マルタイ』の前哨戦だ。どちらも人を莫迦にした劇中劇から始まり、プロデューサー田中明夫の人を莫迦にした頭部は、悪徳弁護士・江守徹の人を莫迦にした頭部に引き継がれる。本多俊之の劇伴も相変わらずである。『ミンボーの女』が『大病人』&『マルタイ』と『マルサ』を分けたと言ってもよい。
『大病人』がしねフィルの不興をかうのはくやしいかぎりだが、そのいら立ちはわからんでもない。劇中劇のソープドラマ臭はあんまりだし、津川雅彦も木内みどりも猛烈な目パチを繰り出し、やはり人を莫迦にしてる。伊丹の記録映画的なリアリズムがコミカルなキャラクターとかみ合わない。
告知された三國の反応もすさまじい。気丈を装いながらも体は猛烈に震え始める。あまりの振動に、驚いた津川が三國を抱きかかえる。そして、ここまで来てようやく、あえてキャラの物腰をコミカルにした意味がわかって来る。あそこまで過剰にしなければ、三國×津川という濃厚なスキンシップが成り立たないのだ。この感覚は『マルタイ』にあって『マルサ』に欠けるものである。
『断作戦』
テクスト |
文芸寄りの『断作戦』に『パンツァータクティク』のような戦場の解像度を求めるのは筋違いであるし、『ペリリュー・沖縄戦記』のような生活観察も期待できない。戦況が既知外なため帰還兵の記憶が断片化している。また戦況図もついてないから、何が進行しているのかよくわからない。それでも騰越城の北東まで後退すると、ビジュアルが整理されてきて風景が見えやすくなる。拉孟の入り組んだ地形より、城壁で限定された市街戦の方が、絶望の図解化はやりやすい。
帰還兵物とは言えるだろう。しかし、ハリウッド映画ほど帰還兵の心理に悲愴な執着がない。というより戦場との距離感を受け入れようとする。ポール・ハギスだとWWIIの『星条旗』ですら、この時間を受け入れない。過去と現在を錯綜させて、とりあえずベトナムにしてしまう。『断作戦』の穏やかな時間の受容には、『星条旗』のラストのようなロマンティシズムはないが、抑制は抑制でひとつの感動の技術だろう。
愛をワナビの担保にする
『ハルヒ』と『耳をすませば』は恋愛を自己実現の担保にしている。たとえワナビの充足に失敗しても愛がある。ハルヒの心理のなかではワナビの充足が失敗していて、恋愛に逃げるしかない。
『狂い咲きサンダーロード』は真性童貞映画だからワナビの担保としての愛を拒絶する。恋愛のために魔墓呂死を解散した健は、恋人に「わたしがいるとあのひとがダメになってしまう」と捨てられる。童貞を貫いた山田辰夫はスーパー右翼に立ち向かい身を滅ぼす。童貞は恋愛を扱えないのだ。
形式主義でストレスに対抗する ―― 『加奈』
ギャルゲ |
『加奈』の日記には「リンゴの木を植える」的な文芸の説得工作と課題が含まれている。言葉遊びによってモラルハザードは防げるだろうか、という問題だ。主人公男が亡くなった妹の日記を開き「明日のわたしが、今日のわたしより、すぐれたわたしでありますように」という記載を認める。これに男が感化されてシスコンをやめるのはよい。しかし加奈自身にこの手の言葉遊びは効果を及ぼせたのか。学習意欲をあおっても余命は3ヶ月なのだ。規則とか習慣という惰性を以て、事態に対抗していると考えれば、日記の内容は問題ではなく、日記を書くこと自体が目的だったことになろう。もちろん言葉遊びだから限界はあるだろうが。
『君を忘れない』のキムタクが、これから死ににゆくのに歯磨きをしてしまう。キムタクはこの不条理を笑うが、心の疾患があっては業務に支障が出て死ににゆけないので、歯磨きは歯磨きで効用があったのかもしれない。こじれるひまがあったら手を動かせとか、技術は童貞を差別しないというのも、形式主義でストレスに対抗しているととれる。
