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歯切れが悪いのは仕様です。


2016-03-07

[][]ブログのカテゴリーに「東日本大震災」をつくって過去の記事を入れました

 そんな宣言するほど書いてないんですが、5年ということもありまして。常設カテゴリーにするかはまだ決めてません。

 その記事を読むだけでは震災との関連がよくわからないものもあると思いますが、主観で関係あるかなと思ったものは入れてあります。それでも数はかなり少ないですけどね。言語の研究者としては方言に関するエントリを他にも入れたかったのですが、福島に直接言及している

だけにしました。

 この作業にあたって過去のエントリーをざっと読み返したんですが、リンク切れのリンクがかなり増えましたね(処置がめんどうなのでそのままです)。

2015-03-30

[][][]「今だから知りたい放射線の話(きくまこ大人かふぇ)」@えるかふぇに参加してきました

 行ってきました。僕にしてはけっこうこまめにメモを取ったんですが、こちらにも簡単に参加記など書いておきます。まとめられる気がしないので書き殴りです。適当に読むことをおすすめします。報告としては断片的すぎると思いますが、きっとどなたかの補足情報があるはず。

 参加の動機などは前に書いたので割愛。

開始まで

 サンパール荒川まで都電荒川線で。都電荒川線はじめてと思い込んでたんですが、よく考えたら前々回の日本語文法学会@早稲田大の時も乗りました。

 順調に行ったので割と早く着いたのですが、開始の20分ぐらい前に受け付けに行ったら、もう数人来てましたね。Twitterの表示名(アカウントの方ではなく)で申し込んでしまったので、ちょっと名前が見つけにくかったような。でもすぐ見つけてもらえました。受付は、スタッフの人数がけっこう多いなというのが印象に残っています。

菊池氏の話

 放射線に関して、自分にとって目新しい話というのはあまりなかったのですが、こうやってまとめて話を聞くと、それぞれの知識やその間のつながりが整理できて良いですね。震災後、放射線に関する情報は色々な難易度で様々な形で世の中に出回って触れやすくなった分、整理・取捨選択が難しくなった印象があります。放射線の測定結果が音で聞けるようにしてある装置から話がはじまったり、図が多かったりという辺りも、話がすんなり頭に入ってくるのを助けてくれる感じでした。

 ただ、たぶんプロジェクターとスクリーンの距離とかの関係でしかたないところだったのかもしれませんが、図が少し小さかったような気がしました。僕は会場真ん中ぐらいに座ってたのですが、後ろの方とか視力良くない人で厳しい人がもしかしたらいたのでは。

気になったところ

 さて、いくつか個人的に気になったところを。

 ただ、後で話を聞いたところでは今回参加した「大人かふぇ」はそもそも(主婦などを対象にしている)通常のえるかふぇとは少し違うイベントのようだったので、下記の話は当然そうということになるのかもしれません。あと別に問題点の指摘というほどのものでもないです。ぼんやり考えたこともかなり含まれているので、特に自分にアイディアや答えがあるというわけでもありません。

けっこうレベル高い

 これはアンケートにも書いたのですが、特に聴衆からの質問、質疑のやりとりはある程度知っている人の確認や発展的な話題のようなものが多く、見当外れ、というのはほとんどなかったように感じました。

 これにはたぶん、そもそもこういうイベントに出るのは興味関心が高い人だからとか、本が出版されているので来る前に勉強しやすかったとか、えるかふぇや関連イベントに継続的に参加しているメンバーは勉強の成果を蓄積して行っている、というような、色んな理由があるのではないでしょうか(もちろんこれらは的外れな推量かもしれません)。

 当日実際にそういう方がいらしたかどうかはわかりませんが、はじめて参加した人でレベルの高さにちょっとびびった人とかいなかったのかな、と。

 ただそういう素人だけどけっこう勉強した人が行ける場所というのも貴重だと思うんですよね。僕はあまりこういうタイプのイベントは主催側になったことがないんですが、その辺りやっぱり難しさとかあるんでしょうか。

記号アレルギー

 そういえば、意外と用語や表記法なんかはそのまま使うんだなあというのも印象的でした。いや、義務教育の教科書レベルなのでおそらく専門家からするとかなり易しくしているのでしょうけれど。

 上に書いたように話自体はすごくすっきり分かりやすく聞けたのですが、そもそも僕自身は高校で理数科だったので物理(化学も生物も地学も)を取ってしかもけっこう好きな分野でした。また、人文系の学部に進学した後も自分で理数系の啓蒙書なんかを広く浅く読んでいたりして(今振り返ると変なのもけっこう読んでましたが)、原子の話とか周期表とか出てきても、あまり身構えないんですよね。

 ところが一方で、いわゆる人文社会系の方になじみのある人(あるいは、理数系が苦手な人)の一部には、「記号アレルギー」「図・式アレルギー」みたいなものを持っている人がいるという実感があります。どういうことかというと、そもそも「137Cs」という略記が出てきただけで苦手なものに感じちゃうとか、何かが"n"や"x"といったものに置き換えられただけでもうダメと思っちゃうとか。あと分野の話につながるかどうかわかりませんが、専門用語が漢語の方が難しく感じる人と外来語の方が難しく感じる人の差なんてのもあるのかも、ってことも考えたり。

 でも、意外とそういう“共通言語”が違う人どうしこそ、同じ場で対面でのやりとりを通して学ぶのが良いのかもしれませんね。

 僕のこの辺りの話については下記のエントリ群にも少し書いています。

 ただ、アレルギーがあっても、専門用語や専門的な表記にはある程度慣れる方が継続的な勉強には良いんですよね。

研究者がどれぐらいこういうことをすべきか&納得の話

 懇親会には出られなかったので、帰る前に少し菊池氏に質問に行ったら、運良く少し話をすることができました。色々聞いてみたいことはあったのですが、今回聞いたのは「若い研究者にこういう活動をやってもらいたいと思うかどうか」。答えは明確なものではなかったと記憶しているのですが、やはり「でも研究しなきゃ生きていけないしねえ」みたいな話になりました。というか今や研究ガンガンやっても生きていけない可能性がありますしね…

