「スローカーブをもう一球」山際 淳司 

スローカーブを、もう一球 (角川文庫 (5962))

スローカーブを、もう一球 (角川文庫 (5962))

読書感想文などでおなじみの表題作他、山際淳司のデビュー作「江夏の21球」など珠玉の数編が収められているこの文庫。何度も何度も、それこそ夏が来るたびうちの本棚から引っ張り出してページを繰るくせがついている。

色あせたページを今年もめくっていて、ふと、ある作品についてメモしておこうと思った。

巻末に収められた短編「ポール・ヴォルター」。
棒高跳びの高橋卓巳選手を扱った作品なのだが、この文庫の中でどうにも異色を放っている、といまさらにして気づいたのだ。

作者山際淳司についてぐだぐだとした説明は不要だろう。客観的かつ冷静なオブザーバーとしての視点と、あふれんばかりの詩心を絶妙に組み合わせ、人生の象徴としてのスポーツをヴィヴィッドに描き出す彼の文体は、爽快な一すじの風のように読者を別世界へ連れて行く。
つめたーく冷えた麦茶をごくり、と飲み干したような読後感。

しかし、「ポール・ヴォルター」に関しては、いつも主人公らの後ろに巧妙に姿を隠す語り手山際淳司が見え隠れしてしまう。カタカナでつづられる主人公高橋選手のセピア色の回想録から始まり、「むなしさ」という感情を見つけて一人グラウンドで泣く描写まで、あまりにもノンフィクションの枠を超えた主人公への感情移入が見られるのだ。もちろん、一人で涙する高橋選手など、ライター山際淳司が見ていようはずもない。ノンフィクションであるはずのこの一遍に、美しくもメロウな回想録を挿入してしまった山際淳司は、スポーツライターとしてのタブーをあえて犯した。

高橋選手の涙のあと、山際はこう続ける。
「ぼく自身のことを、ここで語っておけば、ぼくは一度たりとその種の限界に遭遇したことのない、いわば、日常生活者である。肉体の限界に遭遇したいと夢見ながら、目がさめるとぼくは、哀しいかないつも観客席の立場にいるわけだった。」

棒高跳びの選手としては小柄な体格を必死に技術でカヴァーし、自分の限界を次々に越えていく選手・高橋卓巳の姿は、選ばれし者ではないがゆえに、肉体の限界に日々挑戦していくアスリート達を「観ること」しかできない山際にとって、なによりもまぶしく映ったのではなかったか。

羨望、愛情、驚嘆、尊敬、そして、嫉妬。

観客席を半歩飛び出してしまった日常生活者。綿密な取材に基づきつつも、近すぎる視点で描かれたこの作品は、山際の被写体へのなまなましい愛憎が垣間見え、他の山際作品にないアツくるしさを感じさせるが、そのべたつきが変に心地よいのだ。

銀のスプーンをくわえて生まれてこなかった多くの人々の代表として、しかし「ポール・ヴォルター」はじんわり響く。私たちのほとんどは、アマデウスになりえないサリエリの悲嘆を、多かれ少なかれ知っている。そして、選ばれなかったからこそ、観客席にいるからこそ、見えるものがあることも。

山際淳司はこの作品で、観客とアスリートの中間に立つ自らのポジションを不動のものにした。

蛇足ですが…。山際淳司が描いた高橋卓巳選手は、吉田秋生の名作「BANANA FISH」の英二のモデルにされたのでは?邪推でないといいな。