ナルゴコロ 炎上する照葉樹林 ―― ドーラの夫と『豚』から『もののけ』へ
映画 |
設定の上でしか存在しないドーラの亡き夫は実に美味しいポジションに据えられていて、『ラピュタ』における髭メガネの分身と言ってよいくらいだ。ドーラというあれほど素晴らしい女をたらし込んだあげく、さらわれたのである。いったいどんな天使だったのかと、髭メガネのナルゴコロを心地よく刺戟してくれたことだろう。故人という設定がナルシシズムの隠れ蓑になり、かつドーラ一家を支えるタイガーモスやフラップターの発明者として遍く影響を及ぼせるのである。ところが『豚』ではこのナルゴコロが全く隠されず、キモイキモイと糾弾される様となった。さすがに恥ずかしいのか自分を豚に戯画化して容赦なくキモイ。鳩にパズーを襲わせるという「動物に好かれる」アピールで女子の警戒を解いたあの老練な手管はどこへ行ったのか。
『もののけ』を経過してみると、けっきょく『豚』は踏み台だったと言えそうだ。アシタカ=髭メガネのモテ振りには歯が浮いた。けれども森繁をタタリガミにして触手プレイにまで達すると、ここまで来たかと畏怖に震えてしまう。
「ニンゲンは許さない。髭メガネはスキだ」―― 当時これに直面したときはオチがねえと憤激したが、今では感動している。『豚』の時とは違い、髭メガネは何の取り繕いもせずに欲望を丸出しにしている。それがうれしいのである。あの話を支えているのは、抽象的な中世観ではなく髭メガネの図解ライブラリ的なフェチであり、かつ痛切な性衝動なのだ。
魔法の伝声管 ―― 『ラピュタ』
映画 |
パズーを連れて行くとき、わざわざ「娘が言うこと聞くかも」とドーラに言わせたり、その後ドーラの頭にレンガをぶつけてパズーに借りを作らせたりと、『カリオストロ』に比べると『ラピュタ』はシーンの接続に気をやりたがる。要塞で人死にが出ないのは「人がゴミのようだ」の鬼畜度を高めるため。
見張り台でのろけ話されても退屈だが、会話が筒抜けだとうれしはずかし感が出る。しかも、「ドーラ=ツンデレ説」をシータに言わせて、今度は恥辱感がドーラ側に逆流する。ゴリアテに襲われると、伝声管を有線へ切り替える描写で森ガールでないシータを見せる。伝声管というガジェットひとつでドーラとシータの造形的な奥行きが広がってゆく。
失意のボケ足の向こうに ―― 『ハッピーフライト』
映画 |
『(500)日のサマー』に比べると、『ハッピーフライト』の智子の恋愛は穏健に報われている。サマーのラストには、トムの価値観が試されるだけあって、オータムの返答如何に切実さがある。
智子のぐぬぬ顔がよかった。待ち合わせに出向いたら男が不在で、失意の彼女は『インビクタス』のモーガン級に素晴らしい顔芸をやる。これにしばらく見とれてると、ボケ足の向こうから意中の男がやって来る。ガス・ヴァン・サント風ではある。男がボケ足を出る前に編集点が来るから、彼の匿名性は担保される。アレは俺だと妄想できる余地が憎い。
松方弘樹のウロボロス ―― 『野性の証明』
映画 |
高倉健を空襲する松方弘樹のテンパり具合を教えてくれるのは、銃の反動に耐える彼の大げさな挙措である。そして高倉が死角に入ると、彼は「撃てるかな? 撃てない?」と逡巡する。挙措が固いから、遠景ショットでもその困惑が見て取れる。千葉真一がジャッキー的だとすれば、松方はキートンであろう。
根が小心だからこそ、松方は高倉を理解する常識人である。おそらく『野性の証明』唯一の常識人だと思う。だが物語は、松方に誰よりも近しいレンジャーたちを最高の狂人に仕立てる。普通科の隊員たちを刺殺する、彼らの躊躇のなさに、われわれは佐藤純彌の散漫が一線を越えたことを知るのだ。