 菊池氏の話でも少し「納得という段階にいたるのは難しい」という話が出てきたのですが、「理解」と違って、「納得」の方はけっこう属人的な要因も大きく働くことがあるのではないかと思うのです。そう考えると、色んな人が色んなところで話をする方が、「あの人は嫌いだけど、この人の話ならわかる」というふうに、全体としては良い方向に向かわないかなと以前から考えているのですが…まあでも理想論なんですかねえ。

 菊池氏がこういう活動・場に関わり続けるのは、率直にいってよく持つなあというのが以前からの感想です。僕もwebで少し専門のことを書き散らしたりしますが、今は(簡単な質問などを除いて)ほぼ発信一方通行になってしまいました。そうしないと精神的・時間的に続けられそうにないからなんですね。こういう実際にしゃべる系のイベントはやる方も割と好きなんでそこまで躊躇しているわけではないのですが、僕なんかとは関わる人の数が桁違いだと思うので、やっぱりすごいなと。

納得とwebの話

 あと、話を聞きながら考えたことなんですが、webって記録が残るのが良いところなんですが、だからこそ方向性を変えられないってことがあるんじゃないかと。君子豹変すとも言いますし、webでも色々あるたびに間違ったら訂正した方が良いと言われますが、実際には意外と難しかったり。僕自身も、そんなに即座に訂正できる質ではないです。webだと、考えが同一だからこそできる人間関係みたいなものもあるので、何かを勉強して考えを変えた時に、それを表明するのが意外と難しいことってあるんではないでしょうか。まあこれは人や状況によるかな。

おわりに

 今回は事前にどなたにも連絡を取らなかったのでひっそり参加しようかと思っていたのですが、てつるさん(@tetzl)さんにお声かけいただき、またみつどん(@MITUDON)さんにもご挨拶することができて嬉しかったです。このwebで先に知り合って実際にあいさつ、というのかなり数をこなしてきたと思うのですが、今でもなんとなく照れくさいですね。なんなんでしょう。

 最後に、スタッフの皆様おつかれさまでした&ありがとうございました。今後の活動も楽しみにしています。

2015-03-27

[][]「今だから知りたい放射線の話(きくまこ大人かふぇ)」@えるかふぇに参加します

 下記のイベントです。もちろん聴衆。今日申し込んだのですでに締め切られていた懇親会への参加はなしです。

 大学や研究機関ではない場所でのサイエンスカフェ系イベントに参加してみたいと思っていたこと、えるかふぇの活動に以前から興味があった(けどなかなか参加できていなかった)こと、東京住みになってこういうイベントに行きやすくなったこと、そういえば菊池氏を生で見たことないやと思い至ったことなど色々重なって、時間もなんとか都合が付けられたので、当日よほどのことがなければ会場にいると思います。

 参加予定者によくお見かけするアカウントもいくつかあったので、あいさつぐらいできたらいいなと思うんですが、聴衆同士で懇親会参加なしだとなかなか難しいかな。

2015-01-28

[][]工事で気付いた、何かが生まれる日常のスペース(たとえばエレベーターホールとか)

 ふだんは人文社会学系棟という建物に常駐してるんですが、数年がかりで耐震改修工事をやってます。大きい建物なのであとしばらくかかりそうです。

 工事の影響は、引越が大変とか工事中の退避場所がなかなかないとか教室の確保が大変(たとえばプロジェクタがある部屋)とかなんだかんだで音や粉塵が出るとか色々あるわけです。僕は最初の工期に当たったのでもう引越の大変さとかはないのですが、やっぱり色々やっかいです(たとえば今は研究室がある階のエレベーターホールが使えないので台車を使う時は…)。

 そういう事前に想像が付いたものとは別に、これはけっこうな損失じゃないかなと、工事が始まった後に気付いたことがあります。それは、多くの人が日常的に集まる場所が使えなくなることで、多くのつながりが生まれる可能性を失っているのではないかということです。

 具体的にこの建物で言うと2階にあるメインの入り口のエレベーターホールです。

 この建物ではここを利用する教職員、学部生、院生はとても多いのです。しかも人文社会系の研究者・研究室がここに集中しているので、ここのエレベーターホールには様々な分野に関するポスター・お知らせが貼られているのですね。ここでエレベーター待ちをしている間にそういう情報を眺めたり、あるいは他の人とお喋りをしたり。あるいは、エレベーターに乗っている間に簡単な情報交換をしたり。自分がエレベーターを使わなくても(実は僕は階段派なので)誰かをつかまえられる可能性がかなり高い場所、という側面もありました。

 そのような時を思い出すと、この場所は、日常の業務やよく行く研究会以外での出会いやコミュニケーションが生まれる(可能性を提供する)場所として重要な機能を担っていたのではないかと感じるようになったのです。もちろん他にコミュニケーション用のスペースとかイベントとかは色々あるのですけれど、こういう日常の中に組み込まれたスペース・時間というのが意外と重要ということもあるのではないでしょうか*1

 僕はこの建物に10年以上出入りしていますが、それを、工事によって初めて実感したのでした。こういうのも損失の一種ではないかと(たとえば1年とか短期間しかいない研究者というのもいるわけです)。

 このスペース自体はもう使えるようになったのですが、エレベーターが従来2基のところ1基しか使えず、まだあまり人が集まる場所というところまでは戻っていません。早く元の状態に戻ると良いなと思っています。

*1:他の場所で言うと、A棟とB棟の連結部分が工事中で、直接行けないなんてのもこれに該当するかもしれません。

2015-01-08

[][][]地域とことば:福島の方言は東北方言か?に便乗(読書案内付き)

  下記の記事を読んで、方言に関する箇所が気になったので少し調べたことを書いておこうと思います。結論みたいなものはあまりないです。

ちなみに毎度毎度の言い訳ですが、僕は方言研究は専門ではありません。

 おそらく、元記事の感じではそこまで方言について強い主張をしたいわけではないと思うのですが、便乗して日本語(の方言)研究の宣伝もしておきたいなと思って書いてみました。

気になったところ

 この記事は次のように方言の話から始まります。

 福島県で広く話されている方言、いわゆる「福島弁」はアクセントが存在しないという特徴がある。「崩壊アクセント」というやつだ。のっぺりしている話し方なので、標準語に慣れた多くの東京の人は驚いてしまう。

