大連国際音楽倶楽部 その創設の軌跡:1998年7月

大連国際音楽倶楽部 その創設の軌跡

大連日本人学校友の会事務局長、大連会評議員
水納 隆司


 私は、小さいころよりヴァイオリン(小堤琴)に親しみ、少年少女合奏団を経て、大学では管弦楽団に所属、その後もアマチュアオーケストラで演奏を続けていた。
 戦前はオーケストラもあり、著名な音楽家の演奏会も開かれていた大連には、92年3月に縁あって大連に赴任した当時まだ参加すべきオーケストラは無かった。
 その大連で、戦後五十年ぶりに作られたオーケストラの創設については、熱烈に音楽を愛し、学生の教育に心を砕いていた一人の中国人音楽家との出会いが深く関与している。
 その人の名は考書博先生。先生は、大連育ち、瀋陽でヴァイオリンを学んだ後、大連京劇団の現代劇伴奏者として参加、当時は中山少年宮の主任ヴァイオリン教師として、小、中学生を主体に指導していた。知人を介して知り合った私は、早速中国製のヴァイオリンを購入し毎週日曜日の合奏に参加し、中国の有名なヴァイオリン協奏曲「梁祝」(正式名は梁山伯与祝英台」)等の練習を楽しんだ。(心を打つ考先生のソロの音色が忘れられない)
 その後お付合いも深まったが、先生はその間、学生を率いて地方の学生音楽コンクールに参加して上位入賞したり、忙しく活動していた。先生の夢は、いつか学生を率いて日本に渡り、日本の学生と交流することであった。熱っぽく音楽のこと、将来の夢を語る先生を、私はまさに大連を代表する音楽家であると確信していた。
 93年になり、偶然にも大学時代のクラブの同期である、現在の日紅鋼板の高岡総経理や、第一勧銀の湯川氏の参加を契機に、又その後の合唱の今富氏、佐藤氏、またヴァイオリンの関氏等の参集の結果、94年末から95年にかけて、「大連音楽倶楽部」(後に大連国際音楽倶楽部と改称)が誕生した。大連大学の孫玉文先生(日本人学校音楽教師)も参加し、合唱も含む複合的な練習を学生達と行った。その後参加の日本人も増加、95年9月には、日本の指揮者菊地俊一先生夫妻他関係者と再訪問し、交流を暖めた。そして遂に同年12月10日に第一回演奏会を挙行するに至った。しかし悲劇的なことに、演奏会の「梁祝」の独奏者であり、コンサートマスターであった考先生は、その日の晩、不慮の事故により永遠に帰らぬ人となった。(享年四十七才)
 今でも万感の思いが胸に迫まる。一緒に中山広場前の人民クラブ内で、團伊玖磨先生指揮の「梁祝」を聴いた時の、嬉しそうな笑顔が忘れられない。
 同倶楽部には、このような大きな危機があったが、先生の甥である考文光氏が後任に就任し、又チェロの辛亮氏の協力等のもとに、高岡氏達が苦労の末、より大人のオーケストラとして再生、引き続き大連唯一のオーケストラとして存続できたのは真に幸いであった。その後合唱も分離し、開発区等での何社かの合唱団創設の基ともなった。
 96年には総勢八十人の演奏会が開かれ、97年7月には定期演奏会が中央電視台によって全国放映、また昨年には大連日本人の会でも演奏を披露した。
 今、私はいつの日か大連日本人学校校歌(團先生作曲)が同倶楽部の伴奏で歌われ、又大連の学生が音楽を通して日本の学生と交流できる日が来ることを夢見ている。丁度昔の考先生のように。大連国際音楽倶楽部よ、永遠なれ!
 なお、現在大連では高岡氏が中心となり、大変苦労して倶楽部の維持に努めているが、楽観できる状況にはない。大連会第一委員会でも応援して頂いているが、この小さな音楽のともしびを消さない為にも、皆様の現地でのご参加、又現地へのご協力を切にお願い申し上げます。
(1998年7月大連会報)

2011年6月28日水納さん提供