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『広島仁義 人質奪回作戦』のラスト、あの発作的で不随意な弾着の舞踏に身を躍らせる松方は、場所が埠頭だけに、陸に揚げられのたうちまわる魚のように見える。実録やくざ映画という母なる海から揚げられ苦悶するクロマグロこそ、松方弘樹にほかならないのだ。クロマグロトーナメントはウロボロス的な自傷行為であり、その円環を断ち切るために、パイプカットが執り行われたのである。
或るブロンソン大陸 ――『善き人のためのソナタ』
映画 |
『善き人のためのソナタ』の世界観は、ブロンソン大陸を意図的な鍛錬によっては到達できない場所としている。道場に通うといった互酬性の期待はスケベゴコロとして退けられる。オッサンはこのみじめな集配作業がブロンソン大陸への航海だとは思いもしない。だからこそ彼はそこに至ったとされる。
計画や期待によって到達はできないから、ブロンソン大陸は思わぬ発見という形で姿を現す。個々人の心の中にあるブロンソン大陸の形態は人によっては様々で、オッサンの前には書店として立ち現れた。本の献辞を目にしたとき、自分がブロンソン大陸へ至ったことを彼は知ったのである。
アクション俳優・西村晃――『華麗なる一族』
映画 |
佐分利と大同銀行の破綻を鴨川で企んだとき、西村晃は大文字を見上げ「ホホッ」と笑う。これがホともフともつかない鼻濁音なのである。佐分利が去ると、芸妓の耳掃除に恍惚となる晃。彼はぬるいトランスをはずみに裾へ手をやりセクハラを試みる。鼻濁音がその生暖かい物腰の中で視覚化されるかのようだ。部下の小林昭二が座敷に現れると、晃は何事もなかったように上座に着いて、取り澄ました声を出す。これはコントだ。しかし、渋る昭二に対し怒濤の説得工作を彼が敢行すると映画は喜劇でいられなくなる。「わたしが頭取なら副頭取は君しかいないじゃないか!」と二人して感激してしまい、見てる方も先ほどのコントを忘れるはめになる。
晃は、コントとシリアスの解離を自らの小兵さを利用してつなぎ止めたと言えるだろう。耳掃除から上座へ移動する身のこなし。昭二へ飛びかかる機敏さ。西村晃のアクション性は、『ボンクラ映画魂』でも指摘されていた。
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役員食堂で元日銀マン・二谷英明と会食する場面は更に戯画化の度合いが強い。昭二相手ではマンガが許されても、二谷では分が悪い。珈琲に砂糖大盛り三杯をこれ見よがしに入れても、むしろ二谷の心底イヤそうな顔に惹かれる。もっとも、二谷の背中越しでズズッーと珈琲を啜る爆音は戯画化か否かの次元を越えていて、音の芸術で背徳感を煽るばかりである。二谷には日銀マンのプライドがあって、晃の蛮行にも露骨に反応しないよう堪える。それがかえってわれわれを煽るのだが、晃の吸引音には心底吃驚したらしく、彼の背中には不自然な微動が見受けられる。おそらくリアルで吃驚したのだろう。
記号を克服する男たち――小日向文世 & 本田博太郎
映画 |
『おとうと』の配役は一見したところ様式美の世界である。ホスピスの経営者に小日向というのが如何にもで、「また死神扱いかよ」なネタとして笑っていられる。ところが鶴瓶の臨終に至ると、山田洋次のリアリズムによって彼の死神振りが斜め上になり、微笑を凍り付かせる。あの状況で冷静に写メを撮るという行為自体も評価に困るが、その不可解さで小百合の頑強な顔が「えっ、何なの?」と突き崩れ、台風の目のような静寂が訪れる。この気まずさが邪悪であった。