 実はこれは栃木・茨城、埼玉の北部(ちょうど首都圏外に出たあたりの一部)で話されているものとほぼ同じだ。お笑い芸人のU字工事(栃木県)や赤プル(茨城県)のべしゃりを想像していただきたい。あれがそのまま広範囲で話されている。

 東北地方には「奥羽方言」という独自の方言がある。これは、北に行けばいくほど強烈なのでわかるが、標準語とは異なる極めて独特のアクセントがある。東北の特に60代以上の親戚の話は何をいっているのかさっぱりわからないものばかりで、フランス語っぽい印象がある。

お探しのページは見つかりませんでした。 - はてなブログ

 この先、ことばだけではなく色々な面で福島は東北ではない(むしろ関東)という話が展開されていくのですが、ブコメでも色々ツッコミが入っていますしここでは方言に焦点を当てます。

 僕個人が上の記事に対して持った違和感は簡単にまとめると次のようなものです。

  1. 方言(しかも一つの「県」という大きな地域と対応させたもの)を「東北方言か、関東方言か」といったようにかっちり分類することは簡単ではない
  2. 方言というのは語彙や文法なども含んだ体系としてある程度のまとまりがあるものなので、その中からアクセントという音の特徴だけを持って、方言の分類を云々するのは偏った見方ではないか
  3. ことばの違いや類似を持って、「AはB地域に属する/属しない」ということもまた難しいのでは(元記事ではことば以外の話も色々あるわけですが)

福島方言はどこにどう分類されるか:東北と関東の境は?

 まず、上記の1について。

 福島方言の区画は東北方言とされていることが多いです。たとえば大西拓一郎 (2008)『現代方言の世界』でも東北方言に分類されていますね。ただ、関東方言との類似ももちろん指摘されていて、たとえば菅野 (1982)は

北の方言が南奥方言的とはいっても会津方言を除けば、全体やはり関東方言的とみられるが、その要因としては、福島県の歴史が考えられる。

(菅野 (1982)「福島県の方言」: 369)

と述べて、歴史的に関東地方からの政治的な影響が強く、それが方言にも影響していると推測しています。

 また、上記の記事では無アクセントという特徴を挙げて茨城などと似ているから関東方言的というわけですが、逆に井上史雄 (2007)『方言クイズ』では

茨城県は北関東に位置し、東北地方に接している。そのため、基本は関東方言だが、ジとズ・チとツの混交、イとエの発音があいまい、カ行・タ行の濁音化など、東北方言の影響が見られる。

(井上 (2007): 40)

と紹介されています。いわゆる“境目”のような地域の方言が、複数の大分類の方言区画の特徴を持つということは珍しくありません。言語研究における方言区画もざっくり分けるとという話であって、厳密な線引きが考えられているわけではないと思います。言語/方言は触れ合うとお互いに影響しちゃったりしますしね。

 ちなみに、「福島方言」「茨城方言」というくくり方もかなりざっくりしています。これは、日常的にも「○○(例:会津、首里、…)のことば」とか「県南の方言」のように言うことがあるところでは実感できると思います。たとえば、前述の菅野 (1982)では福島方言を

  • 相馬方言、磐城方言、信達方言、安達安積方言、田村方言、県南方言、会津平方言、南会津東方言、南会津西方言、檜枝岐方言

の10区画に分けるのが適当であると述べています(菅野 (1982): 367-368)。

無アクセントという特徴

 主に2について。

 「無アクセント(無型アクセント)」というのは単語にアクセントのパターンによる区別がないという特徴を指します。「崩壊アクセント」という呼び方は、今はもうほとんど使われてないんじゃないでしょうか。

 木部暢子(他)(編著) (2013)『方言学入門』37ページの図2「アクセント分布図」ではざっくり分けて、福島の県央-太平洋側は無型アクセント、日本海側は東京式アクセントとなっていますね。

 ここでの「東京式」は広く東北方言なども含んだ分類ですが、個々のアクセントの特徴はまた色々です。たとえば、東京方言では単語のどこで音のピッチが落ちるかで区別がある「下げ核」を持つと言われますが、弘前方言などでは単語のどこで音のピッチが上がるかが区別を担う「昇り核」という特徴を持っているということが知られています(たとえば松森晶子(他)(編著) (2012)『日本語アクセント入門』: 26-27)。

 また、無アクセントの方言は宮崎を中心として九州にも広く分布し、福井の一部の方言でも見られると言われます

 方言の話をすると、一般的にはよく「なまり」が話題になるように、音の印象というのは強いのだなと感じることがけっこうあるのですが、上で述べたように言語・方言というのは音だけでなく語彙、文法、コミュニケーションの手法などにいたるまでの体系としてのまとまりを持ちます。もちろん、それらが常に一致しているわけでもありません。福島の方言は確かに無アクセントという特徴では茨城方言に似ていますが*1、それだけで「東北(の方言)ではない」と言ってしまって良いのでしょうか。

 本当は東部方言に限っても、活用とか自他、ヴォイスの話など形態論、文法の面から見て面白いことが色々あるのですが、割愛…

福島方言の研究

 3について詳しい話は特にないです。

 ところで、福島の方言の話って、方言研究の入門書や概説書ではあまり触れられていなかったり簡素な記述だったりが多いのですよね。

 最近、福島方言の調査・研究を精力的に行っている白岩氏の論文の冒頭から少し長めですが引用しておきます。

 はじめに個人的な追憶を書くことをお許しいただきたい。筆者は福島県の出身だが、方言研究に興味を持ったとき、自身の方言が「無アクセント」「崩壊アクセント」などと呼ばれていることに驚いた。ほかの方言についてはアクセント面の規則が事細かに記されているのに、自らの母方言については、特定の規則がないというだけの簡素な記述で終わっているのである。

 たしかに、筆者自身の内省でも、単語単位のアクセントという点で、福島方言に特段の規則はないように思われる。しかし、音の高低には何らかの規則があるはずで、実際、他地域の出身者がでたらめにアクセントを崩して「無アクセント」をまねるのを聞いても違和感がある。つまり、各単語に固定されたアクセントではなく、文脈などに応じたイントネーションのレベルでは何らかの規則があり、それが「無アクセント」らしい音の高低を生み出しているものと考えられる。

(白岩広行 (2014)「イントネーションの意味記述―福島方言における試み―」: 53、強調はdlit)

