2008-03-24 ガソリン値下げ「パニック」
今日の報道ステーションに出演していた元政治記者のタセ某が、口角泡を飛ばしていいつのるには、暫定税率問題が年度内に収束しないことで「国中が大混乱に陥る」らしい。
もちろんネジレ国会で政治が機能していないことがその主たる原因だが、さらにたどれば、先の参議院選挙で国民が自・公を退け民主党をを選んだことが発端である。ネジレ、ネジレとさも異常な政治状況にあるかのごとく触れ回っているが、考えて見ればそれは国民の選択を愚弄するに等しい。言い換えれば昨年の選挙で自公に投票しない国民はネジレを好む異常な国民だということになるからだ。
といっても、これは普段多数派国民に阿るばかりのマスメディアが突如としてポピュリズム批判に目覚めたものではない。先述のタセ某の発言を見れば明らかなように、彼らマスメディア人が政治に求める価値は今や「非混乱」や「非低迷」などの否定形でしかないのだ。何十年も政治記者をやってきて、たどり着いた地点がかくも貧しき「減点主義」とは、他人事ながら何と無意味な人生か、と嘆きたくなる。本来、マスコミ人はこの場面で、「この程度の混乱で大騒ぎするのであれば、政権交代など夢のまた夢。混乱なき変化など欺瞞でしかない。」と国民の覚悟を問うのが筋ではないだろうか。「ああスタンドの兄ちゃん大変ねえ」という次元で、一体政治の何を語ろうというのか。いい加減にしてくれ。
日銀総裁空席問題をはじめ、近頃マスメディアは「混乱さえなければ何でも(大連立でも)よい」という空気を無理やり醸成しているような気がしてならない。
2008-03-16 橋下知事と女性職員
例の橋下知事と女性職員のやり取りに対する批判を聞いていて、非常に気持ちが悪い。
まず何より、話の筋道すら理解していないとしか思われない、感情的な批判が多いこと。
一応整理すると、
1:知事と府幹部とのやりとりで始業前の朝礼が超過勤務に当たるという確認があった。
2:一応知事は聞き入れたが、心からは納得しておらず、当該府幹部ではなく、朝礼の相手である若手職員に対し、「それならタバコも私語も一切禁止だ!」と訓示し、意見があるなら発言せよとうながした。
3:それに対する女性職員の発言。
まず、この場面で集められた職員が、自らの関与していない場でのやり取りに基づいてに知事から叱責されるいわれは全く無いということを確認したい。
こんなことをいうバカ経営者の下で苦労している人は大変だと同情するが、同時にそういわれても心の中でさえ全く反発しない、あるいは反発する理由もわからないだけならまだしも、「民間ならサービス残業は当たり前だ」などと必死になって批判するような輩は、悪徳経営者が社員を装っているのでなければ人としての尊厳を失った社奴、社畜であって、外見上人に見えるだけのことである。
付言すれば、もちろんこの場にテレビカメラが入っていることは知事も承知しているだろうから、この場は単なる府の内部的な朝礼ではなく、多分に府民やテレビの向こうを意識した訓示であることが想像される。加えて、集められた職員とは関係の無い事由による叱責である。
これをパフォーマンスといわずして、何と呼べばよいのか。
さらにそれを指摘すると「何故公務員を擁護する!」式の、「非国民を非難しないものは非国民」的な論理も何も無い、不毛な糾弾が倍になって返ってくること。
普段どんなストレスフルな職場で働いているのか知らないが、「公務員のくせに自分らより優遇されているのはけしからん!」という怒りはマスコミの公務員バッシングの影響が多分に見られるにせよ、それにもました病理を感じる。
自分たちが恵まれていないことの代償を、他者を引き摺り下ろすことによって得ようとする心が卑しいのは言うまでもないが、公務員や銀行員などその時々でもっともらしい理由の付くあいてであれば、その卑しさを緩和できるとでも思っているのだろう。
大阪府の財政赤字に関連しての意見であれば、職員給与の水準を問えばいい。そこはいくらでも議論すべきだろう。
しかしサービス残業を禁止する、というのは相対的な待遇の話ではない。法的な問題である。民間の中小企業でこの法律が守られていないのであれば、「民間でサービス残業は当たり前」と開き直るのではなく、中小企業の経営者に即刻是正させなければならないということを何故わざわざ議論しなくてはいけないのだろうか?