『沈まぬ太陽』の配役の投げやり度は、山田洋次の比ではなくて、配役の安易さがむしろ狂気に転化している。香川照之と多江の不幸配役くらいでは、何も考えてねえ感が微笑を誘う程度で済んだ。しかし、御巣鷹山に機長小日向を突っ込ませるに至っては、その不謹慎に微笑が凍る。
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ムショを出たら弁護士の博太郎がニコやかに待っている。(『刑事追う』)。あるいはホスピスを訪れると文世がニコやかに迎えてくれる。われわれは一目の内に、もう全てが終わったと知る。鶴瓶は本当に終わったという実感に見舞われる。記号化が状況を円滑に説明しているのだ。
予測できることが物語の厚生にどう資するかは意見の分かれるところだろう。だが、たとえ先読みがエンタメを損なうにしても、このケースの博太郎&文世は、われわれの想像をはるかに超えるを凄惨な結末を導くことで、真っ向から客との勝負に挑み、男前を上げるのである。
AD大戦略の生産概念
軍事 |
Kampfgruppe×1を200〜300機が支援するようなAD大戦略はAllies的だ。およそ釜山橋頭堡の2倍くらいの密度と言えるだろうか。もちろん、どれだけ爆装させるかにも因るし、補給金欠問題という留保はあるが。
あの生産という不条理な概念を後方からの補充と解せば理屈は合う話で、後方の生産首都を押さえて都市の占領を進め生産が減ってゆくと、包囲が完成し補充が途絶える感が出てくる。RCTを四つほど投じれば飽和してしまうマップでも、こうなれば東部戦線の感じが出てくるだろう。
青き空想は淫猥なるメタボ腹を越えて――『SPACE BATTLESHIP ヤマト』
映画 |
礼子のミー(巨大茶トラ)に突っ込みを入れるキムタクがくどくて、「ねこ?ねこ!」と二度も言う。あえて何気なく流す方が、異文化の香り漂うというか、映画の自律性が高まったのではないかと余計なことを考える。どうしても我慢できないなら、少しギョッとさせるだけで済む話で、本当に驚いた人間があんな記号じみた芝居するとは思えないし、何よりも品がない。もともと演技も造形もマンガに走りがちな語り手なのだが、三丁目の小日向だけは怪我の功名で、割り切りすぎた人物像が彼のぶきみをよく表していた。
この猫は『ハゲタカ』の龍平の巨体茶トラと同一人物だろうか。龍平の茶トラと称されるペットモデルには行き当たったものの、写真を見ると思ったほどメタボではない。違うのか、それとも近年膨張を遂げたものか。
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昨今、山崎努マイブームが勃興しつつあって、劇場へ足を運んだのも、努のコスチュームプレイ劇を期してのことだった。この辺は、礼子に余命を尋ねる努の口ぶりが伊丹映画のそれになるに及んで、十分に報われたと思ってる。
しかしながら、佐渡酒造の女体化が、宇宙放射線病をおして乗艦する努の迷惑な責任感に、よこしまな意味合いを与えるのは否定できない。病床での伊丹モードがやはりツボで、礼子は特殊関係人であり、努が地球に本妻の宮本信子を残してきたことがうかがえる。キムタクがミーを殊更に糾弾するのも、彼はあのふたりの関係をメタボ猫の淫猥な曲線から無意識のうちに感じ取ったのだと思う。当のキムタクもワープ中にメイサと事に及ぶのだが、これは結果的に子作りだったということで、語り手の中では正当化されているようだ。
未練を実感する――『セカチュー』を考える
映画 |