「崩壊アクセント」と呼ばなくなったのは、ここに書かれているように単にめちゃくちゃというわけではない、という理由もあったように記憶しています。

 ちなみに、菅野 (1982)も

 福島県方言の研究の歩みは遅かった。

(菅野 (1982): 365)

という一文から始まります。実際にフィールドで調査をしている方からは福島方言が衰退していっているという実感があるという話も聞きますので、調査の進展を応援しています(ちなみにこれは福島だけでなく、東北方言をはじめ、他の様々な諸方言に当てはまります)。

この記事を書いた動機

 最近、アイヌ語や琉球語の話を以前よりよく聞くようになったなと思いますが、方言も含めて、ことば・言語にさまざまなバリエーションがあるということを知るのは、色々な点で重要なのではないかと考えています。方言の話ではありませんが、以前にも下記のエントリを書いた時にそう感じました。

このエントリをきっかけに、方言に興味を持ってくれる人が少しでも出てくれると、言語研究者としては嬉しいなと思います

参考文献

  • 井上史雄 (2007)『方言クイズ』講談社.
  • 木部暢子(他)(編著) (2013)『方言学入門』三省堂.
  • 松森晶子(他)(編著) (2012)『日本語アクセント入門』三省堂.
  • 大西拓一郎 (2008)『現代方言の世界』朝倉書店.
  • 白岩広行 (2014)「イントネーションの意味記述―福島方言における試み―」『日本語学』33(7): 53-64.
  • 菅野宏 (1982)「福島県の方言」飯野毅一(他)(編)『講座方言学4 北海道・東北地方の方言』, 363-397, 国書刊行会.

(やや専門的な)読書案内

 上述の

方言クイズ

方言クイズ

は、個々の方言に関する記述は短いですが、気軽に全国の方言に触れられます。井上史雄氏で方言というと

日本語は年速一キロで動く (講談社現代新書)

日本語は年速一キロで動く (講談社現代新書)

変わる方言 動く標準語 (ちくま新書)

変わる方言 動く標準語 (ちくま新書)

などの方が有名でしょうか。

 概説書・入門書としては上で紹介した二冊、

はどちらも簡潔ながら様々なトピックをカバーしていて良いと思います。大西 (2008)の方は言語地理学にかなり詳しく、木部暢子(他)(編著) (2013)の方はコミュニケーションに関する方言や、いわゆるヴァーチャル方言にもかなり力を入れているのが特徴的でしょうか。

 日本語のアクセントについてがっつり入門したいという人はこれもやはり上述の

日本語アクセント入門

日本語アクセント入門

が網羅的かつ例も多いです。かなり専門的な話題も多いですけど、具体例やコラムを眺めるだけでも楽しいのではないでしょうか。アクセントに特化した入門書なので、残念ながら無アクセントの話はほぼ出てきません。

 メディアと方言の関係、方言のステレオタイプについては

「方言コスプレ」の時代――ニセ関西弁から龍馬語まで

「方言コスプレ」の時代――ニセ関西弁から龍馬語まで

が面白いです。田中ゆかり氏は最近「打ちことば」研究でも注目を集めている研究者ですね。

 もっと専門的になりますが、

21世紀の方言学

21世紀の方言学

もかなり多くの話題をカバーしています。方言研究史、教育や政策との関係についての解説もあります。

 内容が豊かな分、お値段もそれなりにするのが多いですけどね…

*1:もちろん、語彙や文法でも似たところはあるようです。

2012-12-02

[][]接頭辞「エア-」についてもう少し:「エア御用」とcranberry morpheme

 前回のエントリに対してid:Cunliffeさんから興味深いコメントをいただいたのでもう少し補足。

エア-という形態素の成り立ちは、「バーガー」なんかと同じ、いわゆるcranberry morphemeじゃないかなーと/まあ語源的な意味から分析的に足し算で全体の意味が出てくるとは限らないことも多いのではないでしょうか。

no title

どちらかというとせっかく形態論関係の用語が出たのでこれに乗じて紹介しておこうというのが目的です。

cranberry morphemeとは

 れっきとした言語学(主に形態論)の専門用語です。一般的には"cranberry"という語の"cran"の部分のようにそれだけでは何をやっているか/どういう意味を持っているかわからない形態素(っぽい)もののことを言います。

 なぜ「っぽい」と付けたかというと、形態素の一般的な定義は「意味を持つ最小の言語単位」なので、それ単独では意味が確定できないものは形態素とは言えなくなってしまうのですよね。でも"strawberry"や"blueberry"との関係を考えると、"cran"と"berry"は切り離して考えなくてはいけない、さあ困った、というわけで昔から問題にされてきたというわけです。

 日本語では

  • 宮島達夫(1973)「無意味形態素」『国立国語研究所論集4 ことばの研究4』

で考察されている「無意味形態素」が一番近いのですが(実際宮島もcranberryを引き合いに出して概念の説明をしています)、個人的には宮島が取り扱っている現象の方がcranberry morphemeより範囲が広いように見えます。まあ宮島自身も述べているようにcranberry morphemeも定義や範囲の確定が難しいのでこだわっても仕方ないのかもしれませんが、僕は一応この二つの用語は分けて使っています。

 なおこの論文は以下の本に再録されているので比較的手に入りやすくなっています。具体例がたくさん挙げられていてそれを眺めるだけでも楽しいですよ。

語構成 (日本語研究資料集 (第1期第13巻))

語構成 (日本語研究資料集 (第1期第13巻))

 ちなみにWikipediaにも項目はありますが、これだけではわかりにくいですね…

 日本語だと宮島が挙げている「ビー玉」の「ビー」がわかりやすいですね。「あめ玉」などとの対比や連濁を考えると「ビー」と「玉」は分けざるを得ないですし、かつてガラスを意味していた「ビードロ」から来ているのも確からしいのですが、現代語では「ビー」単独で<ガラス>という意味を持っているとは分析するのが難しいわけです(「ガラス戸」を「ビー戸」などとは言えない)。

cranberry morphemeとしての「エア-」

 あ、ちなみに「エア」の後に付いているハイフンは長音ではなく接頭辞である(後ろに何か要素を必要とする)ことを表しています。

 Cunliffeさんのコメントにはいくつか関連して補足しておきたい点があります。ただ必ずしもCunliffeさんがこう考えているだろうということではなく、良い機会なので補足しているということにご注意ください。