今週の「たかじんのそこまで言って委員会」では、パネリストである桂ざこば氏の「橋下知事へのエール」及び「その裏返しとしての女性職員への感情的な痛罵」に対して、会場の(まばらな)拍手をもって「世間的な常識」の落し所を没理論的に示していた。
「お前よりがんばってんのやから、足引っ張るなや」という支離滅裂な決め付けが、事実無根の誹謗中傷であると訴えることも十分可能だろう。
この番組は中小企業の経営者が喜ぶような(没)論理構成を得意とすることで有名だが、おそらく労働基準法も満足に理解しないまま従業員をこき使っている司馬遼太郎以外の読書を知らないようなたたき上げのおっさんたちが、テレビの前で鼻息も荒くうなづいていることだろう。
2006-11-09 いじめは無くせるのか、という問い
ここにきてようやく「いじめって本当に無くすことができるの?」というごく当然の問いがひろがってきているようだ。
毎日新聞の記事によると、あるNPO法人が子供たちにアンケート調査を行った。
「いじめはなくせるか」との問いに「はい」と答えた比率は、学年が上になるほど少なくなる。
ごく当然のことだと思う。いじめ問題に対して「いじめを撲滅する」方向で取り組むのは明らかにピントが外れているし、極端な管理教育でもその逆でもおそらく達成不可能だろう。それこそ当事者である子供たちですらそのことにとっくに気づいている。
しかしこの調査を行ったNPO法人に言わせると、
「年齢が上がるにつれ、いじめに対する慣れやあきらめが広がるようだ。優しい心で人とつながる方が心地よいということに気づいてほしい」
なんていう間抜けなコメントになってしまう。
また、この調査ではいじめをやる方が悪いという回答が半数以下だったことを「罪の意識が希薄」ということでまとめてしまっている。子供らは「やるほうが悪い」「やられるほうが悪い」いや「傍観者が悪い」なんていうありきたりの図式に、そもそも違和感を感じ始めているのではないのか?
いじめが歪んだ自己防衛のメカニズムである、なんてことは最早常識以前、それこそ子供ですら本能的に感知していることなのに、マスメディアと同じように「被害者」「加害者」の図式に還元して善悪二元論から断罪するなんて、いったいこれは何のための調査なのか?子供を脅迫し自分らの考える形に矯正しようとしているだけではないのか?
せっかくの子供たちの生の声としてのアンケート結果もこんな大人に「分析」されてしまっては本当に台無しだと思う。
2006-10-31 記者の資質
最近、テレビ新聞メディアを問わず、記者の資質が底なし沼のように低下しているのではないか?特に記者会見での彼らの振る舞いは本当にひどい。
傍若無人で偉そうな態度、絶対安全な場所からの正論、揚げ足取り、重箱の隅つつき、等等。その反面、首相の記者会見にはなぜか経験の浅い学生気分の新卒番記者に素人同然のゴミのような質問をさせていて恥じない厚顔。佐賀県知事程度の二流権力にはピントの外れた嫌がらせのような質問攻めで暇つぶしのマスターベーション。
いじめで生徒が死んだ。ここで記者たちは死んだ生徒の親が乗り移ったかのような態度で学校側の記者会見に望む。
「いじめがあったんでしょ!」
「プレッシャーって?なんでいじめといわないんですか!」
「さっきと発言が異なっているが!あったのかなかったのか?」
学校側にこの期に及んで保身を云々している余裕はなかろうと思う。彼らはマスコミをはじめとする一時的な熱狂から、ひとまずは生徒たちを本能的に守ろうとしているのではないのか。少なくとも現場にいる記者にそのことに考えが及ばないはずはない。まともな想像力があるのなら。
賭けてもいいが、もしいじめたとされる側の生徒がそのことを苦に自殺したとしたら、それでもマスコミは自らの非を責める前に学校を責め立てるだろう。
「なぜいじめた生徒を追い込んだのか!」
どうしようもなく狂っている。反吐が出るような奴らである。
「同一集団内の相互作用過程において優位にたつ一方が、意識的に、あるいは集合的に、他方に対して精神的・身体的苦痛をあたえること」
これは記者会見の定義ではない。「いじめ」の定義である。
2006-10-29 マル激@立命館
立命館にてマル激トークオンデマンドの公開録画があったので見に行く。来場者とのトークバトルがメインであるとのふれこみだったのだが、前半神保・宮台両氏の興がのったのか、会場とのやりとりの時間がそれほどとれず、少し消化不良の感。
学生さんが大勢こられていたので、これからの日本をしょって立つ(?)人材についての議論も多かったのだが、中で印象に残ったのは宮台氏のいう「ハイパーメリトクラシー化」する社会について。学歴社会では学力による「一面的」「客観」選抜だったのが、コミュニケーションスキルやコネクションといった「全方位的」「主観的」選抜が行われるようになるということか。これは宮台氏も言われていたが、かなりつらい社会だと思う。学歴で落とされるのは自分の学力が否定されただけだが、これだとほとんど自分が全否定されるに近いことになるもの。またコネクションなんて、その人の出自や属性なんかと分かちがたく結びついてるものだし、ほとんど身分固定制みたいなことになってくるんではないか?考えすぎかもしれないが、気になる傾向ではある。