セカチューの序盤には幽霊譚の印象が濃い。故人を回想するのだから死臭は免れないし、そもそも二人の馴れ初めが詳細さを欠いていて現実感がない。なぜこんなにマブい女が、俺の背中に胸部を押しつけてくるのか、まるでわからない。ところが、後半に入ると長澤視点の流入も手伝って、地に足が着き始める。謎めいた愛のブラックボックスも回顧的に開かれる。エアーズロックでたかおは長澤の遺言の中にこんな台詞を見つけるのだ――「思い出すのは、焼きそばパンを頬張った大きな口」
たかおへの恋が具体的に表現されることは、翻って、長澤を記号じみた造形から救い、彼女がかつて実在したのだと知らしめることになる。平々凡々とした高校生たかおに恋をした長澤の感性が解明され、その造形が賞揚されるのである。たかおのお化けくちびるも、「なんとマブい女だったか」といううれしい未練にゆるむ。甘い回想から戻ると、柴咲コウの鬼瓦のような形相が現実を知らしめ、ますます未練を煽り立てるようだ。
振り返ってみれば、成体たかおが長澤と抱擁する体育館の場面に、幽霊譚と現実の分水嶺があったように思う。幻想を抱く意味で幽霊譚きわまりないが、一方で、成体のたかおは違いのわかる男だから、長澤をたらし込んでも不思議はないだろう、という奇妙な納得感を自分はあのシーンに見たのであった。
違いのわからぬ姉萌え ホ・ジノ
映画 |
ホ・ジノの受け-姉属性は微妙だ。容姿と年齢の解離に亢奮を催すタイプらしい。
イ・ヨンエが檀れいとちょうど同い年で、ともに危険なほど年齢不詳だ。『春の日は過ぎゆく』がこれまた凶悪で、受け夫には毒だと思ったし、事実すさまじい結末を迎えた。『JSA』のときは既に三十路だったと思うが、劣化がないため小賢しい小娘にしか見えず、ソン・ガンホと観客(俺)の間に濃厚なホモソーシャルを醸成した。
つづけて『きみに微笑む雨』を見ると、高圓圓があまりにも若々しい陽性の美貌をしているものだから、ついにホ・ジノのババァカワイイブームも去ったかと安堵してしまった。しかし後で調べたら三十路突入済みだったと判明。犯罪だ。
話は、例によって、このユエンユエンちゃんからギャルゲヒロインばりのトラウマが発掘されるのだが、極悪非道な『ハピネス』の直後とあってか、突抜はせずソフトランディングで物足りない。
なお『ハピネス』でもスジョンが「見た目より年増」と称していて、またかと思った。
性愛を割り切る『ブロークバック・マウンテン』と『イヴの時間』
映画 |
『ミルク』のガス・ヴァン・サントにとってホモセクシャリティは然るべき現象である。しかし『ブロークバック・マウンテン』のアン・リーには然るべくあっては困る。それが然るべくあっては、興味本位というエンタメに至らないからだ。『ラスト、コーション』にも言えることだが、アン・リーには職人的冷酷さが時として付きまとう。
『イヴの時間』も性愛について似たような割り切り方をしてると思った。最初は性愛へのこだわりがあまりにも大時代的で違和感を覚えてしまう。しかしおかげで、主人公男が機械性愛をカミングアウトしたとき、うれしはずかし感が醸し出される。それが倒錯だという前提に、われわれは組み込まれていたのである
善意が悪意を誤解する――『アウトレイジ』
映画 |
謳い文句の割には『アウトレイジ』がピカレスク(?)にならない。前に言及したように、虐げられた文弱が体育会系を撃退するギーク映画に見えてしまって、後味が爽快だった。
もともとキャラの好意的な印象を押さえたがる語り手には、國村隼の大勝利エンドはやりにくい。というより、根っから善人だから悪意という現象が信じられない。結果、國村は理解を超えた造形として、つまり天然として扱われた、と解せるだろう。