 まず、

  • (1)僕は他の「エア-(X)」との語源的な関連から「エア御用」の意味を考えているわけではありません。

むしろ逆?で、これまでに見てきた「エア御用」の意味・解説*1や実際の使用例から考えると、他の「エア-X」タイプの語に出てくる「エア-」と同じ、あるいはそこからの派生で捉えられるのではないかと考えています。

  • (2)分析的に足し算で全体の意味が出てこない場合に常にcranberry morphemeが関係しているとは限らない

 要素の意味から「分析的に足し算で全体の意味が出てこない」というのは言語では、特に語構成・語形成ではよくあります(いわゆる「構成性(compositionality)」の問題)。

 僕は、cranberry morphemeが含まれる場合は常に「分析的に足し算で全体の意味が出てこない」と言えるが、「分析的に足し算で全体の意味が出てこない」場合に常にcranberry morphemeが含まれるとは言えないと考えています。

 たとえば、「殴り書き」の意味は単純に「殴り」と「書き」を合成しても出てきません(何かを殴りながら書くわけではない)が、この場合たとえば「殴り」をcranberry morpheme/無意味形態素だとは通常考えず、意味の派生やメタファーによって分析することが多いでしょう。実際には意味をどう考えるかとか分析のモデルや概念の規定に依存する話なので、あくまでも僕の立場からすればということですけれど。「構文」の話なんかは詳しくないので割愛。

 あとものすごく細かいことなんですが「バーガー」はある特定の食べ物を指す意味・用法をすでに持っているように思えますので、cranberry morphemeなのはむしろ「チーズバーガー」などと対比したときの「ハンバーガー」の「ハン」の部分ではないでしょうか。

 さらに余談ですが、典型的なcranberry morpheme(それこそ"cran"とか)も商品名などで出てくることがあるそうです。

 ただ、Cunliffeさんの指摘、

  • 「エア御用」という語は「エア-」と「御用」の意味の(単純な)足し算からは出てこないような意味を持っている・含んでいる

というようなことが事実としてあるのなら、それはとても重要だし面白いことだと思います。この語をめぐるやりとりの難しさに関係している可能性もあるのではないでしょうか。もしそれが一種の「ニュアンス」のようなものだとしても、誰かが丁寧に記述・説明してくれると助かるのですけれど(僕はあまりそこまで詳しくないので無理です)。

追記

 余談

はがないがヒットして「エア友達」という言葉も広まったことだし,この用法をめぐって論文を書いてくださらないだろうか(ぉ/いや実際読みたいです,「言語学からみたエアギターとエア友達」とかそんな感じの論文。

no title

もうちょい例が集められたら研究ノートっていうかコラム的なものぐらいにはできるかもです。用例収集と記述は楽しそう。

2012-11-30

[][]接頭辞(?)「エア-」に関する覚え書き

 以下の記事を読んだのをきっかけに今まで気になってたことを書き連ねてみる。エア御用については最後にちょっとだけ触れる。

※具体例はややネタっぽくした部分もありますが分析は真面目にやってます。

接頭辞(?)「エア-」の基本的な意味

 これは上にも紹介したMukkeさんの記事に上げられている例が有名なところだろう。

実際にはそこにギターがないのにギターがあるかのように振る舞うことをエアギターといったり実際には友達がいないのにいるかのように振る舞うことをエア友達といったり実際には彼女がいないのに彼女がいるかのように振る舞うことをエア彼女といったりするのと同様の造語法

Danas je lep dan.

 なお、接頭辞としてよいかどうかにも議論の余地はあるが、ここでは「以下に示す意味を持つ限りにおいて他の形態素に依存する」というぐらいの気持ちで「接頭辞」としている。たとえば「あいつの言ってた彼女ってもしかしたらエアじゃね?」のような用法が許容される場合、自立形態素とての性質についても考えなければならない。

 まず、接頭辞「エア-」の意味を暫定的に次のようにしておく。

  • (A) 接頭辞「エア-(X)」の意味
    • Xが存在しないのにXがあるかのように振る舞うこと

この接頭辞はすでにこの時点でややこしい。「ギター」などモノ名詞*1に付いた場合、「エアギター」のように見かけはモノ名詞的なままであるが、意味的には「振る舞う」という行為が含まれてくる。ただしこれは無いものをあるかのようにする場合、行為によって示すぐらいしか手段が無いと考えられるので、自然なことではある。

 また、いわゆる語彙化された意味を持っているものもあるようである。たとえば、「エアギター」はどんな振る舞いでも良いわけではなく「演奏」してその存在感を出さなければならないように思える。つまり「部屋の片隅にギターが飾ってあるかのように振る舞う」ことを「エアギター」とは呼べないのではないか。これはフレーム意味論やクオリア構造*2などと関連するのではないかと考えられるが、あまり詳しくないので踏み込まない。

何が無いのか:「エア参拝」を例に

 さて、この接頭辞もそこそこの生産性を持つようであるが、ここではその意味の難しさを考えるにあたって、「エア参拝」という例を考えたい。

実際に存在する神社仏閣をwebサイト上で仮想参拝する行為。また、そのサービスの総称。

  • no title(フラッシュ・音量注意)

 ここで重要な点は

  • 前述の例と違って「エア-」が「参拝」という行為を表す語に付いている

ということである。

 そのため、上で提案した(A)の意味をそっくりそのまま当てはめてその意味を考えると「参拝が存在しないのに存在するかのように振る舞うこと」となって少し不自然に響く。書き換えるなら「参拝しないのにするかのように振る舞うこと」となるだろうか。

 しかしここで「無い」行為はかなり特定されている。それは「参拝:(1)お参りして(2)拝む」の(1)の部分のみである。「お参りするだけ」を「エア参拝」とは呼ばないであろう。

 このように、「エア-」が付く要素の意味内容が(「参拝」のような行為のように)複雑な意味を持っている*3と、何が「無い(のに)」とされるのかという点において幅が出てくる。これが接頭辞「エア-」の意味が場合によっては捉えにくくなってしまう原因ではないかと考えている。しかしこの点こそがこの接頭辞の生産性を支えているのかもしれない。

