「ブス愚痴録」 田辺聖子

ブス愚痴録 (文春文庫)

ブス愚痴録 (文春文庫)

方言フェチである。
しかもちょっとべとべとした、甘ったれの関西弁に弱い。
一分の隙も無くぴしっとスーツを着込んだ「女史」が、コーヒーカップをはさんで恋人に、ちょこっと首を傾げて「えぇやん。」
バスに乗り合わせた若い親子連れのお母さんが、窓に顔をべしゃっとくっつけてる子供に「靴ぬがな、あかんよ。」
新幹線のホームで東京に帰る孫を見送ってお祖父ちゃんが、「ほな、またおいでや。」
所詮は隣の芝生だろうが、東京育ちの私が口から吐き出すコトバより、何百万倍も、あったかく響く。

田辺聖子は方言の魔術師だ。

「愚痴録」に収められた短編の中で、登場人物は関西弁で考え、会話し、泣き笑う。
標準語で「ブス」と冠されてはいるものの、むしろ大阪コトバの「へちゃ」を使った方がしっくりくるほど、関西弁のあたたかみが物語を彩っている。面白いのは 9編全部が男性、しかも「40ほどはしたな年はなかりけり」といった中途半端な年齢の男性の目線で描かれており、「ブス」の独り語りはまったく出てこない。「ブス」はあくまで他人から見た容貌のなんたるかで、本人の自覚はまた別の話、とした作者の意図が感じられる。
9編すべてが秀逸なのだが、ここでは2編だけ取り上げる。


「泣き上戸の天女」は、41歳独身で豆腐ばかり喰っている偏食の男、野中と、年齢不詳のいい女、トモエのちょっと悲しい話。
トモエは豆腐を「おとうふゥ」と語尾を上げて呼び、その大阪風の発音が、野中の郷愁をかきたてる。
「このおとふゥ、ちょっとやらこいみたい。」
野中でなくとも、どれどれ、と散り蓮華つかんで鍋をのぞき込みたくなるではないか。
トモエは醜女ではなく、どちらかといえば可愛らしい、魅力的な女性なのだけど、距離感の無い開けっぴろげなしゃべり方と放埓な振る舞いで、どうも隙だらけに見える。
トモエはん、きっと人生損してきたんやろなぁ・・・。自棄酒を飲む姿が、どうも堂に入っているはるもの。
おとふゥみたいにぷわぷわ白くてあったかいトモエをどっぷり恋した野中は、「チャンとせな」と入籍をせまるのだけど、天女はやっぱり飛んでいってしまって、また野中は一人で豆腐を煮るのだ。



「忠女ハチ公」には、主婦臭芬々のパートのおばさんが出てくる。
くしゃみをすればすかさずティッシュ。咳をしたなら浅田飴。
お茶をこぼせばそそくさとお絞りを持ってきて、頼まれもしないのにズボンを拭いてくれる。
三歩下がって男の影踏まずタイプの「貞淑妻」を職場でやられたらたまらん、と、主人公の城戸はいらいらさせられっぱなしなのだが、家に帰ってキャリアウーマンの恋女房がひさしぶりに夕餉をととのえてたりなんかすると、忠女も顔負けのめためたベタベタっぷり。
結局のとこ、恋愛感情があればおせっかいはうれしい。
なんにもない女のベタベタおせっかいは、うっとぉしいだけ。
ブスは見慣れる、美人は見飽きる。
それなら外見のブスより、性格ブスのが始末に終えないということだろう。

ブスって、いいオンナっていったいなんなんだろう?
けらけら笑いながら読み終わって、パタンと閉じた後、も一度最初から答えを探してみたくなる。

「スローカーブをもう一球」山際 淳司 

スローカーブを、もう一球 (角川文庫 (5962))

スローカーブを、もう一球 (角川文庫 (5962))

読書感想文などでおなじみの表題作他、山際淳司のデビュー作「江夏の21球」など珠玉の数編が収められているこの文庫。何度も何度も、それこそ夏が来るたびうちの本棚から引っ張り出してページを繰るくせがついている。

色あせたページを今年もめくっていて、ふと、ある作品についてメモしておこうと思った。

巻末に収められた短編「ポール・ヴォルター」。
棒高跳びの高橋卓巳選手を扱った作品なのだが、この文庫の中でどうにも異色を放っている、といまさらにして気づいたのだ。

作者山際淳司についてぐだぐだとした説明は不要だろう。客観的かつ冷静なオブザーバーとしての視点と、あふれんばかりの詩心を絶妙に組み合わせ、人生の象徴としてのスポーツをヴィヴィッドに描き出す彼の文体は、爽快な一すじの風のように読者を別世界へ連れて行く。
つめたーく冷えた麦茶をごくり、と飲み干したような読後感。

