四十九日も終えたので

9月24日、母が亡くなりました。27日が通夜、28日が告別式でした。
今日、四十九日法要があり、お骨をお墓に納めました。


…と、父の時と全く同様に、以下、書き進めていきます。


このこと、ブログやツイッターでは書いていません。これから忙しくなりそうで、コメントにレスできないなぁ…っていうのと、特に秘密にすることもないけど、特におおっぴらにすることでもないなぁ…と。でも、『なんで言ってくれないの』と思われる方もいるかもしれませんね。黙っててすみませんでした。(このへん父のときのコピペ(笑))
父の時は、四十九日が済めば「喪が明けた」ということで『歌舞音曲を慎しむ』モードから抜ける…としていたのですが、今回は早々に『もういいや』モードに突入。故人は音楽や旅行が好きだった事もあり、『供養』という名目で既に遊び歩いています(笑)。ライブの「出演」の方も既に…いやこれはアンサンブルなので抜けちゃうと迷惑かかりますので…。


2年半前に父が逝きましたが(2015年2月22日の更新)、その前くらいから母はアルツハイマーが進行し、父の最後の入院とともにグループホームに入所しました。当初はトンチンカンながら会話などもできていたのですが、そのうちだんだん話がわからなくなってきました。父の葬儀でもお別れの瞬間はわかったものの、その後の面会の際には「お父さん、どうして来ないの?」と聞かれて返答に困ったものです。
グループホームに入所中、2回ほど病院に入院しました。ちょっとした事で転んで、手をついた拍子に手首を骨折。骨をボルトで固定する手術を受けました。もう1回は血行の関係だったかなぁ…。(母と一緒に住んでいた兄に、だいぶ任せっきりにしてしまいましたので、よくわからない部分もあります。)
この頃は、ゆっくりながらも自立歩行ができるって事は、まだまだしばらく元気でいてくれるかなぁ、と思っていました。寝たきりになったらストレスも貯まるだろうし、周囲のケアもたいへんかなぁ、と思った次第。でも考えてみると、頭だけぼけて足が元気だと、徘徊の心配があるんですよね…。
そうこうするうちに、体力全般が低下してきて、医療的ケアが必要になった、とのことで介護付き老人ホームに入所することになりました。…が、ここが短くて、すぐに「ケア」でなくて「治療」が必要になったということで入院。これが昨年11月中旬のことで、この頃から急速に弱ってきました。
入院してからは完全に寝たきり。話も、最初の頃こそ一応の受け答えはできていたのですが、それでも内容は通じていないものでした。それがだんだん口数も減り、最後の頃は「あー」も「うー」も言わなくなりました。
栄養は全て点滴によるものです。誤嚥性肺炎からの入院だったのですが、良くなってきて、少しずつ食べる練習をしようか、というところまで来た時期もありました。でもまたすぐに、誤嚥性肺炎を警戒しての点滴に戻ってしまいました。母は歯が丈夫で、85歳にして全て自前の歯なんですけど…もったいない事です。


9月24日(日)、15時過ぎに病院から電話がありました。こういう時のためにケータイを準備していたはずなんですが、バイブにしていたつもりが消音になっていて、全く気づかないという失態。気がつくと何度も何度も着信記録がありました。早速、兄と連絡を取り、一緒に病院に向かいます。元々、毎週日曜日の夕方に兄弟揃って病院に面会に行く、という事を続けていたのですが、思いもかけず長く続いた10ヶ月めに、さらに思いもかけず、その最終回は突然やって来たのです。
入院してからは、全体的に見て、苦しい表情も見られず、実際、苦しむことなく、静かに穏やかにfade outという感じでした。余談ですが6人部屋の病室(この病院は老人施設の系列なのでお年寄りばかりです)にはいろんな人がいます。一日中テレビを見ている人、誰彼かまわず話しかける人、誰彼かまわず文句を言っている人、足だけ丈夫でバタバタさせてうるさい人…。そんな中にあって極めておとなしい、手のかからない患者だったように思います。むしろ必要な事も言ってくれない困った患者かも知れませんが。


母の一生を省みてみます。東京の下町に生まれ、東京大空襲の炎と瓦礫をくぐって生き残り、祖母の実家のある茨城に疎開して来ました。茨城に根を下ろし、小学校の教員となり、父と結婚。共働きのまま、母親を兼ねます。性格は明るく、言いたいことを言う江戸っ子。頭の回転が速く、クイズやとんち問題では6年生相手でも無敵でした。好奇心旺盛でいろんな事に面白さを発見します。(これは、母から私も受け継いでいる部分と思っています。)定年よりも早めに退職し、いろいろな文化活動に参加しました。ママさんコーラス、文化財の会、古文書解読、朗読、都々逸など。最初の頃は、琴と三味線も習っていました。こういう会での知り合いも多く、告別式にもたくさんのご友人の皆さんが駆けつけてくれました。
父の時にも思ったことですが、今になってみて「もっと話をしておけばよかった」としみじみ思います。まさか晩年に、「生きているけど話ができない状態」になるとは思いませんでしたけど。


通夜の夜、遺体となった母に、深夜、思い出話していましたけど、最後に、自然にぽろっと出た言葉は「ありがとう」でした。あなたの息子でいて、あなたの息子になれて、良かったよ。ありがとう。