「バーチャル」との関係

 ただし、「エア参拝」のような例を考えるには「バーチャル」という意味で用いられている点についても留意しなければならない。実際、「エア参拝」の対義語は「リアル参拝」のようである。

 また、以下の「エア充」という例ではさらに「リアル」との対比が強い。

現実生活(リアル)が充実している「リア充」に対し、仮想世界(エア)で充実している人々を指した言葉。

エア充とは - はてなキーワード

ここで「実際は充実していないのに充実しているかのように振る舞うこと」という意味にはなっていない点に注意されたい。 

「エア-」の意味の広がり(の可能性)

 上の「エア充」例も(A)の「エア-」からの派生として考えることもできるかもしれないのだが、「エア-」の意味自体が次のように拡張されていく可能性も考えられる。

  • (B) 接頭辞「エア-(X)」の拡張された意味
    • ある一部において欠落があり本来のXではないが、Xであるかのような行為・状態・物体

ただし、ここまで意味が広がってしまうと「準-」「疑似-」「-もどき」といった接辞群と変わらなくなってきてしまうので、(A)あるいはそれに近い意味が保持されていく可能性も十分に考えられる。特に「振る舞い/行為」であるという点は重要なのではないだろうか。

「エア御用」についてちょっとだけ

 さて、この語についてはこれまでも多くの議論がされてきたと思うので新たに付け加えることは特に無く、以下は個人的な感想に過ぎない。そもそもこの語、未だによくわかってないので…*4

 「エア参拝」のところで指摘したように、「エア-」が付く要素が複雑な意味を持っていると「エア-X」自体の意味もややこしくなってしまうと考えている(=何が欠けているのかという点について可能性が色々出てきてしまう)。つまり「御用」という語の意味・概念が(「ギター」などに比べて)複雑なことが「エア御用」の意味・用法の把握の難しさにつながっているのではないかと思う。ただし、この複雑さというか曖昧さが(その使用に抵抗感の無い人にとっては)使いやすいのかもしれない。

 Mukkeさんの記事でも言及されていたように、「政府(などの組織)に味方する/おもねる/こびる意図」があるかどうかも争点の一つに思うのだけれど、僕の観測班以内 観測範囲内で一番広いものでは「本人に全くそういう意図が無くても結果として政府(などの組織)を利してしまっている」という用法までありそうだ。

 僕の個人的な感覚だと少なくとも科学者・研究者、あるいは懐疑主義を標榜する人たちには「結果として政府(などの組織)を利してしまっている」と言っても「それは議論や考察の結果たまたま一致したんですね」と言われてしまいそう*5なのであまり効果的には思えない(ただし挑発としては機能するかも)。そもそも科学者や研究者向けの批判というよりは第三者へのアピールという意味合いが(も)強いのかな。

*1:「ギター」は演奏行為と結びつきやすい名詞であろうが、「ギター(を)する」がかなり許容できないことからもそれ自体が行為の意味を持つとは考えにくい

*2:哲学の方の用語ではなくてPustejovskyのアレ

*3:行為であれば全て複雑な意味を持っているとは言い切れない。

*4:こんな語について詳しく考えても仕方ないと思う人も多いかもしれないけれど、どんな表現、それこそ罵倒語や差別語でも一応考えてしまうのが癖みたいなものなので。

*5:ただしその指摘を受けて(即逆の結論に行くのではなく)検討し直すという可能性はありそう。

2011-11-15

[][]危険を語り継いでいくこと

 次の記事を読んで。

フランス東部の地下奥深くに有害な放射性廃棄物が埋まっていることを、人類はどのようにして何千年、何万年も後に生きる人々に伝え続けられるだろうか?

no title

 記事中にはいくつかの試みが紹介されていますが、ここでは言葉/記号関係について少しだけ。おそらく当たり前のことを書いていきます。

難しさ

また、埋められた地下トンネルに銅板に刻んだ警告をつける案もあるという。

 これはアンドラの取り組む別の研究分野につながっている。それは言葉やシンボルの研究で、将来の世代の人々が「警告メッセージ」と確実に理解できるような言葉やシンボルだ。同氏は「フランス語が消滅したら、何が起こるだろうか。またシンボルの意味は時を超えて同じだろうか」と問い掛けた。

no title

 端的に言うと、「将来の世代の人々が「警告メッセージ」と確実に理解できるような言葉やシンボル」というのは(「確実」の精度にもよりますが)無理ではないかと思います。

 言葉/シンボル/記号と意味の結び付きには様々な要因(文化的背景など)が介在してくる可能性がありますし、将来どのように変化するのかということを予測するのも、大雑把な傾向については可能かもしれませんが*1、こういうかなり特定的なところについてはかなり厳しいのではないかと考えられます。 もちろん、完璧は無理だとしてもできるだけ精度を上げることには意味があるでしょう*2

 文献学/言語学のこれまでの成果に断片的にでも触れていると大きな期待も抱いてしまうのですが、このようなケースで求められている精度とリスクの大きさを考えると、やはり不安ですよね。あまり詳しくないのですが、(認知)心理学や神経科学の知見を生かせば「人間であれば危険であると察知できるシンボル(や装置)」というのは作れる可能性があるのでしょうか。

どのように保険をかけるか

 さて、上の記事でも紹介されているように、「危険(性)を伝える」という目的を達成するためには、まず様々な対策をして多方面から保険をかけまくっておくのが良いのでしょう。

 言葉/シンボル問題については、様々な場所で、様々な言語によってその危険(性)に関わる情報を保存しておくのが保険になるのではないでしょうか。僕自身は自分の研究でそういう作業はほとんどしないのですが、昔の言葉を読む/解読する際には、色々な種類の関係史料があればあるほど可能性も精度も上がるように思います*3

語り継いでいくこと

 おそらくやはり「保険」の一つとして「普遍性を持った言葉やシンボル」に言及しているのではないかと推測しますが、現実的には「絶えず語り継いでいくこと」が一番重要なんだろうと思います。

 これも断言はできませんが、(何百年・何千年後の人々とは言葉を用いた直接のやりとりが厳しいとしても)よほどの外的要因が無ければ一世代後の人々との言葉を用いたやりとりは可能なので、それを延々と続けていき、危険(性)の伝達を途切れさせないのが不安定なようで確実なのではないでしょうか。