しかし、「ポール・ヴォルター」に関しては、いつも主人公らの後ろに巧妙に姿を隠す語り手山際淳司が見え隠れしてしまう。カタカナでつづられる主人公高橋選手のセピア色の回想録から始まり、「むなしさ」という感情を見つけて一人グラウンドで泣く描写まで、あまりにもノンフィクションの枠を超えた主人公への感情移入が見られるのだ。もちろん、一人で涙する高橋選手など、ライター山際淳司が見ていようはずもない。ノンフィクションであるはずのこの一遍に、美しくもメロウな回想録を挿入してしまった山際淳司は、スポーツライターとしてのタブーをあえて犯した。

高橋選手の涙のあと、山際はこう続ける。
「ぼく自身のことを、ここで語っておけば、ぼくは一度たりとその種の限界に遭遇したことのない、いわば、日常生活者である。肉体の限界に遭遇したいと夢見ながら、目がさめるとぼくは、哀しいかないつも観客席の立場にいるわけだった。」

棒高跳びの選手としては小柄な体格を必死に技術でカヴァーし、自分の限界を次々に越えていく選手・高橋卓巳の姿は、選ばれし者ではないがゆえに、肉体の限界に日々挑戦していくアスリート達を「観ること」しかできない山際にとって、なによりもまぶしく映ったのではなかったか。

羨望、愛情、驚嘆、尊敬、そして、嫉妬。

観客席を半歩飛び出してしまった日常生活者。綿密な取材に基づきつつも、近すぎる視点で描かれたこの作品は、山際の被写体へのなまなましい愛憎が垣間見え、他の山際作品にないアツくるしさを感じさせるが、そのべたつきが変に心地よいのだ。

銀のスプーンをくわえて生まれてこなかった多くの人々の代表として、しかし「ポール・ヴォルター」はじんわり響く。私たちのほとんどは、アマデウスになりえないサリエリの悲嘆を、多かれ少なかれ知っている。そして、選ばれなかったからこそ、観客席にいるからこそ、見えるものがあることも。

山際淳司はこの作品で、観客とアスリートの中間に立つ自らのポジションを不動のものにした。

蛇足ですが…。山際淳司が描いた高橋卓巳選手は、吉田秋生の名作「BANANA FISH」の英二のモデルにされたのでは?邪推でないといいな。

「スイミング・プール」 フランソワ・オゾン

スイミング・プール 無修正版 [DVD]

スイミング・プール 無修正版 [DVD]

高校の時、親から試写券をもらい、竹橋の映像学校みたいなとこの試写室に通った。
インディーズっぽいフランス映画の意味わかんなさにオトナの香りを感じて、セーラー服が窮屈になるくらい、背伸びができた。

色々見た中で一番キョーレツだった監督が若かりしころのフランソワ・オゾン。
フランス映画とゆうたら「ベティブルー」くらいしか知らなかったお子様のふよふよした感性に、ハンマーで殴りつけるみたいな衝撃を与えてくれた。
主人公一家がペットのねずみに侵食されてく8分くらいの思いっきりマイナーな短編映画や、渋谷で公開された「SitCom」なんかを覚えてる。

あれだけ自分の美意識を貫いていた監督が、役者に英語をしゃべらせてる、ってんで借りたこの映画。
イギリスの女流小説家がフランスの田舎に原稿書きに行くっていうだけの話で、同じ別荘に帰ってきた奔放な少女に嫉妬したり、感情移入したり。
でも結局は全部彼女の妄想?みたいな終わりになってる。

で、とにかくみんなよく脱ぐ。
若い子が脱ぐのはいいけど、40がらみのヒロインとか、おなかが突き出たおっさんとかが裸体で…てのは醜悪ね。
登場人物の頭の中をなめるように描き出してく手法や、結局妄想なのかしらん?ってオチのもってき方は変わってないんだけど、高校のとき感じた肌がざわざわするようなエロチシズムはかなり薄まってた。

たぶん、自分の精神が老けたんだろうし、フランソワ・オゾンも商業主義を学んだんだろうし。
幻想を幻想のままで留められたらどんなにかシアワセ。