浜田知明の山西省での従軍体験(2)

副題:浜田知明が銅版に刻んだ三光作戦


浜田知明の山西省での従軍体験(1) - Transnational History』の続きです。


今日も初年兵として中国の山西省へ従軍した経験(1940年〜1943年)を持つ浜田知明の銅版画を紹介しながら、版に刻まれた日本軍が抗日根拠地にたいしておこなった「粛清(しゅくせい)作戦」「燼滅掃蕩(じんめつそうとう)作戦」(中国側では「三光作戦」「三光政策」と呼ばれている)について書いていくことにする。


浜田知明はまだ戦争の記憶が生々しく残っていたであろう1950年代前半という時期にモノクロームの版画を通していくつもの作品を生み出している。

浜田「是が非でも訴えたいものだけを画面に残し、他の一切を切り捨てた。色彩を捨て、油絵具という材料を捨て、そして白黒の銅版を選んだ。ひたすら自分に誠実であろうとすることだけが私の支えであった。戦場と軍隊をモチーフとして若干の作品が生まれた。(……)この戦争に生き残ったものとして、それはどうしても私が描かずにはいられなかったところのものである。


ヒロ画廊/浜田知明/作品
http://www.hirogallery.com/hamada-works-et-jp.html


風景-1953

神奈川県立近代美術館浜田知明の世界展』図録より


風景-1954

雲の形は着剣された小銃であり、その銃剣によって何人もの人間が突き殺されているように見える。


ヒロ画廊/浜田知明/作品
http://www.hirogallery.com/hamada-works-et-jp.html


初年兵哀歌 風景(一隅)-1954

廃墟と化した村落のなかの一軒の家に、頭のない遺体が寄りかかり、家の前には頭が転がっている。


ヒロ画廊/浜田知明/作品
http://www.hirogallery.com/hamada-works-et-jp.html


風景-1951

中国服を着た民衆に日本兵が日本刀で斬りつけている。中央には斬首された遺体、逃げ惑う民衆の姿?なども見える。



ところで、浜田が華北山西省のどこに従軍したのか詳しくわからなかった。なぜなら、美術館で購入した『浜田知明の世界展』図録に載っている年譜には所属していた連隊までしか書かれていないからだ。そこで、ネットで検索したところ、過去の講演会のときのwebページが残っていた(こちら)。そこには所属していたのは第37師団とあった。


手元にある笠原十九司『日本軍の治安戦 – 日中戦争の実相』の巻末ページにある資料「北支那方面軍の編制表」と、各師団が参加した作戦が書かれている資料「北支那方面軍の華北における治安戦」とで照合するなら、第37師団は、北支那方面軍の第1軍隷下の師団で、上のwebページに書かれている「中原会戦」以外にも1942年の「冬季山西粛清作戦」などに参加していたようだ(間違っていたらご指摘ください)。


笠原十九司『日本軍の治安戦 – 日中戦争の実相』p113より

当時(1940年)山西省の警備を担当していたのは、北支那方面軍の第1軍(司令官 篠塚義男中将)であった。同作戦(共産党軍の百団大戦に対する報復作戦)の開始にあたって、第1軍参謀長の田中隆吉少将は8月26日、
「作戦実施に方りては執拗に敵を追撃すると共に、迅速に其の退路を遮断して敵を随所に捕捉撃滅することに努め、目標線進出後反転して行う作戦に於いては、徹底的に敵根拠地を燼滅掃蕩(じんめつそうとう)し、敵をして将来生存する能わざるに至らしむ。又、進路の両側に退避せる敵に対しては徹底的に索出して之を剿滅(そうめつ)す。」

(丸かっこ内はこちらで付け加えています。)

と命じている。
そして燼滅の方法は「燼滅目標及方法」として次のように示されていた。


同書p114より

1.敵及土民を仮装する敵
2.適性ありと認むる住民中十五才以上六十才迄の男子にたいして

1.2.ともに殺戮


この第1軍隷下の独立混成4旅団歩兵第13大隊3中隊には、戦後に流行作家となった田村泰次郎が配属されていた。田村はそのときの戦争体験を回想した短編『裸女のいる隊列』(別冊『文藝春秋』42号、1954年10月)のなかで、日本軍がおこなった抗日根拠地、抗日ゲリラ地区にたいする燼滅作戦(治安掃蕩作戦)について、こう書いている。


同書p9より

 老百姓(ラオパイシン)、ーー日本軍にとって、この言葉は、なんの人格的な意味もなかった。彼らは野良犬や、虫けらと、すこしもちがう存在ではなかった。長い戦争の期間をとおして、日本軍に殺された住民の数は、恐らく日本軍と闘って死んだ中国軍の兵隊の数よりも多いのではないだろうかとさえ、私には思われる。すくなくとも、中国の奥地では、戦場で見る敵兵の死体よりも、農民の数の方が、私たちの眼に多く映るのが、普通だったのだ。
 ある時期においては、ときには、公然と、住民をみな殺しにしろという軍命令が出たこともある。燼滅作戦というのが、それだった。
  「おい、こんどの作戦は、ジンメツだとよ」
 作戦開始のときになると、兵隊たちはそんな噂をしあった。作戦地域内の部落という部落は焼き払って、生あるものは、犬の子一ぴきも生かしておかないというのが、建前だった。日本軍全体が、血に狂った鬼の軍隊になった。
 住民たちに対する日本軍の身の毛のよだつような所業は、私の7年間にわたる戦場生活で幾場面も見ているが、全戦争期間、全戦域にわたっては、それがどのくらいの場面になるのかは、想像を絶したものがあるにちがいない。

…本日はここまで。
次回は、浜田知明が銅版に刻んだ戦時性暴力について書く予定です。


■参考文献
神奈川県立近代美術館浜田知明の世界展』図録 2010年
笠原十九司『日本軍の治安戦 – 日中戦争の実相』2010年

日本軍の治安戦――日中戦争の実相 (シリーズ 戦争の経験を問う)日本軍の治安戦――日中戦争の実相 (シリーズ 戦争の経験を問う)
笠原 十九司

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