 色々考えてみたのですが、結局、「他の地域や集団と、あるいは次の世代と断絶しないこと*4」がよい対策に(も)なるというところまでしかたどり着けませんでした。もちろん、断絶してしまっても機能するような保険を考えておくのも同時に重要でしょうね。

余談

 「人類がほとんど全滅しかけた後の世界」設定の物語で時々「その世界の人々には放射性/放射能標識*5などのシンボルの意味がわからない」という展開が出てきますが*6、あれの原型ってどの辺りにあるんでしょうね。おそらくSFなのではないかと推察しますが、SFにはあまり詳しくないもので…

追記(2011/11/15)

 とっくに専門分野では考えられているのかもしれないのですが、こういうところの対策にかかるコストも含めて考えると、やはり放射性廃棄物管理のコストは膨大なものに思えますね…

*1:それでも様々な“例外的”なケースがありうるでしょう。

*2:それを達成するためのコストとの兼ね合いもあるでしょうけれど。

*3:そのことにより生ずる困難も色々あるのかもしれませんけれど。

*4:こういうのも「持続可能性」の問題に入ってくるのでしょうか。

*5ハザードシンボル - Wikipedia

*6:最近だと貴志祐介『新世界より』にそのような下りがありました。

2011-07-04

[][][]メモ:サイエンスコミュニケーションと科学者/研究者/専門家に何を求めるか問題

  • 注意点
    • 事例として自然科学を取り上げているので「サイエンスコミュニケーション」という言葉を使っていますが、わかりにくければ「専門家と非専門家のコミュニケーション」と読み替えて大丈夫です。
    • 僕自身は人文学の研究者です。

 なんか仰々しいタイトルを付けてしまいましたが特に結論は無いです。あといつも通り長いです。

 震災以降、特に放射線関係を中心に、サイエンスコミュニケーション*1やサイエンスコミュニケーターの重要さ・必要性が話題になることが多くなったような印象があります。もちろん僕はそういう方面に興味があるので単なるバイアスかもしれません。

 これを機に、職業としてのサイエンスコミュニケーターやサイエンスライターの質・量がある程度確保されるような状況が出来上がっていくのなら、それはとても良いことではないかな、と思うのですが、いわゆる科学者/研究者自身はこれからどれぐらいの「サイエンスコミュニケーション」を要求されるようになるのでしょうね。

 コミュニケーターも担える科学者/研究者は一部で良いと考えたとしても、その一部を育成・維持するためのリソース(お金とか労力とか)はなかなか馬鹿にできないものがあるように思います。また、そもそもその分野にそのノウハウが無い場合は、取り組みを軌道に乗せること自体にも、かなりのリソースが必要になりそうです。

 震災以前の科学・学問に対する予算の配分は、大雑把に言うと縮小・厳しめという路線上にあったと記憶しています。僕がちょっと怖いな、と思うのは、上で述べたようなサイエンスコミュニケーションの充実やサイエンスコミュニケーター(もできる研究者)の育成が、「科学ってのはお前らの問題なんだから、お前らでなんとかしろよ」という、「努力」の問題に(のみ)還元されてしまうことです。

 僕がそういうことを考えていて、ふと頭に浮かんだ記事の一節を一つ紹介しておきます。

難しく考える必要は無い。

ニセ科学に対する批判を公開することだけが、ニセ科学に対するアクションではない。

ニセ科学批判の記事を読み、その記事への賛同の意見を表明するだけでもいい。

リンクとともに一言コメントを追加するだけでも、十分意味のある行動である。

ひょっとしたらそのリンクをたどって批判の存在を知ったことで、将来騙される危険を免れる人がいるかもしれないのだから。

幻影随想: 駆け出し研究者が科学のために立ち上がる方法のガイド

(追記:2009年1月11日の記事です。)

はてブのコメントでも指摘されていますが、ニセ科学・疑似科学問題に関わることは、時に何らかのトラブルに巻き込まれることにもつながるのでなかなか簡単な問題ではないのですが、この「少しでも良いその人なりのアクションを」という呼びかけは、とても印象に残っています。それは、この呼びかけの内容に強く同意したということもありますが、こういう活動が科学者・研究者にとって基本的にボランティアであることの裏返し*2なのではないかなあと思えたからです。

 ニセ科学・疑似科学問題はサイエンスコミュニケーションの問題に完全に包含されるものではないですが、密接に関わりますし、やることが結構似ていたりします。ちなみに震災後の数か月でも、ここぞとばかりに(?)色々なニセ科学・疑似科学が跳梁跋扈していましたね。

 ニセ科学・疑似科学問題ではそういった話題を取り上げるブログとか、批判に関わる人の数自体も少しずつ増えていっていた印象があります。僕自身、これだけあるなら自分が書くこと特に無いなーと思って記事をあまり書かなくなったぐらいで。サイエンスコミュニケーションの領域ではどうなっていくでしょうね。

 僕の観測範囲では、震災後の様々なサイエンスコミュニケーション活動でも手弁当・休日返上という形が多く見られました。そのこと自体に問題があると言いたいわけではありません。震災後数か月・一年といった短い期間だけでなく、今後もサイエンスコミュニケーションの質・量の向上・維持を望むなら、そういった個人の「努力」に多くを頼るという形では無理が来るのではないかなあ、ということです*3。特に良い案を思いついているわけではないので無責任な物言いなのかもしれませんが…

おまけ

 以前、メディア研究の研究者と「インターネットの普及はサイエンスコミュニケーションの新しい形を生み出しているのではないか」という話をしたことがあります。震災後、ツイッターの利便性が言われたりしましたが、インターネットメディアを通したサイエンスコミュニケーションのノウハウの構築、というのも重要になっていきそうな気がします。インターネットだと幸いログが残っているしこれからも残っていくわけですが、まとめるのは大変そうですね…

