成長と加齢

子供の時「若いね」と言われるのが嫌いだった。

当時下から見ていたオトナタチはしたり顔で、不遜で、自分の過ちを認めようとせず、説明責任も果たさずに「若いね」という一言でこちらを見下げているように感じた。そう言われた私は何度も食って掛かり、時にはいずれ先に死にゆく彼らを皮肉って、本気で怒らせてみたりもした。

時は流れ、私はオトナタチになった。

自覚は無かった。自分が想像していたよりも、今の自分は年齢に比べて子供に感じた。オトナになった自分はもっと分別もあり、物事ワカッテいて、より完成度が高いかと思っていた。しかし、ここにいる自分は進歩したようにも退化したようにも思えなかった。ただ毎日生きていたら今日になりました、としか言えなかった。何度も同じ失敗を繰り返した。

しかし、少しづつ自分の肉体に現れた変化が感じられた。大盛りを頼まなくなった、焼き鳥はタレより塩になった、カルビよりロースになった、食べる量が減ったのに腰回りに肉がいつの間にか付いた、時々どこかの関節が軋むようになった、脚の筋力が落ちて全速力でダッシュできなくなった、そして、その影響は次第にココロにも現れ始めた。

誰かれかまわずかみついていたのを止めた。不用意に他人を批判しなくなった。ヨノナカの色んな事は自分が思っていたよりもずっと複雑で、みんなはその中で精いっぱい生きていた。医者になったアイツは高給取りでもまったく金を使う暇がなく、役人になったアイツは9時〜5時生活かと思ったら土日も休まず働いていた。多くの人が自分自身はイイモンだと思って行動しており、よかれと思った事が裏目に出たり、誤解されたりしてた。

政治家とかや役人とか大企業とか経営者とか頭のおかしい人とか低学歴とか特定アジアだとか、誰かをまとめて見たり、レッテルを貼ったりしなくなった。どこにもイイ人もワルイ人もいる事を知った。どんなに馬鹿馬鹿しいアイディアにも興味深い点があった。例え自分の仕事を小学生が批判していてもそこに何か真理があるのではないかと一度は考えてみるようになった。


そうしたある日、ついに自分のクチからあの言葉が転がり出てしまった。
大した事じゃなかった。大学生の甥がなかなか免許を取らない、ただそれだけの事だった。


彼もバイトだサークルだと彼なりに忙しいのだろう。ただ、社会人になると休みは激減し、自由になる時間は羽を休めるために使うようになる。都内在住で今必要がなくても、産気づいた嫁や、脚の悪くなった親族や、その内色々運ぶハメになるだろう。また、仕事がひどく忙しくなる頃に、さぁ海外出張だからと自動車学校通おうなんて無理だ。金が無いとか言うが、30万くらいお前の親も、俺だって貸してやれる。ただ、無理矢理貸し付けて免許取らせても、どうせお前はなかなか返さない。それを取り立てるような面倒で気分の悪い事、誰だってしたくない。となると結局自分で取る気になるしかない。

"でも、ソウイウコトは今は分からないんだろう。やっぱり経験しないと分からないモノなのかもしれないな"

そんな想いから、色々言い訳を重ねている甥っこに「若いな」と言ってしまった。言ってから、しまったと思った。ついに言ってしまったと。でも逆にあぁこんなもんかと安心もした。子供の頃見てたオトナタチは、別に進化したイキモノじゃなかった、アンサートーカーじゃなかった。ただただ日々を積み重ねただけだったんだ。諦観にも似たこの気持ちはまだ若い君には必要無い、そんな「若いな」だった。


誰でも歳を取る。歯は抜け、毛は抜け、目は見えなくなり、耳は聞こえなくなる。そして自分の内面にも、つまり感じ方や考え方にも変化が訪れる。私もさらに変わっていくのだろう。来年まったく逆の事言っていてもなんの不思議もない。

そういえば、小学校の頃、よくおじいちゃんにバカとかクソジジイとか言ってた事を思い出した。80歳になって、ちん毛も生えてないガキにバカとかクソとか言われる気分ってどんなだろう。


あの時おじいちゃんはただ笑ってた。


そんな事を思い出し、そして、今日も日々を積み重ねている。



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