匿名の観察者 『一週間フレンズ。』


 設定の受容について語り手と受け手の間にすれ違いがある。おそらく語り手は解離性健忘を主題として軽視している。しかし、受け手としてはそれこそが叙述されるべきものと認識している。このすれ違いで設定の受容に困難が来す。とにかく不自然なのだ。こういう状況に置かれれば、日常のログを残すことは自然に発生する習慣だと思われる。ところが日記が斬新なアイデアとして劇中で取り扱われる。かかる不自然へのエクスキューズも乏しい。物語への導入の初動でこれがつまずきとなってしまう。
 健忘が主題となってはいない。では何を以て受け手の喚起を謀ろうとているのか。造形物としての川口春奈には、やせ我慢としてのダンディズムを放出するような、品のある陰湿さがある。殊に屋上で黙々と弁当を使う様が小動物のような憐憫を呼び起こす。陳述されているのは、同性から孤立してしまう美人の受難である。だが、同性からの嫌悪が課題ならば、解離性健忘をそこに介入させる必然性は少ない。かえって健忘の設定が主題を薄めかねない。むしろ、この段階での健忘はやせ我慢としてのダンディズムを春奈から抽出して、山崎賢人へ波及させる機能を果たす。失恋に耐久する男の心象が窮極的な課題として立ちあがるからだ。ただ、それでもなお問題は生じる。春奈が失恋男の心象陳述の捨石となってしまい、失恋において典型的にみられるように、女は一転して憎悪の対象になりかねない。そこで物語は山崎と春奈を互いに立て得るような、失恋の心象を超えた課題に至るのだ。『サウルの息子』のような、その尽力を密かに誰かが見ていた、という類型に。


 『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の文化祭話数を想起したい。文化祭終了後、孤立するもこっちを抱擁するのは着ぐるみを被った今江恵美である。抱擁者の正体をもこっちは知らない。しかしわれわれは知っている点で、この話は一級劣っている。誰かが見ていた際、その誰かには匿名性が担保されねばならない。さもないと観察者の慈善の欲が発露していると解される余地が生じる。匿名性を担保するアイデアがこの類型において競われるべきで、『サウル』はそれをクリアしている。本作の記憶障害も最終的には観察者の匿名性を確保するために使われている。失恋の日々を叙述するモンタージュでは、視点は当然、山崎のそれに基づかれる。ところが、時折、女の視点が混入する。男の尽力を健忘したかのように見える春奈には、無意識がかすかに残存していて、瞬間瞬間に違和感で苛まれる。観察者のかかる匿名性が、男の尽力をあれは尽力だったのだと規定し始めるのである。