*1:ここでは大雑把に科学の話題に付いて、専門家が関わるコミュニケーション、という程度の意味で用いています。

*2:たとえば、自分の研究や生活に支障のない範囲での活動を、といった感じで。

*3:もちろん、「待遇を良くしろ」と言うだけでなく、これまでの体制やシステムを見直すことでできることもあるのでは、と考えることも有効かもしれません。

2011-06-02

[][]「自粛をお願いする」のは“日本語として”おかしいか

 「自+X」の形式を持つ漢語動名詞についてはいくつか先行研究がありますが(以下のものは未見)、

調べるのにあまり時間が取れないので、メモ的なエントリを書いておきます。

 今回の震災以降、「花見」の件をはじめとしてさまざまな「自粛のお願い*1」が問題にされてきたようです。「自粛+他粛」辺りでググるとその様子がざっと見てとれると思います。

僕がちょっと気になったのは「「自粛をお願い」するのは“日本語として”おかしい(だから「他粛」と呼ぶべき)」と言うような言い方です。

 そこで、「“日本語として”おかしい」と言えるのかどうかという点について少し考えてみました。

何が「自」なのか:意思決定と動作

 「自+X」という形をとる漢語動名詞*2には「自殺」「自爆」「自戒」などがあり、主に再帰的な動作を表します*3

 さて、それでは「自爆/自殺を お願いする」ことは日本語としておかしいのでしょうか。おそらく、こういった表現に違和感を覚える方が持っているのは「自分で“決める”わけじゃないのに、「自〜」と言うのはおかしい」という感覚ではないかと思います。

 しかし、たとえば「自殺を強要」という表現はよく使われているようです。

上で出てくる使い方はそれほどおかしくは感じられないのではないでしょうか。これは、「自殺」という行為には動作が含まれているからだと考えられます。つまり、きっかけが他者から与えられたものであったとしても、死に至るための動作を「自分」が行ったのならば、「自殺」と言えるということです。

 実は、「自粛」についてこのように考えるのが難しい、というところにこの表現のややこしさがあると考えています。「自粛」というのは動作、つまり「何かをする」ということではなく「何かをしない(でいる)」ことを表すからです*4。具体的な動作を含むということが直感的にはわかりにくいため、「自殺」といった他の「自+X」語と比べて、「お願いする」ことが変に感じられるというところがあるのではないでしょうか*5

「命令」と同じなのか

 こういった表現についてよく聞かれる声に「「お願い(要請/依頼)」と言いながら、実質的には「命令」ではないか」というものがあります。

 この「命令」という表現が「(ある程度)強制力を持つ」といったことを指しているなら、この疑問は間違いではありません。しかし、こういった問題ではぜひ「お願いという形で強制力を持たせている」という点に注目してほしいと思います。

 以前遭遇した似たような問題にコンビニなどにある貼り紙の表現があります。次のようなものです。

  • A: いつもきれいに使って下さってありがとうございます。

これが「きれいに使え」という「命令」に感じて嫌だ、という話です。しかし、そう感じる人でも

  • B: きれいに使って下さい。

という表現と「全く同じ」と感じる人は少ないのではないのでしょうか。むしろ、「そういったストレートな表現の方が好ましい」と思ったりしないでしょうか。まあさすがにこれはぶっきらぼう過ぎるかもしれませんが…

 さて、ここで重要なのはAの表現がたとえ「命令」として解釈される場合にも「感謝を述べるというを用いている」という点です。むしろ形としては「感謝」しておきながら「命令」だからこそそこにいやらしさを感じるのではないでしょうか。こういう、言語表現の形そのものが表す意味が、ある文脈においては違ったように機能する、ということは特に「依頼」「命令」といった言語行為に関してはよくあります。むしろ、「Aという形を用いてBを表す」という手段を用いて、私たちは複雑かつ豊かなコミュニケーションを行っていると僕は考えます。具体的にどういった条件・文脈で「命令」が成立するのかということについても色々研究があるのですが、僕はその辺り手持ちの知識だけでは紹介するのが難しいのでここではやめておきます。

 その観点から「自粛をお願い」の問題に戻ると、それを「日本語としておかしい」と批判するのは少し的外れとうかあまり意味が無いように感じます。もし批判したいのなら、「直接的な命令ではなく、わざわざその形を使うのはいやらしい」といった形でやる方がいいのではないでしょうか。実際、批判や違和感の表明にはそういうものも多いと感じています*6

 ただ、「自粛ではなく他粛ではないか」という言い方はとても早く広く広まったようなので、このようなごちゃごちゃしたエントリを書くより効果的であり、批判を広める戦略としては優秀だったと言える(これからも言える?)のかもしれません。

「日本語としておかしい」とはどういうことか

 さて、「日本語としておかしい」という言い方についてですが、これ自体曖昧な表現ですね。上で述べてきたように、これが「日本語に存在するべきではない文法的に間違った表現である」といった意味なら僕は反対ですが、「日本語の使い方としていやらしい」という意味ならアリかなあと思います。僕は前者の意味で言っているような人が多いように感じたのでこんなエントリを書こうと思ったわけですが。

おまけ:「他粛」について

 ところで、「他粛」という語は面白いです。語の一部を他の形にとりかえる語形成というのもあると言われている*7のでこの語の内部構成を考えるのは不適当かもしれませんが、使役文に相当する意味構造を持つことになる可能性が無いかな?あるいは「粛」に他動詞的な意味構造を認めたとしても「他」は動作主の方ですから外項複合の例になりますね*8

*1:他にも「強要」「要請」「依頼」などその強さに応じていくつかの表現があると思いますが、ここではそれらの代表として「お願い」を使うことにします。

*2:ここでは「する」を付けて動詞として使える、という程度の意味です。

*3:どれほどの割合の語が再帰的な意味を表すのか、本当に「再帰」と言ってよいかは考えなければなりません。また、上記先行研究のタイトルにも挙がっているように、「自己+X」の形を取るものもあります。

*4:分析のレベルでは、「何かをしないでいること」を「動作」と考えることはもちろんできます。

*5:あるいは「変でない」という可能性を思いつきにくい。

*6:形式としてもきちんと「命令」にした方が行政側に明確な責任が生じるので良い、といった議論もあるようです。

*7:たとえばざっくりした「千切り」を「百切り」と言うなど。

*8:外項複合の漢語動名詞についてはすでに研究がすすめられています。次の研究などを参照。

現代日本語の漢語動名詞の研究 (ひつじ研究叢書 言語編)

現代日本語の漢語動名詞の研究 (ひつじ研究叢書 言語編)